エコン族の階級は数理経済学、価格理論、国民所得分析、経済発展論、実証的研究という専攻分野の序列によって決まり、階級内の身分序列はモデル作りの腕前によって決められる。「しかし、作られるモデルの大半は、実際の役には立たず、神前に供える御供(専門誌上の陳列品)として用いられるにすぎない」(前掲)ということだ。
モデルを作り、現実を切り取っていく経済学にとって、そのモデルはどの様な意味を持つのか?
ある研究期間の評価をしているが、研究の評価は難しい。
楽しいのは、現場感覚のある話や、目的意識のある研究。
面白くないのは、モデルを利用するためにデータを探すタイプの研究。
経済理論(モデル)が如何に分析力があるかを試そうと言うことだろうか?
計量経済学にも、マルクス経済学にもともにあった、普通の経済学者の研究スタイル。
彼らは、理論の利用者。私は学者は、理論の創造者でなければならないと思っている。
理論の創造者になるためには、分析の目的がリアルでなければならないと思っているし、現状に明るくなければならないと思ってる。
つまり現場感覚に長け、理論に明るく、応用が利く、好奇心旺盛な人でなければ、良い経済学者になれないのではないか。
理論の創造者と理論の利用者とは明らかに異なっている。
むしろ、評論家5人を議論させた方が、ヒントが多い。
現実をどの様に切り取るか、それぞれの見解があって面白い。
しかし、そこに理論があるかとなれば、それは?
それを考えるのが経済学者なのだから。
それにしても、経済学者は相互干渉が著しい。
淡々と独自に、という世界があって良い。
アメリカの経済学者レ-ヨン・フ-フッドの興味深い論文を紹介している。その題は「エコン族の生態」という。
「エコン族(経済学者集団)は、先祖伝来の極北の地に居住する民族であり、隣国のポルスシス族(政治学者)やソシオグス族(社会学者)に対する優越感を満喫する極端に排他的な民族である。
彼らの社会的連帯は、よそ者に対する不信の共有によって保たれており、また内に対してもこの民族は高度に身分志向的である。民族内部での階級は、フィ-ルド(専攻分野)によって決まり、階級内での身分序列は、モドゥル(数式によって表される経済モデル)づくりの腕前によって決められる。
しかし作られるモドゥルの大半は、実際の役には立たず、神前に供える御供(専門誌上の陳列物)として用いられるにすぎない。階級としては、マス・エコン(数理経済学)、ミクロ(価格分析)、マクロ(国民所得分析)、デブロプス(経済発展論)、オ-・メトルズ(実証的研究)などがある。階級間の序列は、おおよそ記した順序どおりであるが、最高位のマス・エコン階級は部族の司祭としてあがめたてまつられており、デブロプス階級はモドゥル作りがへたくそなため、また、オ-・メトルズ階級は汚らわしい手仕事に従事するがゆえに、いずれも下位に位置づけられている。
もっとも、階級間でおたがいどうしけなしあうのが、エコン族特有の風習であり、この部族の階級構造は、一筋縄で片がつくほど単純明快ではない」 「エコン族の生態」は、1970年代に留学した佐和が、そのアメリカ経済学界の実態を念頭に紹介したものである。今でもその実体は基本的に変わっていないであろう。
モドゥル(数式によって表される経済モデル)偏重の現状については、「フュ-チャ-・オブ・エコノミックス」7に意見を寄せた世界の多くの経済学者たちも、かなりの憂いを込めて指摘している。 たとえばミルトン・フリ-ドマンは、「初期の頃の論文は、テ-マのいかんにかかわらず、英語で書かれているのが普通であった。したがって、いまでも経済学者は英語で当時の文献を読み、理解することができる。(中略)戦後の大きな変化は、数学と計量経済学の用語が台頭するようになったことである。論文、解説の半分は数学で占められており、(中略)英語は単に補助的な役割を果たす第二の言語にすぎなくなっている。(中略)経済学の変化は、コンピュ-タ-の発展とともに起こってきた。コンピュ-タ-は、現代の経済学にとってきわめて生産的な用具である。しかしどんな良いものでも限界を超えて使うことには危険が伴う。コンピュ-タ-革命は、経済学者に数学と計量経済学に対する信頼をもたらした。しかしいまや、あらゆる種類の革命が経験するのと同じように、初期の爆発的な勢いが一つの臨界点を超え、経済学の効率を低下させはじめた、と私は確信している」と書いている。
また森嶋通夫は、「経済学は経験的事実から離れる方向に発展してきており、特に一般均衡理論は、経済理論の中核としての数学的社会哲学となってしまった」と述べ、さらに「一般均衡理論の世界は、実は夢の世界だとも言える。この夢の世界は、現実の社会状況の下では完全に作動しないのである。一般均衡理論という夢の世界のステ-ジで演ずる俳優たちの数は、あまりにも少なすぎる」と述べている。
大恐慌は現実の社会現象であり、夢の世界の理論で解けるわけもない。 現在の経済学はアメリカによって支配されているといっても過言ではない。佐和によれば、当時のアメリカでは毎年800人余りの経済学博士と2500人前後の経済学修士が誕生していたという。
今でも基本的に変わらないであろう。
佐和は、アメリカの大学院は、「欧米諸国のなかでも、きわめて特異な性格をもつ研究者養成機関」と批判する。ヨ-ロッパの大学に残るアマチュア的発想やアカデミックな雰囲気は締め出され、プロフェッショナルなスペシャリストを大量に生産する機関となったのだ。数で世界の経済学界を圧倒するアメリカ経済学界は、どうやら数式偏重の偏った独特の世界を築き上げてしまったらしい。 数式偏重の最大の問題点はそれがもたらす非現実性であろう。モドゥルは数式で表現されなければならない。しかし少しでも現実に近いモデルをつくろうとすると変数の数が多くなり、数学的処理が難しくなる。数式表現にこだわれば、現実性を犠牲にせざるをえない。そんなアメリカ経済学界の武器は制度化と標準化である。標準的教科書がつくられ、
論文に対するレフェリ-制度がつくられて異端を排除する仕組みが確立している。 第二次大戦後、アメリカでとくに経済学の数学化が進んだ背景には、大戦中、オペレ-ションズ・リサ-チ研究のため動員されていた数学者の一部が経済学に流れ込んだという事情があった。オペレ-ションズ・リサ-チは、戦争の合理的遂行のため人間行動を数学的に解析することを目的としていた。それが、経済学の方法論に応用され計量経済学という新しい分野を生んだ。それにしても、経済学サイドに数学化、単純化を受け入れる素地があったことも確かである。
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