マックの”なんでもあり”

山歩きます。旅します。花育てます。うどん打ちます。

「一人暮らし と、その日暮らし」

2023-12-28 15:36:21 | 日記

2023年12月28日(木) 晴れ

先日、М-1の大会がありましたねぇ

最近は漫才も捨てたもんではないと、人気が上がっているようです

そんな中で、一組のネタの中で、アンケートに答えてください・・・との話の中で

お宅は「【一人暮らし】ですか? それとも【その日暮らし】ですか?」

いやぁ~さすが漫才ですねぇ

【一人暮らし】ですか? 【二人暮らし】ですか? ならおかしくも何でもないところ

【その日暮らし】を出すところは、さすがの漫才師です

いやね~

実は私も3ヶ月前から【一人暮らし】なんですよ

日ごろは何も感じなかったのですが、【一人暮らし】ってホントに不便ですねぇ

いつも傍に居て何かと世話をしてくれる家内がいないだけで

こんなにも不便なんかと、つくづく感じている私がここに居るんです

いやぁ~家内のありがた味が良く良くわかりました

退院してきたら、恩返しをしようか・・・とまで感じるに至りました

細かいことまでは書きませんが、困ることは大でした

という、きょうも実は【一人暮らし】なんですよ

実例を1つ~

朝起きると、自分の食事を早速作ります

食事が終わると、家内のいる病院までひとっ走り、ベッドの横にある棚を開けて

洗濯物を出す、前日のリハビリや風呂に入っての着替えがぎっしり・・・

廃品回収業のおっちゃんがやる仕草とそう変わらない格好で持参の袋に詰め込む

その後、空いた棚に持ってきた洗濯済の着替えを棚にきれいに並べて・・・

「きょうは元気そうやな」と、奥さんの機嫌をとる

その後、病院の看護師さんに「いつもお世話になってありがとうございます」

リハビリをしてくれている理学療法士さんにも「いつもありがとうございます」

一通りの挨拶を済ませて、またわが家へ帰り、今度は持ち帰った洗濯物の洗濯を始めます

最近は洗濯機も大きくなったが、洗剤もたくさん必要ですねぇ

先日、買ってきた洗剤がもうなくなってしまった 薬局までまた走る

洗剤を買っても一週間も使えない、そんな計算が出来なくて、一人悩んでいます

あすは洗濯物のほかに、ティッシュペーパー5箱1組(銘柄も指定)を買って持参します

身体も神経も疲れます ブログに投稿するのも疲れました

きょうは、これで終りにします。  ごめん・・・。

あすは山歩きでも行くとするか・・・

 

 

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「2023 KOBE 六甲全山縦走大会」

2023-12-16 15:19:20 | 日記

2023年12月16日(土) 曇りのち雨

みなさん~こんにちは

12月になりましたねぇ

例年なら、タイトルの大会が11月23日と12月第2日曜日に開催される予定でしたが

今年から開催要項が変更になり、今年度は11月12日(日)に開催されました

今年度に変更になったことは、今まで年開催日を2日に分けて行われていたのが、

11月12日の1日だけになり、従来の神戸⇒宝塚(通称56km)コースと

神戸(須磨浦公園)⇒新神戸までの「半縦走」コースの2コースの挑戦ができるように

なりました

まぁ、「半縦走」コースでは初心者の方の挑戦が見込まれるコースでいいのではないかと

思います

私が全山縦走大会に初めて挑戦したのは昭和51年、39歳の時でした

その時はスタートが今のJR塩屋駅から宝塚は今の阪急・宝塚駅から西へ約1kmの山中にある

塩尾寺(えんぺいじ)でした

長い月日の中、混雑を避けるためにいろいろと考えられたのでしょう

当時にもらった資料では、距離は56km、コースタイムは19時間45分だったと思います

朝の5時に神戸をスタート、宝塚に着いたのが午後8時30分と記憶しているので

所要時間は15時間30分とコースタイムよりは早く着けたと思っています

まぁ、それでもクタクタに疲れましたねぇ

最初の難関、栂尾山に登る通称400段階段では早くも足がケイレンしてダウン

須磨アルプスでは南から吹き付ける突風で身体がフラツキ、あわや滑落かと思えるくらいに

揺さぶられた経験をしました

急登で苦しんだのは、何と言っても菊水山、鍋蓋山、摩耶山の天狗坂でした

摩耶山を征服し六甲山最高峰に立ったころには余裕さえ感じたものでした

この頂上を越えれば、あとは宝塚までは下り坂が待っていてくれます

最終のチェックポイントである六甲山の東向き分岐を通過すれば、その後は時間制限もなく

宝塚のゴールまでは時間を気にせずに歩けます

岩倉山から宝塚の街の明かりを見た時は、もう余裕すら感じたものでした

最終のゴールである塩尾寺に着いた時にはみんなでゴール出来たことを喜んだものでした

ゴールの証には「完走症」と「完走盾」をもらい、みんなニコニコ顔だったのを覚えて

います

その後は連絡斑として、参加者と同行が数回、山友さんとも1回全山縦走を経験しました

まぁ、何度歩いても「疲れた、疲れた」を連発してましたねぇ

さてさて、85歳になった今、果たして全山縦走はできるのでしょうか

たぶん、鍋蓋山を越えた頃にはギブアップして、新神戸に下りてくるのではないでしょうか

このあたりで、元気なころを思い出すのが、ベストだと信じて

きょうの投稿を終わりにしたいと思っています。

くだらない日記に目を通していただき・・・ありがとうございました

吹田市にお住いの K・Oさん「時間は光の如く」ですねぇ

 

アンテナの見えるところが最高峰です

 

 

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「時間は光の如く」

2023-12-07 09:37:48 | 日記

2023年12月7日(木) 晴れ

みなさん、おはようございます

とうとう、1年の〆くくり・・・12月になりました

1年って、早いですねぇ

そう感じるのは、私だけでしょうか?

時間は皆さんが平等に使えるものですから、不公平と思っている方はいないと思いますが

私にとってのこの1年は電光石火の如く過ぎ去っていきました

(すみません ここから以下の文字が小さくなりました 修正が効きません 悪しからずです)

それが幸せだったのか、そうでなかったのかは別問題ですから

一瞬にして過ぎて言った方、自然薯のようにナガーク感じた方、これは千差万別でしょう

このブログ投稿にしても、前回のキャンプ情報が11月10日だったと思いますので

それからでも、間もなく1ヶ月が経とうとしています

長女夫婦がいる娘から、わが家も82歳、78歳になったのだから

そろそろ老々介護に入る、こまごまの世話ならできるから近くに来ないか~との誘いを受けて

ここ伊丹市に移ってから、もう3年がきます

移った当時は、前住居で断捨離をしてきたものですから、こちらに来て継続するものは何もなく

全くすることなしの毎日でしたが、この3年のうちに、また前生活のように忙しくなってきました

まぁ、これは私がそうしたのだと思っているので、責める人は誰もいないのですがね

現在は地元自治会に入れてもらって~将来に必ずやってくる「南海トラフ巨大地震」のための

自治会員の避難訓練や津波の怖さなどの興話、体調を崩して改善に赴くための医療機関への訪問

趣味の山歩きにも行きたい、畑仕事も手放せない(今は大根と玉ねぎが畑の留守番を)

新しく増えた行先は、最近家内が体調を崩して入院しているので、面会に行っては寝間着などの着替えを

持ち帰り、洗濯をして翌朝には病院へ届けると言う洗濯屋さん並みの動きをしています

もうこれで私の予定表は埋まってしまいます

時間の経つのが惜しい・・・ってわかってもらえますよねぇ

まぁ、考えてみれば私が勝手に仕事?を取ってきて、自分勝手に忙しい忙しいといっているのですから

他人さんから見れば、「それは自分の勝手でしょう?」ということになりますかねぇ

まぁ、それでも家では自分の食べるものを調達して、ご飯を作り、食べ、そして洗い物も自分でやる

今まで山でやってきたものを、今度はそれを住まいでやるとは・・・これは想像外でした

「男は外で仕事をして稼ぎ、女は家事をして家庭を守る」と思っていたのでは・・もう古い考えなんでしょう

家事一式を考えてみても、昔は米を研ぎ、薪を取ってきて、カマドに火を入れて炊いたものですが

今ではレンジに入れて「通称・チン」すれば終わりですから・・・これは時代の進歩ですねぇ

山の生活でも、昔は山へ行くと落ち葉や枯れ木を拾い集めて、それで飯盒に入れた米を炊いたものですが

今では、ボンベとバーナーで熱湯を作れば、あとはそれを「白飯」と書かれた袋に注いで10分待てば

白いご飯が即席で出来上がります 上にかけるカレーも熱湯を袋に注ぐだけでOK

昔やっていた、ジャガイモを洗って1/4に切る、玉ねぎも小さく切る、なんていうのは

ホントに昔話になってしまいました

いやいや~これが家庭にも侵入してきたので、今は「ありがたいこと」だと思っています

山歩きに際、昼のご飯は「若い者」が作るのだと責任を感じていたのですが

その頃から、「何でも失敗せんと覚えられん」という先輩がいて、「優しい人やなぁ」と思ったものでした

私の山歩きは、確か4歳のころだと思っています

戦争が始まったのが小学2年生の時に学童の集団疎開が始まりました

疎開先は岡山県の田舎村でしたから、もう少し西に行っていたら、あの原子爆弾に会ってたかもしれません

集団疎開の思い出と言えば、僅か8歳で親元を離れ、自らの知恵ではもう帰れないところへ行ってしまう

なんて、それは寂しいことでした

約30名ほどの疎開者の半分は女性でしたから、昼は学校とか農園に行っては特産の桃などをもらって

生活していたのですが、夜になると親がいない、それはきっと寂しいのだろう

布団の中で我慢していても、一人が泣くとみんながそれにつられて泣き出すんですよ

まぁ、1時間ぐらいはみんなの「鳴き声の合唱」でしたねぇ

付き添ってきた2人の先生も「私も泣きたい」気持ちだったと思います

私の疎開の印象は、今思うのに~疎開に行く日は

小学校から最寄りの駅(今のJR須磨駅)までは朝から疎開者の家族、親戚、近所の方などが

1列に並んで、私も校長先生をはじめ付き添ってくれる先生方の後に並んで、みなさんの拍手の中を

約30分ほど堂々の行進をしたことでした

この時の私は、丸で英雄だったような気がしました

この行進は、戦争が終わって帰ってきたときも、以前と同じ街道に並んだ方から盛大な拍手をもらって

今度は逆に駅から小学校まで行進したのを覚えています

あぁ・・・・・どこまで行っても終わらない   きょうはこの辺で終りにします

きょうも、思い付きの文で失礼します

どうしているのかと思っている心配してくださるみなさん・・・私は元気に過ごしています

体力は・・・「やや」ですが、気力は「十分」です  ありがとう。

※ 私の能力では、どうしても文字が復元しなかった

お許しください もう85歳を生きているんです。

 

 

 

 

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