到着の遅れていたジャイ子さんも、巡行の最初の頃にはめでたく合流できまして、その後恙無く(といいつつ、警官の制止を無視して河原町通りを横断する観光客に腹を立てつつ)、土砂降りの中の、32基の巡行を見届けました。
今回は、荷茶屋の転用が考えられる「御供車」に注目して、すべて画像におさめてみました。でも荷茶屋のそれとわかるものは、太子山と保昌山のふたつだけでした。
もしかしたら、ほかの山鉾でも、布の下に荷茶屋がかくれているものがあるかもしれません。
さて肝心のYさんのおっしゃっていた荷茶屋の茶振る舞いですが、結局わからずじまいでした。恐らく、大雨のため中止になったものとみられます。次回は確実な情報をお願いしますね、Yさん。
そうそう、河原町商店街の法被を着て短パン・ヒールの高いサンダルといういでたちのお嬢さんがたが、紙コップ入りのお茶を巡行のかたや永楽屋のまえを通る人に配っていましたよ。(もちろん これではないそうです。)
さらにジャイ子さん情報では、数年前の『淡交』か『なごみ』で祇園祭の屏風祭の特集をしていて、その中に「製茶図屏風」があったそうです。でもそれがどこの家のものかまでは記憶してらっしゃらないそうです。この情報も『淡交』などのバックナンバーで検索しておいてくださいね、ジャイ子さん。
という具合に、今回の調査は、ふたつの宿題を残す結果となりました。
ということは、わたくしは、来年の巡行も、ここでみなあかんということ?!!!
う、つらい(涙)。
とにかく、4時間半もの間、立ち続けたおかげで、すっかり足の感覚がおかしくなっていました。それにこの人ごみ、めちゃめちゃ疲れました。
よろよろになったわたくしたちは、永楽屋さんのお二階の喫茶室へと直行しました。
(来年に続く?)
遅れてしまって申し訳ありませんでした。
あれから家に帰って『淡交別冊』や『なごみ』、屏風祭をネットで検索するも有力な情報はなく…。疲れてひと寝入りして、思い違いをしてることに気付きました。掲載されていたのは、『和楽』第2巻第7号 2002年7月号(小学館)、屏風の所蔵は新町通六角(北観音山)の吉田家さんでした!
「吉田家の屏風祭は、毎年趣向が変わって楽しい。(中略)この年は、修学院離宮の布晒しと茶摘の風景を描いた原在泉の屏風を飾った。」(『和楽』より)
とありました。ちなみに原在泉(1849-1916)は京都御所の御用絵師だったとか。
覆下での茶摘風景です←製茶じゃなかった。
来年この屏風が出るかどうかは不明ですが、吉田家と分かりスッキリしました~。荷茶屋とともに、黒主山の「黒おたべ」を楽しみにしつつ来年へ…(笑)。
さらに、大雨に負けて巡行欠席してすみません。今回の情報くれた人の名前を思い出し次第、もう少し詳しく聞いておきます。
荷いの写真を見て、他の祭りでも見たことがある、と改めて思いました。荷茶屋を良く解っているつもりが、何かを入れているんだろう位の見方しかしていなかったんだということに愕然としました。目を開かせてもらったことに感謝します。
和歌山で自家製のお茶を見た時以来の、驚きでした。
感謝、合掌。
きょうはお疲れ様でした。ひとごみにもまれながらの巡行見物となり、ほんまに足が棒になってしまいましたねえ。
宿題はやくもご提出ありがとうございます。
『和楽』で「茶摘図」でしたか(笑)。とにかくわかってよかったです。これも越年課題ですね。というよりは、来年吉田家で展示されるとは限らないですよね。といたしますと、数年がかりになるかもしれませんねえ。(笑)まあ、気長にいたしましょう。
ところで茶摘の場所は宇治ですか、修学院ですか?
☆Yさま
いえいえ、あのとき不確かでありながらも大切な情報をくださったおかげで、保昌山さんの荷茶屋もわかりましたし、伯牙山さんの昔の事も分かりましたので、感謝いたしております。そんなあるはずがないって、なぜかみんなが思い込んでいる場所にお茶の記憶がまだまだのこされていますね。これからもいろいろご教示くださいませ。
ありがとうございます。みなさんのコメントを拝読しまして、「そうか、わたしは頑張ったのかな?」と思いました。自分自身は、興味のまま動いているもので、「頑張っている」という自覚がまったくなかったためです。どうやら体力的にはずいぶん頑張ったようでして、今朝はかなりこたえてます(爆)。
来年は晴れて欲しいけど、今回のように涼しくあって欲しい、と願うのは贅沢でしょうか(笑)。