さて、前回は恥ずかしながらも彼女ができた話をしましたが、今回からは日常の生活の様子と新たに出会った人の話をまた進めていきます。
僕はロック三昧の大学生活を終えた後、一年間ハードなアルバイト等をしながら資金を集めて(足りない分は出資者を見つけて)ずっと構想を練っていた「練習スタジオ」の経営を始めました。当時はロックバンド向けのリハーサル・スタジオがまだまだ少なくて、この商売は大当たりしました。出資金(費用)は3年半で回収という予定をはるかに短縮して2年ほどで純黒字がでるようになりました。30を越える客のアマ・バンドのコーチもしながら完全無休で4年間がんばった後、当時第2位の出資者に経営権を渡し、それで得たお金で渡米したわけです。すでに第1回目のお話で書きましたが僕がNYの地を初めて踏んだのは1983年の春のことでした。
まずは長期滞在の旅行者として入国し、とにかく遊びまくって持っていったお金はみんな使っちゃえ~というスタートでしたから(途中からヒマな時間を使ってパートタイム・ジョブ(アルバイト)で所持金の目減りを遅くさせましたが)基本的には朝から晩までNYでの生活を満喫していました。
NY生活も数ヶ月経っていた頃です。
朝は7時ごろ起きて近くのデリ(デリカテッセン:軽食とお茶ができる食堂?)に行き、ターンオーバー(目玉焼きを両面焼いてもらったもの。通常の目玉焼きはサニーサイド・アップ)とライ・ブレッドのトーストとトマトジュースにポテトの朝食を頼みます。毎朝通ううちにそこのウエイトレスおばちゃんが顔を覚えてくれて「モーニン(おはよう)」と言えば勝手にメニューを考えて出してくれるようになりました。
実は住んでた所から徒歩1分のこのデリ、劇場街が至近距離ということもあってアーティスト、ダンサー、ミュージシャンがけっこう来るのです。もちろん僕が知らないだけでNYでは有名人という人もいたでしょうが、僕が日本からこの街に遊びにきたことを知ったおばちゃんが頼みもしないのにしばしばその時に来ている僕が興味を持ちそうな人を紹介してくれたのです。
同国人ではあの頃NYで活躍していたジャズギタリストの川崎 某氏とも朝食をともにしましたが、ミュージカルのバックダンサーなどスターを夢見て下積み生活を続けている同年代の人たちとも随分顔見知りになりました。彼らは後にダンサーのオーディションを覗かせてくれたり、入場料さえ払っておけば場内で空いている良い席に移してくれたり、ステージサイドから観られるようにしてくれたり、いろいろ助けてもらいました。
おかげであまり興味のわかなかったモダン・バレーやアルビン・エイリーなどのモダン・ダンスをずいぶん勉強しました。
ある朝、いつものようにビジネスマンや早起きのショウビズ関係者に混じって朝食をそのデリでとろうと店に行くと、おばちゃんウエイトレスが入り口まで来て「あんた(いつのまにか接客言葉を僕には使わなくなっていた)、ビッグバンドで活躍しているドラマーが今来てるよ。興味ある?紹介しよか~」と言いました。誰?と聞くとピーターだよ、と言うんです。誰それ?と思いつつ教えてくれたテーブルを見ると、どこかで見たような愛想のよさそうな中肉中背のヒゲの男が巨大なパストラミ・サンドをパクついています。
その朝はあまり人と会う気分でなかったので、「ふ~ん。それよりけさはあの彼と同じパストラミ・サンドにしてヨ」と食べるものをオーダーしてさっさと彼の近くのテーブルに着いたのです。
巨大なパストラミがきて、ちょっと驚いて(どんなデカイ口のヤツが食うんだ!)と思っているとそのドラマー氏、自分のと僕のを交互に指差して「SAME(オンナジだ~)」と声をかけてきたのです。あんまり大きいのでどうやって食べるの?と聞いたらその男は笑って「手と口を使うんだ。オマエはジャパニーズか?」と聞くので「うん」と答えると「東京などで演奏した事がある・・・だから知ってる・・・箸を使え!」と冗談まじりに笑っていました。
コイツ何者?と思った瞬間、このドラマー氏のピーターというさっき聞いた名前からその人(男から人に格上げです)のことが突然わかりました。
あのWR(ウェザー・リポート)にいたピーター・アースキンさん(こんどは「さん」もついた)じゃないですか!
驚きました。こんな所で会えるなんて。僕は新宿厚生年金会館でWRの黄金期のステージをしっかり見てました。その時のドラマーが今目の前にいるのです。しかも朝食のパストラミをさかんにパクついています。こういうのって一種のカルチャーショックです。
ロン・カーターやポール・サイモンの時も同じように思ったのですが、お金を出してコンサートに行き、遠くから見るだけの存在だと思っていた人間が目の前でビールを飲み、映画を見、サンドイッチを食っているんですから!
そうか、これがニューヨークなんだ! と思ったら急に僕自身、これからどんな人間に出会ってももう驚かないぞと一皮むけた心境になっていったのでした。
ドラマー、ピーター・アースキンはWRの最高傑作「ヘヴィー・ウェザー」の後すぐに参加し’82年(僕がNYで出会った前年)にこのバンドを脱退しドラムスの座をかのオマー・ハキムに譲ったプレーヤーです。’80にはあの天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスも抜けているのですが、WRの傑作アルバムを’70後半から’80までジャコとともにリズム隊として作っていたのです。
僕らはあの朝のパストラミ・サンドが縁で急速に接近していきました。きっとどこかで肌があったのでしょう。あのデリ以外でも待ち合わせをしてブランチをしたり、楽器屋に行ったりするようになりました。・・・デリのおばちゃんに感謝してます。
この出会いがきっかけで僕はNYの有名無名のミュージシャン達と知り合い、彼らの友人として(に化けて)スタジオに潜入したり、一緒に飲み食いをしたり、という具合にさらにミュージック・ライフを楽しむことになるのです。
友人となったピーターがある日、ミッドタウンにあるリハーサル・スタジオ(スタジオ名が思い出せないのです:日記に記入漏れ)に連れて行ってくれました。
比較的大きな所でしたが、玄関から入ったすぐのラウンジがなにやら熱気に包まれています。なんだろう、もしかして誰か有名人でも来てるのかな?と思った矢先、目の前を、あたかも僕を無視するかのように長髪の変なヤツが通り過ぎていきました。
ジャコ・パストリアス でした!
*写真のサインは1984年に東京で再会した時に書いてもらったものです。
(by Peter Erskine 1984 Tokyo)
僕はロック三昧の大学生活を終えた後、一年間ハードなアルバイト等をしながら資金を集めて(足りない分は出資者を見つけて)ずっと構想を練っていた「練習スタジオ」の経営を始めました。当時はロックバンド向けのリハーサル・スタジオがまだまだ少なくて、この商売は大当たりしました。出資金(費用)は3年半で回収という予定をはるかに短縮して2年ほどで純黒字がでるようになりました。30を越える客のアマ・バンドのコーチもしながら完全無休で4年間がんばった後、当時第2位の出資者に経営権を渡し、それで得たお金で渡米したわけです。すでに第1回目のお話で書きましたが僕がNYの地を初めて踏んだのは1983年の春のことでした。
まずは長期滞在の旅行者として入国し、とにかく遊びまくって持っていったお金はみんな使っちゃえ~というスタートでしたから(途中からヒマな時間を使ってパートタイム・ジョブ(アルバイト)で所持金の目減りを遅くさせましたが)基本的には朝から晩までNYでの生活を満喫していました。
NY生活も数ヶ月経っていた頃です。
朝は7時ごろ起きて近くのデリ(デリカテッセン:軽食とお茶ができる食堂?)に行き、ターンオーバー(目玉焼きを両面焼いてもらったもの。通常の目玉焼きはサニーサイド・アップ)とライ・ブレッドのトーストとトマトジュースにポテトの朝食を頼みます。毎朝通ううちにそこのウエイトレスおばちゃんが顔を覚えてくれて「モーニン(おはよう)」と言えば勝手にメニューを考えて出してくれるようになりました。
実は住んでた所から徒歩1分のこのデリ、劇場街が至近距離ということもあってアーティスト、ダンサー、ミュージシャンがけっこう来るのです。もちろん僕が知らないだけでNYでは有名人という人もいたでしょうが、僕が日本からこの街に遊びにきたことを知ったおばちゃんが頼みもしないのにしばしばその時に来ている僕が興味を持ちそうな人を紹介してくれたのです。
同国人ではあの頃NYで活躍していたジャズギタリストの川崎 某氏とも朝食をともにしましたが、ミュージカルのバックダンサーなどスターを夢見て下積み生活を続けている同年代の人たちとも随分顔見知りになりました。彼らは後にダンサーのオーディションを覗かせてくれたり、入場料さえ払っておけば場内で空いている良い席に移してくれたり、ステージサイドから観られるようにしてくれたり、いろいろ助けてもらいました。
おかげであまり興味のわかなかったモダン・バレーやアルビン・エイリーなどのモダン・ダンスをずいぶん勉強しました。
ある朝、いつものようにビジネスマンや早起きのショウビズ関係者に混じって朝食をそのデリでとろうと店に行くと、おばちゃんウエイトレスが入り口まで来て「あんた(いつのまにか接客言葉を僕には使わなくなっていた)、ビッグバンドで活躍しているドラマーが今来てるよ。興味ある?紹介しよか~」と言いました。誰?と聞くとピーターだよ、と言うんです。誰それ?と思いつつ教えてくれたテーブルを見ると、どこかで見たような愛想のよさそうな中肉中背のヒゲの男が巨大なパストラミ・サンドをパクついています。
その朝はあまり人と会う気分でなかったので、「ふ~ん。それよりけさはあの彼と同じパストラミ・サンドにしてヨ」と食べるものをオーダーしてさっさと彼の近くのテーブルに着いたのです。
巨大なパストラミがきて、ちょっと驚いて(どんなデカイ口のヤツが食うんだ!)と思っているとそのドラマー氏、自分のと僕のを交互に指差して「SAME(オンナジだ~)」と声をかけてきたのです。あんまり大きいのでどうやって食べるの?と聞いたらその男は笑って「手と口を使うんだ。オマエはジャパニーズか?」と聞くので「うん」と答えると「東京などで演奏した事がある・・・だから知ってる・・・箸を使え!」と冗談まじりに笑っていました。
コイツ何者?と思った瞬間、このドラマー氏のピーターというさっき聞いた名前からその人(男から人に格上げです)のことが突然わかりました。
あのWR(ウェザー・リポート)にいたピーター・アースキンさん(こんどは「さん」もついた)じゃないですか!
驚きました。こんな所で会えるなんて。僕は新宿厚生年金会館でWRの黄金期のステージをしっかり見てました。その時のドラマーが今目の前にいるのです。しかも朝食のパストラミをさかんにパクついています。こういうのって一種のカルチャーショックです。
ロン・カーターやポール・サイモンの時も同じように思ったのですが、お金を出してコンサートに行き、遠くから見るだけの存在だと思っていた人間が目の前でビールを飲み、映画を見、サンドイッチを食っているんですから!
そうか、これがニューヨークなんだ! と思ったら急に僕自身、これからどんな人間に出会ってももう驚かないぞと一皮むけた心境になっていったのでした。
ドラマー、ピーター・アースキンはWRの最高傑作「ヘヴィー・ウェザー」の後すぐに参加し’82年(僕がNYで出会った前年)にこのバンドを脱退しドラムスの座をかのオマー・ハキムに譲ったプレーヤーです。’80にはあの天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスも抜けているのですが、WRの傑作アルバムを’70後半から’80までジャコとともにリズム隊として作っていたのです。
僕らはあの朝のパストラミ・サンドが縁で急速に接近していきました。きっとどこかで肌があったのでしょう。あのデリ以外でも待ち合わせをしてブランチをしたり、楽器屋に行ったりするようになりました。・・・デリのおばちゃんに感謝してます。
この出会いがきっかけで僕はNYの有名無名のミュージシャン達と知り合い、彼らの友人として(に化けて)スタジオに潜入したり、一緒に飲み食いをしたり、という具合にさらにミュージック・ライフを楽しむことになるのです。
友人となったピーターがある日、ミッドタウンにあるリハーサル・スタジオ(スタジオ名が思い出せないのです:日記に記入漏れ)に連れて行ってくれました。
比較的大きな所でしたが、玄関から入ったすぐのラウンジがなにやら熱気に包まれています。なんだろう、もしかして誰か有名人でも来てるのかな?と思った矢先、目の前を、あたかも僕を無視するかのように長髪の変なヤツが通り過ぎていきました。
ジャコ・パストリアス でした!
*写真のサインは1984年に東京で再会した時に書いてもらったものです。
(by Peter Erskine 1984 Tokyo)
そして、ついにジャコの登場!当時の彼はまともだったんでしょうか。続きが楽しみです!
WRは私も大好きなバンドです。特にジャコの大ファン!
私も続きが楽しみです。(笑)
>ふう さま
お二人ともWRのファンだなんて、うれしい話です! 「8:30」でオープニングの「ブラック・マーケット」のあのジャコ・ベースが響くといつもわくわくしてきます。
’62ジャズベースとアコースティック360バックローデットの組み合わせに憧れたもんです。
(あの音を出すのは不可能でしょうが)
あのころのアースキンは最高にグルーブがいいです。前任のアカーニャよりもぜったい上!
赤坂ライブに顔を出してくれたお二人がおそろいでWRを・・・・感激です。
でも、
ここでジャコが出てくるとは意外だったんでは?
私、88年斑尾JAZZで見てきましたよ。
マークジョンソン(b)
ジョンスコ(g)
ビルフリッセル(g)のBass Desiresとして来てました。
夜のセッションがドラマーだけのセッション(メロディ、和音楽器なし)で、みごとに仕切ってました。(衝撃!)
毛蟹のような毛むくじゃらですよね。
ポールサイモンとちがって人が良さそうですね。
たしか奥さん日本人では?
WRはまだまだこれから勉強します。
ジャコは、それから驚くことに。(いやいやすでに驚嘆!)
ぴーたんとかじゃことかNYはおいしそうな話ばっかりですね
WRは東京宝塚劇場で見ました。ジャコがスケートしてました。
DSは誰だっけかなあ。あかあにゃだったかなあ?
ジャコしか記憶がありません。
ますますN.Y.に行きたくなりますね。
その節は、バンマスがマーキングしたとこ巡り。
とんでもない、ご実家青森の方が美味しそうでしたよ。たくさん並んだ郷土料理の写真。羨ましかったですよ。大雪は勘弁だけど・・・。
そう言えば青森とNYは緯度が同じですね!
この毛蟹ドラマーからは実に多くのことを学びました。毛蟹の食べ方など(どう、ドラムを聞くか)・・・。
ジャコベーしか記憶にない人は多いと思います。
それだけヤツの存在とプレイは強烈でしたから。
ザビヌルは別格としてもウエイン・ショーターという名プレーヤーがかすんでしまうのは残念でした。
今と昔のNYはだいぶ違ってると思いますが、古い建物やそのスピリットは変わらないです。
マーキング、増やしましょう。
追伸です。
マスターが行ったWRの東京宝塚劇場公演は1978年6/21に一回だけの公演でした。
なおドラムスは今回のピーター・ア-スキンでした。
宝塚劇場、最初で最後でした。
2階席だったような…忘却の彼方であります。
27年前か。むむっ。
今日はめずらしく「まったり休日」です。
大概、休みでもどっか行く(用事なくても飲みに)のですが、家でのんびりしています。
体調いまいちの所為もあり、寒い外に行きたくない気分(弱気)なんです。
風邪一歩手前なのかもしれませんね。K根湯があるから安心です。(感謝)
明朝は雪かも。バンマス運転気をつけて。
2月22日てきふら企画の進行表できました。
各バンドにメール予定です。
マスターの言われたとおり、ウチの方は午前3時ごろからうっすらと白くなりました。明け方には止みましたが。
27年も前のコンサートじゃ、記憶も定かでなくなりますね。僕はジャコの弾いている時の妙な動きをコピーしていましたが誰にも受けませんでした!
名曲「ブラックマーケット」が始まった時は涙が出たのを覚えています。
2/19のライブは楽しませてもらいます。(まず演奏する側が楽しくないと)
このブログを見てくれている皆様、どうぞてきふらライブにお越しください。
詳しくはテキサスフラッド(03-3351-2969)まで。
鍋マスターとロックな話ができますよ!