いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

幽界

2011-09-29 22:55:54 | Weblog
悟っていない人間、つまり解脱していない人間の霊視やチャネリングは幽界レヴェルだと以前に書きました

ある意味では幽界のほうがこの地上よりも情報が限られています、あくまでもその一側面としてですがね

これはなぜかと言えば、その人の波動領域の範囲内での視野で判断しているからです、言い方を変えれば自分の知っている範囲で判断したことを語っているだけです

この意味で地上で限られた視野の人となんらかわりのない範囲での判断になり、ある側面では地上よりも限られた視野といえるのです
ある意味この地上での視野とはどれだけ客観的に世界を観ることができるかだと思います(一側面です)

ここで範囲と書いていますが、別に次元(波動領域)と次元の間になにか明確な境界のようなものがあるのかといえばそんなものはないと思います、私は思うのですが、私達人間もそうだと思います、覚者とそうでない人の間に境界はないように思います、なぜなら解脱や魂の進化というのはその本人にのみ意味があるからのように感じるからです

この地上と幽界の想念のエネルギーの差というものがあります、このエネルギーとは想念の大きさと言いますか、観念の大きさ(重さ)です(説明むつかしい^^)
かんたんな譬えで言えば「これはりんごです」という観念は数億人分いや先祖を入れればもっと大きな観念(固定観念)という共同幻影のエネルギーが蓄積されていますが、幽界は違います、地上のように固定されたものではなく、本人だけの観念といいましょうか、かなり可塑的な要素を含んでいます

なにを言いたいのかと言えば、ひとつの現象を起こしたり変化させるのに必要なエネルギーはごくごくわずかで済むということです
ここでは目の前のりんごを「いや、これはみかんだ」と必死で思ってもりんごですが幽界ではその人の思いひとつでいかなる物質にもなるということです

で、幽界にもこの地上に近い世界もあります、ここで言う近いというのは距離的なものではありません(もともと距離などないですから)、地上での固定観念がそのまま維持されているような波動領域です、もしあなたが亡くなってもそこの世界は時間も距離もあり、日本も東京も大阪も家族もありと亡くなる前と同じという認識(極端ですが)に陥ってしまったとすればここと同じような生活を送るということです、つまり世界と言えば地上ではこの地球という物質ですが幽界の世界とはまるまる自分自身で造り出している心の世界なのです(厳密には地上も同じです)


この地上に近い世界から解放されるには、なにが必要なのかと言えば、決していいことをするとか仏さんに手を合わすというのではなく、制約された意識を開放することです、簡単に言えば意識を変えることです、幽界では「飛ぼう」と思えば飛べるのですが、ここに近い住人はそんなことはまさか思いません、たとえば京都に住んでいれば(意識の中だけですが)大阪に行く場合、バスに乗って電車に乗ってとするのですが、ドラえもんのようにどこでもドアの世界にもなります^^

そりゃあどこでもドアがあったほうがいいですよね、とっても快適だと思いませんか?食べたいものは思えば出て来るし、地上で好きだった渡辺謙さんにも「会える」と思いさえすれば会うことができるのですから^^
ただ目の前に謙さんが現れてもそれは謙さんそのものではないですがね、笑
謙さんのパーソナリティというやつです(注)

で、幽界でも地上という世界を認識している人も当然います、もし低いレヴェルの住人で、低いレヴェルの霊能者からコンタクトを取られれば「しめしめ。。。」
というレヴェルの話はいくらでもあります

ただ「あ」さんがおっしゃるように、幽界と言ってもとても広く、それはひょっとすると無限という言葉を使ってもОKなくらい大きく複雑な世界なので、私達や霊能者の言う幽界はそのごくごく一部分程度だと思っておくのがいいと思います
たとえばすべての地球の表現(海や大地からアリンコやバクテリアまで)を表すのは困難だ、という感じです
霊能者の言っていることも、地球で言えば大阪の通天閣界隈を「これが地球のすべてです」と言っていると勘違いするのは危険です
私達には(霊能者も含め)想像も及ばない世界や高いレヴェルには思考を超越した世界もあるのだと思っておくのが賢明だと思います

怪しい霊能者を見分けるのは簡単です、否定的な教義や敵を造ったり本来神レヴェルには「他」が存在しないのにやたらと周りを引き合いに出したり、攻撃したり、つまり人間性そのものを観ればわかります
ましてやそれがその指導者個人的な見解ではなく「神示」そうです、どこかからの啓示となれば発信者の出所はこの世で道徳や人としてを普通に学んで来た人なら理解できるはずだとは思うのですがね^^

長くなってしまいそうなので、、、、、このへんで^^


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霊視能力

2011-09-23 23:47:10 | Weblog
霊視というものについて簡単に書いてみます

リー氏は今はほとんどが「神示」と言っておられるわけなので、当然この霊視能力があるのが前提となりますね、ましてや神示ですからありとあらゆるものを包含した霊視ですということです

まあ、わたしのつたない文章なので、不足や誤解は多々あると思いますが、学び、感じ、実感したところを書いていきます

霊視とはを簡単に書けば、あちら(見えない世界)の情報(波動)を視覚化できる力が霊視能力です、過去や未来も見えない世界です、これらは物質が存在しない、すなわちあるのは波動だけです、過去や未来も波動です、これは霊媒体質という特殊な事情を持っている人しかできない能力です、その霊媒体質とは大まかですが、たとえば幽体が発達していて幽体のオーラが肉体からはみ出ている人、私^^(普通は肉体に収まっている)、肉体が浄化されていて肉体のオーラがその能力の妨げをしない人、また、額のチャクラが発達している人。私^^などです

で、霊視に使うのはほとんどがアストラル体、メンタル体というものであるのですが、この媒体は個人個人の波動スペクトルが異なるために、見えるのは全てが主観となります、要するに自分の持っている波動で参照していますよ~です、詳しく書けばややこしいので書きません

少しずれますがこれは私達が普段眼にしている現象(物質)世界も同じようなことが言えます

外の世界(波動)を自分の肉体の五感という媒体(波動)を通して見るわけですからその意味では私達はそもそも主観でしか世界を見ていません、いくら心に「客観客観!」と言い聞かしても見えるものの基本は主観です、よく客観的に物事を見るといいますが本質は思考レヴェルでは無理です(全てではないですよ)、要するにこれは両方の波動(外と五感(内))が干渉している、つまり見る人の心の中で外の世界の映像を造り出しているということです、あ!意志ではないですよ、無意識にです^^

では、問題はなぜ皆が同じように世界が見えるのかといえば、肉体の五感という共通の波動で見ているためです、噛み砕いて言えば肉体という同じレヴェルの波動で構成された媒体(肉体)を私達は持ちます、だから善人も悪人も見える光景はほぼ同じとなります、この五感(肉体)のない世界が幽界ですので幽界では完全に自分の波動と同じ波動レヴェルの世界が展開している状態で、善人と悪人は見える世界が全く違います、ここで言う見える世界イコール自分の生活する世界です、当然そこは人それぞれ個々の世界があり、そしてこの世と同じようにその世界を現実と錯覚している迷った状態で暮らしてます。この世で迷っている人はあの世でも同じく迷います(私もです、涙)

私が目の前のりんごを見て「これはりんごだ」と認識するとします、これは「見える」という私的にはとっても強い、いやこれ以上ない説得力になるので、疑う余地もなくあきらかにりんごですと思うのです、自分が見えているりんごを疑う人はまずいません、誰かが「これはパイナップルですよ」と言っても当然聞きません(笑)

幽界は違います、極端なたとえですが、りんごの原型のような波動がそこにあったとします、二人がそれを見ればこの世では二人とも「りんご」なのですが、幽界には肉体(五感)という媒体がありませんので、その人の魂の波動レヴェルでの参照となり、ひとりはみかんのように見えますがひとりはスイカのだと見え、地獄の住人は骸骨や憎い人の顔にに見える人もいるかもしれませんし、天国の住人ならダイヤモンドに見えるかもしれません、まったく見えない(波動が違う)かもしれません、この世と違いそれこそひとりひとり全く別の世界が目の前に展開しています、極端なたとえです、厳密には地獄の人が見える波動は天国の人には見えません

よく自殺がいけないのと言われるはこのためです、たとえばですがこの世で借金の取り立ての恐怖と苦しみで自殺してしまったとします、あの世に言ってもこの世と同じですので、この世でしたら電話を切ったり、その取り立て屋が絶対に解らないところへ逃げればたとえばその時だけは取り立てはきませんし、第三者が助けてくれるかもしれないですが、向こうでは想念が即現実となるので、たとえば恐怖のあまり「またどこかで電話がなるのでは」と思えば、確実に電話が現れそして鳴り「死にたい」と思っても基本死んでいますから死ぬことはできません、これを地獄と呼ぶかもしれませんが、これも本質的には幻影です、ここに早く気付くかどうかは本人次第ということですが、ちなみに必ず気付きます

これは私の弟で経験済みです

このことが前にも書きましたがサイキック霊視、つまり主観での霊視者(観る側)が霊視をして見えた世界も自分の主観で造り出している、つまり私達が経験しているのと同じようなことです。私達が肉体を通して外の世界を見るように、彼らは自分の幽体を通してその波動領域の外界が見えるだけです、ですから、未来を予知するのも、過去のカルマを見たり、たとえばパソコンの向こうの相手を見たりするのも主観で見ているわけですから真実はほど遠いではないでしょうか

もしこの世で低いレヴェルの霊能者が自分の低い波動レヴェルの幽体を通して見えない世界を霊視したらと創造すればわかりますよね、逆に高い波動の幽体の人は高次元の波動領域が観えるのであって、幽界でももう少しで解脱しそうなレヴェルとなればそこそこ信頼も置けるような気がしますが、確実に言えることはそのような高次の世界には魔や悪は存在しませんので、その人の霊視がどこからの情報なのか見極めることは簡単なこととなります

ただ過去を当てられた人っていますよね、これ結構当たります、なぜなら見てもらっている人の記憶にのこっているからです、厳密に言えばその人の波動に自動的に刻印されています

でも、例えば自分の過去生は武士だと思い込んでいる人を見ればその人の心が作り出した武士が霊能者から見えるのです、もっと低レヴェルになればその人の容姿で無意識に想像してしまい、それが見えるということもあります。主観を見るのは主観ということです、もし地震を予知するなら自分自身の全ての主観を取り除いて見ることができなければ、そこに何らかの自分の主観、これは自我ともあてはまりますが、その主観で見る限り、あてになりません、修行として山や洞窟に篭るのもこういった側面(主観を除く)もあります、自分自身を完全に客観視できる人が見れば、それは真実味はあるのかもしれませんが、この人はすなわち覚者です。釈迦やイエスと同じとなります

私は思いますが、そんな人は少し時期や場所がずれるなどありえません、ただやらないと思いますが(笑)

早い話が客観視できなければ霊視など見えてはいるのですがあてにはならないということです、私など主観ばりばりでしたので自分が無意識に造り出した思い込みを造り出し、自分でそれを見ている状態です^^
また、チャネルしてよからぬ存在にちょっかいをだされることもたびたにですので、きっぱりとやめました、それも全て影幻だと気付いたのもありますがね

で、スピリチュアルな霊視能力はそれとは全くちがいます

これは自我(主観)ではなくキリストで言う真我(客観)が関わりますから、サイキックのように限定された波動ではなくこの物質レヴェルから他の全てのレヴェルの最上まで参照します、ちょうど上空から地上を見下ろすような感じです
この真我の意識では全体が自分自身ですので、意識の焦点を変えるだけで違う時空間やまた意識を拡大すれば地球、太陽系、恒星系、銀河系まで一望できる状態の意識が覚者の本物のスピリチュアル霊視です

ちなみに自分の五感(観念)で想像しないで下さい、そんなものは比較もできないほど精妙で多彩な表現として認識します、これは五感にはない感覚のようなものです

それはなぜ解るのか?と聞かないで下さい、それぞれに人間は事情というものがあるのですから、笑

さてさて、リーマン氏はどの波動領域を参照してくれているのでしょうか^^


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分離感

2011-09-20 22:23:12 | Weblog
『要するに彼らは特別な集団を作りたいのだと思います』

miさん、いいとこつきますねw

これを私なりに解釈します
総ての根源は分離感ではないでしょうか、マタイ福音書の『ぶどう園の労働者の譬』のように影や悪という勢力は神に不信感を持った人、つまり強い分離感を持ったものが始まりとあります、「他から分離独立した個」です

釈迦は「宇宙は私自身で在る」と気付いた、つまり総てが自分という視点が悟りであるなら、少しでもそこに近づかなければいけないのであって、たとえば自分の子供の悲しみは自分のことのように悲しみ、喜びはまるで自分のことのように喜ぶといった方向だと思います、これは勿論愛や情という言葉でかたずけられるのですが、最も重要なことはその子と自分には分離感が少ないということではないでしょうか

子どもを持った母親なら自分の子供が今なにを考えているのかが手にとるように解ることはないですか?これが愛であり慈悲の方向、つまり一緒ということです

特定の神や行法を信じさすことが駄目ということよりも、もっと眼をむけなければいけないことは、大きな分離感、この大きいというのは、たとえば「あの人のように立派になりたい」というあの人と私の分離と「私達はあなた達とは違う高度な意識だ」という分離感の違いのように思います、真理は「皆が同じですよ」を皆と引き離す作業を一生懸命行っているのです、そしてそこに正しい誤りという理論は本当は存在しないように思います

そもそもの心の病の原因に分離感があります、人と自分を比べて、自分の周りの社会と他の社会を比べ、民族と国家が自分から分離していると錯覚している意識が「迷い」と思っています

『それはリー氏が一般の人間だからすべて手に負えないからです』

自分に否定的なものにも愛を注ぎ続けるのが真の覚者だと私は思うし、この地上にも必ずいます、私がそう感じている人は人知れず、エネルギースポットを周り地場を整える作業をしています、勿論無報酬です、真の奉仕者です

『内的自己思想だと思ったから参加していました・・』

私もそのように思ったから参加していました、「実践」とは日常の内的行為と思っていたのですが違いました^^

『リー氏を神として信仰しなければ仲間と見なせられず排除されるとは思いませんでした』

個人意識、つまり自我意識とは個人ですのでどれだけ人から学ぼうが自分の限られた経験と知識によって把握します、この把握は自分オリジナルです、これが心の中に造られた観念や概念となります
観念といえば小難しくなりますが、つまりものの見方です、主体性のない人に特に多いといわれています
無意識に自分の好みや曖昧な判断で造られた観念は自分の見たいものだけしか見ようとしないものです、どのような視点で「この人の言っていることは間違いない」と心で創りあげたのかは人それぞれですが、いったんその観念に囚われてしまえば、ありとあらゆることをそれを通して見ます、そうですよね、たとえば人類は数万年前に始まったからその前には神や魂も存在しないとか、魂の表現なんかは地球が生まれる遥か彼方の昔からあればどうしますか?つまりその観念や概念を通して識別します、ここではりー氏以外は偽物という考えも観念です
そうなればそれを追随するコメントには無条件にそれを認めて、自分の確信をさらに強化し、「ちょっとだけ違うんとちゃいますかい」というあやふやな意見や出来事は自分に都合のいいように曲げ、「間違いだ」という人にはそれを無視したり、悪と決め付け排除します、そうなれば事実を正しく理解することができなくなります

これはあるお方から学んだのですが大抵の入門書には書かれている精神世界のいろはだよ、ということです^^

『人間として欠点も始めからあるし、いずれ必ず慢心もしてくるのが「人間」なんです』

きっちりとした言葉は忘れましたが「過去を持たない覚者はなく、未来のない罪人もいない」という言葉を思い出しました
影も光も否定も肯定も総てが入り乱れて分離感がない他の表現世界では決して経験できない特別な学びの場所がこの地球だと思っています
思っているというより意志を感じます

『つまらぬ時に慢心で足をすくわれることもあるのが人間界です。』

そうです、イエスは釈迦と違い聖者の魂としてこの世に生まれて来たと言われています、そのイエスでさえこの世の分離感という重力に惑わされ気付くのに7年懸かったと伝えられています、余談ですが、悟った魂が人々を救う為にこの世に転生したけど、そのまま分離の世界にどっぷりとつかってしまい、せっかくの進化を棒に振ってしまっている人もいるらしいです、明日は我が身なのです

『謙虚な伊勢~読者ではなく「信者さん」がかわいそうなのは自分たちだけが世界の真実だと思い込んで「他を見下していること」=差別の観点にいつまでも囚われているところです。』

強力な分離感に憑依されています、私は現実には善も悪も精神世界では無いと思っています、それを造り出す心の仕組みを学んで把握して実践するのが自分にしかできない学び、自分にしかできない表現のように思っています

『「他者へ差別心を向ける怒り」をそれこそ感謝の慈悲で溶かせるようにしなければ、その感謝道は自己都合の嘘となります。それを解っていただけたら、と思います。』

全く同感です、ある意味行法にも正しい間違いは存在しないと思っています(総ては自分自身ですから)、感謝を説くのであれば一途な帰依の思いとその感謝を慈悲に変える心があれば自らの進化に確実につながるのではないかと思います

貴重なコメント、、、、いただいておきます^^


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幽界の情報

2011-09-14 23:18:35 | Weblog
『本当に霊界とつながっていたり、正しい神(霊)とつながっている人は
やたらと霊的な情報を発信しないそうです。
もし、本当に何かとつながっていて、そのものからの情報だとしたら、
つながっている先は低級霊。
与える情報に一喜一憂、右往左往するのを見るのが
楽しいそうです。』

ここのコメントの中からです。
中々確信を付いているように思うのですが、「霊的な情報」を得るのは霊能者しか出来ませんね、

スピリチュアルという言葉が巷で流行りだしたのが江原さんの影響なのかもしれませんが、実際この霊的な情報はほとんどが幽界からの情報です、

幽界からの情報はスピリチュアル能力ではありません、サイキックと呼ばれる能力です。サイキックを凄い能力と勘違いしてしまい、その能力そのものを磨くこのはとても危険です、なぜならそこに霊性の進化が重要になるわけですから

まあ、指導者は「変な幽界の住人からの情報ですがね、、、、、」とはいいませんよね、笑、当然「神示」と言います

これは全くの嘘を言っているのではありません、つまり本人も神から、宇宙からのメッセージだと思っているのです

基本霊能者は自分の波動と同じレヴェルの波動とチャネルします、ご存知だと思いますが霊能者イコール覚者ではありませんね、幽界の住民の中には自分を神や天使に見せれる人はたくさんいます。解りやすく言えば向こうにも霊能者のような人がいますし全くこの世と同じような生活をする人もいます、幽界は膨大な世界なのです、、そんなあっちの霊能者は自分の周りに白光のオーラをまとうことなんかは朝飯前ですし、逆もしかり魔や影の存在に見せることも出来ますし本人に霊的な確信、つまり「悟った!」という実感を持たすことさえ可能なのです

では、どうなれば一番そういった存在に標的にされるかといえば、それは分離感や否定的な想念です

オカルト的に書けば、愛や慈悲は観えないがその分離感は観えるとでも言いましょうか、自分の波動より下は観えるが上は観えないのです

たとえばリー氏が最初は愛と慈悲で2チャンに登場していたとします、まあ別にリー氏でなければいけないというわけではありません、誰にでも当てはまります。最初は自分の信念を書いていたのですが、まわりがたとえばおだてたり持ち上げたりしたとします、「あれ?俺は他の一般人とは違うんだ、、凄い能力の持ち主なんだ!」と錯覚しても全然不思議ではないですね、このなにがいけないのかと言えば「俺は他の一般人とは違うんだ」という強力な分離感です

『与える情報に一喜一憂、右往左往するのを見るのが
楽しいそうです』

これは適切ですね、全く同感です
幽界にはこの世とコンタクトを取りたい人はいっぱいいますが永遠に奈落の底に落とすとか確かな明確な目的があるのかといえば、ないです。しいて目的があるとすれば『右往左往するのを見るのが楽しいそうです』もしくは私達の進化を遅らす目的です、言い方を変えれば遅らす程度です。Jさんの言葉で「一つの所で留まっている信者さん、早く本当にフリーになれるといいですね。」そうです、遅らせているのです

またこの世で起こる以前に幽界でその原型のようなものは表現されているのですが、これは後に人間の想念によって地上では形もかわりますし、時期は幽界と地上の時間の流れが全然違うのでよくずれたりすることもあるのですが、少なくとも幽界の住人はこの世の未来は見通すことが出来ますのでなまじっか予言は総て嘘ということも出来ないと思います

また危機感を持った住人が適当にこちらの霊能者を探して「このことを地上で報告すれば有効な手が打てる」とか「あなたが世界を救うのだ♪」とメーッセージを送っても不思議ではありません

が、これを聞いた未熟なわたしたちのほとんどが思うことは「自分達だけは助かりたい」という考えや恐怖やこれを否定する人への中傷、つまり逆効果になるのではないでしょうか。
私は確信を持って言いますが、「自分だけは助かりたい」といった強力な分離感を持った人はどこへ行こうと危険ですし、逆にすべての人のことを考えるような人ならば戦地や被災地に行こうが助かると思っています

霊感のある人の仕組みはまた後に書きますが、なまじっか霊感があり、それを負に使って、その上霊性を上げるのではなくその能力を上げることだけを考えている人は、言い方を変えれば、魂の進化にとってはなんの関わりを持つ必要のない能力を負に利用すればたちまち低いバイブレーションの領域に無防備に曝されることとなるのです

もし、今の行法を止めてしまえば地獄に落ちると信じている人がいたなら断言しておきます、もしそのようなところに落ちたとしても、その困難は行法を止めたからではなく、自身が思い、語り、行ってきた表現の中で自然の法(法則)からズレたためで、それはそれに気付かせ、心を磨き上げ魂を進化させるために生じる必然的な現象であるのですが、決して本人の能力を超える試練(課題)が与えられる(自分で与えてるのですが)ことはありません

もうひとつ魔や影に憑依されない簡単なテクニックをひとつ、、、「自分は絶対に憑依などされるものか」という強い信念でことは足りるということを書いておきます



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般若心経(一)

2011-09-10 00:32:03 | Weblog
ひとはなぜ苦しむのでしょう……
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです

もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
触感もなかったら
あなたは 自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「空」の感覚です

すべてを知り
覚った方に謹んで申し上げます
聖なる観音は求道者として
真理に対する正しい智恵の完成をめざしていたときに
宇宙に存在するものには
五つの要素があることに気づきました

お聞きなさい
これらの構成要素は
実態をもたないのです

形のあるものは形がなく
形のないものは形があるのです
感覚、表象、意志、知識も
すべて実態がないのです

お聞きなさい
彼はこれらの要素が「空」であって
生じることもなく
無くなることもなく
汚れることもなくきれいになることもないと知ったのです

お聞きなさい
私たちは 広大な宇宙のなかに
存在します
宇宙では
形という固定したものはありません
実体がないのです
宇宙は粒子に満ちています
粒子は自由に動き回って 形を変えて
おたがいの関係の
安定したところで静止します

お聞きなさい
形あるもの
いいえかれば物質的存在を
私たちは現象としてとらえているのですが
現象というものは
時々刻々変化するものであって
変化しない実体というものはありません
実体がないからこそ 形をつくれるのです
実体がなくて 変化するからこそ
物質であることができるのです

お聞きなさい
あなたも 宇宙のなかで
粒子でできています
宇宙のなかの
ほかの粒子と一つづきです
ですから宇宙も「空」です
あなたという実体はないのです
あなたと宇宙は一つです

宇宙は一つづきですから
生じたということもなく
なくなるということもありません
きれいだとか 汚いだとかいうこともありません
増すこともなく 減ることもありません
「空」にはそのような
取るに足らないことはないのです

お聞きなさい だから
「空」という状態には
形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もありません
眼もなく 耳もなく 鼻もなく
舌もなく 身体もなく 心もなく
形もなく 声もなく 香りもなく
あなたをさわるものもなく
心の対象もありません

実体がないのですから
「空」には
物質的存在も 感覚も
感じた概念を構成する働きも
意志も 知識もありません

眼の領域から意識の領域に至るまで
すべてないのです

真理に対する正しい智慧がないということもなく
それが尽きるということもありません
迷いもなく 迷いがなくなるということもありません
それは「空」の心をもつ人は
迷いがあっても
迷いがないときとおなじ心でいられるからです

こうしてついに 老いもなく 死もなく
老いと死がなくなるということもないという心に至るのです
老いと死が実際にあっても
それを恐れることがないのです

苦しみも苦しみの原因も
苦しみをおさえることも 苦しみをおさえる方法もない
知ることもなく得るところもない

得るということがないから
永遠なるものを求めて永遠に努力し
心を覆われることなく生きていけます
心を覆うものがないから
恐れがなく 道理をまちがえるということがないから
永遠の平和に入っていけるのです

私たちが あらゆるものを
「空」とするために 削り取り
削り取ったことさえも削り取るとき
私たちは深い理性をもち
「空」なる智慧を身につけたものになれるのです

真理を求める人は
まちがった考えや無理な要求をもちません
無常のなかで暮らしながら 楽園を発見し
永遠のいのちに目覚めているのです
永遠のいのちに目覚めた人は
苦のなかにいて 苦のままで
幸せに生きることができるのです

深い理性の智慧のおかげで
無常のほとけのこころ ほとけのいのちは
すべての人の胸に宿っていることを悟ることができました

このように 過去・現在・未来の三世の人々と
三世のほとけとは永遠に存在しつづけます
深い理性の智慧もまた
永遠にわたって存在するということです

それゆえに ほとけの智慧は
大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です
これ以上のまことの言葉はありません
いっさいの苦を取りのぞく
真実で偽りのない言葉です
その真実の言葉は
智慧の世界の完成において次のように説かれました

行くものよ 行くものよ
彼岸に行くものよ
さとりよ 幸あれ



うさぎさんが張ってくれた般若心経の訳詞です

まあ、リー氏は呪われたお経だとおっしゃっていますが^^

これと同じ意味の訳詞は私も見たことはあります、これはとっても解りやすく真理を付いているように思い、私なりにもう少し詳しく訳したいと思います「解りにくいですが^^」

『ひとはなぜ苦しむのでしょう……』苦しみが確かにそこにあると思っているからですよね

『もし あなたが
目も見えず
耳も聞こえず
味わうこともできず
触感もなかったら
あなたは 自分の存在を
どのように感じるでしょうか
これが「空」の感覚です』

これを普通に考えれば、解るのだが理解できない、、、ような感じだと察します、なぜなら人間そんな状態にはならないし、なるためには恐ろしい作業が必要ですから、笑
もしそうなったとしても観念として逆に何も楽しむことができず不幸だと思うかもしれません。
「人は目に見えるものに因って、目を覆われている」というすばらしい至言をどこかで見たことがありますが、もしこの「空」の状態が悟りの意識の状態とするなら、普通に考えれば総ての五感を失わなければ悟れない、つまり気付かないのか?

そんなことはありません

なぜ目が見えているために悟れないのかといえば、簡単に言えばそこに意味を付けてしまっているからと捉えます。もし目の前に展開している世界が幻影で、その迷妄へ自分自身で答えの無い意味を付けて怒ったり、迷ったり、束縛したり、攻撃したり嫉妬したりしているとすればどうなるでしょう

また、目が見え、耳が聞こえ、味わえ、触れれられるから、自分を強く認識するのですね、もちろんもしそのような人が全く自分を認識しないということではありませんが、周りがあるから自分が個として存在するのではないかと思います、「我が強い」というのはその個が強いのであって、そんな人は主観も強いし「自分を追い込んでしまう」状態もそういう意識が強いと思います

昔どこかで読んだ(こんなんばっかです)のですが、悟りとは完全に自分も含めて世界を客観的に観ることが出来る意識状態、たとえば自分は映画を観てる、その映画は自分の目線がカメラで自分は写らない、で、観ているうちにその映画があまりにもリアルなのでそこに入り込んでしまったような状態だと、本当はその背後にもうひとりの自分がいてそこからは客観的に観えるのですが、それが出来ないでいる状態、で、またその映画はそれだけではなく、出て来る人や物の目線にもカメラがついてあり、その総ての映像を本当の自分が一気に観ている、そして映像だけではなく、出て来る人の心の状態や過去、過去生が総て丸見えになる映画を本当の自分が観える意識状態が悟りの状態だとありました

主観を強化するのは簡単ですね、まず人と自分を徹底的に比べ、比較し、悪いところや良いところを見つけることをすれば磨けます、また自分の教えと人の教えを比較させ徹底的に排除するように教えればその信者は宗教とはとか魂の教えや学びとはというものを客観的に観る視野を失い、主観で考えるるようになります
「この教えが総て」つまり自分の考えが唯一絶対
「悪い奴は地獄へ逝け、私達は天国へ逝きま~す♪」

ひどくなれば頑なな狭い視野の自分の教えを理解しない人を馬鹿にしたり、私はあなた達と違うんだなどと見下したり、ひょっとして身内や友人でさえ、自分の教えを理解しない人は「ダメな人」とレッテルを張ったりしてしまう、魂の進化としては絶対やってはいけない行為を平気で行う、つまり主観の塊となるのです

「私以外の教えは総て魔道であ~る」これを鵜呑みにすればその人の精神世界での考えは山のてっぺんから観ることが出来ず、小さな小さなごく限られた自分のという主観で判断してしまいます
ただ誤解しないでいただきたいのは私はこれが愚かで駄目な行為のような感情は持ちません、その人が転生として選んだ道だと思うから
そしてわたしがその人たちより優っているとか進化しているとは全く思っていません、そんなんまた私もこれから先そうなるかもしれないのですから^^

前にも書きましたが「空」や「無」って「なにも無い」と普通に思ってしまいがちですが、これは「総てがそこに在る」状態と考えればどうでしょう
これは全く証明はできませんが、たとえば太陽の光は無色ですが機械を使って分析していけば沢山の色に分かれます、この沢山の色が善と悪、良い悪い、好き嫌い、安心不安、幸福不幸とすれば、そうです、すべてが見え、そこに光のみが実感を伴なったものと感じた人の意識がその時点で「空」となるのではないでしょうかと思うのです


『形のあるものは形がなく
形のないものは形があるのです』

総ての物質の本質がエネルギーとしましょう、総てはこの無限のエネルギーで、それ以外は何一つ存在しない、要するに、形のあるものが物質、形のないものがエネルギーですが物質が形はなくエネルギーに形はあるという単純な意味ではなく、『その実相としては全く同一のもの』これがまさしく色即是空・空即是色ではないでしょうか

『感覚、表象、意志、知識も
すべて実態がないのです』

これも実態がないという観念的な捉え方をすれば消えてなくなるみたいな捉え方をしてしまいそうですが、あるけれどもそこに意味はないという捉え方ならどうでしょうか

長くなりますので、、また日を改めて書きたいと思います
般若心経、、、これに否定的な想念が憑いているかどうかまではわかりません(実際しういうのはある)が、学びの元、いろはの「い」としてはとても素晴らしいものだと昔から思っております^^


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地獄(想念)

2011-09-08 00:08:20 | Weblog
『「地獄」というキーワードで地獄の想念が出来る…怖いですね(汗)』

Jさん、すいません^^
とても興味深いコメントなので、便乗させていただきます

すこし意味合いが違うかもしれませんが。。。
地獄というイメージ?での想念形態はもう出来上がっているでしょう、そしてそれを想像(意識)した人が憑依される、言い方を変えればそこに自らチェネルするのです

チャネルという言葉もなにか総て霊的などろどろとしたイメージを持つかもしれませんが、意味は「道を開く」といわれます、たとえばワインを飲んでその深い味わいを追及するのも、音楽の音の世界やメロディを追及するのも詩の意味を深く考えるのもチャネルです

幽界とは人間の想念で出来上がった世界ですが、人間の想念で出来上がった世界は幽界だけではありません

たとえば10人の人が「あなた達全員きつねにとり憑かれています」と自称霊能者に言われたとします、10人中5人は今まで地獄などほとんど考えたこともなく、言葉すら知らない、イメージも全く湧かない人として、残りの5人はそれぞれのそれなりイメージ?が湧き、コワガリでその上この自称霊能者自身を信じていたらとします

そしてその5人が「きつね憑き」にチャネルします

つまり今までの長い歴史上無数の人々が地獄について曖昧ですが想念を発した結果、そこに実体があるようでないような「地獄」という想念形態が出来上がっているのです、そしてそれ(そこ)に想念を合わし、その形態に憑依されるという仕組みです

具体的に「地獄」を想像してみてください、マンガのような世界しか思いうかばなくないですか?、それにやたらとその「地獄」に必要以上に反応してびびってしまっていませんか?これ憑依です^^

ここで憑依という言葉を書いていますが、なんかとてもおどおどろしい言葉ですがこの言葉のほかに適切な言葉がありません、とり憑かれるはもっとインパクトがあります、チャネルも似たような言葉ですがインパクトとしては同じようなものです、いくかされるかです

憑依やチャネルと一言でいっても色々あります、もちろん良いも悪いもあります、たとえば有名なクラシックコンサートでそこの観衆の清らかな想念と崇高な音楽が集まり想念形態が出来ます、そこではいつもひとりでCDで聞いているよりも深く音楽の美しさに入りこんだという経験などはありませんか?

能で足を「トン!」と叩くのも、その想念(気)を下に落とすという意味があるそうです、ちなみにこれはかなりの技術が必要ですので今ではなかなかそのような人がいないもたいです

映画は映画館で観るといいのはそんなことも影響されています、人間の想念は侮れません

それぞれこれも一種の憑依です

地獄というそれぞれのイメージした人をその形態が膨らまし、より心の中で具現化させるのも一種の憑依です

あのブログをなんとなく見たとします、もしそこに想念形態が出来上がっていたらどうなりますか?普通なら「ええこと書いているなあ~、、、違うとこ見よ♪」ですが、より深みに引き寄せられ「なんかよくわからんが納得しました♪」となり、総てではないですがこれも憑依といいます(良い悪いは知りませんよ)、そう考えれば恐るべき5%運動です、笑

きつね憑きや外国の諺の「奴のはなしをすると悪魔がやってくる」や、蛇や狸の伝承と同じで、そこに意識を向けなければ存在しない(その人に)影のような形態ということです、きつね憑きなど具体的なイメージも実相を観たこともなないのに怖いのはそのためです

『「地獄」というキーワードで地獄の想念が出来る』
心で思ったことは総て想念となりますので、否定的な想念を発しないこと、つねに肯定的な部分に意識を向けること、総ては自分に返ってくるのですからね

「人を呪わば穴二つ」ですから

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天国と地獄

2011-09-04 00:28:44 | Weblog
『>悪徳な有料先生を根絶するまで徹底的に遣(や)ります。

私が一人残らず地獄に送り届けます。。。』


これってリーマン氏の言葉でしょうか?
そうと仮定して、、地獄という言葉の意味について書きます。

もしそんなに地獄について勉強していない人、あ、悪い意味ではないですよ、そっちの人の方が多いでしょう。したくはありませんよね?笑、そんな人が「地獄ってどういったところ?」と問われればどう答えるでしょうか?「閻魔様が舌を、、、、」「悪人ばかりの住む世界で、、、」「火あぶりの状態で、、、」??

無数にありそうで想像もつきませんが、はてさて地獄や天国っていったいなんなのでしょうか?

当然地獄や天国へ行って見学または生活してきた人もいないでしょうから、その意味においてはあくまでもその人想像つまり観念で受け止めるのですよね、要するに曖昧な心の想像です。

この地獄についてリーマン氏は細かい説明はやっているのでしょうか?(長いこと読んでません)

私達が生活している地上にも地獄はありますよね?
昔私の父親は事業に失敗して毎日毎日の借金取りの訪問と母親や親戚と父の喧嘩で今思い起こせば地獄の日々でした。
このように生活苦や病気や人間関係などで眠れない不安な日々や恐怖に怯える日々や憎くて憎くてしかたがない人を思う日々を経験して人はよく「地獄のような毎日でした~」と言います、実際地獄なのですね

このあたりは非常に誤解を呼ぶ説明なので文字にするにはとっても神経をつかうのですが、たとえば地獄といっていい困難に立たされても「これは試練だ頑張るぞ♪」と思う強い人(こんな人は霊的にも強い)も「どうしてわたしだけこうなるの私はなにも悪くはないのに、もう死んでしまいたい、救われたい」と思う弱い人もいますよね

これは私見ですが、この地上世界は物質の世界であり(本当の形は違いますが)幽界と呼ばれる世界も同じく物質世界なのです

ただ決定的に違うのは肉体という知覚器官があるかないかだけです、肉体があって初めて確かな物質として皆が同じように見える、元々は波動(勿論肉体も波動媒体)なのです、、これを説明するには中々一回ではすまないので、これ以上は書きませんが、

そして幽界とは肉体という知覚器官がないので、想念がそのまま現象世界となり総てではありませんが本人にとってはなんの疑いも無くこの世と同じ日常生活を送っている世界です、これもいろいろありますが、、、

早い話がこの世の地獄も幽界での地獄も同じようなところなのです

ただこの世には物質というものがありますから(基本は、ないのですが)想念即現象とならないだけ、たとえばここでは東京で憎い人のことを考えて眠れなくても、九州在中の相手は目の前には現れることは出来ないですが、幽界ではそれがない分即現象世界になり「なんか用でしゅか?」とピンポンを鳴らすのですよ

その天国と地獄の違いは意識状態の違いでその人のその時点で到達している意識が反映されますので、たとえば心がある程度浄化されている人は、憎しみとか敵対心とかの否定の波動が少なくなっているという簡単なことです

あ、敵対心って大きいですよ、分離感そのものですから、笑

もしも生きている間に世界中の人や総ての自然や物質を愛した人が幽界へ逝けば(こんな人は幽界ちがうか、笑)目の前に展開される世界は愛する世界です、この簡単なことがいろいろな障害(フィルター)があり私達は出来ないでいるだけです

またそれに加えて美しいものへの感受性などが敏感になっている人がたとえばキリスト教徒なら肉体が亡くなって逝く幽界の世界が光輝くエルサレムでイエスとそれを取り巻く天使にかこまれにこやかに笑って暮らすかもしれませんし、仏教徒なら釈迦のとなりに座す生活が待っているかもしれません、もし「いや、天国とは美しい姉ちゃんに囲まれて高級な酒を飲んで暮らす世界だ♪」と信じている人はそのような世界が待っているかもしれません

そしてそこが「天国です!」と呟いているかもしれません

そしてその反対に憎しみや不安や不満、敵対心や自分達は皆と違うんだという傲慢な心や嫉妬や恐怖心をもっているならどうなるでしょうかといえばその憎しみの相手や現象、不安や不満や敵対する人が毎日目の前に現れる現象が繰り返される世界が待っているだけです

そして「ここは地獄じゃ~」と泣き崩れているかもしれません

が、これらは天国や地獄と呼ばれるだけで、実際には自分の心の反映であって当然天国でもないし、地獄でもないのです

綺麗な姉ちゃんと美味しい酒を毎日くらっていようが、イエスと聖書を読みながら食事していようが顔も見たくない憎い人が毎日毎日尋ねて来ようが、これらの世界は全て、その人の心が描き出した迷妄であるということです

私が地獄に送りますということは、信者からすればこの人に逆らえば地獄に送られるとも思いますし、この教え以外は地獄逝きだ、ともなりますし自分達以外の指導者とその支持者は総て地獄行きで、私達のみ救われるのだとも取れるわけでして
私が地獄に送ります、もしその地獄がそれぞれの心の反映ならば、その人の心の中に具体的な地獄が存在する、または観える、つまり外の世界のどこどこに地獄の一丁目や二丁目が実在するのではなく、その人の心の中に地獄があるだけではないでしょうかね

みなさん、地獄など想像するべきではございませんよ~

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