石野真琴のなんでもあり?

多趣味な石野真琴が、普段感じている事、将棋、祭り、甲冑等々、趣味の内容を描きます

関西オフ会(その5)

2007-07-27 23:09:11 | 趣味
 今回はまず安土城を目指し、彦根城、最後に長浜城と言う計画となった。なぜなら多賀SAは彦根ICより京都側、つまり彦根ICを超えてしまっているのだ。
 高速道路を降りて錯覚を起こし、安土城と彦根城の間をウロウロして時間を無駄に費やしたが、なんとか安土城跡に到着する事が出来た。
 さて、歴史に詳しい人には釈迦に説法であるが、このブログを訪れてくれる人はそんな人ばかりではないだろうから、ここで安土城についてちょっと復習してみようと思う。
 安土城を築いたのは天下武布を実行し、天下の半ば、いや8割近くを支配した織田信長である。
 織田信長と言う人は、戦国武将として希有な存在であり、希有な発想を持って実行できた人物である。同時代の豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、大友宗麟、島津義弘毛利元就、天下を取ろうとした武将はたくさん存在するが、本拠地を変えながら天下統一を果たそうとした人物は、他にいない。
 武田信玄はその一生と通して、その父が拠点として石和の地から移した築いた「躑躅が咲き館」から動かす事は全く考えていなかった。むしろ父である信虎が「躑躅が咲き館」を築いた事で、人民や武士たちの不満の対象となってしまった。これを恐れた事は間違いない。
 上杉謙信は長尾家が越後支配の拠点としてきた「春日山城」から、移る気は全くなったと言える。信玄の「躑躅が咲き館」は城作りとは言え館であるから、城ほどの防御力がない。しかし、「春日山城」は山城であるから、その防御力は決して低くはない。
 謙信にとって春日山城は自分の権力と力の象徴なのである。
 大友そうりん、島津、長州らも、先祖代々の拠点から移そうという発想は持ち得なかったと言って良い。
 それに対して信長は、父の織田信秀の拠点となり、尾張平定の拠点であった清洲城を、尾張平定が済んで美濃を平定出来た直後に、稲葉山城に移し、そして天下布武が実現となった時に安土城に移す。
 安土城は、この城が出来た時には、最高の技術をつぎ込んで作られた最高の城であった。特に五層とも六層とも言われる天守閣は、この時代に生まれた最高技術である。
 もっとも、信長自身は、この安土城さえも天下統一の為に通過すべき拠点の一つで、次に大阪に築城する予定だったらしい。秀吉はこの信長の発想を借りて大阪に、大阪城と言う拠点を構築したに過ぎない。
 信長に後15年も寿命を与えたならば、大阪城を築いて天下を平定し、その次は何処へ拠点を移したのか、非常に大きな興味がある所である。

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2 コメント

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Unknown (桜風東行)
2007-07-27 23:48:56
信長の安土の次の本拠地か・・・
何処になるんでしょうね?
信長秀吉、彼らの頃は石山
そしてその後の大坂ですね。
「大阪」と字を変えるのは何時の頃でしたか・・・
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大阪は (石野真琴)
2007-07-28 00:41:07
 大阪と字が変わったのは、江戸時代以降で、定着したのは維新以来だそうです。
 大坂が正しいと言う事でしょうね。
 大坂は蓮如以来だそうです。
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