本日の東京地方の天候は快晴でした。朝も早くから日射しがきつかった見たいです・・寝ていたので知りませんが、都心部の最高気温は26度・・・26度?夏日ですね。たしか30度を超えると真夏日、35度を超えれば猛暑日ですね。この時期にもう夏日か・・・、梅雨が来て・・・次は夏ですが・・・・。三多摩地域の最高気温は28度、最低気温は12度でした。・・・28度?・・・本格的に夏日です。間違いなく。
今日、扇風機を購入してきました。大夫前から扇風機が欲しかったのですが、冬場はなかなか売っていないので・・・今日は安く手に入りました。扇風機は窓の外に向けて風を送り、室内の空気を循環させるのに便利なんですよ。
勝頼公祭と言うのは、武田信玄公の4男、諏訪四郎勝頼を祭るお祭りです。この祭りが行われるのは旧大和村(甲斐大和村)、現在は甲州市の大和村地域です。甲州市は塩山市、勝沼町、大和村の1市1町1村の合併により出来た市です。
まずは武田四郎勝頼と呼ばれる諏訪四郎勝頼について書いてみたいと思います、この中でこのお祭りが甲斐大和で行われる理由が判明すると思います。
甲斐源氏として500有余年の歴史を誇る武田家は、武田信玄公によって甲斐、信濃、駿河、西上野の4国に渡る100万石にまでその所領を増やしました。しかし武田信玄公は三方原でその命を失います。扇の要を失った武田家は、信玄公の遺言によりその孫である信勝が元服して後に家督を継ぐ事になりました。幼い信勝が元服するまでの間と言うより、この時に実際に武田家の家督を継いだのは信勝の父である武田勝頼でした。
武田勝頼の母は湖衣姫とも言われる諏訪氏、諏訪頼重の娘で人質として武田家で出され、信玄公に見初められて妾となり、勝頼を生んだとされます。諏訪家には信玄の妹で禰々と呼ばれる妹と諏訪頼重との間に生まれた「寅王丸」がいましたが、信玄公は自分の子を諏訪家の当主の座に置きます、これが諏訪四郎勝頼です。諏訪の民衆の支持を確実な物とする為の信玄公の策であったとされます。従って武田四郎勝頼と言うのは正確ではなく、かれは諏訪家の人間として諏訪四郎勝頼と呼ぶべき人物です。
本来、武田家の家督は信玄公の嫡子である武田太郎義信が継ぐはずでした。太郎と言うのは源氏の嫡子の幼名として良く使われる名です、今でも嫡男の名を太郎というのは江戸時代の武家の習慣の名残といえます、真田家でも嫡子である信綱は源太左衛門尉を名乗っています。
武田義信は政略結婚として、その正室に駿河今川氏(今川義元の娘)を迎えており、信玄公の駿河攻めに反対して、父と深く対立していたとされます。この義信は非常に優れた武将で、信玄公の後を継げる器量を有していたとか。優秀な嫡子とその父の対立と言う形は、信虎と信玄公との間でも見られます。武田家は二代続いて同じような対立構造になったわけです。
武田家の嫡子は帝王学の英才教育を受け、家臣団の支持も厚かった・・・。しかしこの義信は父と対立して、切腹し果てます。
さて、武田信玄公の子供ですが、嫡子は義信、次子は竜宝(信親)三男信之、四男勝頼、五男仁科盛信、六男葛山信貞、七男信清ですが、嫡子は反乱で自害、次子信親は後に海野家、真田氏の本家と言ってよい滋野姓海野家の家督を継いで海野信親を名乗りますが、全盲であることが判明して後に出家、竜宝と名乗ります。三男信之は早世。五男と六男はそれぞれ仁科家、葛山家の家督を継ぎます。
武田信玄はその戦略上、自分の息子たちを甲斐、信濃の名族の家督を継がせました。その結果、嫡子義信が反乱を起こして自害すると、本家である甲斐武田家を継ぐべき人物がいなくなると言う、実に皮肉な結果を生み出します。信玄公は苦渋の決断として四郎勝頼の息子である信勝に家督を継がせるのです。四郎勝頼は陣代、信勝の後見人として武田家を纏めますが、義信事件の後遺症は家臣団の対立構造を生み出し、また武田家内部における信玄公の死に対する後遺症も非常に大きかったとされます。
今日、扇風機を購入してきました。大夫前から扇風機が欲しかったのですが、冬場はなかなか売っていないので・・・今日は安く手に入りました。扇風機は窓の外に向けて風を送り、室内の空気を循環させるのに便利なんですよ。
勝頼公祭と言うのは、武田信玄公の4男、諏訪四郎勝頼を祭るお祭りです。この祭りが行われるのは旧大和村(甲斐大和村)、現在は甲州市の大和村地域です。甲州市は塩山市、勝沼町、大和村の1市1町1村の合併により出来た市です。
まずは武田四郎勝頼と呼ばれる諏訪四郎勝頼について書いてみたいと思います、この中でこのお祭りが甲斐大和で行われる理由が判明すると思います。
甲斐源氏として500有余年の歴史を誇る武田家は、武田信玄公によって甲斐、信濃、駿河、西上野の4国に渡る100万石にまでその所領を増やしました。しかし武田信玄公は三方原でその命を失います。扇の要を失った武田家は、信玄公の遺言によりその孫である信勝が元服して後に家督を継ぐ事になりました。幼い信勝が元服するまでの間と言うより、この時に実際に武田家の家督を継いだのは信勝の父である武田勝頼でした。
武田勝頼の母は湖衣姫とも言われる諏訪氏、諏訪頼重の娘で人質として武田家で出され、信玄公に見初められて妾となり、勝頼を生んだとされます。諏訪家には信玄の妹で禰々と呼ばれる妹と諏訪頼重との間に生まれた「寅王丸」がいましたが、信玄公は自分の子を諏訪家の当主の座に置きます、これが諏訪四郎勝頼です。諏訪の民衆の支持を確実な物とする為の信玄公の策であったとされます。従って武田四郎勝頼と言うのは正確ではなく、かれは諏訪家の人間として諏訪四郎勝頼と呼ぶべき人物です。
本来、武田家の家督は信玄公の嫡子である武田太郎義信が継ぐはずでした。太郎と言うのは源氏の嫡子の幼名として良く使われる名です、今でも嫡男の名を太郎というのは江戸時代の武家の習慣の名残といえます、真田家でも嫡子である信綱は源太左衛門尉を名乗っています。
武田義信は政略結婚として、その正室に駿河今川氏(今川義元の娘)を迎えており、信玄公の駿河攻めに反対して、父と深く対立していたとされます。この義信は非常に優れた武将で、信玄公の後を継げる器量を有していたとか。優秀な嫡子とその父の対立と言う形は、信虎と信玄公との間でも見られます。武田家は二代続いて同じような対立構造になったわけです。
武田家の嫡子は帝王学の英才教育を受け、家臣団の支持も厚かった・・・。しかしこの義信は父と対立して、切腹し果てます。
さて、武田信玄公の子供ですが、嫡子は義信、次子は竜宝(信親)三男信之、四男勝頼、五男仁科盛信、六男葛山信貞、七男信清ですが、嫡子は反乱で自害、次子信親は後に海野家、真田氏の本家と言ってよい滋野姓海野家の家督を継いで海野信親を名乗りますが、全盲であることが判明して後に出家、竜宝と名乗ります。三男信之は早世。五男と六男はそれぞれ仁科家、葛山家の家督を継ぎます。
武田信玄はその戦略上、自分の息子たちを甲斐、信濃の名族の家督を継がせました。その結果、嫡子義信が反乱を起こして自害すると、本家である甲斐武田家を継ぐべき人物がいなくなると言う、実に皮肉な結果を生み出します。信玄公は苦渋の決断として四郎勝頼の息子である信勝に家督を継がせるのです。四郎勝頼は陣代、信勝の後見人として武田家を纏めますが、義信事件の後遺症は家臣団の対立構造を生み出し、また武田家内部における信玄公の死に対する後遺症も非常に大きかったとされます。
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