いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

より深い理解

2012-05-26 21:12:45 | Weblog
真理を理論的に考えるから混乱するんですね

真理は目の前にある

それが見えていないだけ

真理を正しい考え的な意味で捉えると混乱しますね

考えとか理論とか概念なんかは自然界にあるいろんな現象を、私達人間が理解するための手段です

それがどんなに真実味があっても心の中の映像で

自然界そのものでないんですよ

人間の理解で真理を具体的に定義などできませんね

つまり真理とは本当目の前の自然界(実相)であってそれがそのまま神と同義の位置になります

説明は難しいですがね(笑)

まあ、真理って普遍なものなのに、具体的に説いた時点で普遍が定義された制約になり

制約になれば当然他はダメになりますよね

「あの団体の教え(神も)すばらしい本物ですけどうちの神も本物です」なーんてこと聞かないですよね

普遍とは当然無限でもありますから、無限なるものを自分達の未熟な意識レベルへ引きずり下ろす行為ですね

有限という枠をこしらえるわけですからね

ここ大事と想うんですね

「この考えが真理だ!」という固定された観念を心の中に造りあげると、その人はありとあらゆることをこの観念という枠組みを通して物事を判断します

それに阻まれて真理の展開が進まず

「より深い理解」に進むんですね



いろはの「い」

プラゼボ

2012-05-23 21:41:59 | Weblog
「痛いの痛いの、飛んでいけ~」

子供って母親のこの一言で痛いのが飛んでいくんですね

これプラゼボ、つまり偽薬ですね

御利益なんてこんなようなもん

自分の信じる教祖様の言う儀式を信じて続けると人生が好転すると、素直に信じていれば好転する、「信じる者は救われる」です(笑)

一時ですがね(笑)

これはそう想うことにより心が安心し心が安定する

心が安定すれば、当然自分の周りも安定する

でも、、、偽薬ですから

いつかは不安や不満や怒りなど不安定な心に戻り「自分は不幸だ~」てなっちゃう

だから、これをしたからよくなったは、確かにあることなの、、ですね


いろはの「い」

心と観念

2012-05-11 22:05:57 | Weblog
わたしのこのブログも然りですが(笑)

本物であれ偽者であれ、どんな教えでもそれを人に伝えるために言葉や文章にして、それを読んだり聞いた人の思考で把握された時点でひとつの制約された観念となります

普遍である意識とは、文字通りどのようなものににも対応できるような意識のことなのです、つまり自由自在の意識です

宗教団体には派閥や個人的な対立は付き物です、仏教やキリスト教を筆頭に(笑)

これは当然その信者が悟りの意識状態を体験したことがないために、他人から聞いた神や仏や真理の解釈を本物の真理と錯覚して自分の考えとは違うものを排除するためです

この排除が、もう盲信状態です

この罠に嵌ってしまうと、外の世界のありとあらゆるものの中から、自分の信じているものと合致したり合致する人は認め、自分の信仰(盲信)を強化しようとし

逆に反対するもの全てを無視したり、過激な人はそのすべてを悪と決め付けます。これは自分の信仰を守ろうとしているだけで、なんの中身もありません

こんな迷った状態で自分がどんな状態や経緯でこの教えを信仰したとか、自我がいかにして偽者である観念を造りだして、それを真実であると見せかけているのかを見抜くなど不可能です

わたしはこれはただただ自分の信仰を守り、本当のことを知ることの不安を退けるだけで、そのために他の意見や見解をもつ人と争うようになっているだけです

特に過激な教えは敵や悪を説きます

これはこのような人間の自我などの心理を見抜いた巧妙な背後の仕業ではないでしょうかね(笑)
過激な国が仮想敵国をつくるようなものですね



「あなた達が真理について言い争うことはあり得ない、あなた達が議論しているのは、偽者に関することだけである。あなた達は自分がたった今生きていると言う事実については争わない、ただ自分の信仰や様々な観念について論争するだけである」

イエス




いろはの「い」

純粋無垢

2012-05-06 11:30:32 | Weblog
「無垢」そうですね

ここに全てがあるのです

よく、汚れた魂とか魂に垢がつくとか「好きなこと」言っていますが(笑)

そのようなことは絶対ありません

この世でどんな行動をとる人でも魂のレベルでは全ての人の魂はみんな純粋無垢な輝きをはなっています、魂自体にレベルなどありません。

そして外側の世界も無垢なのですが、その視野にフィルターをかけているだけです

そのフィルターは固定観念や概念、常識やこの世界での道徳です

純粋無垢な世界を観るのは純粋無垢な魂です


いろはの「い」

全てが在る

2012-05-01 12:32:30 | Weblog
あくまでも私の感覚を簡単に書けば、、、

受動と能動

元々時間も距離もない世界にそれを心に創りあげる

時間という固定観念があるためそこにゆらぎのような心の変化を生じさせる

ただひとつの生命の生命は愛であり慈悲であるのですが

それに意味を持たす、影が生じる

ただひとつのエネルギーを向こうから見れば愛と感じ、こちらから見れば憎しみを感じさせて、そこで始めて愛の意味ができる

太陽の光は普通透明に見えるけど、特殊な機械を透せば多様多彩な本来の色が入り混じっている

これらの色が現象世界の観念、つまり幸せと不幸せや裏と表と置き換えると

この現象世界には全てが存在し、それがたとえば全て見え、そして愛や光が現実味と感じ、憎しみや影、つまり否定的なものが絵に書いたもちのように、ただそこにある状態だど体感できたとする

そうなればそれが多様な色が入り混じって透明の光になる現象と同じく

全てが在ると感じる意識状態が「無」となる

「無」や「空」は、なにもないでなく

「全てが在る」状態である

と感じる



いろはの「い」