ヒーローものやバトルものなど、非日常的世界が含まれる世界観を形作るに置いて問題となる点がある。
どのような状況が外部に置かれるか。言い換えるならば、どのような非日常が日常の中に入り込めるか、である。
なお、この問題において、多くのアメコミヒーローはまず除外される。
DC然り、MARVEL然り、アメコミにおいては世界観の共有からなる作中世界での文化的な「ヒーロー(あるいは、ヴィラン)」があまりにも根強く、非日常と日常の差異が明確ではないのである。
そのため、本稿における問題が世界観的に考察不可能になるのである。
(なお、和製ヒーローにおいてもアメコミチックを目指したものがあるが、それらの多くは積み重ねられた歴史がまだ少なく、根底の文化からして微妙に違うため、こちらは考察可能であろう)
さて、実際のところは難しいものではない。
卓袱台を挟んで宇宙人がお話しする状況をどれだけ自然に、面白く描けるかである。
注目するのは、この「自然」と「面白く描けるか」である。
例に挙げておいてなんだが、そもそも「ウルトラセブン」におけるメトロン星人との卓袱台シーンは面白いが自然ではない。だからこその違和感が彼の不気味さと策略の恐怖を演出しているのである。
しかし、これが裏返ればまた違う。「狙われない街」が良い例だろう。日常に馴染んだ非日常は、その違和感がなんとも面白く笑えてしまう。それが過ぎれば、彼らが我々の当たり前の日常に存在することに違和感さえ感じなくなる。この感覚は実に興味深い。
これらは作品全体の雰囲気にも影響を与える。どこかのどかになったりし、非日常が人間味を帯びて親近感が沸くようになる。そのため、ヒーローとヴィランの戦いはトムとジェリー的なものに変わっていくのだ。
この状態に持っていく場合、クリアせねばならない条件はヴィランの扱いである。
まず、ヴィランがヴィランたるには、それなりに脅威であり、悪いことをしようとしている必要があるだろう。そのうえで、民衆が被害をさしたるものと考えない、そもそも被害を与える目的がない、という状況が必要になる。
これをクリアしてこそ、日常の中の非日常は笑いをもって受け入れられるのである。
縁側に座る怪人とヒーローなど、中々に面白そうであろう。
どのような状況が外部に置かれるか。言い換えるならば、どのような非日常が日常の中に入り込めるか、である。
なお、この問題において、多くのアメコミヒーローはまず除外される。
DC然り、MARVEL然り、アメコミにおいては世界観の共有からなる作中世界での文化的な「ヒーロー(あるいは、ヴィラン)」があまりにも根強く、非日常と日常の差異が明確ではないのである。
そのため、本稿における問題が世界観的に考察不可能になるのである。
(なお、和製ヒーローにおいてもアメコミチックを目指したものがあるが、それらの多くは積み重ねられた歴史がまだ少なく、根底の文化からして微妙に違うため、こちらは考察可能であろう)
さて、実際のところは難しいものではない。
卓袱台を挟んで宇宙人がお話しする状況をどれだけ自然に、面白く描けるかである。
注目するのは、この「自然」と「面白く描けるか」である。
例に挙げておいてなんだが、そもそも「ウルトラセブン」におけるメトロン星人との卓袱台シーンは面白いが自然ではない。だからこその違和感が彼の不気味さと策略の恐怖を演出しているのである。
しかし、これが裏返ればまた違う。「狙われない街」が良い例だろう。日常に馴染んだ非日常は、その違和感がなんとも面白く笑えてしまう。それが過ぎれば、彼らが我々の当たり前の日常に存在することに違和感さえ感じなくなる。この感覚は実に興味深い。
これらは作品全体の雰囲気にも影響を与える。どこかのどかになったりし、非日常が人間味を帯びて親近感が沸くようになる。そのため、ヒーローとヴィランの戦いはトムとジェリー的なものに変わっていくのだ。
この状態に持っていく場合、クリアせねばならない条件はヴィランの扱いである。
まず、ヴィランがヴィランたるには、それなりに脅威であり、悪いことをしようとしている必要があるだろう。そのうえで、民衆が被害をさしたるものと考えない、そもそも被害を与える目的がない、という状況が必要になる。
これをクリアしてこそ、日常の中の非日常は笑いをもって受け入れられるのである。
縁側に座る怪人とヒーローなど、中々に面白そうであろう。