「追い込むのと促がすのは違う。
そっと示すのが無難。
後は本人に懸ける(懸かる)だけ。
他人に出来るのはそれだけ。
みんな自分の人生を抱えているからね。」
本人の道(求道)は本人にのみ懸かるのであって、それは自分が自分自身で自分の
欠点や長所、たとえば金にルーズや女に目がないwや気が短いや親が勉強熱心なのに勉強が大嫌いとかいじめに会うとかという人生という個々の数々のドラマを演じて学んでいく本人だけに意味のある課題をひとつひとつ解決することが一番の近道と思います
うる覚えですが、中国のことわざで
「食べ物を与えるより食べ物をとる方法を教えなさい」といったような言葉を思い出します
私は悟りへの道というものも本人にしか意味を持たないように感じます
道元さんは座禅の最中に隣の僧が棒で叩かれるのを見て突然と悟ったといわれています
当然これは道元さんにしか意味を持たない道を歩み、そして最後の瞬間は「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです、本当かどうかは知る由もありませんが「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです(笑)
普通想像するならどこかの洞窟で瞑想中に悟ったんちゃうのん?ですがね
もちろん道元さんはこのことへの説明もしていないと言われています
私は説明はできないのではと感じます
当然です、自分にしか意味を持たないのをわかっているのですから
自分自身の意識は「さあ変えまひょか♪」で早々変わることはありません
身近な人との関係もそうです、自分の意識を変える前にこの世の現象が
果たして実相であるのか、自分が要らぬ固定観念や観念、概念に雁字搦めに
なっていないか、友人や周りの人たちへの思い込みや敵対心や好きや嫌いは本当に真実なのか、否定的に思うというのは自分の思い通りにならないことに否定的になっていないかということ
その総てがクリアーになったときに私は次のステップが待っているように感じます
そのステップとは自分自身でしか表現できないことへの内なる自分だけのオリジナルの啓示のように思います
「意識したものを見る、意識した所へ行く!
簡略化すればそれが本質!」
尊敬する宮沢賢治氏のコマーシャルの言葉
「ぼくはきっとできると思う
なぜならぼくらがそれを今考えてるのだから」
これは賢治氏の本質です
きっとできない、出来ないかもしれないと考えるのが人間です
この課題はこれからもっともっと書いていきたいと思います
これは私たちが目の前に観ている物質もそうだと思います
日常目にするものを全体としてどう捉えているかを何日も実践したことがあります
そんなところに普段意識などしません、「そこに当然あるから見える」です
そこで感じたのは全体としての個を見ているのではなく、ほかを排除した
個として(言いにくいです^^)観ているように感じます
カメラのピントみたいです(笑)
大自然や雄大な海を遠くから眺めると心が洗われるような開放的な感覚になるのは
無意識に全体を見ているからではないかと思っています
私たちの日常はいつもその個に焦点をあわせ、それを認識して意味を把握してます
この焦点がずれているとすればどうなのかとあほなことを日々学んでいます^^
今日はこのへんで
読んでいただいてありがとう^^
面白いかな?と思ったらおしてください
精神世界ランキング
そっと示すのが無難。
後は本人に懸ける(懸かる)だけ。
他人に出来るのはそれだけ。
みんな自分の人生を抱えているからね。」
本人の道(求道)は本人にのみ懸かるのであって、それは自分が自分自身で自分の
欠点や長所、たとえば金にルーズや女に目がないwや気が短いや親が勉強熱心なのに勉強が大嫌いとかいじめに会うとかという人生という個々の数々のドラマを演じて学んでいく本人だけに意味のある課題をひとつひとつ解決することが一番の近道と思います
うる覚えですが、中国のことわざで
「食べ物を与えるより食べ物をとる方法を教えなさい」といったような言葉を思い出します
私は悟りへの道というものも本人にしか意味を持たないように感じます
道元さんは座禅の最中に隣の僧が棒で叩かれるのを見て突然と悟ったといわれています
当然これは道元さんにしか意味を持たない道を歩み、そして最後の瞬間は「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです、本当かどうかは知る由もありませんが「隣の僧が叩かれるのを見て」悟ったのです(笑)
普通想像するならどこかの洞窟で瞑想中に悟ったんちゃうのん?ですがね
もちろん道元さんはこのことへの説明もしていないと言われています
私は説明はできないのではと感じます
当然です、自分にしか意味を持たないのをわかっているのですから
自分自身の意識は「さあ変えまひょか♪」で早々変わることはありません
身近な人との関係もそうです、自分の意識を変える前にこの世の現象が
果たして実相であるのか、自分が要らぬ固定観念や観念、概念に雁字搦めに
なっていないか、友人や周りの人たちへの思い込みや敵対心や好きや嫌いは本当に真実なのか、否定的に思うというのは自分の思い通りにならないことに否定的になっていないかということ
その総てがクリアーになったときに私は次のステップが待っているように感じます
そのステップとは自分自身でしか表現できないことへの内なる自分だけのオリジナルの啓示のように思います
「意識したものを見る、意識した所へ行く!
簡略化すればそれが本質!」
尊敬する宮沢賢治氏のコマーシャルの言葉
「ぼくはきっとできると思う
なぜならぼくらがそれを今考えてるのだから」
これは賢治氏の本質です
きっとできない、出来ないかもしれないと考えるのが人間です
この課題はこれからもっともっと書いていきたいと思います
これは私たちが目の前に観ている物質もそうだと思います
日常目にするものを全体としてどう捉えているかを何日も実践したことがあります
そんなところに普段意識などしません、「そこに当然あるから見える」です
そこで感じたのは全体としての個を見ているのではなく、ほかを排除した
個として(言いにくいです^^)観ているように感じます
カメラのピントみたいです(笑)
大自然や雄大な海を遠くから眺めると心が洗われるような開放的な感覚になるのは
無意識に全体を見ているからではないかと思っています
私たちの日常はいつもその個に焦点をあわせ、それを認識して意味を把握してます
この焦点がずれているとすればどうなのかとあほなことを日々学んでいます^^
今日はこのへんで
読んでいただいてありがとう^^
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