いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

最強の祝詞

2011-08-26 01:43:27 | Weblog
マントラ(祝詞、真言)について書きます

これはサンスクリット語で訳しますと「マン」は言葉、「トラ」は道具となります、まさに「言葉という道具」になります

マントラを軽く考えてはいけません、人から聞いたマントラを真の意味も解らず軽く口にすることは避けるべきです

黒魔術というものがありますが、これは子音だけで作っているものもありますので聞けばなんとなくあやしいなとわかります、そのため私達の使う日本語は総て母音が伴なっています

これは不調和なマントラを構成することがないように日本語には神(大師)の意志がかかわっているからとも言われています

まずマントラには意味がすぐわかるマントラとそうでないマントラがあります、つまりマントラの意味を意識せずに唱えるやり方と、意味を深く理解して唱える方法の二通りがあります

意味が解らないマントラは、心の中に不調和な想念を造らないという目的で、純粋にその言葉の響き、つまり波動で自分の心を浄化させるのです。

意味の解るマントラを自我で認識してしまえば、自我というものは言葉の理解するものにはなんらかの意味をつけてしまいそれがさも事実のように見せかけますから、それが理解できない人はその意味に囚われる危険があります

説明は難しいですが

たとえばマントラの中に「愛」という言葉があったとすると、これを私達は観念で捉えてしまいます、観念の反対が実相だとすれば、ともすれば実相ではない正反対の想念を発してしまうおそれがあるのです

意味の解らないマントラの良いところはただ唱えること、つまり好ましくない想念が心の中に入ってこなくなりやすいというところです、ただ気をつけなければいけないのは肝心な自分の内なる実相に意識(念)を向けることもおろそかになってしまってただ唱えているだけ、つまり空念仏になってしまいます

で、発音はとても大事です、祝詞の綺麗な神主さんっていますが、マントラは発音が重要な側面をもちますがまたの機会に書きます

次に意味の解るマントラはといいますと、この言葉の真の意味とその言葉によって生じる効果について深く深く理解していなければいけません

なぜなら観念、つまり個人意識で捉えてしまえば心の状態によっては、観念ですのでその反対の想念が発せられるということが起こるからです

たとえば「私は生命である」を観念で捉えて、不調和な心で唱えると「私は生命ではない」といった念が相手に届くこともあります、それ以前に念というものは良い悪い、意識的無意識にかかわらず必ず相手に届きますので、マントラを自身に内在する生命にではなく幽界の存在へ向けること自体どうなのですかと思うのですがね

「生かして頂いてありがとう御座位ます」このマントラの意味するものとは、そしてそれを唱える人々の心の在り様とは、どうでありどなのでしょうかね


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