goo blog サービス終了のお知らせ 

神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

《テレビの影響》

2020年02月21日 | 日記


《テレビの影響》

テレビは情報伝達の分野に革命をもたらしてきました。
それによって人々は,自分の土地で起きている事も,幾千㌔離れた所で起きている事もつぶさに観察できます。
テレビカメラは大気圏外にさえ持ち出されました。

アメリカでは95%から98%の人がテレビを持っており,テレビは電話をしのぐ伝達手段となりました。
公表されたある報告によると,平均的なアメリカ人は,一週間に約17時間をテレビの前で過ごします。

教育家S・I・ハヤカワ博士は次のように述べています。
「音楽と映像と演技で強化されたことばが何度も繰り返し語られ,それを暗い部屋の中で受け取るというテレビの通信方法は,これまで世に紹介された中で最も効果的な伝達手段である」。


「テレビは有益なものとなりうる」

このように効果的で近づきやすい伝達手段が,人類のために幅広い可能性を秘めていることは疑いありません。
それによって視聴者は,遠くの土地に住む仲間の人間に影響を与えている考え方や生き方また生活環境などについて知ることができます。

テレビは幾つかの健全な娯楽番組をも提供してきました。
人は,シェークスピアの戯曲やメトロポリタン歌劇場のオペラ,バレー,コンサートなどを他の人に邪魔されない自分の家の中で楽しむことができます。
英国では,音なしでも楽しめる連続テレビ番組が製作されています。俳優がお互いに話をするとき(それは非常にまれであるが),同時に指話をも使うのです。
これは耳の聞こえる人にも聞こえない人にも楽しくて教訓的な番組です。

テレビは教育の分野にも大きな益をもたらしました。テレビは種々の教訓的な題材について,それを解説する教師および教師が示す実験や図解などをともによく見せてくれます。
人は,教育的なテレビ番組によって,数学その他,様々の科学,家事の基礎的な技術,言語などたくさんの事を学べます。
多くの人は“目で見る随筆”を楽しんでいます。それは,音楽や舞踏芸術の優れた生中継とともに,その分野の専門家による解説を聞かせるものです。
ある国では文盲率を下げるのにテレビを使っています。開発途上国では,資格のある教え手が十分にいない所で人々に職業訓練を施すのにこれが有効な道具となることを知りました。
そして,テレビで示すものは,ビデオテープにして保存し,後に反復して用いることができます。

年若い視聴者たちは,テレビが普及する前の世代の人々が夢見ることさえしなかったような事についてきわめて理知的に話せる場合も少なくありません。
ごく幼い子どもの場合には,語彙を増やすのにテレビが役立つ場合もありますが,少し年上の子どもには逆の効果のある場合もあります。

しかしテレビは伝達のための手段にすぎません。それがあなたに益になるかどうかは,あなたがどんな番組を見るかによります。
多くのテレビ番組の低俗さに対する抗議の声がしきりに上げられています。米国において,テレビは「人々の趣味のうち最も低俗な部分に仕えている」と批判されています。

 

「物質主義と性の不道徳」

テレビの画面に現われるものの中には,実用価値がほとんどないような物への欲望を,見る人の心に植え込むものが多くあります。
この点について,L・E・シスマンは,1974年2月号のザ・アトランティック誌の中で,参加者の前に「物質というえさをつるす……ぞっとするようなゲーム番組」
に言及し,それが「われわれ[視聴者]をさえ賞品への渇望で揺り動かす」と述べています。

多くのコマーシャルは,必要のない物,高すぎて買えない物,すでに持っているものと実際には少しも変わらない物などを欲しがらせるように作られています。
そして,ケーキ,クッキー,清涼飲料水,甘い穀物食などを子どもに絶えず渇望させるようなコマーシャルの影響についても考えてください。

テレビの多くの番組がいわゆる“新しい道徳”に傾いていることも失望させるものです。男女の同性愛を扱って視聴者をびっくりさせた番組もあります。
米国公共放送網のテレビの画面には,正面からの全裸像が映し出されました。喜劇番組は卑わいな冗談を売り物にしている場合が多くあります。
そして“昼のメロドラマ”についてはどうですか。「テレビと新しい道徳」と題するパンフレットは次のように述べています。
「昼間のメロドラマはあからさまに姦淫を扱い,未婚の男女が床を共にしている場面を見せることもある」。

こうした番組は,倦怠期にある結婚生活の欲求不満のはけ口としての性の不道徳を描写している場合もあります。
不注意な視聴者は,描写されている人物と同じ感情を容易に発展させ,自分の問題に対して同様の解決を求めようとしかねません。
コリント第一 6章9,10節など,性の不道徳に対して神が明示された態度からして,そうした危険に自らをさらすのはいかにも愚かなことではありませんか。
その聖句はこう述べています。
「惑わされてはなりません。淫行の者……姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝るもの[同性愛的倒錯を犯す者]……は神の王国を受け継がないのです」。

もちろん,すべてのテレビ番組が望ましくないものであるというわけではありません。
ブラウン管に何か不快なものが現われるなら,チャンネルを変えることもテレビを消すこともあなたの自由なのです。
どんなテレビ番組を見るかは主にあなた自身にかかっています。番組をよく選ぶなら,テレビにはそれなりの益があります。

 

「人間関係に対するテレビの影響」

テレビが遠くの人々や出来事を自分の家庭のただ中に運んで来るのをわたしたちは見てきました。
また好みの番組を見るために家族を引き寄せていっしょに座らせることもあります。では,テレビは人々を一致させる力となりますか。
それはさらに親密な家庭生活を作り出しますか。それはあり得ることです。しかし,テレビは反対の影響を与える場合が少なくありません。どのようにですか。

昔,自分の土地や世界の他の場所で起きた重要な出来事について知りたいと思うなら,人は他の人と直接話し合ってその情報を得ねばなりませんでした。
気の合った者どうしが村の井戸やよろず屋に集まり,ニュースや意見を交換したのです。しかしテレビがあれば,人は隣人を煩わさずに同じ情報を得られます。
注意しないなら,他の人と交わろうとする気持ちをテレビに押えられてしまいます。
ある作家は,テレビを見る人々が「他から最近切り離された,無名の孤立した聴衆」となっていることを述べました。

家族の中で同じようなことが起こるでしょうか。では,テレビを見ているさい家族は普通,互いに交わり合うことから益を受けていますか。
ただ互いに近くに座っているというだけで一体感が築き上げられますか。「アメリカの家庭生活」と題する記事は次のように述べています。

「家族でテレビを見ている時,各成員は互いに他を喜ばせるということをしない。事実,テレビの番組を見ている人は,その場にいる家族の他の成員すべてを無視する場合が多い。
テレビによる娯楽は一方通行であり,それを見る家族の側には何の努力も求められない」。

しかし,家族でテレビを見ることをそのような結果にする必要はありません。テレビが家族の中にくさびを打ち込むようなことがないように幾つかの処置を取ることができます。
例えば,食事中にテレビを付けて互いの会話を楽しむ機会をなくしてしまうのは賢明ではありません。テレビ作家兼プロデューサーのノーマン・S・モリスは次のように述べています。
「大人は子供といっしょに食事をする場合でもしない場合でもテレビを付けておくべきではない。食事の時間は楽しい時となるべきである。それは家族が互いに語り合う申し分のない機会である。
食事の時にもたらされる一体感は家族の精神面での健康にとって非常に重要である」。

何を見るかをよく選ぶことも意思を通わせる道を開いておくのに役だちます。
教育的に価値のある番組を含めれば,テレビは意思の交流を広げる踏み台ともなります。
おいしい料理の作り方,いろいろな物の作り方や直し方を示す番組は,生気のある話し合いや健全な家族活動へと導きます。
ノーマン・モリスはこう述べます。「テレビの最大の効果はスイッチを切った後に発揮されることもある」

 

「テレビの暴力場面から来る問題」

多くのテレビ番組について最も有害な点であると見なされているのは,それが暴力に重きを置いている点です。
数分ごとに暴力行為を映し出す番組もあります。これが一日中毎時間続いたりもするのです。
普通の視聴者は十年間に一万人の生命が消されるのを見ることになります。これがよくない影響を与えることは明らかです。

例えば,昨年,十代の若者たちが“刺激”を求めて浮浪者を火あぶりにする映画がテレビで放映されました。
そのしばらく後,一群の若者は,ボストンのある女の人にガソリンをかぶらせてその人を焼死させました。
その同じ月,マイアミの三人の少年は,そこの浮浪者に対して同種の犯罪を犯して第一級の殺人罪に問われました。

その年の初め,二人の若い女性を刺し殺す場面で始まるテレビ映画がありました。
1974年2月2日号テレビ・ガイド誌の一記事によると,「それから二週間後,アトランタの17歳の少年は,計画的にそれを再演して若い女性を殺したことを認め」ました。
似たような事件が今年の春にも起きました。英国の16歳の少年が,テレビ映画のまねをして老人をけり殺したのです。前述の記事の著者ジーン・ダビソンはこう説明します。
「殺人について告白するさい,この二人の殺人者はほとんど感情を表わさなかった。たいていの行動主義科学者が信じている点であるが,暴力場面を見ることは正常異常を問わずすべての人を攻撃的にならせるだけでなく,他の者が犯す暴力行為に対しても無感覚にならせる傾向のあることが研究に示されている」。

 

「テレビと子どもたち」

子どもたちは幾つかの良い番組から益を受けてもいますが,悪いテレビ番組の格好のえじきともなっています。
その一つの理由は,子どもたちがテレビの前で過ごす時間の長さにあります。ある子どもたちは6歳から16歳になるまでにテレビのために1万2,000時間(一日約3時間)以上を費やします。
これは多くの若者が学校で過ごすのと同じ位の長さです。テレビを見る時間がその二倍近くになる子どももいます。

もう一つの問題は,幼い子どもたちが,テレビで見ることをそのまま信じてしまう点です。
現実と見せかけの世界の区別をつけられないのです。子どもは出来事をその前後関係と結び付けることも上手にできません。
例えば,“正義の味方”が何か悪いことをしているのを見ると,子どもはどんな影響を受けますか。テレビの暴力場面の量を抑制するために英国で採択された法律はこう明記しています。
「良い目的のために良い人間が悪を行なうことは幼い子どもによくない影響を与える」。

一日に数時間テレビを見る子どもは,かなりの量の暴力場面を見ます。子どもは生来模倣家であるため,これは“正常な”子どもにさえ自分の見たことをまねる強い誘いを与えます。
児童心理学者ロバート・M・リーバート博士はこう指摘しています。「どこから見ても正常な子どもでさえ,悪意からではなく全くの好奇心から,テレビで見た反社会的な行動を模倣する」。

ある人々は,テレビの暴力番組にそのような反応を示す子どもは割合からいえばわずかである,と反論します。
これは何かの相違をもたらしますか。1972年,米国公衆衛生局長官であったジェシー・L・ステインフェルド博士は次のように述べました。
「ここで重要なのは,テレビで暴力場面を見ることとその後の行動との間に因果関係のあることが示された点だ。その割合が10%か20%か30%かは重要なことではないと思う。
我が国は大きな人口を抱えており,2千万人の子どもの10%が攻撃的になり反社会的な行動を取るとすれば,それだけでも多すぎることになる」。

幾千年にわたる人間存在の間,暴力が人間の経験の一部であったことは真実であり,これを子どもから隠すことはできません。
しかし,注意深い親であれば,子どもを毎日幾時間も残虐行為に浸らせるのが何ら良い目的を果たさないことに気づくでしょう。
聖書を信じる人は,自分の子どもに,闘争心や暴力が抑制されない利己的な肉の渇望と密接に関係していることを説明できます。
「あなた方の間の争いはどこから,また戦いはどこから起こるのですか。それは次のものから起こるのではありませんか。つまり,あなた方の肢体の中で闘う,肉欲の快楽に対するあなた方の渇望からです。あなた方は欲しますが,それでも持っていません。殺人と貪りを続けますが,それでも得ることができません。あなた方は戦いつづけ,争いつづけます。あなた方が持っていないのは求めないからです。なるほど求めはします。それでも受けていません。肉欲の快楽に対する自分の渇望のために用いようとして,まちがった目的のために求めているからです」。
(ヤコブ 4:1~3)

また,人間は暴力的な方法では自分の問題を決して解決できないことも指摘できます。
なぜなら「人の憤りは神の義の実践とはならない」からです。
「怒りの気持ちからは,神が求める正しさは生まれません」
(ヤコブ 1:20)

神ご自身が,地上の暴力とそれを起こしている者たちを除き去るために行動を起こされます。
「この王たちの時代に,天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。その王国はほかのどんな民にも渡されません。これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,その王国だけが永遠に存続します」。
(ダニエル 2:44)
「皆さんを苦しめる人たちに,神が苦難をもって報いることは,確かに正しいことです。一方,苦難に遭っている皆さんは,主イエスが明らかにされる時に私たちと一緒に安らぎを得ます。
その際イエスは,強力な天使たちと共に天から現れ,燃え盛る火を伴って,神を認めない人々と,私たちの主イエスについての良い知らせに従わない人々に報復します」。
(テサロニケ第二 1:6~8)

 

「他の落とし穴」

テレビは益をもたらす大きな可能性を含んでいますが,自己抑制が欠けるなら脅威ともなり得ることは明らかです。
主な落とし穴は,スイッチを入れればすぐに見られることが,多くの人をしてテレビの前で膨大な時間を浪費させる結果になることです。
ある程度の気晴らしや娯楽は有益ですが,過度にひんぱんに及ぶなら有害な影響をもたらします。

1971年9月10日付のライフ誌は,テレビの影響を分析した特別の記事の中で次のように述べました。
「視聴者のうち4人に1人は自分がテレビを見るのに使っている時間について“良心のかしゃく”を感じる」。
家事や宿題その他必要な仕事をするべき時間を犠牲にしてはテレビを見ている事が,こうした良心のかしゃくの一因となっているに違いありません。

テレビを取り去られて,“精神的禁断症状”を経験した人もいます。心理学者ヘナー・アーテルはこう述べています。
「定期的にテレビを見る人の場合,その行動様式の多くはテレビと深く結び付けられ,それを取り去られると悲観的になる。それは中毒の問題と同じである」。
もちろんあなたは,テレビのためにそのような経験をしたいとは思われないはずです。

テレビは,情報伝達や教育また娯楽の手段としてあなたとあなたのご家族に益となるものです。
しかし,それに支配されないように注意してください。何を見るかについて選択的であってください。それが家族の一体感を推し進めるものであり,妨げるものでないことを確かめてください。
そして,テレビに費やす時間の量に注意してください。そうすれば,あなたの生活におけるテレビの影響は有益なものとなります。

 

 


テレビはあなたを変えていますか

2020年02月21日 | 日記

私は,エホバの証人ではありませんが,時々,
エホバの証人より配布いただいてる,「目ざめよ」誌・「ものみの塔」誌,パンフレット等より引用の記事もあります。
(どこの宗教,宗派にも属していません)
*いろんな宗教にも交わりました(立正佼成会,創価学会,キリスト教のカトリック,プロテスタント等)
その中で,聖書に忠実に教えてるのは,エホバの証人と思います。


目ざめよ! 19915/22~

テレビはあなたを変えていますか

「世界の窓」。テレビはそう呼ばれてきました。「豊穣のブラウン管 ― アメリカのテレビ革命」という本の中で著者のエリック・バーノーはこう述べています。
1960年代の初めまでには,「[テレビは]ほとんどの人にとって世界の窓になっていた。テレビの画面は世界全体であるように思えた。人々はその正当性と完全性を信頼していた」。

しかし窓だけでは,視聴者に届ける画面を選ぶことも,その照明や画面のアングルを決めることも,視聴者の興味をつなぐために不意に画面を変えることもできません。テレビにはそれができます。そのような要素は,視聴者が現に見ている事柄をどう考え,どう結論するかを大きく左右します。ところが,そのような要素はテレビ番組の製作者によってコントロールされています。どれほど偏見を排除したニュース番組やドキュメンタリーであったとしても,そういう操作が ― 当人は意識していないにせよ ― 行なわれています。*

口説きの名人

しかし,テレビをコントロールする人々は大抵,視聴者に影響を及ぼそうと心を砕いています。例えば宣伝の場合は,視聴者に買う気を起こさせるため,ありとあらゆる魅惑的な仕掛けを事実上自由自在に駆使することができます。色。音楽。華やかな社交界の人々。エロチシズム。豪華な場面など。そのレパートリーは非常に広く,しかもそれらを見事に使いこなすのです。

広告会社の元経営者は業界で過ごした15年間を振り返り,こう書いています。「[テレビなどの]メディアを通して人々の頭に直接語りかけ,超能力を持つ魔術師のように,人々の脳裏に何らかのイメージを残すのが可能なことを私は知った。人がそういうイメージを持たされると,自分では思いもよらない事柄をしてしまう場合がある」。

人を操る恐るべき力がテレビにあるということは,1950年代にすでに明らかになっていました。年商5万㌦だったある口紅メーカーが米国のテレビにコマーシャルを流すと,2年足らずで年商は一気に450万㌦に伸びました。また,ある銀行が女性に人気のあるテレビ番組でコマーシャルを流したところ,にわかに1,500万㌦もの預金が殺到しました。

現在,平均的なアメリカ人は毎年3万2,000回コマーシャルを見ています。広告は魅惑的な方法で人の感情に働きかけます。マーク・クリスピン・ミラーが,「“箱”に閉じ込められて ― テレビの文化」という本に書いているとおりです。「我々は確かに見るものに操られている。日常生活に入り込むコマーシャルから絶え間なく影響を受けている」。こうした巧妙な操作が「確かに危険なのは,そのことを感知するのが難しい場合が多いからだ。そのため,我々がそれを見抜く方法を悟るまで,そうした操作が効果を失うことはない」。

しかしテレビが売り込んでいるのは,口紅や政見や文化だけではありません。道徳 ― あるいは不道徳 ― も売り込んでいるのです。

テレビと道徳

アメリカのテレビ番組にセックス描写がどんどん増えていることを知っても,ほとんどの人は驚かないでしょう。1989年のジャーナリズム・クォータリー誌に載せられた調査報告によると,テレビのゴールデンアワーに放映された66時間分の番組には,さりげない描写,せりふの中の描写,あからさまな描写など,性行動の場面が合計722回出てきました。エロチックな体の接触から,性交,マスターベーション,同性愛,近親相姦に至るまで,その例は様々です。平均すると,そういう場面が1時間に10.94回も出てくるのです。

この点では米国だけが例外なのではありません。フランスのテレビ映画は性的サディズムをあからさまに描写しています。イタリアのテレビにはストリップが登場します。スペインのテレビの深夜番組は,暴力映画やポルノ映画を売り物にしています。こうした例は,枚挙にいとまがありません。

テレビに登場する別のタイプの不道徳は暴力です。米国で,タイム誌のあるテレビ評論家は最近,ある連続もののホラー番組に見られる「身の毛もよだつようなユーモア感覚」を称賛しました。この連続番組には,首切り,手足の切断,はりつけ,悪魔に取りつかれた人などのシーンが続出します。もちろん,テレビの大抵の暴力場面はもう少しおとなしいので,人々は普通のことのように受け止めがちです。最近,欧米のテレビが西アフリカのコートジボワールの山村で公開されたとき,あっけにとられた老人は,「どうして白人は刺したり,撃ったり,殴り合ったりばかりしているのかね」と尋ねる以外には何も言えませんでした。

その答えはもちろん,テレビ番組の製作者やスポンサーが,視聴者の見たいものを提供したいと思っているということです。暴力は視聴者を引きつけます。セックスもそうです。ですからテレビは,その両方をたっぷり見せるのです。ただし,それは多すぎてはいけないし,早すぎてもいけません。そうでないと視聴者はそっぽを向きます。ドナ・マクロハンは,「ゴールデンアワー,わたしたちの時間」という本の中でこう書いています。「ほとんどの人気番組は,下品な言葉,セックス,暴力,あるいは内容そのものに関して行けるところまで行く。そして限界まで来ると,その限界を取り払ってしまう。結果として,一般の視聴者は新しい限界を受け入れる」。

例えば,かつて同性愛というテーマは,テレビの良識の“限界”を超えたものと考えられていました。しかし,いったん視聴者がそれに慣れてしまうと,さらに多く受け入れるようになります。フランスのあるジャーナリストはこう断言しました。「今では同性愛をあえて逸脱行為として描こうとする製作者はいない。……おかしいのはむしろ社会であり,社会の不寛容である」。1990年にはアメリカの11の都市で,“ゲイのメロドラマ”なるものが有線テレビに初めて登場しました。その番組の売り物は,男性同士のベッドシーンです。番組の製作者がニューズウィーク誌(英文)に語ったところによると,そういうシーンが同性愛者によって企画されたのは,「我々もほかのみんなと同じだということに人々が気づくよう,視聴者の感覚を弱める」ためだということです。

空想対現実

ジャーナリズム・クォータリー誌に掲載された研究の主宰者たちが言うには,テレビが不義の性関係の結果を示すことはまずないため,「性的な空想を快く刺激するシーンの連続」は,あたかも敵をあざむく偽情報作戦のようです。主宰者たちが引き合いに出した別の研究は,テレビのメロドラマが何よりも次のようなメッセージを送っていると結論しています。つまり,セックスは未婚のパートナーが行なうもので,病気をうつされる人はいないということです。

これがあなたの知っている現実の世界でしょうか。結婚前のセックスは,十代の妊娠や性行為感染症を招かないでしょうか。同性愛者や両性愛者はエイズ感染の恐れがないのですか。暴力や暴行の末にヒーローが勝って悪者が辱めを受けるとき,両方とも無傷のままでいるというのは奇妙ではないでしょうか。テレビが作り出す世界は,幸いにも行動の結果を刈り取らない世界なのです。良心や道徳や自制といったおきてに,手っ取り早い満足感というおきてが取って代わりました。

明らかにテレビは「世界の窓」― 少なくとも現実の世界の窓 ― ではありません。その証拠に,テレビに関する最近の本には「非現実の産業」というタイトルがついています。その著者たちはこう主張します。テレビは「我々の生活の中で最も強力な影響を及ぼすものの一つになった。その結果,テレビは何が現実かを規定するだけでなく,それよりずっと重要で,ずっと憂慮すべきこととして,現実と非現実との間の区別,境界線そのものを消し去っている」。

これは,テレビの影響を被らないと考えている人にとっては,人騒がせな言葉に聞こえるかもしれません。『わたしは見るものすべてを信じるわけではない』と反論する人もいます。確かにテレビに対する不信感はあるかもしれません。しかし専門家が注意を促しているのは,こうした通り一遍の懐疑心では,人の感情に働きかけてくるテレビの巧妙なやり方から身を守ることはできないかもしれないという点です。ある作家が述べているとおり,「テレビの最大のトリックの一つは,人の精神構造にどれほどの影響を与えているかを本人に少しも悟らせないこと」です。

影響力のある装置

「ブリタニカ年鑑1990年版」によると,アメリカ人は平均して1日に7時間2分テレビを見ています。それより控え目な推定では1日約2時間という数字が出ていますが,その場合でも一生の間に7年間テレビを見る計算になるのです。人がそれほど長い時間テレビを見ていても影響を受けないということがあり得るでしょうか。

テレビと現実の区別がつかなくなっている人たちの存在について新聞などで読むことがありますが,それもさほど驚くべきことではないように思えます。英国の「メディア,文化,社会」誌に載った調査によると,実際にテレビによって,「現実の世界に代わる幻想」を抱き,現実に関する願望を現実そのもののように思い込んでしまう人がいるということです。米国立精神衛生研究所がまとめた調査や他の幾つかの調査も,そうした結論を裏づけているようです。

テレビが現実に対する一般の人々の見方に影響を与えているのであれば,人々の生活や行動そのものに影響を及ぼさないことがあり得るでしょうか。ドナ・マクロハンが「ゴールデンアワー,わたしたちの時間」という本に書いているとおりです。「テレビの人気番組がタブーを破り,言葉遣いの限界を越えれば,我々もより大きな自由を感じ,そういうタブーを破ってよいという気になる。同様に,乱交が一般の標準になり,男らしい主人公がコンドームを使っていると言えば……我々は影響を受ける。いずれの場合も,テレビは ― 時限作動式に ― 鏡のような役目を果たす。つまり,自分はこういう者だと思い込まされるために,大抵はそうなってゆくような人物像をテレビは映し出すのである」。

確かに不道徳や暴力行為は,テレビ時代の到来と共に増加してきました。偶然の一致でしょうか。これが偶然であるとはとても考えられません。ある調査によれば,三つの国の犯罪や暴力行為の件数は,それぞれの国にテレビが導入された後にはじめて増加を見ました。テレビがもっと早く導入された所では,犯罪件数も早くから増加しているのです。

驚くべきことに,テレビは多くの人の考えとは裏腹に,リラックスできる娯楽としての評価すら受けていません。13年にわたって1,200人の被験者を対象に行なわれた研究では,テレビを見ることは,あらゆる娯楽の中で最もリラックスできない娯楽であることが判明しました。テレビを見ている人はむしろ,受け身の状態ではあっても緊張しており,物事に集中できない傾向があります。特に長時間テレビを見ると,見始めたときよりも気分は悪くなる傾向がありました。それとは対照的に,読書中の人はリラックスしており,気分も良く,集中力も高まっていたのです。

しかし,良書を読むことがどれほど有益であるにしても,テレビという名の巧妙な時間泥棒はいとも簡単に書物をわきへ押しやってしまうかもしれません。ニューヨーク市にテレビが初めて登場したときには,公立図書館の本の貸し出しが一気に低下したといいます。もちろんこれは,人間が読書をしなくなるという意味ではありません。しかし現代人は,根気強く読書をするということが少なくなり,視覚に訴えるきらびやかなページがふんだんに盛り込まれていなければ,すぐに注意が奪われてしまうと言われています。そういう漠然とした心配は,統計や調査では立証できないかもしれません。しかし,テレビに絶え間なく登場する娯楽番組,しかも注意力の持続時間がどんなに短くても付いてゆけるよう,息もつかせぬシーンが次々に登場する娯楽番組でいつも自分を甘やかすことに慣れきっているなら,人間としての深みを増したり自分を鍛錬したりする面で何を失うことになるでしょうか。

テレビっ子たち

しかし子供たちの場合,テレビの問題は本当に緊急な問題になっています。一般に,大人がテレビから受ける影響は何でも間違いなく子供にも及びます。ただ子供の場合は一層大きな影響を受けます。結局は子供たちのほうが,テレビで見る空想の世界を信じやすいのです。ドイツの新聞「ライニシャー・メルクール/クリスト・ウント・ベルト」が取り上げた最近の調査によると,子供たちは「現実の生活と画面で見る事柄との区別ができない」場合が多く,「非現実の世界で見る事柄を現実の世界に置き換える」と言われています。

数十年にわたって行なわれてきた優に3,000を超える科学的調査は,テレビの暴力番組が子供たちや十代の若者に悪影響を及ぼすという結論を支持してきました。アメリカ小児科学会,米国立精神衛生研究所,アメリカ医師会といった著名な機関の意見はみな,テレビの暴力シーンが子供たちの攻撃的で反社会的な行動を引き起こすという点で一致しています。

研究の結果,さらに別の厄介な事実が浮かび上がりました。例えば,子供の肥満とテレビの見過ぎとの関連が指摘されています。これには二つの理由があるようです。
(1)活発に遊ぶ時間が,テレビの前で受動的に過ごす時間に代わってしまったこと。
(2)テレビのコマーシャルが,栄養価のほとんどない,脂っこいスナック食品を子供たちにうまく売り込んでいること。テレビを見過ぎる子供は学校の成績が悪いということを示唆した調査結果もあります。
この結論には異論もありますが,タイム誌が最近伝えたところでは,子供たちの読書能力と成績が一般に下がりぎみな原因はテレビにあると言う精神科医や教師は少なくありません。

ここでも時間は重要な要素です。アメリカの平均的な子供は高校を卒業するまでに1万1,000時間を学校で過ごすのに対し,テレビの前では1万7,000時間を過ごします。
テレビは多くの子供にとって,おもな活動とは言わないまでも,おもな余暇活動になっています。「全米PTAが親に話す: 子供に最高の教育を受けさせる方法」
という本によると,5年生(10歳の子供)の半数は1日4分だけ家で読書をするのに対し,テレビは2時間10分も見ています。

要するに,テレビは子供にも大人にも現実の危険を何も与えないなどと,まじめに主張する人は恐らく皆無に近いということです。しかしこれはどういう意味ですか。
親は家庭でテレビを見るのを禁止すべきなのでしょうか。一般の人々はテレビの影響から身を守るために,テレビを処分したり,押し入れにしまったりすべきなのでしょうか。