いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

信仰

2011-08-09 01:34:31 | Weblog
>信仰してても、表は熱心な信者・裏では腹黒いヤツだったら意味ない。

はい、単純な法則です
腹黒いとは利己的や攻撃的や不安、不満なんかの否定的な心です
「それだったら私は大丈夫だ!」
いいえそれは自分自身にも判らないうちに造りだすのです

自分自身を見つめているのが自我(主観)であれば同じことです。自我は観念でしか物事を識別しないからです。観念は相対世界です、つまり二通りの考えが必ずある。その観念は今までの知識や経験から判断され、そして判断するその心は自分の都合のいいほうに解釈しますからです

私はすべての現象といいますか、なんと言っていいのかはわかりませんが
それは人の心が造りだす答えだと思います

どこかの本で読んだ記憶ですが「愛と憎しみは反対のようになっているけれどもこれは一つの愛というエネルギーで、憎しみは愛の最も未熟な表現だ」という言葉があります

愛や幸せや好き嫌い、善や悪などすべて観念で捉えれば相対します。

元々は唯一つの生命であるのに対して対立するふたつの側面を現象化させ、この世界を造りだします

諺でもいいかげんで、「二兎を追う者は一兎も獲ず」があれば「一石二鳥」があり、「君子危うきに近寄らず」があれば「虎穴に入らずんば虎児を獲ず」があります

これは光と影に似ていまして、愛が光なら憎しみは影です、肯定的やポジティブが光なら否定的やネガティブは影です

つまり、自分は正しい心を以って信仰しているというのを観念で判断した場合、誤りという影が必ずついてきます

正しいか誤りかを主観で判断している以前に正しいと誤りがそこに「在ると決め付けている心を正す」ことこそが一番の修行だと思います

当然マントラも同じです、否定的な想念で発せられればその言葉と反対の念が届くことも大いにあります

ややこしいことを書きましたが、笑

それほどひとつの宗教のみに一本道をつけることが難しい作業であり、自分の心の在り方が外からの知識よりずっとずっと大切だと言いたいのです



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