だから、もう見えていたのかもしれません。「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった」(使徒27:39)と動きがもたらされます。場所は不明ですが、何かしら上陸できそうな場所が見えてきました。このあたり、当然判断ですが、細かな描写が続きます。「そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ」(使徒27:40)と訳されていますが、何を指しているか確信のもてないような語もあるようです。この風はもはや嵐ではありません。通常の風です。「ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした」(使徒27:41)のでした。何かしら船がぶつかって、損壊したことが分かります。もはや船として機能しません。と同時に、困ったことが起こります。「兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した」(使徒27:42-44)というのです。政治的立場と、囚人の立場とが明確に分かります。これは確かに逃走できるチャンスではあるのです。しかし、得体の知れない島においてその船から、あるいはローマ人の支配から逃れたところで、どうなるというのでしょう。あるいはそれほどに、逃げ出した囚人はもはや命がないことが分かっていて、いちかぱちか生きのびるチャンスがあるとすれば、ここしかない、と思わせるものがあったのかもしれません。それとも単なる兵士たちの勘ぐりであり、自分たちの責任にさせられることへの恐れだったのでしょうか。そうだとすれば、囚人を逃がした場合のローマ兵の罰則の厳しさというものが再び思い起こされます。百人隊長は、これをよしとしませんでした。パウロは恵まれました。かくして、全員が無事に上陸したのです。
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