いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

マントラ(想念)

2011-08-29 22:43:04 | Weblog
『「生かして~」を音程やリズムを変えたりして唱えてみました。(何してるんだろ(笑))やはり、普通の言葉としか思えませんでした(汗)「生かして~」は普通に話しをしている感じでした。挨拶っぽいのかな。』

Jさんの貴重なコメントです、信者の方々もそう感じておられる人もいるかもしれませんが


この「普通の言葉」がマントラとなれば重要な意味を持ちます(ならなくてもですが)

普通の言葉なので、そこに霊的に大した意味も持たないのではなく、普通に理解できる言葉なので特に注意が必要です

そりゃ般若心経などとくらべればとてもとても明解な言葉ですが、般若心経などは意味をわからなくすることで要らない心を造り出すことはありません

空海は「密教は素人には決してわからないからなにも考えずに真言を唱えよ」と言っています、これは最もだと思います

まず意味を持つということはイコールその意味(念)が幽界に届きます、意味を持つ想念というものは意識的であれ無意識であれ強弱はあれ必ずそこへ届きます、意味とはそれを聞いた信者の心の中でそれぞれに創りあげられた想念となります、そして自分に返ります。

それぞれと言うのがミソです、この言葉の捉え方がそれぞれの捉え方があるでのです、これは単にその言葉の上っ面の意味だけではなく、その人の今の状況、今までの状況や環境、波動、今までの知識、過去生、幽体、性格等等に因って違うということです。違うということはなにも即答えがないということではありません、リーマン氏が伝えたい真意があるかもしれませんが、そんなものは確実に届かないのであって、それが『心の中でそれぞれに創りあげられた想念となります』となります

このそれぞれの心の中で造りだされた想念はそれぞれの心の中に観念や概念となってその人の心の中に出来上がるものなのです

天使を内なる叡智でなく知識や観念から捉えればそこに悪魔が生まれます

この観念というものは相対性を帯びています、良いと心で観念を造ったとすれば悪いも同時に造られます。こうすれば幸せになれるんだと心で思い込めば反対の実相も生まれるのが現象世界です

たとえば「私は大いなる生命だ」という言葉に意味をつける、いや普通の日本語なので無意識に意味をつけてしまう、その意味はその人の自我意識が造り出します、内面から顕われる無限の叡智からではありません、

「私は」これも人それぞれの捉え方がありませんか?イエスの私は真我の私と個人の私があるといわれています、

「生命」これも捉え方、感じ方が違います、植物や鉱物も生命と捉えている人もいれば呼吸しているものだけが生命だと捉える人もいます、細かく言えばもっともっと細かく人の捉え方というものは違うのです、つまり答えも違います

要するに曖昧な解釈なのです、それが観念となれば当然同時に「私は生命ではない」という言葉も造り出しているのです

これはなにも難しく考えなくても日常頻繁に起こっています、誰かの言葉を良い方に取るか悪くとるかってしょっちゅうあります、愛する人の「ばか」は自分のことを思って言ってくれていると捉えるのですが、嫌いな人の「ばか」は違います、要するに自分に都合よく(広い意味で)捉えているのです、ということは総てのものには相対性があり、良いも悪いもないとなれば「絶対に良い!」と思った人は「絶対に悪い!」という事実を造リ出してしまっているのです

だから簡単で単純な言葉だから別に大したことはないと、幽界の存在へ安価ですが形式的な儀式を使い想念を発信している行為は心の使い方ひとつ気をつける必要があるのではないでしょうかと思うわけなのです


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最強の祝詞

2011-08-26 01:43:27 | Weblog
マントラ(祝詞、真言)について書きます

これはサンスクリット語で訳しますと「マン」は言葉、「トラ」は道具となります、まさに「言葉という道具」になります

マントラを軽く考えてはいけません、人から聞いたマントラを真の意味も解らず軽く口にすることは避けるべきです

黒魔術というものがありますが、これは子音だけで作っているものもありますので聞けばなんとなくあやしいなとわかります、そのため私達の使う日本語は総て母音が伴なっています

これは不調和なマントラを構成することがないように日本語には神(大師)の意志がかかわっているからとも言われています

まずマントラには意味がすぐわかるマントラとそうでないマントラがあります、つまりマントラの意味を意識せずに唱えるやり方と、意味を深く理解して唱える方法の二通りがあります

意味が解らないマントラは、心の中に不調和な想念を造らないという目的で、純粋にその言葉の響き、つまり波動で自分の心を浄化させるのです。

意味の解るマントラを自我で認識してしまえば、自我というものは言葉の理解するものにはなんらかの意味をつけてしまいそれがさも事実のように見せかけますから、それが理解できない人はその意味に囚われる危険があります

説明は難しいですが

たとえばマントラの中に「愛」という言葉があったとすると、これを私達は観念で捉えてしまいます、観念の反対が実相だとすれば、ともすれば実相ではない正反対の想念を発してしまうおそれがあるのです

意味の解らないマントラの良いところはただ唱えること、つまり好ましくない想念が心の中に入ってこなくなりやすいというところです、ただ気をつけなければいけないのは肝心な自分の内なる実相に意識(念)を向けることもおろそかになってしまってただ唱えているだけ、つまり空念仏になってしまいます

で、発音はとても大事です、祝詞の綺麗な神主さんっていますが、マントラは発音が重要な側面をもちますがまたの機会に書きます

次に意味の解るマントラはといいますと、この言葉の真の意味とその言葉によって生じる効果について深く深く理解していなければいけません

なぜなら観念、つまり個人意識で捉えてしまえば心の状態によっては、観念ですのでその反対の想念が発せられるということが起こるからです

たとえば「私は生命である」を観念で捉えて、不調和な心で唱えると「私は生命ではない」といった念が相手に届くこともあります、それ以前に念というものは良い悪い、意識的無意識にかかわらず必ず相手に届きますので、マントラを自身に内在する生命にではなく幽界の存在へ向けること自体どうなのですかと思うのですがね

「生かして頂いてありがとう御座位ます」このマントラの意味するものとは、そしてそれを唱える人々の心の在り様とは、どうでありどなのでしょうかね


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心の自由

2011-08-19 02:40:26 | Weblog
『伊勢~教義の全てに詳しくないので判りません。でもあのカルト性が危険だと感じます。教義が「否定」なだけに。感謝と否定の天秤は両立できるものなのか?私は単純にそこが疑問なのです。』

miさんのコメントから私の感じたことを書きます

私は否定はないとは思っていません
以前の「宗教と真理」で書いたのですが、単純な例を書きますと
ここに説明した森全体を見ようとすべきではないでしょうか

たとえば精神世界の真理(神)が目の前の森だったと仮定しましょう
その森全体を見れば「そうだったんだ」という森という実体が瞬時に体感できるのですが、わたしたちは森全体を見ないでその一部を見て「森ってどんなん?」「毒蛇なんか排除しろ、これは悪魔だ」「この花はこっちより駄目♪」と迷っている状態ではと感じます

その真理の中に否定も肯定もただそこに在るだけではないでしょうか、それが総てでひとつの真理、これは否定を肯定しているのではありません、否定的な要素は肯定的な要素という光に因って出来た影です

太陽が自分を照らせばそこに影が出来ます、それは在るけど無いといった表現なのです、だからその影を否定してはいけないと思います、否定してしまえば肯定的な光が成り立たなくなると思います

愛という光には憎しみといった影が在ります、これを否定と肯定や良い悪いで括ってしまうと?となります。愛の最も未熟な表現が憎悪とならないでしょうか?

リーマン氏を否定し続けている人もひょっとして??かもしれないですよ(わたしも?笑)

ましてやその影に意味をつけてしまい、影に対処するにはどうたらこうたらと影と戦っているように思います

(これは実際の世界の森も同じことだと感じます)

この森を真理に置き換えるならそれを理解するのを助けるのは自由な表現、自由な心、自由な視野ではなかろうかと思います

目の前に森という真理があるのに、川だけとか木や土や花だけとか、この川はどうたらこうたらと意味をつけてその一部分だけを見ようとさせる行為が「これは駄目」「あれは間違い」といった制約された教義ではないでしょうか

ここの「態度に」のコメントの中に「リー○○に心の自由を牛耳られている様な気がする。 」というのがありました。的を得たコメントだと思いました

少しニュアンスは違いますが、般若心経が良い悪いという両方(理論)を造り出し、悪いという、つまり良いを排除してしまう、そこに良い悪いなどという実相がなかったらどうでしょうか

有料先生が良い悪いという概念を説き、悪いと指導してその人たちから良いを排除させる、そこに良い悪いが存在しなければどうでしょうか

存在しないものに対して良い悪いの意味をつけ、どちらかに識別する、信者もいちいち自分で考えたりしなくていいから楽なので、「おっしゃる通り」と従う、気持ちはわからないこともありませんが(笑)

尚これはリーマン氏だけではなく宗教全体にいえることでもあるのですがね
ややこしかったらごめんなさい♪


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信仰(近道?)

2011-08-15 19:17:50 | Weblog
残暑お見舞い申し上げます、、、、、、いろは


『道路を歩くとき、100メートル先から歩き始めるのは不可能です。
常に足元から進むことしか出来ない。
だから見返りを求める供養や信仰も、それ自体は良いことだと思います。
それがその人の出発点なのだから。
ただ必要なのは、深い自己観察であり、自分の本音・欲望に常に気付いていること。
欲望に気付いても、決して自分を責めず、許し、理解し、受け入れる。
そしてハートに照準を合わせるようにしてゆく。
これを続けてゆけば、不必要な欲望は消えてゆくし、必要な欲望は残るでしょう。』

cosmic_heart氏のコメントから今日は書きます

私はたとえばリーマン氏の信仰で上手くいかなかったり、最悪になったとしても、それはその人の通る道だと思っています。「もう二度と簡単な動機で人の言ったことを鵜呑みにしないようにしよう」これは大きな学びです

どうしても人は観念として「時間がない」から急ぐとか、過ぎ去ったことを根に持ってもうもどっては来ない過去に意識を向けがちですが

時間というものは永遠と続きますし、過ぎ去った過去に否定的な想念を持ち続けるということはカルマを増やすだけで本人のためにはなにもいいことはありません

三本供養のような行法や各種の指導者の教義というものは、決して即だれにでも駄目とは思っていません、自分にあっていて適切に正しく行えば良くも悪くもない、つまりそれなりに進歩もある場合もあると思いますし、間違っていても少し遠回りをしてしまったがいい勉強になったと思うのが賢明ではないかと思います

問題はその修行中に陥ってしまう罠が多いということではないでしょうか。
これは心の造りだすものですのであえて罠と言っておきます

それは特殊な行法や「こうしなさい」「こうでなければいけない」といった教義はそのまま何らかのきまりを守らなければならないということです
きまりを守らなければいけないということは沢山の制約を造るということです

もし指導者が覚者であって、自分の道をそのまま信者にも強制しようとすると、人間はそれぞれの意識状態も幽体の波動も、過去生も育った環境も得意や苦手もあります、たとえば大学の授業を幼稚園児が解るはずありません。それがcosmic_heart氏のコメントにもあるように今自分に出来ることをやること

それはつまり自分の今の環境、日常の変化、これが平凡かもしれません、がそこに今その場所とその人間関係の中に自分が存在していることの事実は、言い換えれば魂が自分の進化のために設定しているのであって、つまりその人の進化の最短距離というものがあるのなら、自分の周囲に起こってくる出来事ひとつひとつをきちんとやっていくことにあるのであって、他に何か特別なものを探したからといって、近道が出来るわけではありません


>ただ必要なのは、深い自己観察であり

「丙丁童子きたりて、火を求むに似たり」

火の仏が火を求める、つまり自分自身で以って自分自身を求めることが修行なのですが、この最初の自分自身が個人(自我)つまり小さな自己ではなく大いなる自己、宇宙そのものであると気付くことだと思います

それには必ずしも特別なグルを探すことでも特殊な行法を行うことでも片っ端から書物を読み知識を得ることでもなく、大切なことは、その人の進化にとって必要かつ充分な状況は、すでに目の前に与えられているのだという事実に気がつくことではないでしょうか

いいや、与えられているのでなく、自分で自分に与えているというほうが適切かもしれません、よーく観察すると、自分の欠点ばかり突いてくるのがわかります(笑)

遠い遠い未来や過ぎ去った過去ではなく、今のここに眼をむけていくべきだと思うのですが、、、、どう思われますかね


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信仰

2011-08-09 01:34:31 | Weblog
>信仰してても、表は熱心な信者・裏では腹黒いヤツだったら意味ない。

はい、単純な法則です
腹黒いとは利己的や攻撃的や不安、不満なんかの否定的な心です
「それだったら私は大丈夫だ!」
いいえそれは自分自身にも判らないうちに造りだすのです

自分自身を見つめているのが自我(主観)であれば同じことです。自我は観念でしか物事を識別しないからです。観念は相対世界です、つまり二通りの考えが必ずある。その観念は今までの知識や経験から判断され、そして判断するその心は自分の都合のいいほうに解釈しますからです

私はすべての現象といいますか、なんと言っていいのかはわかりませんが
それは人の心が造りだす答えだと思います

どこかの本で読んだ記憶ですが「愛と憎しみは反対のようになっているけれどもこれは一つの愛というエネルギーで、憎しみは愛の最も未熟な表現だ」という言葉があります

愛や幸せや好き嫌い、善や悪などすべて観念で捉えれば相対します。

元々は唯一つの生命であるのに対して対立するふたつの側面を現象化させ、この世界を造りだします

諺でもいいかげんで、「二兎を追う者は一兎も獲ず」があれば「一石二鳥」があり、「君子危うきに近寄らず」があれば「虎穴に入らずんば虎児を獲ず」があります

これは光と影に似ていまして、愛が光なら憎しみは影です、肯定的やポジティブが光なら否定的やネガティブは影です

つまり、自分は正しい心を以って信仰しているというのを観念で判断した場合、誤りという影が必ずついてきます

正しいか誤りかを主観で判断している以前に正しいと誤りがそこに「在ると決め付けている心を正す」ことこそが一番の修行だと思います

当然マントラも同じです、否定的な想念で発せられればその言葉と反対の念が届くことも大いにあります

ややこしいことを書きましたが、笑

それほどひとつの宗教のみに一本道をつけることが難しい作業であり、自分の心の在り方が外からの知識よりずっとずっと大切だと言いたいのです



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魂の行き先

2011-08-04 22:37:30 | Weblog
先祖供養や他の人と違う特別な行法をやっていれば亡くなってもたとえば天国へいけるや自分は救われるというのはどうなんでしょう

今はアセンションという言葉が大流行ですが、さて、もし地球が滅びたり日本に大きな災害が起きてもこれをやっていれば安心で救われるのでしょうか

これはリーマン教だけではなくほとんどの宗教の教義に含まれていますが

まず地球が滅びようが爆発しようが私的には「だから助かりたいの?」という感じです

人間が肉体を無くしても幽体として生き続けるように地球という物質も、この表現が終われば次の表現に移るだけのことであって、地球でも個人でもあらゆる全ての変化は媒体だけなのです

私達も含めての生命(地球の)というものは永遠なのであって、決して終わりはないのではないのですよ

もし私がアセンションに因る災害で亡くなっても、私の今の意識の状態がそのまま次の生活を選ぶだけと思います

もし恐怖を抱えている人には恐怖の世界が、自ら憎しみを手放そうとしない人には、憎しみに苦しむ世界が、自己中の人は利己中ばっかりの世界が、調和を以って平安な愛の心の人にはその世界がくるだけで、特定の教義を信じているとか特定の儀式をやっているとか特定の団体に属している等は私は亡くなったあとにはあまり影響を与えることはないと思います

また同じ教義を信じている人たち、例えばリーマン氏の教義を信じている人たちは共通の波動を持っていますので、共通の世界に行く可能性があるでしょう、もしもこれが迷いの教えなら幽界に移行してもみんなで迷う生活を送るだけです。

次に移る世界は、ただ今在る心の状態がその人の魂の行き先を決定します、

私は自分がどんな教義を知っているとか、知識を持っているとかどんな特別な儀式をやっているとかではなく、今自分の心がどうなのか、自分がいかに否定的な思いを手放し、沢山の制約から自由になっているかが決定的に重要になってくると思います

基本どのような儀式であろうがそれはその人それぞれだと思いますが、言い方を変えればさほど重要ではなく、問題はそれを行う本人の心の状態の裏付けがとても重要ではないでしょうかと思うしだいです

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