Jさんの興味深いコメントからヒントを得て、、、
私は行法として一番意識の改革に近づくことができるのが瞑想だと今でも思っています
以前は毎日やっていました
瞑想については以前にも書きましたけど
でも一番いいのが日常が瞑想ならいいのですよね
日常において、たくさんの音や目に見えるものに私達は意識を向けてしまうから、瞑想という方法をわざわざ用いている訳です
でも日常目に見えるものに意味や理屈をつけず、聞こえる音にも意識を向けず日常を過ごせることができたら、つまり見えているだけ、聞こえているだけ状態、これ瞑想状態に近い訳です
「そんなんいろいろ危ないしばかみたいやんやん」
それは別の話でして
基本私の大事な修行はそれです、四六時中修行です(笑)
とて意識はどこかに向けなければならないと言うか向いてしまう
それが、今ある現実に百パーセント意識と思いを向けることです、簡単ではないですよ、普段は好き勝手やって瞑想時だけ心を静かにするより全然効果的です
給金を貰う仕事も子供の世話や友人との語らいも私は同じ仕事と捉えています、つまりなにげない日常を「やらなければならないしごと」から「心から喜びとなるしご」に変えることができるかどうかが大きいのです
また、日常に自分の周りに起こる出来事でどうでもいい出来事などなにひとつなく
修行で滝に打たれるのも日常家族の洗濯をするのも心の持ち方に因ってはなんら変わりはないと思います。これが行き過ぎると「この呪文を唱えていれさえすればすべてが上手くいく」という捉え方を間違えるとカルトとなります
また、日常起こる大きな判断や決断も些細な判断も霊的にはなんの変わりもありません
カルマの解消にもなります
この行法は「カルマ・ヨガ」として多くの人が行っています(ググって見て)
それが浸透すると、それこそ言葉では表現できない心の変容が起こります
なぜ言葉にできないのか?
それは人それぞれ違うからだと思います
、自分にしか理解できないとでも言いましょうかね
いろはの「い」
私は行法として一番意識の改革に近づくことができるのが瞑想だと今でも思っています
以前は毎日やっていました
瞑想については以前にも書きましたけど
でも一番いいのが日常が瞑想ならいいのですよね
日常において、たくさんの音や目に見えるものに私達は意識を向けてしまうから、瞑想という方法をわざわざ用いている訳です
でも日常目に見えるものに意味や理屈をつけず、聞こえる音にも意識を向けず日常を過ごせることができたら、つまり見えているだけ、聞こえているだけ状態、これ瞑想状態に近い訳です
「そんなんいろいろ危ないしばかみたいやんやん」
それは別の話でして
基本私の大事な修行はそれです、四六時中修行です(笑)
とて意識はどこかに向けなければならないと言うか向いてしまう
それが、今ある現実に百パーセント意識と思いを向けることです、簡単ではないですよ、普段は好き勝手やって瞑想時だけ心を静かにするより全然効果的です
給金を貰う仕事も子供の世話や友人との語らいも私は同じ仕事と捉えています、つまりなにげない日常を「やらなければならないしごと」から「心から喜びとなるしご」に変えることができるかどうかが大きいのです
また、日常に自分の周りに起こる出来事でどうでもいい出来事などなにひとつなく
修行で滝に打たれるのも日常家族の洗濯をするのも心の持ち方に因ってはなんら変わりはないと思います。これが行き過ぎると「この呪文を唱えていれさえすればすべてが上手くいく」という捉え方を間違えるとカルトとなります
また、日常起こる大きな判断や決断も些細な判断も霊的にはなんの変わりもありません
カルマの解消にもなります
この行法は「カルマ・ヨガ」として多くの人が行っています(ググって見て)
それが浸透すると、それこそ言葉では表現できない心の変容が起こります
なぜ言葉にできないのか?
それは人それぞれ違うからだと思います
、自分にしか理解できないとでも言いましょうかね
いろはの「い」