マックの”なんでもあり”

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「学童集団疎開の思い出」

2023-08-05 10:57:54 | 日記

2023年8月5日(土) 晴れ

 

きょうも良い天気です

外出される方は熱中症対策をして、お出かけください

冷たい水1 Lと、塩分の入った飴があれば十分でしょう

但し、日向を歩くのは避けて、出来るだけ日陰を歩いてください

私はその上に帽子、長袖は軽いポリエステル系の上着を着ていれば

安全かと思います

疲労を感じたら、身体に熱がこもって体温が上がる前に日陰に入って

休みましょう 腰を下ろして休むのが回復には良いと思います

1つしかない命は大事にしたいものです

テレビにはきょうも【熱中症警戒アラート】が出ています

気をつけましょう

ところで~

あす6日は広島に原子爆弾が投下されて、14万人もの命が奪われました

続いて9日には長崎にも投下され、ここでは7万人もの命が奪われました

その時、私は小学校からの集団疎開で岡山県赤磐郡というところに

いました。 まだ小学校2年生でしたから、原爆のすさまじい破壊力などは

知る由もなかったのですが、こんな平和な時期にそれを知ったのも

悲しいことでした

当時、住んでいた神戸市では小学5年生になったら、集団疎開を推奨して

いたのですが、戦火が酷くなる度に4年生も、3年生も、と低学年まで

疎開する学年が低くなり、3月17日の夜にB29という爆撃機が神戸市内を

大空襲し、神戸市内の西半分が焦土と化しました

その後に神戸市では小学2年生までを集団疎開の対象にしたため

私ら2年生約30名が岡山県の農村部へ低学年では初めて疎開をしたの

でした

小学2年生と言えば、まだ親の傍に居たいときでしたから、親から離れて

遠い地で生活するのは慣れていなくて、夜になると布団の中で女の子が泣い

ている声を良く聞きました

そんな生活をしているとき、小学校から来た校長先生がきょうは大事な話

があるから、みなさん静かに聞いてください とのこと

ここで初めて、「戦争が終わったので、いつになるかまだわからないが

みなさんを家族のいる神戸に返します」の話で戦争が終わったことをしりま

した

みんなはすぐにでも親と一緒に暮らせると思い、大いに喜んだのですが

実際に親もとに帰れたのは、焼け野原になった神戸の街が整備されきれいに

なりかけた11月の初めでした

校長先生から帰れると聞いてから長い長い3ヶ月後でした

集団疎開の話を聞いたのは神戸大空襲からそう時間が経ってなかったと思う

のですが、みんなは親と一緒に行くと思っていたらしく

出発当日は小学校に集合して、最寄りの国鉄須磨駅までは住民のみなさんに

拍手で見送りをしてもらって、親と手を繋いで行進をしました

駅ではピカピカの蒸気機関車が停まっていて、我先に乗り込んだものでした

一緒に行く先生が汽車の中で食べて・・・と紙袋に入ったお菓子が配られて

喜び勇んだものでしたが

後になって親が一緒に乗っていないことに気づき、みんなが親は何で居ない

のかと問い詰めたが、先生はまだ姫路駅でもたくさんの人が乗って来るので

いっぱいになるから親たちはたぶん、後からの汽車で来ると思う

という話で一軒は落着したが、親たちは最後まで来なかった

親のいない辛い生活は5月に行って11月に帰るまでの半年間続きましたが

待望の帰る日がきました

国鉄須磨駅に着くと、親が迎えにが来ているだろうと~やっぱりうれしくて

車窓から探したものですが、大勢の人で見つけることはできなかった

列車から降りて、改札口を出たところで親に会えてうれしく涙がこぼれたこ

とは覚えています

それから、また列を作って小学校まで行進、みんな「がんばったねぇ」と

拍手で迎えてくれました

疎開で寝起きを共にしたものは今でもよく覚えていて、会ったらその時の話

に花が咲きます。

 

小学2年生で行った集団疎開の思い出は、辛かった戦争の思い出と共に

今も私の心のどこかに、大事にしまってあります。

 

 

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