犬神スケキヨ~さざれ石

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古事記を摘んで日本を知る!その19

2015-08-31 18:00:55 | 古事記
古事記です。

大国主の続きになります。

いよいよドラマは佳境へ向かいますよ。

では参りましょう!

とにかく恋多き神

ついに、須佐之男命の厳しいシゴキも終了して、須勢理毘売(すせりびひめ)を連れて、いよいよ国作りになります。

いや、しかし皆さん!

お忘れでしょうか?

兄貴である八十神に殺された原因である八上比売とも結婚してましたよ。

これは、これは、これは、いけません。

須勢理毘売を連れて帰ってきてしまいました。

連れて帰って来ちゃいましたから、八上比売は遠慮して、自分の子を木の俣に挟んで帰ってしまいました。
何で我が子を木の俣に挟んだんですかね?
よくわかりません。

で、挟まれた子は木俣神と呼ばれる様になりました。

そう呼ばれてもね…挟まれた方は迷惑です。

木俣神!とか由来聞かれても「いやぁ、母親に木の俣に挟まれまして…」
恥ずかしでしょ!

それだけではなく大国主神は八上比売、須勢理毘売がいるのに、まだ美しい娘を求めます。

高志国(こしのくに)に沼河比売(ぬかわひめ)と言う美しい姫がいると聞いて出掛けます。
求婚に出掛けるのです。
まだ、会ってもいないのに求婚です。
神様はとにかく気が早い。

島根県から北陸へと出掛けるのです。
今と違ってインフラ整備などされてません。
険しい道を越えて、美しい姫がいる!というだけで旅に出ます。

その沼河比売の家に着きます。

ここで歌を詠む訳です。
こういうの、ミュージカルみたいな感じですね。

しかし、直ぐには会えません。
何故かというと板戸が開かないのですね。
それに島根から着いたばかりで、旅装束のまま、太刀の紐も解いてません。

「あの~そこにいますよね?沼河比売さんでしょ?」てな感じですね。

「私、大国主神と申しましてね。島根県から来ました。今着いたんですけど…今日はちょっと遅いですかね?」

大国主神の怪力と権力なら板戸ぐらい簡単にブチ破れそうですね。
ところが、この板戸は大王の力でもブチ破れないのです。

島根県から、険しい道を何日もかけて来たのです。

頭の中はとんでもない程、妄想が膨らんでいます。
そりゃ、物凄い美女像が出来上がっています。

しばらく振りの同窓会とかですね、コンパとかですね。
来る女性を勝手に妄想して物凄い美女像を描いたり…
だいたい、そんな期待はバッサリと裏切られるもんですがね。

しかし、板戸一枚向こうに美女がいるのです。

「ちょっと開けてもらえませんかねぇ」なんて
反応を待ってるうちに朝になって鳥が鳴き始めます。
朝になってしまいました。

これに対して沼河比売は板戸を開けずに歌を返すんですね。

大国主神は「とにかく会いたいのだけれども、薄い板戸は隔てるわ、集中して声を掛け様にも、とにかく鳥がうるさくて、駄まって欲しい」と歌います。

これに沼河比売は「まあまあ、そう仰らずに」と。自分を鳥に例えて詠みます。

「私はなよなよとした草の様な女です。入江の渚にいる様な鳥のような存在ですけれども。今は私の鳥ですけど、あなたの鳥になるんですから、命だけは助けてあげてね」

つまり、私はあなたのものになるんですから、私のものはあなたのもの。だから今はうるさいと仰るけれども、カーッとなって殺したりしないでね。

上手いですね。

大国主神は鼻息荒く来てます。

それを「落ち着いてください」と。
「また明日来てください、今日は夜遅い」と言います。

「明日の夜になったら、あなたは太陽の様な笑顔で私のところへやって来て、私の白い腕や淡雪の様な若々しい私の胸を触ったり、玉のような私の手を枕に眠ったりするでしょうから、そんなに焦らないで」

凄い歌を詠みますね。

この方は自分の美貌に気づいているんですね。

自信がなければ言えませんよ。

だいたい、この美貌が北陸から出雲まで噂が伝わるんですからね。
そりゃ、相当な美女ですぜ!

お父さん!嫁を見ない!見たらダメ!

どうせ明日は私を抱くのだから、今日は夜遅いし、また明日来てくださいね。
て、いう焦らし作戦ですね。

「会いに来たぞ」
「はい、どうぞ」

これでは「なんだ、こんなもんか」とかなりますね。
遠路遥々やって来て焦らし作戦にあうと逆に気持ちが盛り上がると。

盛り上がり過ぎて鼻息はフガフガー!
とか、なってますが「そ、そうか…じゃあ今日は一人で寝るとするか…」

そうする事で気持ちは盛り上がり更に縁は上手くいくという事ですかね。

次回へ続く…

人民元と言う地域振興券

2015-08-28 16:49:57 | 草莽崛起
今回は没落を始めた支那について少し考えてみようと思います。

支那の腹黒さから見ることで、日本はこの先どう振る舞えばよいのか?

が、見えるのではないかと思います。

人民元

支那の株式市場が下落を続けています。

一週間で三兆ドルの金が消失しました。

支那経済の問題は人民元にあります。

そもそも支那に先進国と同じ株式市場はありません。
株式の急激な下落に対し支那政府は140社あまりの株式取引を禁止しました。

それと同時に約1兆ドルを超える資金を投入し買い支えました。
更に自国通貨である人民元を三日連続で4.65%の切り下げを行いました。

通常の市場で、こんな話しは聞いたことがありません。
全く考えられない対応です。

支那共産党

人民元を発行するのは人民銀行です。

しかしこの銀行も先進国の中央銀行とは全く違います。

支那共産党の統制下にあります。
人民元の発行する額、人事も共産党が独裁します。

人民解放軍も支那共産党を守る軍隊です。
全く国民を守る軍隊ではありません。
これは天安門事件で平気で国民を大量虐殺した、アレを見れば理解出来ようと言うもんです。

支那は全ての上に共産党があるのです。

つまり人民銀行と言う中央銀行すら共産党の為にある銀行です。

こりゃ、まぁ、共産党の為の私設銀行みたいものです。

これはトップが誰に変わろうが同じ構図が続き、事情は一切変わりません。

一党独裁だと

一応、人民銀行もAIIBも首脳陣の多くはハーバード大やイェール大等で経済、経営や金融を学んだエキスパートです。
然し、その知識や見識は全く生かされません。

何故ならば、最終的な決定権が最高幹部にあるからです。

つまり習近平一人に決定権があるのです。

習近平だけでなく、幹部達には経済や金融の知識や見識、つまり知見が全くない。

知見が全くないと言う事は勿論、大問題です。

例えばAIIBが起債して集める資金を貸し付ける側の資産にぶち込みかねないのです。

これは、どう言う事かと言うと貸し付ける為に世界から資金を集める、この資金は借り入れ金です。
その「借り入れ金」を己の資産にしてしまう。
だいたい、支那人に返す観念などありません。

そんなアホな知見の連中が世界銀行を作り、更に世界経済を動かそうと言うのです。

他力本願

人民元なる通貨はドルと抱き合わせる事で信認を得ています。

手持ちドルが増えると人民元を刷り増すと言う関係です。

更に、対ドルレートで恣意的な変動相場を取るのです。

そのドルから離脱する意図を持って習近平はAIIBの設立を打ち出しました。

この世界経済を活用して「人民元」を世界通貨にする目論見です。

こんな独裁政権で扱われる人民元などは通貨とは呼べません。
好き勝手にどうにでも出来る金は通貨ではなく地域振興券です。

市場経済を全く無視する通貨を通貨とは呼びません。地域振興券です。

これは基軸通貨を持つアメリカから見ればドル支配への挑戦です。

つまり米対支那の通貨戦争の始まりだ!
と、アメリカは考えています。

かつて日本も橋本龍太郎内閣時代にAMF(アジア通貨基金)構想を打ち立てました。
しかし、これをアメリカは恫喝紛いに潰しました。

更にあのサダムフセインも、石油売却の決済をドルからユーロに変更しようとしました。
そして吊るし上げられたのです。
イラク侵攻の真実とは通貨であったとも言える訳です。

これはアメリカの強引さ、形振り構わないドル支配の手口です。

経済に詳しい方々の中では「もし、AMF構想が成立していたら支那の台頭が出来たかどうか」と現在の支那勃興を疑問視します。

人民元なる地域振興券が国際秩序を乱そうとしているのは明らかです。

アメリカも力が弱まっていて、ドルの信認は下がる一方です。
最早アメリカに力はありません。

アメリカは自身の力を自覚し、日本の主導性を認めるべきであり、時代は其処へ来ているのです。

日本もその自覚を持つべきです。

ドル対人民元の間に日本円は存在しています。

日本が取るべき道は如何にして円の存在を維持して行くかです。

日本はAMF構想を今こそ復活するか、今あるADB(アジア開発銀行)の主導権を握り、アジア諸国に積極的投資を行いアジアの勃興を促すべきです。

その上で先ずはアジアだけでも基軸通貨を目指すべきです。

そうすればアジア諸国は支那からの脅威に対抗することができます。

日本はアジアのリーダーシップを取り、アジアの平和と発展に積極的に貢献しなければなりません。

今般の安保法制はその意味合いもあるのです。

古事記を摘んで日本を知る!その18

2015-08-27 18:38:14 | 古事記
古事記連発です!

前回の続きからですね。

前回少し、最後に触れましたが「栗林忠道中将」についてブログを書こうと考えてます。

古事記シリーズも深まって来て、栗林忠道中将の話に入っても良いかな…と。

古事記に触れることで、この日本で僅か70年前に、未だ見ぬ我々後世の為にこそ命を捧げて頂いた方々を紹介して行こうと。

何故、先達は命を捧げられたのか?

何故、日本人は他者の為に死ぬ事が出来るのか?

私は一体何者か?私を育む日本とは?

それは、この日本という国の途切れる事ない時間の流れの中で我々はどう生きて死ぬのか?

それを具体的に知ることになるであろうからです。

とはいえ、硫黄島の戦いだけを切り取っても理解出来ません。
栗林忠道という人を知ることで硫黄島が理解でき、且つ日本人の生き方を知る。

恐らくは数回のシリーズになると思います。

古事記といい、栗林忠道中将の様な日本人を子供達に是非知って欲しいと思います。

では古事記に参りましょう!

最後に本気の大逆転

前回はネズミに助けられて試練を乗り切りましたね。

ところが、命に関わる試練をこなしたのに、さらなる試練を与えられてしまいます。

須佐之男命が大穴牟遅神に与えた試練は「ちょっと俺のシラミ取ってくれ」です。

なんだそりゃ?

とにかく「は、はい、わかりました」と大穴牟遅神は須佐之男命の頭を覗きました。

なんとよく見るとシラミではなくムカデでした。ムカデが頭をを這い回るのです。

いやいや、考えただけで気絶もんです。

それも、そうですが須佐之男命はデカイ!
相当デカイです。
シラミかと思ったらムカデでした、なんてことは須佐之男命はウルトラマンぐらいはありますよ。

そんなデカイ須佐之男命の頭をゴソゴソ探します。

すると須勢理毘売が椋(むく)の美をプチプチ音を立てて噛め、と。
そして赤土を口に含んでペッペッ!とやれば一匹一匹ムカデを潰していると思うだろうと。

その通りにやると須佐之男命は見事に騙されます。
「なんだ、コイツ健気な奴だな」
そう思いながらウトウトとしてしまいます。

今までダメダメな奴だった大穴牟遅神は、ここへ来て初めて良い仕事します。

成長物語をモチーフにした映画なんかのパターンと同じですよね。
少しづつ成長していくかに見えて、残り数分でいきなり物凄い仕事をやってしまう。
そっちのパターンの話ですよね。

ダメダメだった大穴牟遅神が、毎回人の世話になりながらやってきました。
しかし、ここへ来て須佐之男命が寝てしまった隙を見て「うお!これはチャ~ンス!」

初めて自分の頭で考えて、計画を練って実行します。

あんなにか弱くて、体も小さい大穴牟遅神が五百人の力で引く程の重い岩で部屋の入り口を塞いでしまいます。
更に須佐之男命の髪を束ねて部屋の太い柱に括りつけてしまいます。

目を覚ました須佐之男命がいきなり立ち上がれないように柱に髪を括ってしまいます。
ウルトラマンぐらいデカイ須佐之男命の部屋ですからね、天井も高いし、部屋もかなり広いです。

しかも須勢理毘売を背負ってです。
なんで背負ってかわかりませんね、一緒にやりゃあ良いでしょうよ。
でも全部自分一人でやるんですね。

いつまでも親父に付き合えるか!
大穴牟遅神は家を出る時に生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天の沼琴(あめのぬこと)をゴッソリ持って行きます。

これは須佐之男命が大事に大事にしてる御宝です。凄いですね。
これをパクって逃げるのです。

ところがウッカリ琴が木に引っかかります。
ガラ~ンとかポロ~ンとか音が鳴ってしまいます。

大穴牟遅!そういうとこ!そういうとこや!

須佐之男命はこのガラ~ンとかポロ~ンで起きてしまいます。

しかし、このポロ~ンの天の沼琴は持って逃げた、持ち帰った記述はありません。

この天の沼琴は宗教的権威とされています。
権威は持ち出せなかったと。

これは重要な話しで、ちゃんと意味があるんですよね。

つまりこれは統治権は得られなかったという事なんです。
この統治権が得られなかった事は後々の国譲りの布石となる訳ですね。
国譲りの正当性をここにも示すことなんですね。

しかし、古事記は良く考えられてますね。


そして目を覚ました須佐之男命は立ち上がろうとします。しかし、立ち上がれない。
髪を柱に括りつけられてますからね。
「うお!なんだ?なんだこりゃ?」と言いながら無理矢理立ち上がり家ごと引き倒してしまいます。
なんちゅう怪力やねん!

そして柱もぶら下げたままに二人を追いかけます。しかし、二人は既に遠くまで行ってます。
根之堅洲国と現実世界の境目黄泉比良坂(よもつひらさか)まで来ています。

「あぁ、行ってしまったか…」

そこで須佐之男命は大穴牟遅少年に声をかけます。

「壮大な宮殿を建てるんだぞ!」

「その太刀と弓矢で兄貴達を全部倒せ!」

そして大穴牟遅少年に大国主神(おおくにぬしのかみ)という立派な名前を授けます。

立派な国を治める神

そのような意味だと思います。

大穴牟遅神改め「大国主神」は須佐之男命の助言通り太刀と弓矢を使って兄達八十神を次々に倒していきます。

そして遂に大国主神が国作りを始めるのです。

この物語の最初に「末っ子が国作りをする」とあって、その末っ子が国作りに取り掛かる経緯が長々と書いてあるのです。
それが、ここで完結するのです。

ダメダメだった末っ子が色んな経験をして、鍛えられて、遂に大国主神となる。

大国主神となって国作りをする壮大な物語が、また始まる訳です。

本筋からいけば、此処までの話しは省略しても構わないと思われます。
しかし、省略せずに丁寧に書いてあるのです。

出雲の国を併合するにあたり、誤解が生じる事が無いように懇切丁寧に説明しているのです。

これ、この物語の後々にも出ますが、日本という国は常にそうなんです。

皆が幸せになる方を取る。無駄な争いが起きない様にするのです。

だから、台湾にもパラオにも、更に朝鮮半島へも手厚い支援をしながら併合していたのです。

朝鮮半島に対しては国内の、東北開発の資金を朝鮮半島に使いました。
その為に東北の勃興は随分遅れてしまった。

それが日本のやり方なのです。

台湾やパラオからは朝鮮半島の様な「反日」はほぼ感じませんね。

それを単純に「親日」と言ってしまいます。
しかし、親日と言っても良いのですが
事実と根拠と論理性を以って、真っ直ぐ歴史を見る人々
と、言うのが正しいと思います。

そういう認識の上に考えてくれるので「親日」となるのだと思います。

次回へ続く…

古事記を摘んで日本を知る!その17

2015-08-26 21:57:22 | 古事記
お久しぶりの古事記となりました。

17まで来ましたね。

毎度お付き合い頂きありがとうございます。

前回は大穴牟遅のダメダメ振りを話しましたね。
おさらいはここです。

このダメ振りが実は古事記編纂のキモでもある訳です。

では、続きを始めます。

編纂方針

古事記編纂に重要である大穴牟遅(おおむなじ)少年。

この話しは、どこに繋がるかと申しますと出雲の国譲りに繋がる訳です。

大穴牟遅、後の大国主神が大事に作った立派な国を天照大御神に譲るのです。

これは一つ間違えると天照大御神が大国主神から無理矢理に国を取り上げたと受け取られかねません。

いや、左翼学者はむしろ「略奪した!」とか主張しています。
つまりは「シラス」を否定し、日本は昔から酷い国だと言いたいのです。

ですから、この古事記編纂にあたり、その様な誤解を生じない様に実に丁寧に書かれてあります。

天照大御神が国をぶん取ったのではない。
これは正当性があるのだよ、自然の流れだよ、と言う理由を丁寧に書いてあるのです。

しかし、その時にこの大国主神が物凄い力のある神様だと、自分一人でバッチリやっちやった!とか立派な国をドーンと作りました!ではこれは問題になります。

なんと言いますか「統治権」みたいなものが発生してしまう可能性が出ます。

だからダメダメな神が色んな手助けを借りて、そして天つ神やら天上世界の力を借りて、どうにかこうにか国作りをしたと、それを譲り受けました。としなくてはなりません。

大穴牟遅神を描く際にも、須佐之男命みたいな、全開パワーの物凄い神様ではなく、毎度頼りなくダメな問題児で一人では何も解決出来ない少年に描いてあるのです。

八上比売と結ばれる時も兎の予言があって初めて結ばれる。
その後、兄達の恨みを買って殺された時も神産巣日神の力を借りて生き返りましたね。

二回目に殺された時もお母様の気合いで生き返りました。

自分の力だけでは何も出来ないのです。

和歌山に逃げた時もお母様の助言です。
自分で決めた訳ではありません。

そこで大屋毘古神に匿われていたし、兄達に攻め込まれた時も大屋毘古神に逃がしてもらい「根之堅洲国へ行け」と言われ、言われた通りに行っただけ。

そこで須佐之男命に試練を受けるけれども、この試練の解決も自分の力ではありません。
須勢理毘売に道具を与えてもらい、使い方まで習って乗り切りました。
しかも二回もです。

しかし、人は良い。いや、神が良い。
兎に角、他人を恨んだり妬んだりはしないのでしょう。
殺すと言われてもよくわかっていない。
良く言えば純粋。悪く言えばアホです。

しかし、その無垢さ故に人はこの大穴牟遅神を助けずにはいられないのです。

お忘れでしょうが

皆さん、お忘れでしょうが大穴牟遅神は只今試練中です。

次の試練は鳴り鏑(なりかぶら)と言う鏑の付いた矢を野原に打ち込みます。
これを須佐之男命は大穴牟遅神に「探してこ~い」と言うのです。
鳴り鏑を拾って来いと言う試練です。

大穴牟遅神はゲームかオリエンテーションのつもりです。
そんな感じで野原に分け入るのです。

すると須佐之男命は野原に火を付けます。
こりゃムチャクチャです。

神様は外傷で死にますからね!
火傷は死にますからね。

絶体絶命!大ピンチ!

どうなる大穴牟遅神!

しかし、今度はネズミの親子に助けられます。
ネズミにすら助けられるのです。

このネズミが大穴牟遅神に「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言います。
なんかよくわからない合図です。

しかし、大穴牟遅神「勘」が良いのか「ん?何?ここ踏めってことか?」

それで踏んでみました。
するとドーンとネズミの巣に落ちました。
やっぱり大穴牟遅神はあまり体は大きくないですね。ネズミの巣にスッポリ入るぐらいですからね。

巣は地中にありますから、火も熱さも関係ありません。
火は通り過ぎて助かりましたよ。

助かっただけではダメですね。
鏑を拾って来いと言う試練です。
鳴り鏑を持って帰らないと「うちの娘はお前にはやれん!」て事になりますからね。

だから鳴り鏑が絶対必要です。

ところが良く見ると、なんと子ネズミがかじって遊んでました。
「こらこら、それは大事なものだから」と返してもらう。
大穴牟遅神恐るべし!
子ネズミまで助けられてます。

火で焼け死にもせず、更に鏑もちゃんと取って帰ります。

一方、野原が炎に包まれたのを見た須佐之男命も「さすがにこれは死んだだろう」と思います。「あら?チョイやり過ぎたか」てな感じでしょうかね。

更に須勢理毘売も泣きながら葬式の準備を始めました。

そしたらそこに大穴牟遅神が生きて現れました。

さすがにギョッとなったでしょうね…

次回へ続く…

只今、栗林忠道中将について書こうと考えています。
色々資料なんかを読み漁ることをしています。
まぁ、年末ぐらいまでには書き始め様と思いますが、これまた連続シリーズになると思いますね…

不死身と呼ばれた男

2015-08-22 00:00:28 | 草莽崛起
またもや古事記の続きは次回にしまして。

敗戦後70年を迎えて是非に紹介したい方を今回は取り上げます。

まぁ、知る人ぞ知る有名な方ですから。
ご存知の方もおられるでしょうが、今回敢えて取り上げたいと思います。

日本人とは元来、争いを好みません。
しかし、イザとなると世界的も類い稀なる戦闘力を発揮するのです。

大義の為には命を懸けて愛する者を守る。

これが日本人です。

そして、その時!この世界でも最強の戦闘力を発揮する戦闘民族なのです。

その戦闘民族としての戦闘力と日本人の誠を示した心優しき武人。

あなたの中に流れる日本人の血が騒ぎますよ。

鍛え上げた武人

生きている英霊
不死身の分隊長

こう呼ばれた男。

その人の名前は船坂弘

大正9年(1920)10月30日生まれ。

栃木県上都賀郡西方村出身です。現在の栃木市になります。

農家の三男として生まれました。
幼い頃から聞かん坊で、いわゆるガキ大将でした。小学校、尋常小学校を終えて、公民学校を卒業しました。それに満足できなかったのか、早稲田中学の講義録を基に独学で勉強するという根性を見せました。

その甲斐あって、専門学校入学者試験に見事合格。1939年満蒙学校専門部に入学し3年間学習を続けました。

1941年3月、宇都宮第36部隊に現役入隊。
直後に満州に渡りチチハル第219部隊に配属されました。
この部隊は宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想敵国であったソ連軍侵入に備えて、ノモンハン、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備をしていました。

また武道の達人でもあり、剣道、居合、銃剣道に射撃の名人でもありました。

除隊目前に

昭和19年3月、除隊目前の23歳の時に船坂弘は宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオペリリュー島南西のアンガウル島に着任します。
米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとしました。昭和19年9月11日遂に米軍来襲。

開戦から5日の間、米軍は爆撃機で島を絨毯爆撃を行いました。
次に戦艦より、島の形が変わる程の艦砲射撃を行いました。
9月17日米国陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西から上陸しました。

この時、島の守備隊は僅か1400名の中隊程度でした。

小さく平たい島でしたので、日本陸軍得意の誘い込んで一気に殲滅する作戦が出来ません。
その為に日本軍は当初、上陸する米軍を水際で迎え撃つ作戦を取ります。

この時、船坂軍曹は擲弾筒や臼砲などで200人以上を殺傷します。
しかし、兵力差は明白。
装備も劣る日本軍は押されていきます。

水際作戦で中隊が壊滅していく中で、船坂軍曹は筒身が真っ赤に焼ける程に擲弾筒を撃ちまくります。
そうすることで米軍を足止めし、退却する仲間を守っていたのです。

日本軍は残存兵力を島の北西に集結させて、洞窟を使ってゲリラ戦に持ち込みます。

不死身伝説の始まり

戦闘3日目、米軍の砲撃により大腿部を裂かれるという瀕死の重傷を負います。
敵陣ど真ん中、助け様にも助けられない。
押しつ押されつの戦闘の中に瀕死の重傷で数時間放置されます。

銃火の中に数時間放置され、ようやく軍医が船坂軍曹の元にやって来ました。

傷を見た軍医は、あまりの重傷加減に「もはやこれまで」と船坂軍曹に自決の為の手榴弾を渡し去ってしまいました。
これは死の宣告です。

しかし、この武人はただでは済まさぬ。

近くにあった日章旗を包帯代わりに足を縛り、夜通し這って洞窟の陣地へたどり着きます。
もう、どう見ても死人が這っている様にしか見えません。まるでゾンビです。

しかしこの船坂弘という人は並みの体力気力ではなかったようです。
医者も見放す重傷を負い、死人の様に這っていたのに翌日には足を引きずりながら歩きまわっていたと言うから驚きです。

船坂軍曹はその後も度々、瀕死の重傷を負いながらも、何故か不思議と翌日には回復してしまいました。
正にサイボーグか人造人間か!
本人は「生まれつき回復が早いんだ」と笑っていたと言うからこれ又驚きです。

絶望的な状況にあっても、自身が重傷を負うとも、それをものともせず戦い続けます。
何が彼をそうさせたのか?

ある日は拳銃三連射で米兵3人を倒す。

ある日には、米兵から奪い取ったマシンガンで3人の米兵を倒し、左足と両腕負傷の状態で更に銃剣で1人を刺殺。
更にその銃剣を投げつけ喉元に命中させ突き殺す!

正に鬼神!恐ろし戦闘力です。

いよいよ最後か…

しかし、水も食料もない。
装備も不十分な戦いです。

洞窟の中では自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声でさながら生き地獄の様相です。
船坂軍曹自身も銃弾が腹部を貫通し、最早這う事しか出来ない。

更に、その傷が化膿し膿が溜まり蝿がたかりウジが湧きました。

最早これまで「ウジに食われて死ねるか」と自決を覚悟します。

この瀕死の状況で船坂軍曹は遺書を書く。

若年シテ死スハ、孝ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇士ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

「若年で死ぬのは、親孝行出来ず残念です。靖国に参り御両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇士に敵を近ずけまいと奮戦いたしましたが、既に満身創痍となってしまいました。天命を待たず、敵前にして戦死すのは悔しいけれども、既に数百の敵を倒しました。自分は満足しています。七度生まれ変わるとも、国難を救いたいと念願し今従容として自決します。思い残す事はありません。」

そして船坂軍曹は自決します。
手にした手榴弾を引き抜きました。

ところが手榴弾は爆発しない。
不発でした。
死ぬる場にても死せず、何故死なせてくれぬのか?
船坂軍曹はこの時、深い絶望感に打ちひしがれます。

突撃

数時間、茫然自失となっていました。
そして我に帰り「どうせ死ぬなら敵将に一矢報いてやる」
米軍司令部への単独切り込みを決意します。

そして拳銃から火薬を抜き出し、腹部の傷に流し込む。そして火を付けた。
貫通創ですから腹の前から背部に向けて炎が吹き抜けます。
しかしあまりの激痛に失神。
半日程死線を彷徨います。

意識を取り戻すと、まだ傷が痛む中で手榴弾6発を体に括り拳銃1丁を持って洞窟から這い出ます。

総勢一万人の駐屯する米軍の真っ只中を、数夜這い続けました。
米軍前哨基地を突破し、指揮所も突破してしまいました。
4日目には米軍司令部指揮所テントまで後20mまでたどり着きました。

しばらくすると続々と指揮官達が集まりました。

右手に手榴弾を握りしめ、左手に拳銃を持ち全力を振り絞って立ち上がりました。

突然茂みから姿をあらわす異様な日本兵!
全身血まみれ、ボロボロで丸でゾンビの様な姿に米兵もしばし呆然。

この時の船坂軍曹は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創ニ箇所、頭部撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部貫通銃創など24箇所の重傷。
更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいました。

人間にすら見えません。

動揺する米兵を尻目に船坂軍曹は突進します。
しかし、指揮所テントに到達する直前、首を撃たれて昏倒してしまいます。

全身血まみれで首まで撃たれました。
駆けつけた米軍軍医もさすがに死亡と判断しました。
船坂軍曹は野戦病院へ運ばれました。

船坂を眺める米兵達に向かい軍医は「これが日本のハラキリだ!日本のサムライだけが出来る勇敢な死に方だ!」と言ったそうです。

死体置き場に3日間転がされていた船坂軍曹は、そこで息を吹き返します。
死体の山からむっくりと起き上がる船坂軍曹。
完全にゾンビです。
死体の山から起き上がる日本兵に米兵は凍り付きました。
とっさに船坂軍曹に向かい銃を向ける米兵。

その銃に向かって歩く船坂軍曹。
銃口を自分に押し付け「撃て!殺せ!」と怒鳴ります。

不死身の日本兵は瞬く間に米兵の間で噂となり伝説化しました。
船坂軍曹の無謀さに日本兵に対する恐怖心を抱きながらも、その勇気を称え勇敢なる兵士という名を米軍は船坂に贈りました。

米軍の治療で歩けるまでに回復した船坂軍曹はペリリュー島に送られます。
しかし、其処に居並ぶ米軍飛行機を見て「よし!いずれアレを全て破壊してやる!」と決心します。

ペリリュー島に送られ2日目。
重傷者の監視が甘い事を幸いに夜陰に紛れて収容所を抜け出し、約1kmを匍匐前進。
途中日本兵の死体の弾丸入れから弾丸を集め火薬を抜き取り導火線にして米軍火薬庫に火を付けた。
すると大爆発を起こし、次々に延焼し別の棟から別の棟へと大爆発。
ペリリュー島の米軍火薬庫を全て破壊。
米軍は犯人不明で事件を迷宮入りさせています。

船坂軍曹は爆発を見届けるとまたコッソリと何食わぬ顔で収容所に戻っています。

衰えぬ闘志

収容3日目。

その夜、今度は歩哨を殺し銃を奪います。
夜陰に紛れて歩哨に近づき後5mと言うところでいきなりタックルを食らいます。

抵抗しましたが、アッという間にグルグル巻きにされて柱にくくりつけられてしまいました。
米兵は船坂に銃を向けた。
「これで死ねる、楽になる」と思った。

しかしたどたどしい日本語が聞こえて来ました。

「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヌコトハ罪デス。」日本語を話すその米兵は船坂軍曹をそのままに出て行ってしまいました。

翌日、解かれた船坂軍曹はまたもや飛行場破壊を画策します。
炊事係の朝鮮人を煙草で釣りマッチを手に入れました。
数日間マッチを貯めたある日、あの日本語を話す米兵がジープで出て行った。
歩哨にそれとなく聞くと明日まで帰らない。

その夜、チャンスとばかりに船坂軍曹は密かに抜け出し匍匐前進で飛行場へ向かいます。

後少し!というところで、あの米兵が銃を向けている。
「殺せ!」と言う船坂に米兵は言いました。

「あなたが歩哨に私の日程を聞いていたと連絡があった。あなたは何か計画しているだろうと、ならば今夜だと思い戻って来た」

そして以前、脱走しようとして射殺された日本兵の話をして「無事で良かった」と。

船坂の無謀な行動を諌め「生きろ」と説くのでした。

船坂軍曹ら捕虜がハワイへ送られる事になりました。いよいよ船艇がペリリュー島を離れようとした時、あの米兵がやって来て「生きて日本に帰りなさい」と言って船坂に名刺を渡しました。

そして各地の収容所を転々として昭和21年に帰国しました。

船坂軍曹は名刺をポケットに入れたのだけれど、次の収容所で取り上げられてしまいました。

船坂軍曹は栃木の実家に帰りました。
しかし、アンガウル守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日。
実家には船坂弘戦死公報が届いており、実家は戦死したと思っていました。

ボロボロの軍服で帰還した船坂軍曹を見た人々は幽霊が出た!と噂し、暫くは物の怪扱いを受けました。

故郷に帰った船坂軍曹が最初にやったのは自らの墓碑を引き抜く事でした。

新たなる人生

戦後、焼け野原となった東京、渋谷で書店を開きます。これが後の「本のデパート大盛書店」に発展。

書店経営の傍ら「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」や「硫黄島・ああ!栗林兵団」などの本を出しています。

剣道を通じ親交のあった三島由紀夫に愛刀「関の孫六」を贈っています。
この刀は後に三島由紀夫割腹の際に介錯をした刀です。

ペリリューで助けられたあの米兵とも連絡がとれ、生涯の友になっています。

他にアンガウル島に鎮魂碑を建立し、著書を出してはその印税を各地の元戦地にて慰霊碑建立に投じています。

アンガウル島慰霊碑には碑文が記されています。

尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます

かつて鬼神の如き闘志を見せ、圧倒的戦闘力で敵を次々に倒し。
瀕死の淵から蘇る不死身の男船坂弘軍曹

戦後、自らの私財を投じ慰霊と遺骨収集に人生を捧げる心優しい船坂弘軍曹

日本人とは、日本の男とは…

こういう人間が、かつての日本には居たのです。