犬神スケキヨ~さざれ石

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不死身と呼ばれた男

2015-08-22 00:00:28 | 草莽崛起
またもや古事記の続きは次回にしまして。

敗戦後70年を迎えて是非に紹介したい方を今回は取り上げます。

まぁ、知る人ぞ知る有名な方ですから。
ご存知の方もおられるでしょうが、今回敢えて取り上げたいと思います。

日本人とは元来、争いを好みません。
しかし、イザとなると世界的も類い稀なる戦闘力を発揮するのです。

大義の為には命を懸けて愛する者を守る。

これが日本人です。

そして、その時!この世界でも最強の戦闘力を発揮する戦闘民族なのです。

その戦闘民族としての戦闘力と日本人の誠を示した心優しき武人。

あなたの中に流れる日本人の血が騒ぎますよ。

鍛え上げた武人

生きている英霊
不死身の分隊長

こう呼ばれた男。

その人の名前は船坂弘

大正9年(1920)10月30日生まれ。

栃木県上都賀郡西方村出身です。現在の栃木市になります。

農家の三男として生まれました。
幼い頃から聞かん坊で、いわゆるガキ大将でした。小学校、尋常小学校を終えて、公民学校を卒業しました。それに満足できなかったのか、早稲田中学の講義録を基に独学で勉強するという根性を見せました。

その甲斐あって、専門学校入学者試験に見事合格。1939年満蒙学校専門部に入学し3年間学習を続けました。

1941年3月、宇都宮第36部隊に現役入隊。
直後に満州に渡りチチハル第219部隊に配属されました。
この部隊は宇都宮歩兵第59連隊を主体とした部隊で、仮想敵国であったソ連軍侵入に備えて、ノモンハン、アルシャン、ノンジャン、ハイラル一帯の国境警備をしていました。

また武道の達人でもあり、剣道、居合、銃剣道に射撃の名人でもありました。

除隊目前に

昭和19年3月、除隊目前の23歳の時に船坂弘は宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオペリリュー島南西のアンガウル島に着任します。
米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとしました。昭和19年9月11日遂に米軍来襲。

開戦から5日の間、米軍は爆撃機で島を絨毯爆撃を行いました。
次に戦艦より、島の形が変わる程の艦砲射撃を行いました。
9月17日米国陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西から上陸しました。

この時、島の守備隊は僅か1400名の中隊程度でした。

小さく平たい島でしたので、日本陸軍得意の誘い込んで一気に殲滅する作戦が出来ません。
その為に日本軍は当初、上陸する米軍を水際で迎え撃つ作戦を取ります。

この時、船坂軍曹は擲弾筒や臼砲などで200人以上を殺傷します。
しかし、兵力差は明白。
装備も劣る日本軍は押されていきます。

水際作戦で中隊が壊滅していく中で、船坂軍曹は筒身が真っ赤に焼ける程に擲弾筒を撃ちまくります。
そうすることで米軍を足止めし、退却する仲間を守っていたのです。

日本軍は残存兵力を島の北西に集結させて、洞窟を使ってゲリラ戦に持ち込みます。

不死身伝説の始まり

戦闘3日目、米軍の砲撃により大腿部を裂かれるという瀕死の重傷を負います。
敵陣ど真ん中、助け様にも助けられない。
押しつ押されつの戦闘の中に瀕死の重傷で数時間放置されます。

銃火の中に数時間放置され、ようやく軍医が船坂軍曹の元にやって来ました。

傷を見た軍医は、あまりの重傷加減に「もはやこれまで」と船坂軍曹に自決の為の手榴弾を渡し去ってしまいました。
これは死の宣告です。

しかし、この武人はただでは済まさぬ。

近くにあった日章旗を包帯代わりに足を縛り、夜通し這って洞窟の陣地へたどり着きます。
もう、どう見ても死人が這っている様にしか見えません。まるでゾンビです。

しかしこの船坂弘という人は並みの体力気力ではなかったようです。
医者も見放す重傷を負い、死人の様に這っていたのに翌日には足を引きずりながら歩きまわっていたと言うから驚きです。

船坂軍曹はその後も度々、瀕死の重傷を負いながらも、何故か不思議と翌日には回復してしまいました。
正にサイボーグか人造人間か!
本人は「生まれつき回復が早いんだ」と笑っていたと言うからこれ又驚きです。

絶望的な状況にあっても、自身が重傷を負うとも、それをものともせず戦い続けます。
何が彼をそうさせたのか?

ある日は拳銃三連射で米兵3人を倒す。

ある日には、米兵から奪い取ったマシンガンで3人の米兵を倒し、左足と両腕負傷の状態で更に銃剣で1人を刺殺。
更にその銃剣を投げつけ喉元に命中させ突き殺す!

正に鬼神!恐ろし戦闘力です。

いよいよ最後か…

しかし、水も食料もない。
装備も不十分な戦いです。

洞窟の中では自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声でさながら生き地獄の様相です。
船坂軍曹自身も銃弾が腹部を貫通し、最早這う事しか出来ない。

更に、その傷が化膿し膿が溜まり蝿がたかりウジが湧きました。

最早これまで「ウジに食われて死ねるか」と自決を覚悟します。

この瀕死の状況で船坂軍曹は遺書を書く。

若年シテ死スハ、孝ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇士ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

「若年で死ぬのは、親孝行出来ず残念です。靖国に参り御両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇士に敵を近ずけまいと奮戦いたしましたが、既に満身創痍となってしまいました。天命を待たず、敵前にして戦死すのは悔しいけれども、既に数百の敵を倒しました。自分は満足しています。七度生まれ変わるとも、国難を救いたいと念願し今従容として自決します。思い残す事はありません。」

そして船坂軍曹は自決します。
手にした手榴弾を引き抜きました。

ところが手榴弾は爆発しない。
不発でした。
死ぬる場にても死せず、何故死なせてくれぬのか?
船坂軍曹はこの時、深い絶望感に打ちひしがれます。

突撃

数時間、茫然自失となっていました。
そして我に帰り「どうせ死ぬなら敵将に一矢報いてやる」
米軍司令部への単独切り込みを決意します。

そして拳銃から火薬を抜き出し、腹部の傷に流し込む。そして火を付けた。
貫通創ですから腹の前から背部に向けて炎が吹き抜けます。
しかしあまりの激痛に失神。
半日程死線を彷徨います。

意識を取り戻すと、まだ傷が痛む中で手榴弾6発を体に括り拳銃1丁を持って洞窟から這い出ます。

総勢一万人の駐屯する米軍の真っ只中を、数夜這い続けました。
米軍前哨基地を突破し、指揮所も突破してしまいました。
4日目には米軍司令部指揮所テントまで後20mまでたどり着きました。

しばらくすると続々と指揮官達が集まりました。

右手に手榴弾を握りしめ、左手に拳銃を持ち全力を振り絞って立ち上がりました。

突然茂みから姿をあらわす異様な日本兵!
全身血まみれ、ボロボロで丸でゾンビの様な姿に米兵もしばし呆然。

この時の船坂軍曹は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創ニ箇所、頭部撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部貫通銃創など24箇所の重傷。
更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいました。

人間にすら見えません。

動揺する米兵を尻目に船坂軍曹は突進します。
しかし、指揮所テントに到達する直前、首を撃たれて昏倒してしまいます。

全身血まみれで首まで撃たれました。
駆けつけた米軍軍医もさすがに死亡と判断しました。
船坂軍曹は野戦病院へ運ばれました。

船坂を眺める米兵達に向かい軍医は「これが日本のハラキリだ!日本のサムライだけが出来る勇敢な死に方だ!」と言ったそうです。

死体置き場に3日間転がされていた船坂軍曹は、そこで息を吹き返します。
死体の山からむっくりと起き上がる船坂軍曹。
完全にゾンビです。
死体の山から起き上がる日本兵に米兵は凍り付きました。
とっさに船坂軍曹に向かい銃を向ける米兵。

その銃に向かって歩く船坂軍曹。
銃口を自分に押し付け「撃て!殺せ!」と怒鳴ります。

不死身の日本兵は瞬く間に米兵の間で噂となり伝説化しました。
船坂軍曹の無謀さに日本兵に対する恐怖心を抱きながらも、その勇気を称え勇敢なる兵士という名を米軍は船坂に贈りました。

米軍の治療で歩けるまでに回復した船坂軍曹はペリリュー島に送られます。
しかし、其処に居並ぶ米軍飛行機を見て「よし!いずれアレを全て破壊してやる!」と決心します。

ペリリュー島に送られ2日目。
重傷者の監視が甘い事を幸いに夜陰に紛れて収容所を抜け出し、約1kmを匍匐前進。
途中日本兵の死体の弾丸入れから弾丸を集め火薬を抜き取り導火線にして米軍火薬庫に火を付けた。
すると大爆発を起こし、次々に延焼し別の棟から別の棟へと大爆発。
ペリリュー島の米軍火薬庫を全て破壊。
米軍は犯人不明で事件を迷宮入りさせています。

船坂軍曹は爆発を見届けるとまたコッソリと何食わぬ顔で収容所に戻っています。

衰えぬ闘志

収容3日目。

その夜、今度は歩哨を殺し銃を奪います。
夜陰に紛れて歩哨に近づき後5mと言うところでいきなりタックルを食らいます。

抵抗しましたが、アッという間にグルグル巻きにされて柱にくくりつけられてしまいました。
米兵は船坂に銃を向けた。
「これで死ねる、楽になる」と思った。

しかしたどたどしい日本語が聞こえて来ました。

「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヌコトハ罪デス。」日本語を話すその米兵は船坂軍曹をそのままに出て行ってしまいました。

翌日、解かれた船坂軍曹はまたもや飛行場破壊を画策します。
炊事係の朝鮮人を煙草で釣りマッチを手に入れました。
数日間マッチを貯めたある日、あの日本語を話す米兵がジープで出て行った。
歩哨にそれとなく聞くと明日まで帰らない。

その夜、チャンスとばかりに船坂軍曹は密かに抜け出し匍匐前進で飛行場へ向かいます。

後少し!というところで、あの米兵が銃を向けている。
「殺せ!」と言う船坂に米兵は言いました。

「あなたが歩哨に私の日程を聞いていたと連絡があった。あなたは何か計画しているだろうと、ならば今夜だと思い戻って来た」

そして以前、脱走しようとして射殺された日本兵の話をして「無事で良かった」と。

船坂の無謀な行動を諌め「生きろ」と説くのでした。

船坂軍曹ら捕虜がハワイへ送られる事になりました。いよいよ船艇がペリリュー島を離れようとした時、あの米兵がやって来て「生きて日本に帰りなさい」と言って船坂に名刺を渡しました。

そして各地の収容所を転々として昭和21年に帰国しました。

船坂軍曹は名刺をポケットに入れたのだけれど、次の収容所で取り上げられてしまいました。

船坂軍曹は栃木の実家に帰りました。
しかし、アンガウル守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日。
実家には船坂弘戦死公報が届いており、実家は戦死したと思っていました。

ボロボロの軍服で帰還した船坂軍曹を見た人々は幽霊が出た!と噂し、暫くは物の怪扱いを受けました。

故郷に帰った船坂軍曹が最初にやったのは自らの墓碑を引き抜く事でした。

新たなる人生

戦後、焼け野原となった東京、渋谷で書店を開きます。これが後の「本のデパート大盛書店」に発展。

書店経営の傍ら「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」や「硫黄島・ああ!栗林兵団」などの本を出しています。

剣道を通じ親交のあった三島由紀夫に愛刀「関の孫六」を贈っています。
この刀は後に三島由紀夫割腹の際に介錯をした刀です。

ペリリューで助けられたあの米兵とも連絡がとれ、生涯の友になっています。

他にアンガウル島に鎮魂碑を建立し、著書を出してはその印税を各地の元戦地にて慰霊碑建立に投じています。

アンガウル島慰霊碑には碑文が記されています。

尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます

かつて鬼神の如き闘志を見せ、圧倒的戦闘力で敵を次々に倒し。
瀕死の淵から蘇る不死身の男船坂弘軍曹

戦後、自らの私財を投じ慰霊と遺骨収集に人生を捧げる心優しい船坂弘軍曹

日本人とは、日本の男とは…

こういう人間が、かつての日本には居たのです。


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