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リュドミラ・ウラソワさんのこと

2015年05月29日 | Figure Skating
リュドミラ・ウラソワさんといえば、ズーリン組時代のイリニフ/カツァラポフやバザロワちゃんのペア、フーザルポリ/マルガリオ、ファイエラ/スカリ、カッペリーニ/ラノッテといったイタリアダンスカップル等々のプログラムを振付けていて、試合の時のリンクサイドやK&Cでもよくお見かけするので、アイスダンスやペア(特にロシアの)が好きな方にはなじみ深いコレオグラファだと思います。


リンクサイドでバザロワちゃんを見守るリュドミラさん

そのリュドミラさんが、若い頃ボリショイ・バレエのソリストを務めていたという話は聞いたことがありました。確かイリニフ/カツァラポフ組がドン=キホーテのFDをやっていた時に、インタビューでそんなことを言っていたように記憶しています。


ボリショイ時代のリュドミラさん

この間、先頃亡くなられたマイヤ・プリセツカヤさん(合掌)がトリノ五輪の時に答えているインタビューの記事を見たのですが(こちらで翻訳が読めます。とても興味深いインタビューです)、その中でプリセツカヤが、バレエ出身でフィギュアスケートの世界で活躍している人としてウラソワの名前を挙げていました。これってリュドミラさんのことかな! と思って調べてみたら・・・いろいろと凄いことが分かってたいへん衝撃だったので、以下にそのことを書きたいと思います。

さて、話は1971年、リュドミラさんがボリショイにやってきたばかりのアレクサンドル・ゴドゥノフと結婚したことから始まります。彼女は彼より7つ年上で、既に×イチだったそうですが・・・ちなみにウラソワというのは前夫の姓みたいです(ウラソフさんという人だったらしい)。


ゴドゥノフとウラソワ

ゴドゥノフは翌年プリセツカヤの相手役に抜擢されて、あれよあれよとスター街道を駆け上がって行きます。身長191センチで長髪の美丈夫で、カルメン組曲のホセ、ロミオとジュリエットのティボルト、イワン雷帝のタイトルロールなどが当たり役だったらしい。。。

さて2人が一緒になって8年目の1979年、ボリショイの米国ツアー中に、ゴドゥノフは亡命してしまいます。ゴドゥノフは悪童タイプで劇場の上層部と衝突ばかりしていたため、周囲の人たちはみんな「あいつはいつか亡命する」と思っていたのだそうですが・・・
このとき、リュドミラさんを早くロシアに戻そうとするソ連側と、それを阻止しようとする米国側とで綱引きになり、最後には当時のカーター大統領とブレジネフ書記長が電話会談する事態にまで発展してしまったのだとか。
ゴドゥノフは彼女が一緒にアメリカに来てくれるものと考えていたらしいのですが、リュドミラさんは帰国することに決めます。その理由について彼女は、残してきたお母様が心配だったこと、そして自分は西側で暮らして行くには「あまりにロシア人すぎる」からだ、と語っています。

国に戻ったリュドミラさんは、堕落した資本主義の誘惑と裏切り者の夫よりも祖国を選んだ愛国者!みたいなプロパガンダに使われたりもしたらしい。一方で近親者が亡命などしてしまうと、残った者はいろいろと不都合な立場に立たされるのが当時のソ連だった訳で・・・

実際、2人が再会できるように取りはからってあげようとする動きはあったらしいのですが、リュドミラさんはそれを断ります。彼女の動きはKGBにマークされていたので、下手に会ったりして彼が当局の手に落ちることを恐れたから。
こうして2人は二度と相見えることのないまま、1982年に離婚が成立しました。

ゴドゥノフがアメリカでは結局思ったような成功を収めることができないまま、1995年、45歳という若さで急逝してしまったとか、その原因がアルコール中毒による肝臓障害だったとか、恋人だった女優のジャクリーン・ビセットに「彼が愛していたのは最後までウラソワただ一人だった」と言わせてしまうとか・・・出来過ぎのお話のような展開でクラクラしてしまいます。ちなみに、ゴドゥノフの死後、2人はモスクワで面会しております。ジャクリーンは涙、涙であったらしい・・・


ジャクリーン・ビセットとリュドミラ・ウラソワ

彼の早すぎる死について、リュドミラさんが「西側で生きて行くには自分の内側を変えなければならないけれど、彼にはそれができなかった。彼は心のどこかで、これは自分の人生ではないと分かっていたのだと思う」とコメントしているのが胸を打ちます。
結局ロシア人というのは、大地に根っこを生やしていないと生きて行けない人たちなのだ、と思って。


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