今年もと言うか1年ぶりですが、山梨県笛吹市石和温泉の川中島合戦絵巻が執り行われます、それに参加すべく出陣しました。
例年のごとく、この戦の陣ぶれは年明け早々に行われ、参加する人員がほぼ決まります。2月頃になってほぼ確定したのは、三浦隊は隊長である三浦殿、小典厩殿、桜風東行殿、玲騎殿、京極殿、みくりん殿、亀殿、右衛門太郎殿、ヤマラさん、マモさん、自分の11名となりました。
三浦隊だと、他に新潟の酒奉行殿が参戦されるのですが、今回は不参加のようです。
結局、直前となってみくりんさんは不参加となり、亀さんの御友人が参加と決まりました。
宿は例年のごとく風鈴閣で同宿は、これも例年のごとく征夷大将軍太郎殿が率いる幕府軍で、ハンドルネームだけ紹介しておきますと、征夷大将軍太郎殿、けん殿、フロイス殿(奇蝶殿旦那)、ナベ殿(合戦不参加)、奇蝶殿、胡蝶殿、とと殿、仮蝶殿、きの子殿、116殿、桜桃殿、べる殿、アハト殿の13名で、同宿は合計24名となりました。
合戦当日は4月15日、移動及び宴会は14日の予定です。そして14日は新府城に集合と言う段取りでした。
例年、この祭りの前日は武田関連の城址を巡る事が多く、岩殿城とか要害城とか、そして昼過ぎ頃から武田神社に詣でて、そこで知り合いに会う事が多いのです。
今年は韮崎の新府城を見物と言う事で10時に集合です。
韮崎の新府城は武田勝頼公が築いた唯一の城で、武田では珍しい平山城となっています。
戦国時代の城は大別すれば山城、平山城、平城の3つで、山城は無数にあります。真田では砥石城、本城、天白城、松尾古城、岩殿城他、砦や城とされる城の大半は、この山城に区分けされます。真田の主城である上田城は一応・・平城に区分けされます。
上田城に関しての詳細は記しませんが、千曲川の分流である尼ヶ淵に面しているため、平城と言っても天然の要害を利用しています。
平城は上田城もそうですが、熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城と言った城が有名で、人工的な盛土や大規模な堀の掘削、石垣作成等により難攻不落としています。
武田家で有名な戦国時代の当主は3人、信虎公、信玄公、勝頼公です。この信虎公は信玄公の父、勝頼公は信玄公の子です。
信虎公は信玄公を中心とした家臣団により武田家を追放されますが、その最大の要因は、それまでの武田家の拠点であった石和の地から甲府へと移行した事だとされます。これにはそれまで鬱蒼とした森を切り開き、躑躅ヶ崎館を築造すると同時に家臣団の家屋敷を築造することで、甲斐国あげての大工事であったようです。
この大工事に動員された人々の恨みは国中に満ち溢れたとか・・。
規模はその数十倍となりますが、熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城等は、その築城に対する労働に対しては、それなりの報酬が与えられましたが、躑躅ヶ崎館の築城時にはほとんど対価は払われていないはずです。
そして、信玄公は大規模な土木工事は行わず、死亡するまで武田家当主の座を全うしました。
それに比べて、信玄公の後を継いだ勝頼公は、織田軍が甲斐へ侵攻するに対して、城ではなく躑躅が咲館では戦えないと判断し平山城を築きます。それがこの韮崎の地に築かれた新府城です。
新府城自体は織田軍の攻撃に晒されませんでした。それは勝頼公がこの城での抗戦を諦めて、小山田信茂の居城で難攻不落の山城岩殿城へ向かう事にしたからです。
ご存じの通り、勝頼公は僅か300名まで兵を減らし、織田勢へ切り込んで死に果てます。
武田家では大規模な土木工事はその寿命を縮める要因となるようです。
例年のごとく、この戦の陣ぶれは年明け早々に行われ、参加する人員がほぼ決まります。2月頃になってほぼ確定したのは、三浦隊は隊長である三浦殿、小典厩殿、桜風東行殿、玲騎殿、京極殿、みくりん殿、亀殿、右衛門太郎殿、ヤマラさん、マモさん、自分の11名となりました。
三浦隊だと、他に新潟の酒奉行殿が参戦されるのですが、今回は不参加のようです。
結局、直前となってみくりんさんは不参加となり、亀さんの御友人が参加と決まりました。
宿は例年のごとく風鈴閣で同宿は、これも例年のごとく征夷大将軍太郎殿が率いる幕府軍で、ハンドルネームだけ紹介しておきますと、征夷大将軍太郎殿、けん殿、フロイス殿(奇蝶殿旦那)、ナベ殿(合戦不参加)、奇蝶殿、胡蝶殿、とと殿、仮蝶殿、きの子殿、116殿、桜桃殿、べる殿、アハト殿の13名で、同宿は合計24名となりました。
合戦当日は4月15日、移動及び宴会は14日の予定です。そして14日は新府城に集合と言う段取りでした。
例年、この祭りの前日は武田関連の城址を巡る事が多く、岩殿城とか要害城とか、そして昼過ぎ頃から武田神社に詣でて、そこで知り合いに会う事が多いのです。
今年は韮崎の新府城を見物と言う事で10時に集合です。
韮崎の新府城は武田勝頼公が築いた唯一の城で、武田では珍しい平山城となっています。
戦国時代の城は大別すれば山城、平山城、平城の3つで、山城は無数にあります。真田では砥石城、本城、天白城、松尾古城、岩殿城他、砦や城とされる城の大半は、この山城に区分けされます。真田の主城である上田城は一応・・平城に区分けされます。
上田城に関しての詳細は記しませんが、千曲川の分流である尼ヶ淵に面しているため、平城と言っても天然の要害を利用しています。
平城は上田城もそうですが、熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城と言った城が有名で、人工的な盛土や大規模な堀の掘削、石垣作成等により難攻不落としています。
武田家で有名な戦国時代の当主は3人、信虎公、信玄公、勝頼公です。この信虎公は信玄公の父、勝頼公は信玄公の子です。
信虎公は信玄公を中心とした家臣団により武田家を追放されますが、その最大の要因は、それまでの武田家の拠点であった石和の地から甲府へと移行した事だとされます。これにはそれまで鬱蒼とした森を切り開き、躑躅ヶ崎館を築造すると同時に家臣団の家屋敷を築造することで、甲斐国あげての大工事であったようです。
この大工事に動員された人々の恨みは国中に満ち溢れたとか・・。
規模はその数十倍となりますが、熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城等は、その築城に対する労働に対しては、それなりの報酬が与えられましたが、躑躅ヶ崎館の築城時にはほとんど対価は払われていないはずです。
そして、信玄公は大規模な土木工事は行わず、死亡するまで武田家当主の座を全うしました。
それに比べて、信玄公の後を継いだ勝頼公は、織田軍が甲斐へ侵攻するに対して、城ではなく躑躅が咲館では戦えないと判断し平山城を築きます。それがこの韮崎の地に築かれた新府城です。
新府城自体は織田軍の攻撃に晒されませんでした。それは勝頼公がこの城での抗戦を諦めて、小山田信茂の居城で難攻不落の山城岩殿城へ向かう事にしたからです。
ご存じの通り、勝頼公は僅か300名まで兵を減らし、織田勢へ切り込んで死に果てます。
武田家では大規模な土木工事はその寿命を縮める要因となるようです。
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