イチゴロー’s Memorandum

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硫黄島の戦い

2021-07-04 21:25:41 | 伝える
大東亜戦争の末期、当時の陸軍を主体とした硫黄島守備軍は、圧倒的兵力のアメリカ軍と戦いました。そして硫黄島守備軍はほぼ全滅。しかし、アメリカ軍にも硫黄島守備軍を上回る損害を与えました。

硫黄島はグアム島と日本本土との中間地点に位置し、アメリカ軍は日本空襲の爆撃機隊の護衛戦闘機隊発進基地と被害を受けた爆撃機の避難場所を必要としていました。
日本にとっては絶対国防圏として何としても守る必要がありました。

兵力は日本側は栗林忠道中将率いる陸軍の小笠原兵団、海軍合わせて約21,000名です。一方、アメリカ軍は海軍がリッチモンド・ターナー海軍中将(総司令官)の4個任務部隊と上陸部隊であるホーランド・スミス海兵中将の1個任務部隊、海兵隊がハリー・シュミット海兵少将の1個水陸両用軍団の約61,000名と圧倒的でした。

栗林中将は硫黄島を守り切ることは不可能として、アメリカ軍の進攻を遅らせるため、地下壕陣地を活用した遅滞戦術を取ることにしました。背景にはサイパン島の水際防御の失敗とペリリュー島の中川州男(くにお)陸軍大佐の戦いを戦訓としています。ペリリュー島の戦闘については機会がありましたら取り上げたいと思います。
戦闘に先立ち、栗林中将は軍人、軍属を除く島民を全員避難させています。もちろん戦闘に巻き込まないためです。
アメリカ軍は事前攻撃として艦砲射撃、艦載機による空襲で相手の戦力を喪失させて海兵隊の上陸といつも通りの戦術です。

戦闘は1945年2月16日にアメリカ軍による艦砲射撃から始まりました。2月19日にアメリカ軍は硫黄島への上陸を開始しましたが、ここから日本軍の反撃が始まります。
事前攻撃ではほとんど損害のなかった日本軍は、地下壕陣地から上陸したアメリカ軍に対して攻撃したのです。アメリカ軍は水際で攻撃されなかったことから油断もあったのでしょう。
上陸はしたものの日本軍の猛烈な攻撃で多数の死傷者や戦車などの被害を出しました。
日本軍は夜間にハラスメント攻撃を行うなどで抵抗しましたが、次第に戦力を失い、3月26日に最後の総攻撃を行うことで組織的戦闘は終了しました。
アメリカ軍はここまで奮戦した栗林中将に敬意を払い、その遺体を捜索したそうですが、階級章や身分のわかるものを全て外していた栗林中将の遺体を発見することはできなかったそうです。

日本軍は約20,000人の戦死者、アメリカ軍は約28,000人の戦死傷者出すという結果に終わりました。アメリカ軍の損害が日本軍の損害を上回るという、かつてなかった結果です。

戦後になってこの戦闘に参加した日米の軍人たちが硫黄島で合同慰霊式を開催するようになりました。
最初の合同慰霊式で建立された慰霊碑にはこう記されているそうです。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉を以って戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である」

現在、硫黄島に一般人が立ち入ることはできません。元島民はもちろんのこと、短期滞在することもできません。
島に駐留する自衛官と米軍人がいるのみです。

戦争は敵の命を奪い合う事だと前に書きました。
戦争に正しい戦争も悪い戦争もありません。そこにあるのは、かけがえのない命が失われていく事だけなのです。

いつの日か国家間の争いがなくなり、軍人たちがその使命を終える日が来る事を祈りたいと思います。

余話
海軍側司令官であった市丸利之助少将は「ルーズベルト二与フル書」という書簡をしたため、市丸少将の目論見通りにアメリカ側に渡りました。
この書簡はファシズム打倒の大義名分とスターリンのソ連と手を組むことの連合国側の矛盾を突いていました。しかし、ルーズベルト大統領は4月12日に亡くなっているため、読むことはありませんでした。
市丸書簡はアナポリス兵学校海軍博物館に保存されているそうです。


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