いろはの「イ」

真理は語れるのですか?

心の自由

2011-08-19 02:40:26 | Weblog
『伊勢~教義の全てに詳しくないので判りません。でもあのカルト性が危険だと感じます。教義が「否定」なだけに。感謝と否定の天秤は両立できるものなのか?私は単純にそこが疑問なのです。』

miさんのコメントから私の感じたことを書きます

私は否定はないとは思っていません
以前の「宗教と真理」で書いたのですが、単純な例を書きますと
ここに説明した森全体を見ようとすべきではないでしょうか

たとえば精神世界の真理(神)が目の前の森だったと仮定しましょう
その森全体を見れば「そうだったんだ」という森という実体が瞬時に体感できるのですが、わたしたちは森全体を見ないでその一部を見て「森ってどんなん?」「毒蛇なんか排除しろ、これは悪魔だ」「この花はこっちより駄目♪」と迷っている状態ではと感じます

その真理の中に否定も肯定もただそこに在るだけではないでしょうか、それが総てでひとつの真理、これは否定を肯定しているのではありません、否定的な要素は肯定的な要素という光に因って出来た影です

太陽が自分を照らせばそこに影が出来ます、それは在るけど無いといった表現なのです、だからその影を否定してはいけないと思います、否定してしまえば肯定的な光が成り立たなくなると思います

愛という光には憎しみといった影が在ります、これを否定と肯定や良い悪いで括ってしまうと?となります。愛の最も未熟な表現が憎悪とならないでしょうか?

リーマン氏を否定し続けている人もひょっとして??かもしれないですよ(わたしも?笑)

ましてやその影に意味をつけてしまい、影に対処するにはどうたらこうたらと影と戦っているように思います

(これは実際の世界の森も同じことだと感じます)

この森を真理に置き換えるならそれを理解するのを助けるのは自由な表現、自由な心、自由な視野ではなかろうかと思います

目の前に森という真理があるのに、川だけとか木や土や花だけとか、この川はどうたらこうたらと意味をつけてその一部分だけを見ようとさせる行為が「これは駄目」「あれは間違い」といった制約された教義ではないでしょうか

ここの「態度に」のコメントの中に「リー○○に心の自由を牛耳られている様な気がする。 」というのがありました。的を得たコメントだと思いました

少しニュアンスは違いますが、般若心経が良い悪いという両方(理論)を造り出し、悪いという、つまり良いを排除してしまう、そこに良い悪いなどという実相がなかったらどうでしょうか

有料先生が良い悪いという概念を説き、悪いと指導してその人たちから良いを排除させる、そこに良い悪いが存在しなければどうでしょうか

存在しないものに対して良い悪いの意味をつけ、どちらかに識別する、信者もいちいち自分で考えたりしなくていいから楽なので、「おっしゃる通り」と従う、気持ちはわからないこともありませんが(笑)

尚これはリーマン氏だけではなく宗教全体にいえることでもあるのですがね
ややこしかったらごめんなさい♪


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