いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

意識「ぼくはきっとできる」

2011-10-31 22:53:02 | Weblog
「追い込むのと促がすのは違う。
そっと示すのが無難。
後は本人に懸ける(懸かる)だけ。
他人に出来るのはそれだけ。
みんな自分の人生を抱えているからね。」


本人の道(求道)は本人にのみ懸かるのであって、それは自分が自分自身で自分の
欠点や長所、たとえば金にルーズや女に目がないwや気が短いや親が勉強熱心なのに勉強が大嫌いとかいじめに会うとかという人生という個々の数々のドラマを演じて学んでいく本人だけに意味のある課題をひとつひとつ解決することが一番の近道と思います

うる覚えですが、中国のことわざで
「食べ物を与えるより食べ物をとる方法を教えなさい」といったような言葉を思い出します

私は悟りへの道というものも本人にしか意味を持たないように感じます

道元さんは座禅の最中に隣の僧が棒で叩かれるのを見て突然と悟ったといわれています
当然これは道元さんにしか意味を持たない道を歩み、そして最後の瞬間は「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです、本当かどうかは知る由もありませんが「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです(笑)
普通想像するならどこかの洞窟で瞑想中に悟ったんちゃうのん?ですがね
もちろん道元さんはこのことへの説明もしていないと言われています
私は説明はできないのではと感じます
当然です、自分にしか意味を持たないのをわかっているのですから

自分自身の意識は「さあ変えまひょか♪」で早々変わることはありません
身近な人との関係もそうです、自分の意識を変える前にこの世の現象が
果たして実相であるのか、自分が要らぬ固定観念や観念、概念に雁字搦めに
なっていないか、友人や周りの人たちへの思い込みや敵対心や好きや嫌いは本当に真実なのか、否定的に思うというのは自分の思い通りにならないことに否定的になっていないかということ
その総てがクリアーになったときに私は次のステップが待っているように感じます

そのステップとは自分自身でしか表現できないことへの内なる自分だけのオリジナルの啓示のように思います


「意識したものを見る、意識した所へ行く!
簡略化すればそれが本質!」

尊敬する宮沢賢治氏のコマーシャルの言葉
「ぼくはきっとできると思う
なぜならぼくらがそれを今考えてるのだから」

これは賢治氏の本質です

きっとできない、出来ないかもしれないと考えるのが人間です
この課題はこれからもっともっと書いていきたいと思います

これは私たちが目の前に観ている物質もそうだと思います
日常目にするものを全体としてどう捉えているかを何日も実践したことがあります
そんなところに普段意識などしません、「そこに当然あるから見える」です
そこで感じたのは全体としての個を見ているのではなく、ほかを排除した
個として(言いにくいです^^)観ているように感じます
カメラのピントみたいです(笑)

大自然や雄大な海を遠くから眺めると心が洗われるような開放的な感覚になるのは
無意識に全体を見ているからではないかと思っています

私たちの日常はいつもその個に焦点をあわせ、それを認識して意味を把握してます
この焦点がずれているとすればどうなのかとあほなことを日々学んでいます^^



今日はこのへんで
読んでいただいてありがとう^^

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意識の根源

2011-10-29 01:24:20 | Weblog
わたしにとってとてもためになるコメントをいただいています
まず今日はこのコメントから私なりの考えを書いてみます^^

「意識、魂であることに優劣はない。
すべての意識の源泉が神に繋がっています。
優劣に見えるのはAからBを見た状態。
360度から見て初めて何かが分かるものです(これが基本)
正誤・善悪・正邪・・どちらが正しいなんてありえない。正しそう、悪そうに見えるだけ。
その偏った見方をさせる「心」とは3次元感覚のポログラムに過ぎない。
心を見る「意識」が本当の本体。」

そう、この360度の視野がとても重要なことと思います
以前も書いたけど仏教の無や空とはなにも無い状態ではなく総てがそこに在る状態
総てが在るから「無」が生まれる、ここの認識の違いが大きいと思う

当然正誤・善悪・正邪すべてがそこに在る状態
それはなぜか?簡単に書けば自分の内側にも総てあるからと思います
ただこれを自我(個)で捉えてしまうから混乱を起こしてしまう
自我意識で正しいのはどっち?善はどっち?と識別してしまうのがほとんどの宗教
そして私たちもそう、善も悪も無い正しそう、悪そうに見えるだけw。


この教えは仏教では高僧にならなければ混乱を招くので
教えないと言う「なーんだ善も悪もなければ何をやってもいいんだ」って感じになっちゃう
肝心なことは善がどっちで悪がどっちを学ぶのではなくて
善も悪も正も誤りも良い悪いもないということを徹底的に自分で理解することではないでしょうか(当然わたしもまだまだです^^)
本来なら自由な意識を解放し、視野を広めることこそが道と思うのですが
ほとんどの宗教は「これは駄目」「これは偽」「これは悪、善」と逆へ逆へと導く
当然団体の信者も人に決めてもらうので楽です、人間楽を選びたがるものです(笑)
これが過激な宗教ほどその教えが強力となる、そこに魔や邪という言葉が絡む
魔や邪は人間にとってはとっても興味深いものです、人は興味深い迷妄に心引かれるもの、私の息子(小三)の本棚には「悪霊の教科書」「影の大国」「先生は魔法使い」という本がある、影が大好き♪全部で四冊しかないのに(嘆きw)
そして自我の産物に観念がある、観念とは過去(過去生も含む)に学んだ知識や経験
好きや嫌いが私たち人間という媒体(波動)に刻印されている
過去の記憶という表現ではなにか少し違うと思う、媒体に刻印されているという感じ
他から独立した個の意識が人を比べ幸せを比較し良い悪いを造ってしまう
ただ大事なのは観念を記憶ではなく観念を無意識に通しているという表現
この強力なものが固定観念、時間や空間が当然のように存在するという錯覚
これはまた後に書こうと思います

前の記事(映画)での続きですが
本来の意識状態とは自分だけを完璧に客観視できる状態、だけではなく
そこに登場する総ての物質、友人や家族から鉱石や草花、犬猫、動物に至るまでの
目線(視野)もスクリーンに映し出される、つまり総てが主人公の映画
それだけではない、そのものたちの想念や性格、幽体から過去生やカルマに至るすべてが把握できる状態
それがまるでパノラマのごとく目の前に展開し、その総てを一瞬で理解できる能力の視野の状態
まさにそのときに「無」を実感するのではないかと思う、すなわちこれが「悟り」ではないかと思っています
当然そこにどちらが正しいなどない、それがこの方のコメントの言葉を借りれば
二次元的に観える、実相として、つまり感情レヴェルで捉えられるのは正や善や喜びで感覚としては元々それしか存在しなかったのだということに気付くという感じです
光と影にたとえるなら光の部分で、影の部分つまり否定的な要素は意味を持たない絵に書いた餅
これは心が判断するのではないというところが肝心でしょう、無意識にそう観えるという表現でしょうか
そういう意味で影つまり否定的な要素は幻影、アチャラ語ではマーヤと言いいます

そしてもしその視点に立った意識状況ならと想像してみます
憎たらしい言葉を吐いてくる気が強く短い乱暴者の友人の奥底には進化しよう進化しようとする健気な純粋無垢な魂がはっきり観えていて自身にはその魂の実相しか感じない(言い方はおかしいですが)
その憎たらしい言葉や否定的な部分には全く感情は動かない、そうなればただただ愛と慈悲の心で接することが可能になるのではないでしょうか

「その偏った見方をさせる「心」とは3次元感覚のポログラムに過ぎない。」

この心には時間が拘わるように感じます、本来は時間や空間も無く距離もないのですが
私は神話にはあまり詳しくはないですが、国産みで右に回り、失敗して左で成功したと在る(右?左?)
要するに国産みとは二次元の世界を三次元化させた行為ではないのかと思ったりもしています

「心を見る「意識」が本当の本体。」

本来の自分(意識)が自我の自分(五感)を通して外の世界を観ているだけなのに
そこに自分が主人公になってしまう、普段映画を観てまるで主人公にでも
なったかのようにドラマに入り込んでしまう人のように
それがあまりにもリアルなので、そこに「個」が在ると錯覚してしまう
そしてそれを現実と思い込み、総ての現象に意味を付けている状態ではないでしょうか
つまり「パーソナリティ」がそこに観える、ちなみに略は「仮面」
よって心(自我)を見る「意識」が本当の魂なのだと思います


読んでくれてありがとう^^

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意識

2011-10-24 01:21:51 | Weblog
意識ってなんなんでしょうかという提案です

いろんなところで使われていますね、たとえば私はサッカーが好きなのですが
明らかに本田君が入ったことで今までの日本代表になかった「ゴールへの意識」が変わっているのが素人の私にもわかります、普通は見えないものなのにね
また事故や病気でよく「意識が戻った」というような表現を聞きます
どうでもいい話かもしれませんが昔むちゃくちゃ考えたことがあります
親友が自動車事故に遭い「意識不明の重体」に陥りました、心臓は動いていてお医者さん的には「あとは意識がもどるかどうかが問題」という状態が一ヶ月続き、結局24歳という若さで亡くなりました(合唱)

そのときに感じたのが「心臓より意識が重いのか?」という素朴でばかな疑問でした、大事かどうかは科学的には知りませんし、興味はないですが^^

それからというもの自分の意識が今の今どこを向いているかといったことを半年ほど観察しました(変な奴ですねw)一人山にもこもりました(爆)

詳しくは書きませんが、出てきた答えが、意識というものは肉体とか心とかからではなく、どこか違うところからつながっているという結果だったことがあります
後に信頼する修行僧のひとが私に「修行とは意識を変えることだ」とつぶやいた言葉になぜか脳天をぶち抜かれたような衝撃が走ったことがあります、「意識を変える???」

キリスト教の真我意識、そして自我意識、潜在意識、、、、なにこれ??と

たとえば宗教とはとの質問に「そらあ神さんにお願いすることやんかいさ」と思う人もいるでしょう「救ってくれるところ」かも「心のよりどころ」もあるかもしれませんし「宇宙との一体」と思う人もいるでしょう
これってある意味意識の違いと思います、たとえ誰かから学んだとしても意識の違いだと思います、またこの意識の違いにどれが高い低いという意味ではなく、「現世利益でんがな」という意識の人に「総てはひとつなのです」と説いても「アホちゃうか」となります、どちらが上や下ではなくそれがそれぞれの捉え方であってその意識を無理やり「あんたはんは間違ってる!無知?」ではだめでしょうということです(上手く書けません)
つまり幼稚園児に大学の問題は理解できず、その幼稚園児もその進化過程であっていつかは必ず大学を卒業するというだけなので、幼稚園児がだめではありません

だから何回も書きますがこれは私個人の認識です、皆が今こう思わなければならないというような意味合いでもなく強制でもなく私が進んでいるということでもなく正しくもなく間違いでもなく、できれば参考程度に読んでいただければと書いています
その意味ではリーマン信者さんはかつて私もそうだったようにその人の進む過程を魂のレベルで自ら選んで進んでいるのですが、できれば早く進んでほしいといったところです

わたしはこの意識が「大いなる意識」または「ただひとつの生命」「唯ひとつの宇宙」あまり書きたくないですが「神」から繋がっていると考えます
わかりやすく書けば、神や宇宙や仏と呼ばれるものがこのただひとつの生命であり、ここから私たち個々の肉体を通して外の世界を見ているような感じです
前にも書いた?かもしれませんが、どこかで読んだか聞いた話に映画の話があります
主人公が私の映画を私(神の側面)が観ています、この主人公の私が実際にこの世にいる(と錯覚してる?)私です、そしてそれを観ているのが本来の私です、、ややこしい?

で、その映画は私の身体は映りません、私の目線にカメラがあります、こんなシーンの画像ってよくありますよね
本来なら実相の私は分離感もなく無垢な魂の私ですつまり覚者です、その覚者の私が映画があまりにもリアルなのでまるでそこにもう一人の私(個人)が実際に存在しているように錯覚している状態です

その私と私を結んでいる(これも変な言い方ですが)のが意識です
亡くなると肉体は灰になりますが意識(魂)が次の表現場所に逝きます
幽界で天国と思うところへ逝くのも地獄へ逝くのも意識の違いです、魂の汚れ具合ではないです

そして現状の私たちの状態が制約された意識状態です

参照している側の私はこの個人の私に焦点が合っているために、外から入ってくる情報(世界)があるために、分離という波動の生じていない精妙な意識(キリスト教で言う真我)が五感という雑音にかき消されるように潜在意識の奥底に潜ってしまって、個人という制約された意識、つまり自我意識だけが表面に知覚されているということです
そして魂に垢などつかず、どのような人も魂のレヴェルでは純粋無垢な光を放っているのですがこの自我意識がそれを曇らせている、フィルターを通していると感じます

とうぜんこんな話は聞く人によってはトンデモ話ですし、ここにはもっと複雑な説明がいることも事実ですので、、あしからず(笑)

人間の心の中で造り出される観念で宗教や真理を把握しようとするとそこに議論や理論的な考えが生まれます
説明は難しいですが^^
理論的というものは西欧では当たり前なのですが、答えがないものに対して行うものです、んーなんと言うか^^
たとえば私は真理は目の前に在ると感じています、それを観るのが本来の意識状態です、因って真理を示すにはそれだけで事は足りるというか自分自身が観る(体験する)しかないと考えます
そこに理論的な証明はありません、リーマン氏の真理はもちろん示しているでしょう、でも信者には実感として把握できないので理論で捉えるしかありません、理論には好きや嫌いや有名やからとか心の状態からも生まれますし、信者側の意識や過去の経験などによって総て違います
要するに理論的に真理を考える?ようなことができるのかどうか、またたとえば釈迦が「十方無限世界即ち我の身体成り」と実感したことを言葉にして伝えることができるのかどうか、これは言葉を超越した体験だと思います
あらゆる宗教はこの総ての人に内在する叡智(いわゆる神の意識)に因るのではなく、観念として捉え、伝えていかなければいけない(なかった)ところになにか大きなヒントが隠されているように思います

「意識を変える」なかなか困難な問題かもしれませんね(笑)

『その日を境に、私には、私自身の無形の自己と異なるものは何も観えませんでした。そしてその自己の中には、全宇宙が小さな泡のように存在しているのです』マータ・アムリターナンダマ



あ!
すいません、今日から検証という立場を省いていきます
ただ今までみんなのブログというような場所でしたので、このブログは強く私個人のブログではないと私自身認識しています
もし、やっぱりこの検証ブログが抜けないようならまたそれが私のルール違反ならその時点で閉じさせてもらいたいと考えます
もちろん愛する(笑)リーマンさんの話題も時折入るかもしれませんが。。。。


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光or影(二)

2011-10-14 23:04:21 | Weblog
影について書いておきます

何回も書きますが、これは私個人の見解です、誰かに訴えるものでも強制するものでもありません細かい説明は置いておきますが、人にはそれぞれの考え方があります「これだけはぜったいだ」と肩を怒らせてもそれも。。。それは迷妄です^^
迷路に迷い込むだけです
わたしは影そのものが迷妄であるということを書いていますので、影について「こう対処しましょう」などまったくありません、無視できるなら無視し、常に光のみに意識を向けることが賢明な選択だと思っています

ただこれは影が全くの幻だと言っているのでは絶対にないです。実際には観えるし感じるものですがそこになんの意味もないということです、絵に描いた餅のようなものです
多分覚者にも確かにそれは観えるのですが、そこになんのリアルさも実感もわかないのだと思います


光と影はそれでひとつであって光のもっとも未熟な表現が影ですといっています。両方とも同じ表現で、これはたとえば幸せと不幸せや善と悪、愛と憎しみとか全てに当てはまります

私の感覚ですが、何らか(大いなる)の意志が動きます、これを神と呼ぶかどうかは別とします、たとえば大いなる生命とか大いなる宇宙といった表現でもかまいません

それが序々に降りてきます(これもあくまでも一表現です)そして最終的なところにこの物質的現象世界に原子というものを使ってこの世界を表現しています。

ただものの表現には必ず陰と陽が必要となります、上と下、右と左から幸せ不幸せ、善と悪、好き嫌いというふうにどちらか片一方が欠ければ成立しません

要するにただひとつのエネルギーが現象として何かを創造するのには本来ただひとつのものをふたつの極(火と水)に分離することが必要です

そのひとつに光と影があるだけです

影の存在が実在します、その影にかかわらない方法には、ややこしいことはいりません、が、そのものたちはなにに対して働くのかといえばそれは人間の否定的な心のみを通してしか働くことができません、たとえば利己的や敵対心、不満不安や恐怖、自己顕示欲や高慢な心、つまり人間の影の部分にのみ働くことができます
逆に言えば光の部分には働くことができません

「有料先生は魔です」この言葉に魔は存在すると学びます、存在するならこうしなさい、これを唱えなさい、ここへ行きなさい、つまりその行為がまちがいとかなんとかというより、魔を意識させる行為が偽者です

私たち人間の心の中には、光と影、言い方を変えれば真の我と自の我の両方の表現をする可能性があります、指導者が影や魔を強調すればするほどそれを信じる人の心の中に強力な分離感が生じます、まさにそのときに影の勢力はそれを利用して私たちの心の中に不調和な表現を行うのです
表現は極端かもしれませんが、汚い汚れた部屋にゴキブリが来ます、清潔な部屋には入る隙がないのと同じことです

影や悪が名札をつけているわけではありません、その外の世界に悪や魔が見える時にそれを悪だ魔だと考えるのはどうなんでしょう?
それ自体が外の世界と自分とを区別していることであって正しい視点とは言えません、わたしは日常にそれが見えた時は「神が自分の至らないところを未熟な相手を使って見せてくれている」と考えることにしています
なぜなら、外に影が実相として観えるということは自分の心の中に影が存在している証拠なのですから


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諸刃の剣

2011-10-11 14:40:16 | Weblog
簡単に霊媒体質について書いてみます^^

肉体を肉の塊(笑)へんないい方ですね^^、物質と捉えているとややこしくなりますが、肉体も媒体つまり粒子とか原子とかのレヴェルで診ればわかりやすいのですが、つまり肉体も物質原子によって構成された物質です
その他にエーテル体とかメンタル体、神智学ではメンタルレヴェルなどと言われています、つまり体ではなくレヴェルというニュアンスなのですね

その中のアストラル体と呼ばれている媒体がありますが、これはよく聞きますよね

このアストラル体というのが人間の感情を知覚して表現するという役割を果たしています、簡単に書けば感情はアストラル体で司られるということです(全てではないです)

そしてよく言われている幽界がそのアストラルレヴェルの世界となる、つまり肉体という媒体ではなく幽界へ行くのはアストラル体がいくと言うニュアンスです

で、そのアストラル体というものは普通は肉体の中にあります、中という表現はちょっと違いますね、肉体に隠れているというほうが近いでしょうか

このアストラル体が霊媒体質の人はどこかが肉体よりはみ出している(表現は適切ではないかも?)人のことを言います、余談ですが霊媒体質の人は感情の起伏が激しいというのもこれに影響されます、普通ならアストラル体が「ムカッ」としても肉体が押さえるという感じですが、押さえられない部分があるのです

このアストラル体に霊との繋がりの大きな接点があります。

まず、幽界と繋がるとよく言いますが、これってなにが繋がる道となるのでしょうか、特別な儀式をするとかではなく多かれ少なかれ誰でも簡単に道は繋げられます、私達が普段起きているときに常に表現しているこの「意識を向ける行為」です

意識を幽界へ向けるだけで人によって差はありますが道はつながります

単純で簡単な例で説明するとです^^

私と姉が心霊スポットへ行ったとします、二人ともそのスポットのことを話しをしながら車で向かいます、話をするほどですのでもう意識はそのよからぬ存在へ繋がっています

自縛霊のAさんはその意識を当然キャッチしています、だんだん近づいているのが当然わかります、そして現場に着き、ふたりは歩いてそこの特定の場所へ行くのですがAさんにも近づいてくるのがわかります

そして二人が視界に入る、つまり私達がその場所が見えるほどの距離まで来ればAさんはその意識を向けているの方を見るのですが、人間がアストラル体(幽体)が見えないのと同じようにAさんからも肉体は見えません、が、私のはみ出たアストラル体は見ることが出来ます

見ることが出来るということは向こうからも性格に私への道を繋げるという意味でわたしにはそのAさんが見えたり感じたりするのですが、姉には見ることができないという理屈です

これは幽界へ意識を向けない限り繋がらないという法則にも関係するのですが

これを三本供養に置き換えれば自ずと問題があるのがわかると思うのですが。。。

ただ問題はこの私の文章も恐怖を煽る可能性もあるということですが、もし心当たりがあるようでしたら、別に必ず霊能者に徐霊してもらうこともいりません、要は「忘れる」ことです。
多かれ少なかれ人間にはそのような因果はついていますから、何回も書きますが、よからぬ存在とは影でありますので、それに意識を向ければ向けるほど強力となります。影と戦っても終わりはありません。意識が向けられなければ「なんやしょうもない」っと自分から出て行かざるをえません、思っているほど複雑でもありません、その自分の心が複雑にしてしまい意識を向け強化させるという悪循環をしてしまうのです

私の友人に神智学を学んでいる人がいますが、訳わかりません^^

一番簡単で一番難しいよからぬ存在に憑かれない方法をひとつ

「わたしは霊なんかにとり憑かれたりするもんか!」という真に強い意志で済みます

以前私は精神世界を学ぶにこの恐怖はつきものだと書きました、そうですよね、神を学ぶと悪や魔がオマケのように付いてきますから^^、リーマン氏は直接魔を強調していますが(笑)

これもごくこぐ解りやすくかけば、たとえば10レヴェルを悟りとします(方便です)、10まで行けば魔は心の中からなくなるのですが、たとえば2レヴェルならマイナス2の魔が8レヴェルならマイナス8レヴェルの魔がオマケでついてきます

8レヴェルまで進んだ人がなにかの弾み(現実界にはいろいろなことがあります)で自我意識を働かせ、嫉妬や恨みの心を持った時その8レヴェルが諸刃の剣となるのです。

もし仮にリーマン氏が2チャンネル時代には純粋な5レヴェルだったとしましょう、ブログを立ち上げてどこからか「出版しませんか?儲かりますよ」と誘われたり、熱心な信者から「あなたは凄い」と絶賛され、違う方向へ違う方向へ心が働いてしまったとします、この元のレヴェルが高ければ高いほど逆のレヴェルも高いということになります

なにごとにも否定的な心や存在は実在しない影だと思い、無視することで私も最近では一切否定的な存在は見えなくなりました

ただ影の名誉のために言っておきます(笑)
宇宙の大いなる表現の中で、唯一の生命の光と、迷妄に囚われた心に遮られて生じる影が私達の前で現象化し、そしてこの両者がお互い入り乱れて私達に一人一人の人生のドラマを演じさせてくれているのであって、これは分離感のない他の星では決して得ることが出来ない特別な魂の経験をするという意図があります、この世は修行の場という意味です

そしてなにより影やよからぬ魔と呼ばれる存在も、本当はより深い愛を必要とする、つまり私達と同じ同胞と言えます

影も私達も同じ自分の表現を通して成長しようとしている点では同じということを付け加えておきます、意識や強い感情を向ければ向けるほど影が「強くなってしまいます」これは彼らのためにもなりません

まあ、とにかくどのような教えでも魔や影を意識させる教えは疑ってかかるのに越したことはありませんね

追伸、これはあくまでも私の意見です、人の意見は人の数だけあります、実相である真理(神)を理論で説明することはあまりにも困難で不可能です、これは私個人の参照でありますので当然反する意見もあります、信用するしないはその人の意見ですので、参考までに読んでもらえればそれでいいですし、そのことで理論のやり取りや正しいか間違いなのか、つまり否定的な方向が見えるようなこのなら私はこのブログをやってる意味もありません


と、言うことです^^



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教義

2011-10-07 22:06:43 | Weblog
リーマン氏の教義は言葉の教義そのものですよね

顔の表情や全体からくる雰囲気を観ることもなく、言葉のみでの学びとなっています、あ!雰囲気とかはありますが^^

その言葉の「ええかげんさ」を書いてみようと思います

私達が普段聞いている雑音とか人の言葉とか鳥の鳴き声や美しい音楽などというものはこれこの物質世界に存在しているものは単なる空気の振動ですよね

この振動が高いとかという振動数の違いがあります、人間が音として知覚される空気の振動は当然限られていて(人に因って異なります)低い方は15から30位ヘルツで高くは1500から2300ヘルツです
たとえば犬はそれより1オクターブほど高い40000から50000と言われています。
30000ヘルツは犬には聞こえるが人間には聞こえないということです(実感のある音として)

単純に考えれば私達の知らない音が存在しているということですよね。

では言葉はどうなのでしょうか、わたしがもしフランス語でまくし立てられたとします、これ単なる雑音です^^
でも日本語では単なる音ではなくそこに何らかの、時にはもっともっと複雑な意味が生まれます

これ、ひとつひとつの単語は相手に確実に伝わっているに拘らず、話すほうの意図する意味と聞き手の受け取った意味が全くことなる場合がありますよね

それは意味というには空気中に発せられた音の中にあるのではなく、それを意識した人間の心の中で造りだされるものなのです

いろいろな要素、たとえばものの考え方や過去の知識や経験で意味というものが造りだされるのですが、当然この要素って人それぞれ異なります、微妙であったり時には大幅に異なります

有名な人の話に洞窟の話があります
洞窟の中で暮らしている人の集団があったとします、彼らは一生に一度も外へでることのない生活を先祖代々続けています。当然この世界ですからたとえば空とか海とかといった言葉すらありませんし光や色といった概念ももちません。この人たちにこの人達の遣っている言語だけで外の世界を説明することがどんなに困難なのか、たとえば夕日に沈む富士の山や大東京のビル群を説明できるのかということです

これ、精神世界そのものに置き換えることが出来ます

地上で暮らしている幽界や観えない世界を観たことのない人に霊線や魂や幽体や天国を限られた地上の言葉で説明することがはてさて出来ると思いますか?

ましてやここには観念や概念といった厄介な存在があるわけです、「地獄」という言葉ひとつを100人いたら100通りの意味を付けてしまうわけです

実際には幽界やその他の世界は高次現象界と言われるように、この高次現象界を地上の言葉や観念を使って説明をするにもこの洞窟と同じことが生じるのです

リーマン氏も数年にわたりブログで教義を続けていますが、これがもし真理だとしても実際に信者がどれほど会得しているかとなれば本物偽者以前の話です

仏教では禅問答のようにまるでトンチのような修行があります
これは言葉で表現できないものについて、どのような答えであっても相手(師)をなるほどと納得させることができるか、答えの在るものを知恵によって答えるか、答えのないものを智慧によってこたえるかの違いです

また、同じ教団内でも捉え方が異なるのでそこには当然派閥もでき、時には争うといった現状もあるわけです

この私の書いている拙い文章も一歩間違えれば違った方向へ捉えられる恐れもあるわけですので、どんなことにせよ外からの情報というものには充分気をつけて内からの眼で診ることが肝心ではないかと思います

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光or影

2011-10-06 22:32:15 | Weblog
『簡単に言うと「良い事をしましょう」的な感じでしょうか。でも、単純に考えると他を排除するという行為は「良い事をしましょう」に反してます』

ハートさんとは少し考えが違うかもしれませんが。。。^^

私はこの文章にはとても深いものを感じます。

まず、これは観念世界の認識ですので良いことをすると言った背景には悪いことはしないでおきましょうが存在しています、そしてこの場合には悪いことは排除はしていないです
良いと悪い両方存在したことを理解したうえで良いを選んでいるだけですので、そこになんら問題はないのですが、排除となれば別の問題が生じます、これをただ無視するのならわかるのですが、もしこの悪いと戦うとか悪だから懸命に排斥、攻撃するという意識という意味なら問題です

なぜならこれはつまり光と影です、光が良いなら影が悪いになります

わたしはここに悪いという影は影であって存在していないのだと感じます
どこに存在するのか。。。。その人の心の中です

この世界(幽界も含め)は元々は唯一つの生命、キリスト教なら愛があるだけです、つまりこの愛を全体とすればなぜ良い悪いが生まれるのかと言えば、自我意識つまり肉体やほかの媒体から外の世界を分離して見ているからです

そこに生じるひとつひとつに反応しているのが迷った私達の心の状態が様々な心の像を造りだしてはその外の世界を真の姿だと誤認しています

あくまでも私のイメージですが、唯一つの生命(愛、慈悲)が光なのですが、ちょうど光に遮られれば実体のない影が現れるように観えるのです、三次元も影響しているかもしれません

影でありますので、本来は存在していないのですから、その影の部分、つまり悪や魔、怒りや嫉妬や不安などの否定的なものを心が現象化させているのです

この現象化というのが私が言いたいところですが、たとえばある人がなにかの行動を行ったとします、その行動はすべて実態ではなく波動で、その波動を自分の波動で認識して良い、悪いをつけています

もしそこに良い悪いがなかったらどうなのでしょうかと考えたりしたことはないですか?もし悪いというものがみえたらその外の行為ではなく、自分の波動に問題があるのではないでしょうかということです、どこかで聞いた言葉ですが、自我を見るのは自我です、真我が見えるのは自分が真我だからです。とあります

説明は難しいですが、少しわかりやすく書くと
私の姉は生まれつき綺麗好きです、この人の心の中(波動)に綺麗好きは良い、悪いはないですから人に対して「綺麗にしなさい!」と怒りません、当然注意のようなものはあるかもしれませんが「汚い好きは駄目!悪」といった意識はありません、なぜなら良いもないからです
昔はその汚い好きの私の後を普通にニコニコと片付けしてくれてました^^
で、母親は元々(今も)は少し道楽で部屋などの掃除は苦手なのですが、努力して綺麗にしようとしています、当然この母の心の中には「汚いのは駄目」という波動が刻印されていますので、ちょっとのことでも私に「綺麗に片付けなさい!」と怒ります
わかりますかね、このようなことと似ていませんか

もし嘘を付くといった概念のない正直者がいたとしたら、その人は人を疑いませんよね、嘘を付くという波動を自身が持たないからです、逆に嘘つきは人を疑ってばかりいます、これは人ではなく自分の波動(フィルター)で外が見えるからというのに似ています

このコメントでの「良いこと」というのは、世間体とか常識とかではなく、純粋な心の良心の動機にしたがって行うものなら、そこに悪いという比較は必要はありませんのですが、そこに他を、つまり悪を排除して良いことをしましょうというのは道徳的には正しいかもしれませんが、霊的には悪を認めることとなります、、、、わたしは認めません、影ですから(ただまだまだ観えてしまいますがね)

自分の進化に必要なのは常に自分が意識しているものが実在であるのか、それとも現象であるのかに注意深く観察することが重要だと思っています

神の創造したもの、つまり光に意識を向けることが肝心であって、人間の分離意識が造り出した幻影に意識を向けている限り、本来の意識が顕われることはないのではないかと感じております

だから宗教の教義を見たり聞いたりする時にも、その指導者が光(肯定)に信者を導いているか、実体のない影(否定)に導いているかということは識別には肝心なことですしこれは別に普通に見分けがつきますね
この教えを下りれば地獄へ行くとか、こうなれば魔が付きますというふうな教祖は自らの心の中に影があるから必死に説くのであって、もし教祖の心の中が愛以外なにものもない状態なら、そこに魔や悪という言葉が出る隙間もないでしょう

この光と影の問題はとても複雑です、間違って理解されれば私のカルマにも影響されますので少しづつ書いていきたいと思います(まだまだあります^^)


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真我

2011-10-03 23:07:42 | Weblog
『人が神、仙、天、霊、幽、鬼、獄、地…界を感得する。人は垣根をつくり、上下を決める界に何故こだわるのであろうか。
万物普遍の神に界は、無いのに。』、、、、鬼雷

私は宗教というものが人間の進化に果たして役に立っているのかということがつくづく疑問であります、一歩間違えれば遠回りばかりさせられてはいないのかと思います

このコメントを私なりの解釈で書きますれば、この精神階層での神~地というものすべてにはこの地上と平行しているのだと思います

幽界であるから地上とは全く異なるのだといった考えは私にはありません
この世界に神もあり鬼も存在するのだと考えます

ではなぜ出来るのかと言えば、それは私達の心が造り出すだけであると、苦難を成長のチャンスと捉えるか、誰かのせいにしたり、なぜ自分だけが苦しむのかと捉えるかの違いは天と地ほどの差があります(実際は苦難もないのですが)

普遍の状態には界はない、この根本にあるのは「分離独立された意識」です

それを造り出すのは上下、高低であり、これもまた人間が造り出した観念というやつで、上が出来上がった時点で下が出来、高いを認識した時点で低いが生じます

私の知りうる中での宗教は、真理というものを内在している叡智に因らず、この人間が造り出した観念に因って解釈しているのだと思います

たとえばですが、イエスが「もしもあなたが私を識っていたならば、私の父(天)も識ったであろう」という言葉を観念として捉えれば
イエスと天の父なる神がなにか特別な関係にあると捉えることになります、この私を普通に捉える、つまり私とは個人の私と捉える、つまり観念で捉えるとこうなるのですが、この私を真我そのもの普遍である意識状態と捉えると状況は全く違ってきます

となれば、人々が内なる意識の自覚(顕現)に至ってイエスの実相である生命を識ることが出来たときには、それは天の父を識るのと同じことである
つまり、私(イエス)は特別な存在ではなく、すべての人がその真我という共通の生命を観ることができる意識状態では天の父と一体であり、イエスとなんら違いはないと捉えることができます

この意識はすべてを悟る完璧な働きをします、簡単に言えばこの意識で観る世界が真理そのものであり、そこに先祖がどうたら魔や天使がどうたらといった理論的な要素は必要はなくなります

この意識がイコールイエスと考えるなら
イエスのことを「神が人間を愛する故に遣わした、人類への最大の贈り物」は、すべての人に内在する普遍的な真我意識が解脱へ導く最大の贈り物となるのではないでしょうか、ここを取り違い、特定のイエス個人を神の座に祭り上げ、そのパーソナリティ(イエス個人)を盲目的に崇拝するといった間違いを犯していると私は思います

これ、リーマン氏も同じです、信者側から観ればリーマン氏は神の遣い、もしくは神そのものかもしれないですが、もしも(ないですが^^)そうであっても伊勢白山道というパーソナリティ(仮面)ではなく、その内に在る生命と解釈するのか観念として捉えるか、叡智として捉えるかの大きな違いになります
もしもリーマン氏が本物であってもリーマン氏個人を崇拝するのなら、なんら自分自身の成長にはなりません

またイエスの
「何者も私に因らずして父の御許に行くことはできない」という言葉をイエスが個人意識で語っているならイエス、つまりキリスト教こそが絶対であり、他を特別排斥する行為も理解できますが、この私はすべての生命、つまり真我、つまりすべての人に内在する意識と捉えると全く意味が違ってきます

私達とイエスの違いはイエスは自分が神であると自覚しており、私達は到底自覚していないというだけの話です

叡智とは何ぞ?となりますが、これはまた書きます^^

神が最上で地が最低とするならば、真我意識と自我意識、とくに他と分離さす心の強い人、この分離意識を植え付けるような宗教に盲信するなら、神など知らず、無宗教でも一生懸命この世の自分の役割を心を込めて丁寧に行う人のほうが、よっぽど魂として成長できる過程にあるのではないかと思うわけです

ちなみにどこやらの本で読んだのですが(なにかわすれました^^)
キリストとはイエス個人ではなく、彼を通して顕された唯一の生命である真我意識であり、これは「真我を自覚した人」や「真理に目覚めた人」という意味であり、したがって「イエス・キリスト」とは「真理に目覚めた人・イエス」となります

ついでに釈迦もそうです
「ブッダ」の意味はインド古代の「ウパ二シャド」の中では単に「真理を悟った」という意味ですし、ジャイナ教ではいかなる宗教の人でも、聖人、賢者のことを「ブッダ」と呼んでいたそうです、これが転じて真理をひたすら求めて修行している人たちを「ブッダ達」と複数で呼んでいました
つまりサンスクリット語のブッダとギリシャ語のキリストは「真理を悟った人」と言う全く同じ意味となる、つまり釈迦とイエスは唯一つの生命(真我意識)がイエスと釈迦という異なるパーソナリティ(現像我)を通して表現されたものと捉えることができるのです

このように宗教とはという捉えかたを変えない限り、その人はこの教えが駄目で、次はこれ、次はこの人といったよからぬ宗教家にとっては「鴨がネギを背負って」という現状(観ればわかりますよね)が永遠と続くことのないように、内在する生命、つまり外ではなく内に意識を向けることが観念ではなく叡智へと繋がるのではないかと思うのであります


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