犬神スケキヨ~さざれ石

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独善と言う病に凭れる人々

2024-05-06 18:52:00 | 草莽崛起
5月3日は憲法記念日でしたね。
何やら大阪の扇町公園では恒例の『護憲』を標榜する人々の集会が行われていたようです。



『輝け!憲法』だそうで。
大爆笑のタイトルですね。

100人をゆうに超え、13歳の少女が北朝鮮なる三流国家に拉致され取り返せずにいる現状は、現憲法下です。
一体現憲法の何が『輝く』のでしょうか?
バカバカしいにも程がある。

ま、いわゆる『護憲派』と言う連中は憲法条文など読んだ事もないのでしょうね。
ハードルは高くとも96条に改憲手続きが明記されているんですがね。


護憲派の努力も虚しく、読売新聞の世論調査では63%が改憲賛成です。
9条二項だけを見ても53%が賛成なのです。

つまりは我が国は改憲へと舵を切ったと言う事で、後は政治の判断のみと言う事です。

また、この護憲運動にカウンターをする人々もいますが、そんな事をしている場合ではない事は世論調査を見れば明らかです。

改憲阻止勢力なるものは、今や完全なオワコンで、またそれにカウンターをかけるのも完全なオワコンだと言う事です。
単なる、アホによるアホの為のアホなお祭りという話しですね。
世論はもっとずっと先に進んでいるのです。

4月29日の昭和の日でも、反天皇なる連中に右翼や自称保守とか言う人々がカウンターをかけたりしてますが、これもまた両方共にアホによるアホの為のアホ祭りです。

日本国民の大半は『天皇と言う御存在が必要』と考えているのです。
だから126代今上陛下がおられるわけです。
天皇の存在を担保しているのは国民です。
幾ら反天皇を掲げようと『革命』でも起こさない限りそれは変わりません。
だからアホなんです。
また、そんな事は明白であるのに『けしからん』とカウンターをかける方もアホです。

天皇がいなくなれば世の中が良くなるとか、そんな考えはけしからんとか、どちらも単なる独善と言う病に冒されているのです。

拉致された同胞がいる事を無視して『護憲』等と言うアホもまた『独善』と言う病に冒されているのです。

世の中には矛盾や理不尽な事は山ほどありますが、それは皆で努力して薄めていくしかありません。

独善と言う病は恐ろしいもので、一度罹患すると中々寛解するものではありません。

世の中の矛盾に直面し『なんとかしなければ』と考え出します。
その内に『自分がなんとかしなければ』とか考え出したり、言い出したりします。
本当は殆ど何ら影響していないのに『自分が動いたから良くなった』とか言う始末。
ここまで来たら立派なステージ4で末期です。

だいたいここまで来ると、法や憲法は限界だ!それを超えても構わないとか言い出す始末です。
これを右や左関係なく言い出すのです。
『尊皇』を標榜する者ですら、これを言い出します。
天皇陛下ですら絶対に遵守する憲法や法を下品な平民が超えても良いとか、何のコントやねん!てな話しです。




ま、右も左もとどのつまりは同じなのですね。
右や左は直線上の左右ではなく馬の蹄鉄のようにU字型の端と端と言う事です。

とにかく法を超えても、現状変更する事が一番だと考えるわけです。

完全に独善病です。

左に至っては未だ『革命』を標榜するアホがいるのは言わずもがなですが。

私の事を『理想主義者』と言う方もおられますが、どちらかと言えば現実的で原理主義に近いと思います。
何故なら『独善』を忌避しているからです。

独善に陥らない為にはどうすべきか?

それは原理原則に従うと言う事でしょう。
それは歴史的にも正しいのだと考えます。

保守だ革新だ、リベラルだなんだとよく耳にしますが大した定義らしい定義等ありはしません。

戦前、1930年代には『革新』と言えば右翼の代名詞であったのです。
革新右翼と呼ばれ、国家による統制を敷いた社会主義国家を目指していたのです。
いわゆる保守思想や、はたまた左翼からの転向組まで塊って国家社会主義を目指していたのです。

戦後は自由民主党が結党され、それに対抗を自認する勢力、つまりは日本社会党一派が革新と使い出したのです。

戦前は右翼が、戦後は左翼がと時代によっても変わっているわけです。
これを見ても私が主張する『右翼も左翼も同じ』と言う話しの根拠を理解出来ると思います。

戦前は、226事件を起こし戦後はインフレ時に労働争議を起こしていた連中とは根っこが同じ。先述した馬の蹄鉄です。

またリベラルと言うものも昨今は丸で左の代名詞の様に用いられもしますが、本来は自由主義と言う事です。
我が国では保守の対義語の様になっていますが、全く対義語でもありません。

そもそもリベラルの目指す所は、伝統的な規範や君主制、宗教などを議会と法の支配に置き換える事にあるのです。
明治維新後の我が国を見れば、長く培って来た伝統的規範を帝国憲法に置き換え、議会制民主主義を導入した事は実に見事なリベラルと言えるのではないでしょうか?
自由主義の由来が市民革命にある事から、いわゆる保守との対義に解釈されているのでしょう。

ならば保守とは何ぞや?となります。

一説には従来からの伝統、習慣、制度、考え方を維持し改革・革命・革新に反対する思想とされます。
過激な傾向を拒否し、穏健な立場を奉ずるとも言われます。

しかし保守なるものが具体的な思想や体制を掲げて何を指すかは明確ではありません。
国や立場や時代により随分と違います。
社会主義国では社会主義思想が、イスラムではイスラム教に基づく考えが『保守』と呼ばれたりするのですから正直よくわかりません。
北朝鮮では、朝鮮労働党やもっと言えば金一族の統制が『保守』であろうし、支那であれば支那共産党こそが保守であるわけです。
この辺りが理解出来ずに保守などと言う言葉にしがみついている我が国の『保守標榜者』とは一体何なのか、よくわかりませんね。

選挙になれば『保守票』だの『保守分断』だのよく耳にしますが、そう言わなければどうにも纏まりのない『一団』なのであろうと思います。

方や左と呼ばれる人間も『リベラル』を標榜しますが意味など理解していないでしょう。

保守と標榜者も『あいつは保守じゃない』とか言う始末で『我こそは保守本流なり』とでも言いたいのでしょうが、そんなもん存在しないのは先述の通りです。

いわゆる左にしても基本的に社会主義、共産主義に凭れているのですから『我こそマルクスレーニンの真の理解者なり』と言って自分と違う解釈をする者をパージします。

こういう事がいわゆる『内ゲバ』と呼ばれる所以であると先ず理解しましょう。

革新右翼、革新左翼、リベラル、保守等と言うものに凭れる人々と言うのは、詰まる所独善という病に冒された気の毒な人々と言う事です。

毎度、話しでいますが例えば国際関係論で理論らしい理論がない中で理論化されたラセット&オニールの平和の為の五要件などは実にわかりやすく原理原則を端的に表していると解ります。




民主主義・国際的な組織・経済的相互依存という『リベラリズム』として手段。
強い同盟関係・防衛力とう『リアリズム』としての手段が揃って初めて『継続的な平和の維持』が可能であるのです。

どちらか一方では平和は構築出来ません。

先の病に冒された人々はリベラルかリアリズムのどちらかしか考えていません。

さて話しは戻りますが、人は私を『理想主義』と言ってみたり『保守』と言うカテゴリーに入れてみたりもします。

ならばそれに乗っかって言うなら、私はリベラルでしょう。
何故なら、人は先ず自由であるべきだと考えるからです。
そしてそれらは法により担保し、条文として明記すべきだと考えるからです。
そこに明記されない自由や権利など無いとも考えています。
いわゆる和式のリベラリストの様に、『多様性』をウルトラエクストリーム歪曲して、森羅万象全てに自由や権利が存在するなど考えません。
民主主義の手続きに則り、我々国民が考えて合議を得て条文化すべきです。

方や、我が国の伝統的規範も重視しており、先ずはそれこそが我が国の一丁目一番地だと考えています。
皇統の存続、天皇の存在、更には文化風俗風習。武士道や神道と言う信仰。
それら全てが日本国の根っこであり決して蔑ろにしてはいけないものです。
と、言うと『保守』と言われますね。

しかしこれが原理原則なのです。

私自身が自らを『原理主義』と言う所以です。

ですから現在我々が使っている『成文憲法』など必要ないとも考えています。
現在ある憲法など全く必要ありません。
伝統的規範や宗教観があるのですから、現在の憲法は全く必要ありません。
我々に必要なものは『理念』であって、それを『憲法』とすれば良いだけです。

理念法の下に基本法をぶら下げておけば良い。
憲法が理念だけなら、改正する必要もなく20条もあれば事足りる。
基本法なら幾らでも改正できます。

例えば帝国憲法第一条などは理解しやすい。

  • 第1条大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
  • そもそも草案には『天皇之ヲ知ラス』とあったわけですが、当時でもさすがに『知ラス』は国民でも理解出来まいとして『統治ス』とされたわけですが、帝国憲法義解に伊藤博文は『これは知らすと言う意味だ』と解説しています。
  • 知らすとは『知る』と言う事で天皇のご本務を端的に表現しています。天皇のご本務とは祈ることです。国民の為に祈る。
  • 祈る為には『知る』事が必要です。国民の日常や生活を知り、その幸福と安寧を願い祈ります。これは天孫降臨にも示されています。
  • 天照大神が邇邇芸命に対して『地上世界をお前が知らせ』と。知らせとは知るの命令形です。知ることでより祈りは強いものとなります。
  • 帝国憲法草案を書いた井上毅は、草案作成に当たり日本書紀や古事記を熟読しています。また天皇の大御心を表す仁徳天皇『民の竈』すら帝国憲法に反映させたのだとも理解出来ます。
  • 大御心とは一般国民の総意です。
  • 帝国憲法下にあって民主主義の手続きにより議員を選び議会を運営し、民意を反映していました。天皇は国務大臣の輔弼を経て裁可を下す。
  • ですから、世に言う天皇主権なるものも甚だおかしな話しでもあるし、そもそも大御心が国民の総意であるのですから、これに逆らうことは天皇には出来ません。東大憲法学宮澤俊義が言う八月革命説などチャンチャラおかしな話しです。
  • これが我が国の原理なのです。ならば憲法条文に『日本国は万世一系の天皇が知る国』とすれば、女系だ男系だと言う議論すら必要ありません。万世一系と書くわけですから。女系論など『ハイ!終わり』です。
  • 万機公論に決すべし!と憲法に書いて、後は基本法をぶら下げて細かな仕組みを作り法制化すれば終わりです。
  • 伝統と規範を重視するなら、これで良いわけです。それを条文化する。
  • conservativeとliberalismと言うこれがリアリズムと言うものです。
  • 何も病を患い、独善に凭れる必要はありません。原理原則に従えば良いだけです。
  • 戦後、アメリカは日本に対して三布告なるものを突きつけます。占領統治するに当たり突きつけて来たのです。内容はと言うと以下の通りです。
  • 日本國民二告グ
  • 布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
  • 布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
  • 布告第三号:日本円を廃し、B円と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。
  • この様なものでした。
  • 当時の外務相、重光葵は総司令部に乗り込みこれを白紙撤回させました。その理由は『これでは國體の護持が出来ない!ポツダム宣言を履行せよ!』と言うものです。
  • ポツダム宣言履行とは、國體護持について連合国側は『日本国民の自由な意思により決定する』と言うもので、これを履行せよ!と言う話しです。
  • 正に『原理原則』を武器に白紙撤回させたのです。
  • あわや我が国の國體を失うところでしたが、原理原則を問う事で食い止めたのです。
  • 大日本帝国憲法から現在の憲法に改正するにも、原理原則が用いられた事実を、病に罹患した人々は理解していません。
  • 戦後、昭和天皇に拝謁したマッカーサーは天皇を処罰する事を考え直しました。連合国側は天皇処刑を強く打ち出していました。また、ソ連を筆頭とする極東委員会は占領統治に介入しようとするタイミングでもあったのです。
  • このままでは、天皇処刑は時間の問題です。
ここでマッカーサーは機先を制してドラスティックな方法に出ます。
大日本帝国憲法からの改正です。

見事に新憲法に改正する事で現在の1条〜8条を条文に明記しました。
改正後、鈴木貫太郎は『なんとか國體が護持された』と安堵したと言う事からも理解出来ます。

三布告撤回は原理原則に従った結果です。
それは『国民の自由な意思により決定される』とした一文です。

マッカーサーはこれを見事に利用したと言う事であろうと理解できます。
国民の自由な意思により1条から8条を明記し天皇と言う存在を護持すると決定した。

これを否定する事は誰も出来ません。
連合国だろうが、極東委員会だろうが日本国民の自由な意思を否定する事はできません。

これにより極東委員会の思惑を挫く事に成功したのです。

そして何よりも『ポツダム宣言』を利用したと言う事を考えなければなりません。
この原理原則は『国民の自由な意思で決定』された事にあるのです。

勿論、この憲法で我が国を骨抜きにもした。

しかしポツダム宣言受諾時の國體の護持はなされるのか?と、言う問いに『国民の自由な意思で決定すれば良い』と回答しているのです。

つまり日本の天皇存続は日本国民の自由な意思により決定されたと言う建前を付けたのです。

世に保守と言われる人々の中には『現憲法押し付け論』があります。
これにより現憲法無効論を宣うのですが。

押し付けだから無効だとするなら、日本国民の自由な意思による決定は否定されます。
そんなものは『押し付け憲法』どころか『押し付け國體』と言う事になります。

宮澤俊義の『八月革命説』も酷いもんですが、『押し付け國體』ではその上行く酷い話しになります。

國體を断絶したい連中の思う壺です。

『押し付けられた國體』だから、それを否定する事は正しい事だと正当性は与えかねない話しです。

また、大日本帝国憲法に戻せば良いと言う話しも論理性はありません。
枢密院もない、法的根拠もない。
無茶苦茶な話しではないでしょうか。

我が国の根っこは、遡って古事記にある。

伊邪那美命から生まれた天照大神と須佐之男命が誓約をし、生まれた男神の子である邇邇芸命が地上を知らす。
つまりは男系、父系が繋がれて今上陛下に至る。
それを万世一系と呼ぶ。

我が国はその万世一系の天皇のが知らす国。

先ずは我が国の根幹はこれが原理原則であると言う事です。

近視眼的に戦後の僅かな時間にのみ囚われ、戦前と戦後を隔て考えるなど愚かな話しです。

戦前を否定するアホも同じで、皇紀で考えただけでも戦前は2600年もあるのに、戦後の僅か80年で2600年を否定するのですから。
愚か以外の何ものでもありません。

我々は断絶する事なく地続きの歴史を紡いでいるのです。

日本人と言うのは過去、現在、未来の日本人と言う事です。

それを己れの独善、自己顕示欲、功名心、虚栄心などに凭れて病を悪化させ本来の目的すら理解出来ないでいるのです。

祖国日本の原理原則をしっかりと今一度理解し直す事が肝要です。















新年度に思う事 脱却

2024-04-05 15:20:00 | 草莽崛起
先の大戦から79年を経過して『勝った者が正しい』と言う時代は変わってしまいました。

かつての勝った者が正しかった時代には『力』を好きな様に使って世界を我が物顔で跋扈してきた米国ですら、911の同時多発テロを経験し内向きな政策に転じてしまい、明らかに良くも悪くも戦争を利用する事が出来なくなり、その国力に翳りが見えて来ました。

それまでは『奪い合う、独占する』と言う時代から『共有』すれば良いじゃないかと言った時代へと変わり始めました。

もう現代の若者は、前時代の人間を見て『何故あれ程独占したがるのか』理解出来ないのです。

物は一つあれば良い、それをシェアすれば良いじゃないかと考えるのです。
そうなれば、一人に一つ『物』が必要ではないので、ある種の『デフレ』に突入するのです。
食えぬ時代を経て、皆が食える様になった、食える様になれば豊かになりたいと思う。
『貧しさ』こそが成長の為の資源であった時代は終わり、次世代には資源が残されていないのかもしれません。
中心と言うものを持たずに、水平の繋がりだけの世界になるのかもしれません。
水平の繋がりと言う時代に一体どう豊かになるのか?

そうなると、前時代的なリーダーシップなるものや、競争に勝った勝ち組なるものもありません。

水平な繋がりで、中心を持たず競争にも興味はない。
ただただ共有し合う事に重きを置く時代になれば、今ある人間関係だけが重要で、それを壊したいとは思いません。
人間関係が壊れるぐらいなら、恋人も必要ないし、結婚などしたいと思いません。
脱組織、脱結婚でありそれは『脱家族』と言う事でもあるのです。

そう言う時代に於いて豊かになる為には、その水平の繋がりからより多くの『賞賛』を得るしかありません。
何より『貧しさ』と言う資源がないのですから、代わりになる資源を探さなければならなくなって、それは何だとなれば『賞賛』される事で他者と差をつけるしかないのです。
賞賛なれば、今ある人間関係を破壊する事も少ないからです。
他者と軋轢を生まず『金を儲ける』には賞賛される事です。

例えば、YouTuberなどはその一つかもしれません。
自らが考えたコンテンツが賞賛されれば閲覧数が伸びて金を稼ぐ事が出来ます。
或いは、クラウドファンディングなどもそうかもしれません。
自分の企画がより多くの人々のニーズに刺されば、銀行など当てにせずとも商売の資金を集める事が出来ます。

強烈なエリートを育ててリーダーを作り、従順に黙々と働く事で稼ぐ程に、今は資源がないのです。

今何が必要か?どんなニーズがあるのか?
それを見極め『賞賛』されるアイデアを提供する事で金を儲け、それを上手く社会に還元出来れば、また人は『賞賛』と言う資源を与えてくれるのです。
ですから、今の若者は自分達より上の世代を見れば『何故そうも罵合って、奪い合いを繰り返し独占したがるのか』と考えているのです。

その上の世代と呼ばれる人間は更に上の世代に対して『何故あれ程従順なのか、個性がないのか』と考えます。

これは良し悪しではなく、そう言う教育を受けて来た世代による違いなだけで、どれかが正解と言う話しでもないのです。

例えば、アメリカなどは日本に原爆を使用しました。
アメリカ人にとって原爆は『正義』であり『正当な行為』であるのです。
そして先の大戦、対日戦、欧州戦に於いてもいわゆる第二次世界大戦だけが『良い戦争』であり、たがら原爆も正義と考えるのです。
第一次大戦などは、後のナチスの台頭を考えれば全くの失敗であり第二次世界大戦以降のアメリカの戦争もまた全く正義もなければ正解すらしていない戦争であったわけです。

その良い戦争から時代を経て、新しい世代は良い戦争などと言う意識は薄れ『原爆は悪』だと考え始めました。
戦争に勝ったと言う熱に浮かれた世代とは全く価値観が違うのです。
歴史を冷静に見直して『アレは良くない』と対日戦そのものをも否定する若者も現れているのです。

勝った者が正しいと教育された世代が21世紀を目の前にして、勝ったと言うだけでは抗い切れず苦しんで日米貿易摩擦まで引き起こしてみたけれど、時代の変化を戻せはできず。

新しい世代は、日本のアニメや漫画やゲームに夢中になり、知らぬ間に『日本的』なものが染み付いて『あの戦争』を評価し始めているのです。
古い世代は日本人など、簡単に屈服させる事が出来ると信じていても、子供達は日本のサブカルチャーや伝統文化に夢中になっている。
アメリカの次世代も親の世代を見て『何を言っているんだ』と考えるのです。
自国の歴史と文化の浅さに辟易としたりもします。
ガザを原爆で攻撃し『広島、長崎の様にすれば良い』などと発言する米国下院議員がいたりしますが、アレも前時代の化石の様なものでしょう。

同じ様ですが、日本は悪かった、日本は末代まで世界に侘びなければならないと教育されて来た世代が年を取り、その子供達は『日本はそれほど悪いのか?』と疑問に思い、自らネットを使って調べ出す。
『日本はそんなに悪くないじゃないか』と考え始める。
するとあの戦争は何だったのかと、次世代が総括を始めるのです。

勝った者が正しいと思い込んでいる世代は、今だに力と力のガチンコ勝負をやりたがります。余りにも知性のない振る舞いです。

力は知性を超えはしません。

腕力に頼って勝敗を決め、勝者こそ正しいと考えるなら、共産主義革命も、クーデターも勝てば正しいと言う事になります。

そうなれば、我々が謳歌してきた『民主主義』の敗北です。

例えば、我が国で天皇陛下始め時の為政者を皆殺しに、政権奪取なる行為をする者が現れたなら腕力勝負の勝者として正当性を認めるのか?
と、言う話しです。

日本国国民こそが正当で最高の権力者で、それ以外は認められません。
そう定めてあるのです。
それを腕力で奪取した者が正しいなどと言い出すのは民主主義の放棄に他ならないのです。

己れの考えが世に伝わらないからと『法の限界』などと言いだしたり『遵法の限界』などと宣うのは、知性の低さ知能の低さ、知識の無さを自ら吐露する愚かなアホです。

天皇陛下すら絶対に破らない『遵法』を、下品な平民如きが超えて良いなど一体何の根拠で宣うているのか、一体どの様な養育をされたのか、知能レベルの低きも低さを感じざるを得ないもんです。
法を破って得たものなどに何らの正当性もありません。

奪って得た事で建国した国が如何に苦しんでいるかなど火を見るより明らかです。

インディアンを殺しに殺して奪った土地に建国したアメリカなども、その血塗られた歴史からは逃れられません。

革命によって出来た国は、国民を殺しに殺して僅か70年で壮大なな社会実験に失敗しました。

内戦に勝利した国は、文化大革命の名の下に国民を虐殺し、鍋で煮て人肉を宴にしていた。

自らの手で王朝を倒して、国民が政治を手にした国が、今や王朝が途絶えた事を後悔し行き過ぎたリベラルにより宗教までも否定しようとする。

こんなバカな事を繰り返して来た世代を冷ややかな眼差しで見ているのが次世代なのでしょう。

我が国には幸いにして、血で建国したわけでもない。
奪って建国したわけでもない。
我が国の中心におられる御存在は『ただ祈る人』で、神話に遡っても『知る』を旨とする世界に唯一の御存在です。
その御存在が今も続いているのです。

時代が変化しフェーズが変わって行く世界だからこそ『変わらない、変えてはならない』ものを、しっかりと見据えてそれを言語化し定義化することが必要なのではないでしょうか?
例えば、各々の家や各々の地域によって勝手に解釈されてしまい散逸されかかっていたものをしっかりと精査し、編纂し言語化し再定義されたものが『古事記』であると私は考えます。
その古事記を1300年以上も我々は日本の根っことして使い続け、使い倒している事実を見れば定義化することの重要性が如何に肝要であるか容易に理解出来るのではないでしょうか。

不安定な世界情勢や、流行病、経済的負担などの理由から過度に社会不安を感じてしまいかねない現代だからこそ皆でしっかりと考えなければなりません。
社会不安から来る『モヤモヤ』した気持ちを見つめて、本質を考え見抜く力をつけなければ精神を病んでしまいます。

或いは『何とかしなければ』と考え、自分がなんとかしなければ世の中が狂ってしまう!転じて『自分が出来る』と考えだす輩も現れます。こんな人間も病んでいます。
単なる無知蒙昧から来る自意識過剰を勘違いし、余計な事をやり出すのです。
いわゆる『活動的なバカ』で、最も始末の悪い奴です。身近にいれば直ぐに付き合いをやめる事をお勧めいたします。

人間一人に社会を変える力など殆どありません。『自分が動いたから、世の中がこうなった』と真顔で言い出す奴はヤベー奴でしかありません。

確かに小さなコミュニティなら影響を与える事は出来るかもしれませんが、あくまで限定的な話しです。

見ず知らずの人の死が、殆ど自分に影響を及ぼす事がないのを見れば理解出来るはず。

例えば、政治家など本人の能力が高くとも個人の力など大した事はありません。
政治家の力の源泉は民主主義の手続きを経て獲得した『票』にあるのです。

つまりは、賛同者を集めて大きな世論のうねりとなり、そのうねりが票と言う『力』を与えているのです。
正に『評価』経済の様な話しです。

フェーズ(場面)の変化、時代の変化を素早く掴み、問題提起をし、必要な権力を行使して問題を解決する。
憲法にも示された当たり前の行動です。

例えば、デモでも街宣でも憲法に記された権利を行使して問題提起し、それが世論喚起となったなら必要な権力を行使していかなければ、世の中は変化しません。

右だろうが左だろうが、バカ騒ぎの様なデモをやる、そのデモにカウンターをかける等と言うものでは権力を行使出来ていません。
あくまで『問題提起』でしかありません。
せっかく問題提起出来たのに解決する手段として、またデモ活動をやる。
何がしたいのかさっぱりわかりません。
権利を行使したら、次は解決の手段です。

例えば、岸内閣での日米安保改定に反対を唱える人々が100万人近く国会周辺に集まり抗議活動をやっていましたが、全く何の効果もなく安保は改定されました。
簡単な話しです。権力を行使していないからです。

我々の権力は、投票と言う行動で代理人を決め立法府へ送る事と共に、その代理人に代理人たる仕事をさせる事です。
先の岸内閣での安保改定に反対なら、代理人を突き上げて仕事をさせるか、自ら代理人となって国会の場で改定を阻止する事です。
安保改定後、自由民主党は選挙で大勝しています。安保改定に『是』と言う答えを国民は出したのです。
これこそ民主主義で正しい権力の行使です。

あいつが悪い、国が悪い、政府が悪い、国会議員が悪いと、とにかく悪者を決めて文句を言って己れの溜飲を下げるだけでは何も変わりはしません。
テレビに向かって文句言っていたらいつの間にか世の中良くなって来たとか言う話しを聞いた事はありません。

そんな事をやっている間に権力の使い方を知っている者にあなたの金を取られたりしているのです。
己れの溜飲を下げると言うくだらない事に興じている間にも、あなたの懐に手を入れ、あなたが血を流して稼いだ金を掴み金よろしく奪っているのです。

あなたが何もしないでいれば『安定財源』と宣うてあなたの金を懐からせっせと抜いていくのです。

年明けの国会では年度末で、来年度の予算審議があります。
その予算審議でアホの野党は悪者を見つけては上げへつらい吊るし上げをやって、国民の溜飲を下げると言うだけのくだらない事を繰り返し、サラッと与党の予算案がほぼ満額で通過してしまい、よくよく見ると増税なんて事になっている。

権力を行使する者にとって、バカで従順な消費者こそありがたい存在です。

自己顕示欲や独善に駆られたバカの口車に乗って、ギャーギャー騒いでいる間に不利益を被っても後の祭りです。

例えば、経団連などの連中は『権力』をどう行使したら良いか知っている。
だから、移民も消費増税もやろうとしているのです。
春闘満額回答で溜飲を下げられている間に粛々と増税も移民も決められてしまいます。

賢い消費者でなければならない。

事の本質を見極め、自ら一応の結論を導き出し問題提起をし、仲間を増やして権力を行使しなければ、あなたは懐から金を奪われ続け、拉致被害者は取り返せず、奪われた国土は奪われたまま。
我が国の、我々の資源を他者に盗られ続けても何も出来ず。
ただ空に向かって文句を言う愚民です。















祈りの力

2024-01-30 17:16:00 | 草莽崛起
間もなく、今や『建国記念日』と言われる二月十一日がやって来ます。

ある意味『建国記念日』でも間違いとは言えないのかもわかりませんが正確には『紀元節』です。

我々日本人には大切なオリジナルのカレンダーがあります。
それは西暦より660年も前に紀元を持つオリジナルのカレンダーです。

西暦はキリストが生まれた年を起点としているのに対して、我々の暦は初代神武天皇が大和の地で即位した日を紀元としているのです。

西暦がキリストの誕生であるのに、我々は即位された年であると言う事が日本人の根っこを表しているのと同時に、我々日本人の宗教観、そして神々を表す大切な事柄であるのです。
元旦の能登半島地震を始め、我が国は災害の多い国です。
その荒々しい自然と付き合って生きて来た日本人の根幹は何か?
そこに思いを致す為にも非常に重要な日であるのが『紀元節』です。
このオリジナルカレンダーを『皇紀』と呼ぶ事は賢明な皆さんならご存知のはず。

つまり我々は西暦より660年長い皇紀を持ち、間もなく2684年を迎えようとしているのです。

我々の神々は、西洋の神とは違います。
つまりGODは我々の神々ではありません。
我々の神々はspiritなのです。
だから、神武天皇が誕生した日を紀元とせず即位された日を紀元としているのです。

その神武天皇は神話と地続きの系譜を持ち、神の末裔であっても人です。
現人神とは神々の性質を持った人と言う事です。
そしてその現人神は何をするかと言えば、大御宝である我々日本国民の安寧と幸福を一身に祈る人です。


これを天皇の御本務と言います。
天皇と言う存在は我々が暮らす祖国日本と日本国民の為に四方神々に祈るのです。

この祈りのパワーは絶大なもので、祈ることで『日本』と言う国は2000年を超えて存在しているのです。
一つの王朝がこれほど長く続く国は、我が祖国をおいて他に存在しません。

それ程、祈りのパワーは絶大だと言う証拠です!

そして、天皇だけではなく我々日本人も祈ることで過去から現在まで、この日本と言う国を発展させて来たのです。



『いただきます』と言って手を合わせる事。
『お願い』と言って手を合わせる事。
『ごめんなさい』と言って手を合わせる事。

全て祈りです。

大切な人の無事を祈る。
我が子の成長を祈る。

全て祈りです。

この絶大な祈りのパワーを世界は恐れているのです。

最も恐れたのは、米国であったのかもしれません。
だからこそ、占領統治政策で皇統が途絶える様な政策を押し付け、神道と言うspiritを排除しようとしたのではないでしょうか。

祈りによる、国民と天皇との強い結び付きを引き剥がし、戦後教育で我々日本人から『祈り』を奪ったのです。

祈ることを忘れた日本人は、例えば初詣などの本来の意味を忘れ、更に我々の大切なオリジナルカレンダーも忘れてしまった。
そうなってしまった日本はどうなってしまったか。

親が子を殺し、子が親を殺し、同じ学舎の仲間を自殺に追い込み。
人を蹴落しても自分が得をすれば良いと利己的に生きる。
拝金主義よろしく、金持ちを『勝ち組』と賞賛する始末。

本来、慎ましやかだが他者の為に祈る人を『良い人』と考えて来た日本人はどこに行ってしまったのでしょうか。

先の大戦を見ても『殆どは病気と飢餓で死んだ、犬死にだ』と言う始末。
こんな考えは全く物事の本質が見えていないバカの論理です。
そこには後世への『祈り』があったのです。

戦地から生き延びた人は『食う物が無くなる程酷い状態だから戦争になったのだ。それぐらい物がなかった。戦争しなければ子供達は飢えて死んだ。』と仰る方もいる。

戦後の僅か数十年を生きた程度のアホが不勉強に祖国が何故これ程長きに渡り続いているかなど理解すらしない。
いや、理解する能力すらない。

そんな知能の低い、下品極まりない連中が『祈り』の力など理解できるはずがない。
だから皇統を否定し、皇紀を否定するのです。

仁徳天皇『民の竈』に代表する、我々と天皇と言う御存在との結びつき。

そこには『祈る』と言う行為があるのです。

今般の能登半島地震に被災した日本人に対しても『早く日常を取り戻し、この苦境から立ち直り癒される』ことを一心に祈ること。

政治、経済、安全保障や教育を考える事も大切ではありますが、先ずは我々の祖国と我々民族が何故、世界にも稀な長い歴史を紡いでいるのかを知ることです。

我々日本人が忘れた『祈り』の力を取り戻さねば民族は途絶えてしまうのではないでしょうか?



国民と言う主権者の主たる権利

2023-11-29 17:07:00 | 草莽崛起
さて本年令和5年、西暦2023年、皇紀2683年も終わりを迎え様としています。
本年中の解散も無くなり、選挙はありません。
年始は通常国会にて予算審議があり、その後臨時国会開催で冒頭解散か、或いは岸田下ろしの末に総裁選があり、後に解散か。
政治は生ものですから、どうなるか刮目せねばなりません。

相変わらず若年層の政治離れが問題視されています。投票率の低さは若年層で顕著に現れているのは事実です。
その為に政治の主体が投票率の高い高齢者層に対して偏っていたりして、高齢化する我が国の負担が若年層や現役世代に対して皺寄せされると言う状態を招いています。

若い世代が投票と言う意思表示をしない事には、このスパイラルから脱する事は難しいのです。
投票と言う意思表示が如何に大切かと言う事を表す話しがあります。

ルバング島で終戦後も一人戦い続けた小野田寛郎さんのお話しです。
小野田さんは晩年、知の巨匠渡部昇一教授のインタビューでこう述べています。

『私は帰国して皆さんから、軍国主義だの人殺しだのと罵られました。しかし私が戦争に行ったのは二十歳です。行けと命令されたなら軍人ですから従います。しかし同時二十歳だった私に選挙権はありません。選挙権がある国民が選んだ政治家が戦争を選択し、我々に命令したのです。私は投票していない』

言葉は違いますが、この様な趣旨の話しをされていました。
同時、投票する権利もなかった若者に戦地へ赴けと命令したのは投票する権利のあった者達であると言う事です。

小野田さんのエピソードが、投票と言う意思表示の大切さを物語っているのではないでしょうか?
時は戦前ですし、旧憲法下であった事を考慮してもこれは大切な話しだと思います。

確かに若者が政治に無関心であったとしても、そうそう命の危険があるわけではないのかもしれません。そうであるならば政治に関心も持たず投票に行かなくても良い程に我が国は素晴らしいと言う見方も出来ます。

しかし、先の小野田さんのエピソードにもあるように自分が知らないところで知らない間に様々な事が決まってしまうと言う事態が起きてしまいます。
決まった事に文句を言っても後の祭りです。
そもそも、後の祭りで大騒ぎするのは民主主義の基本にも反します。
だから、皆さましっかりと意思表示をしましょう!と様々な分野の方々が、様々なメディアを通じたりして訴えているわけです。

他方で、この様な意見もあります。
『投票を義務化すれば良い』
と言う様な意見です。

投票を義務化すれば確実に投票率は上がります。間違いなく皆、意思表示をせねばならなくなります。
間違いなく国民の意思は示されるでしょう。

一見、正論にも感じますが...
果たしてどうなんでしょうか?

確かに、投票を義務化し更には投票しなければ罰金を課すと言う国家も存在します。
しかしその様な国家とはどの様な国政をやる国なのでしょうか。


意外と多いとは思いますが。
さてこれらの国では民主主義が完備なのか?と考えます。

そもそも選挙とは予め多数意見を決める民主主義の大切な手続きです。
多数意見を獲得した者が、これに基づき国民の代理人として政(まつりごと)を行うのです。少数意見者の代理人は如何に多数意見に少数意見を盛り込むか。
これが議会であり政治です。

例えば、今般補正予算で政権与党はガソリンのトリガー凍結解除を上げました。
野党である国民民主党はこれに賛成に回りました。
国民民主党は野党ですから少数意見です。
この政党が2年前からトリガー凍結解除を掲げていました。
その少数意見を多数意見が受け入れたのですから『賛成』に回るのは当たり前の話しです。
これを『岸田政権を利する行為だ』と批判する立憲民主党は政治の基本がわかっていないと言えるでしょう。

そして多数意見、少数意見どちらにしてもそれらを選び決めるのが国民たる主権者です。
それが投票行動です。

そして生存権や幸福追求権などの自然権を除けば主権者にとって最も重要な権利であるわけです。

そしてこの『権利』であると言う事が、我が国の民主主義に於いて最も重要な事です。

投票行動を義務化するならば、主権者にとって最も重要な『権利』をお上に渡すと言う事です。
我々の権利は憲法で保証されています。

この投票行動が権利であると言う事が民主主義に於いて最も重要であると考えるからです。

この権利を行使するか否かは、あなたの自由なのです。
誰に投票するかはあなたの自由なのです。

自由主義、民主主義、法の支配は近代国家に於いて最も重要な主義です。

その自由な権利を易々と国家に渡すなど私は大反対です。

例えば、投票を義務化すれば国民は政に関心を持たざるを得ないでしょう。
当然、投票率も上がる。
その事により政治は変わるかもしれません。
しかし、そう仰る方々の前提は何なのか?

恐らくは、今現在の日本である事を前提としているからでしょう。

義務化された時点で、その大前提は崩れてしまうのではないでしょうか。

必ず投票しなければいけないとなると、国民の政治への関心が高まるのか?
恐らくはたいして変わらないでしょう。
関心を持たない国民の投票行動はポピュリズムに走る政治家に人気が集中するでしょう。

誰に入れたらよいかわからない人、或いは関心のない国民は義務だから仕方ないとなり酷い場合は一票を『金』に代える人も出るでしょう。
あからさまに『金』で票を買う候補者も出ることになります。当然です、利害が一致するからです。

また、プーチンや習近平或いはヒトラーやムッソリーニの様な独裁者も出るかもしれません。恐怖や抑圧で有権者を縛り付けても一票は一票です。

はたまた、認知症など患って老人ホームにおられる高齢者の投票はどうするのでしょうか?

意思疎通も図れない方々にも義務を課すならば、どの様に投票行動を取らせるのでしょうか?
誰かが代筆するのでしょうか?代筆者が勝手に候補者の名前を書き込めばどうなるでしょう。
また、その様な高齢者を投票から排除するならば、これは国家による『選別』で人権侵害極まりない民主主義の冒涜です。

この投票行動が『権利』であると言う事が重要な事だと少し考えれば理解できるはずです。

認知症を患っておられる高齢者も、体にハンデキャップがあり実際の投票行動が中々に難しい方々も選別や排除をしない。
これが『権利』である事の重要性です。

投票したいと思う候補者がおらず棄権する事も『権利』です。

多数意見に従うと白紙委任を選択する事も『権利』です。

この人なら!と一票投じることも全て憲法に保証された、あなたの権利です。

その権利を自ら放棄するのでしょうか?

投票率が上がれば、確かに国は変わるでしょう。

平成21年(2009年)、衆議院選挙にて近年にはない投票率69.28%と言う高い投票率でした。
民主党政権誕生の時です。

確かに政権交代が起き、国は変わりました。
悪夢の3年3か月の始まりです。
その政権時に起きたのが、東日本大震災です。
自民党にお灸を据えるとポピュリズムに走った国民の選択は悪夢の始まりでした。

義務化すれば国民の政治への関心が高まるのか?殆ど影響はないでしょう。

いい歳した人間が、親の収入や年金をアテにして『働いたら負け』とばかりに一切勤労する事なく、ニート等と横文字で呼ばれるアホがいますが、労働が義務付けられているのに働いて収入を得ると言う事に関心はありません。

ならば義務化したところで政治への関心が高まる等と言うのは幻想ではないでしょうか。

むしろ投票が義務化され、罰則まで設けられたなら、とにかく投票行動を取らせる国民は誰かに1票を投じなければならなくなります。
そうなれば誰に投票すれば良いかわかりません。そこを突いてどうしようもないアホで無能だが知名度は高く、投票迷子の人々の票が取れる人間を候補者に立てるでしょう。

そんな無能が議会に行けば、益々政治は混迷を極めます。

そんな状態が続いていけば、国民は投票には行くが『白票』を投じる事になる。
もうカオス状態です。

そして遂には投票そのものを忌避する様になり、誰か代表で投票すればよい等と考え出すでしょう。
そうなれば、最早民主主義は瓦解します。
独裁を目論む連中の思う壺。
外国勢力が我が国の政治に入り放題。
沖縄知事選挙を見れば理解出来るでしょう。

また『権利』であるが故に、その裏表として責任の所在も示しているのです。
政治の最終的な責任者は主権者たる国民です。

自らの自由な意思で決める事が出来るのが『権利』であり、意思表明として『行使』しているのです。だから最終責任者でもある。
間違った選択をしたなら、その責任者として自由な意思により修正する。

重い税や社会保障費、儘ならぬ政府の経済政策に耐えて、日本国民として義務を果たして日々皆苦しみ生きています。

その中で、これ以上生殺与奪の権利を国にくれてやるつもりは毛頭ありません。

それほどに『投票』の『権利』は重要なのです。

生殺与奪権を他人に預けない!委ねない!他者に奪われない為にしっかりと自らの権利を行使する事で、課せられた義務を果たす。

義務と権利の当たり前の見方です。

義務を果たしたから権利が与えられるのではありません。

我々は義務を果たす為に権利を行使しているのです!

人類の長い歩みの中で、我々は自ら『権利』を獲得したのです。

さあ我々の権利を行使して、代理人に国民の為に働け!お前は国民に対して職責としての義務を果たせと迫ろうではありませんか!








戦争を選択する世界の常識

2023-09-11 13:06:00 | 草莽崛起
前回のこの地味ブログでも問題提起しましたが、国際紛争を解決する手段として戦争を選択する事に何らの問題はありません。
むしろ戦争を選択肢から除外する事の危険性についても問題提起したつもりです。

世界を見渡せば、戦争を選択する国が沢山あります。
それは抵抗もせず白旗を上げる事の危険性をよく知っているからです。

我々日本人もよく知る、チベットやウイグルの悲劇を見れば明らかではあります。

我が国も対米戦争に敗北し、占領政策を受けて来ました。
米国による占領政策では、日本人が長らく大切にして来た文化や伝統を蔑ろにする酷い占領政策であったにも関わらず、現代日本人はその事をあまり考えなくなりました。

何より、いずれ皇統が先細る事を考え沢山あった宮家を廃止させたのですから。
しかし現代日本人はそんな事を知りません。

また宮中祭祀や暦、伝統に根差した祝祭日の名称まで変えさせたのです。

それでも國體は断絶する事なく、我々は占領されたにもかかわらずアメリカ人にはなっていません、我々は今も日本人です。

それは米国による日本の占領政策が世界の基準とは違ったからです。
東西冷戦を考えれば容易に理解できるでしょう。
世界は民主主義と非民主主義との対立にすぐさま以降した事もあり、米国としても日本の独立や対共産主義の最前線としての日本が必要であった事もあります。

『米国の占領政策は稀に見る優しいものであった』と言う人もいます。
確かにそうであったかもしれません。

戦前の白人による植民地・占領政策と言えば、それは酷いものです。
被占領国民に人権などなく、まともな教育はなく優秀な若者は将来自分達に刃向かわぬ様に、手首を切り落としたり、幽閉したりと凄まじいものでした。

現在のチベットでも、人権無視の政策を受けており、ウィグル等でもウイグル人は臓器を抜かれたり酷いものです。

占領政策とはそれ程に凄まじいものなのです。

例えば、ポーランドやフィンランドなどもその歴史を見れば常に『戦争』を選択して来ました。

ポーランドもドイツやソ連に侵略を受け続ける歴史であったわけです。
それでも、ソ連に対して『戦争』と言う手段を選択して来ました。
それは何故かと考えれば、ポーランド人はこう言うのです。

『占領政策の酷さを考えれば、戦争する方が随分と良い』

世界の真実がこの言葉から理解できます。

凄まじいまでの占領政策に比べれば、戦争を選択して国民に犠牲者が出る方がマシだと言う事です。
だから負けても負けても戦争を選択するのです。徹底的に抵抗するのです。
負けて占領されても、国家民族としての火を絶やさなければ必ずや再起出来るからです。

ポーランドにしてもフィンランドにしても戦争には弱い。
フィンランドなど先の大戦では、枢軸国側として敗戦しています。
しかし、戦争に強くないからこそ負けた時どうするべきかをよく心得ているのです。
ですから、敗戦後は自分達で敗戦の裁判をサッサとやってしまい、当時の戦争主導者を自分達でサッと裁いてしまいました。
だから我々が受けた『東京裁判』やドイツに対する『ニュルンベルク裁判』の様な仕返しを受けていません。

それは後の占領政策が酷いと知っているからです。

我々、日本人が受けた占領政策は世界的に見ても珍しいのです。
その珍しい占領政策が世界の占領政策だと間違った思い込みをしているのです。

本来の占領政策は『自決権』を奪われ、人権もなく、民族は浄化されてしまうのです。
とは言え、我々もジワジワと首を絞められる占領政策を受けてはいます。
だからこそ現在の皇統に対して女系だ男系だと、訳のわからない話しが出て来ていたりするのですが...

ともかく、たった7年の占領政策、沖縄にしても平和裏に返還された事は非常に珍しい事ですが、それには沢山の日本人が後の日本の為に血を流したからである事は理解出来るはずです。
先述の通り、占領政策よりマシな戦争と言う選択を考えれば僅か7年で占領を解くほか米国に選択はなかったのではないかと思います。

そしてよく考えておかなければならない事は、何も米国の占領政策が優しかった等と言う話しではなく広島・長崎に落とした原爆以上に酷い占領など存在しないと言うだけの話しであって、何も優しい訳ではなく、東京裁判で石原莞爾が証言した通りに戦後僅かの時間で米国自身が自らの振る舞いに苦しみ出したと言うだけの話しです。

世界の占領政策や植民地支配とはそれ程凄まじいものだと、現代日本人の我々が全く理解出来ていないと言う現実。

何故、ウクライナがアレ程の抵抗をするのかと言うのはポーランドやフィンランドが言う様に『占領政策』より『戦争』の方がマシだと知っているからです。

かつてウクライナはソ連の政策により、数百万人の餓死者を出すと言う経験をしているのですから当然と言えば当然です。

台湾にしても、世界の歴史を知っているのですから今現在最も効果的であろう手段で、支那からの侵略に抵抗するのは辺り前です。

我が国も、例えば沖縄県など支那から侵略されたなら漏れなく凄まじい占領政策を受ける事は間違いありません。
殺すより殺されようとか、酒飲んで話し合うなんて言う生優しい話しではありません。

それが同じ民族同士でも虐殺し、鍋で人肉を煮て食う連中なのですから。

国際紛争を解決する手段として戦争を選択肢から除外することの危険性について、我々日本人は真剣に考えなければならない時代にフェーズが変わった!

その様に理解すべきです。