8月に入り、猛暑日が続いている。
沖縄で被害をもたらしている台風6号の
動向も気になる。今後も注視、警戒が必要だ
紀州攻め2-1から
11:20 大宇陀を出発
市街地を抜け、途中から高取山の山道を登っていく。
11:50 高取城八幡口登り口到着
舗装道は続くがこれより先、車止めがあり一般車の進入は出来ない。
登り口脇に1台車が止まっており先に登城している人がいるみたい。
その登城者の家族らしい女性が、登り口付近で帰りを待っていた。
入口に城の解説板
準備完了。雲行きが怪しいので一応ウインドブレーカーも携帯し攻城開始。
入口から進んでまもなく右側に石垣
番所跡だろうか?
石垣をしていたら、登城者が下りてきた
急いで周ったのでしょう・・・大汗かいている
若干ぬかるんでいる。小石や粘土質の土も混ざり、滑りやすいので注意して登る。
ガチ登山
落石注意の看板があるが、石垣の崩れは見られない。
落石注意の看板を見ていつも思うのだが、注意していても、
落ちてきたら避けられないだろうなぁ
ここから連なる石垣は
壺坂口門跡
ここから先が城内となる模様。
壺坂口曲輪
石垣が崩壊
壺坂口中門 (ここまでが壺坂口曲輪)
この先三ノ丸 先へ
案内板
←ニノ門 本丸→
この辺りから雨が降り出した。
小雨なのでそのままニノ門へ向かう。
!
突然降りが強くなってきたので、案内板のあった分岐点のベンチへ戻り、
ウインドブレーカーを装着し再出発。
宇陀門
宇陀門を通過して
本丸から離れて行くため下り坂。戻りが怖い
松の門
松の門を通過、振り返って
各門、若干石垣上部から崩れている感じ。成長した木の根が押し出しているのか?
左に行くと国見櫓 真っすぐニノ門
櫓に行ってみる。
国見櫓跡 画像が暗い・・・ 2層櫓があった。
櫓台石垣
石垣上から城下
石垣上から眼下
引き返してニノ門へ
やっと到着
ニノ門跡 ↑↓
高取城の最北部となる。
水堀跡
ニノ門から城下町方面
猿石というらしい。説明版を見ると飛鳥時代に制作したとみられ、
明日香村で掘り出された後、高取城築城の際に石垣材として運ばれ
この位置に置かれたようだと書かれている。
背面にも表現が見られるが不明確。
12:40 登城を開始してまもなく1時間
急いで本丸に向かい引き返す。
千早門跡 行きに見落としていた
三の丸案内板を抜け、大手門へ
大手門
手前三ノ丸から二の丸に向け徐々に高くなっている。
13間多門櫓門跡
二ノ丸
二ノ丸は上段・下段があり左の石垣が分かつ。石垣上には左右に櫓があったらしい。
今いるのは下段。
こちらから上段へ
二ノ丸上段の入り口。左右石垣上に15間(約27m)の多門櫓門があった。
上段から。右が太鼓櫓(跡)
左が新櫓(跡)
いずれも2層櫓であったとされる。
こちらから石垣上へ
太鼓櫓から新櫓
石垣上から二の丸下段
石垣上から天守石垣
櫓跡石垣から下りて
天守石垣 約12mの高さがある。
いよいよ本丸へ
本丸へ向かう側道?から北側は
急な切岸 滑落したら
横から見ると急斜面であることがよく分かる。
幾重に重なる桝形
地面に礎石。本丸の門があったと推測できる。
本丸(奥に天守跡)
高取城
岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城と共に日本3大山城の1つとされている。
南北朝時代の1332年に大和高市地区を治める豪族越智氏(越智八郎邦澄)
が標高583mの高取山に支城を築く。(当時、越智氏の本城は別に貝吹山城が
あり、堀と土塁、逆茂木、板塀を配置しただけの掻揚城であったとされる)
1580年信長が発した城割の命によって一時廃城となるが、1584年に筒井
順慶が詰城として再建。翌年に伊賀上野国へ転封となり豊臣秀長の大和郡山入部
に伴い、家臣脇坂安治が入城。その後本多利久が入城し、大規模な改修を行った。
本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸御殿を造営し、城内には
17基の三重櫓が築かれ近世城郭に移行する。利久の孫にあたる敏政まで本多家
が治めたが、嗣子なく没したため本多氏は廃絶。桑山氏・小出氏が城番をつとめ、
1640年、旗本の植村家政が入城し大和高取初代藩主となる。以後、植村家が
14代228年間、藩主を務めた。1873年廃城。
高取城の図
天守跡
井戸跡か。
天守石垣を上る。
先程通ってきた桝形を上から
穴蔵
天守石垣に使用された転用石 古墳の石棺を使用している。
南側から
ニノ門先にあった猿石もそうだが、石垣構築に莫大な数の石が
必要であった為、このように転用石も用いられた。
下城
13:45 高取城八幡口登り口出発
14:00 夢創館到着
名城スタンプ押印、高取城関連のグッズを購入
本旅行で初の城クリアファイルをGET
14:15 夢創館を出発
次に目指すは大和郡山城(2-3へつづく)
引用(高取城地図)
高取町観光ガイド
沖縄で被害をもたらしている台風6号の
動向も気になる。今後も注視、警戒が必要だ
紀州攻め2-1から
11:20 大宇陀を出発
市街地を抜け、途中から高取山の山道を登っていく。
11:50 高取城八幡口登り口到着
舗装道は続くがこれより先、車止めがあり一般車の進入は出来ない。
登り口脇に1台車が止まっており先に登城している人がいるみたい。
その登城者の家族らしい女性が、登り口付近で帰りを待っていた。
入口に城の解説板
準備完了。雲行きが怪しいので一応ウインドブレーカーも携帯し攻城開始。
入口から進んでまもなく右側に石垣
番所跡だろうか?
石垣をしていたら、登城者が下りてきた
急いで周ったのでしょう・・・大汗かいている
若干ぬかるんでいる。小石や粘土質の土も混ざり、滑りやすいので注意して登る。
ガチ登山
落石注意の看板があるが、石垣の崩れは見られない。
落石注意の看板を見ていつも思うのだが、注意していても、
落ちてきたら避けられないだろうなぁ
ここから連なる石垣は
壺坂口門跡
ここから先が城内となる模様。
壺坂口曲輪
石垣が崩壊
壺坂口中門 (ここまでが壺坂口曲輪)
この先三ノ丸 先へ
案内板
←ニノ門 本丸→
この辺りから雨が降り出した。
小雨なのでそのままニノ門へ向かう。
!
突然降りが強くなってきたので、案内板のあった分岐点のベンチへ戻り、
ウインドブレーカーを装着し再出発。
宇陀門
宇陀門を通過して
本丸から離れて行くため下り坂。戻りが怖い
松の門
松の門を通過、振り返って
各門、若干石垣上部から崩れている感じ。成長した木の根が押し出しているのか?
左に行くと国見櫓 真っすぐニノ門
櫓に行ってみる。
国見櫓跡 画像が暗い・・・ 2層櫓があった。
櫓台石垣
石垣上から城下
石垣上から眼下
引き返してニノ門へ
やっと到着
ニノ門跡 ↑↓
高取城の最北部となる。
水堀跡
ニノ門から城下町方面
猿石というらしい。説明版を見ると飛鳥時代に制作したとみられ、
明日香村で掘り出された後、高取城築城の際に石垣材として運ばれ
この位置に置かれたようだと書かれている。
背面にも表現が見られるが不明確。
12:40 登城を開始してまもなく1時間
急いで本丸に向かい引き返す。
千早門跡 行きに見落としていた
三の丸案内板を抜け、大手門へ
大手門
手前三ノ丸から二の丸に向け徐々に高くなっている。
13間多門櫓門跡
二ノ丸
二ノ丸は上段・下段があり左の石垣が分かつ。石垣上には左右に櫓があったらしい。
今いるのは下段。
こちらから上段へ
二ノ丸上段の入り口。左右石垣上に15間(約27m)の多門櫓門があった。
上段から。右が太鼓櫓(跡)
左が新櫓(跡)
いずれも2層櫓であったとされる。
こちらから石垣上へ
太鼓櫓から新櫓
石垣上から二の丸下段
石垣上から天守石垣
櫓跡石垣から下りて
天守石垣 約12mの高さがある。
いよいよ本丸へ
本丸へ向かう側道?から北側は
急な切岸 滑落したら
横から見ると急斜面であることがよく分かる。
幾重に重なる桝形
地面に礎石。本丸の門があったと推測できる。
本丸(奥に天守跡)
高取城
岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城と共に日本3大山城の1つとされている。
南北朝時代の1332年に大和高市地区を治める豪族越智氏(越智八郎邦澄)
が標高583mの高取山に支城を築く。(当時、越智氏の本城は別に貝吹山城が
あり、堀と土塁、逆茂木、板塀を配置しただけの掻揚城であったとされる)
1580年信長が発した城割の命によって一時廃城となるが、1584年に筒井
順慶が詰城として再建。翌年に伊賀上野国へ転封となり豊臣秀長の大和郡山入部
に伴い、家臣脇坂安治が入城。その後本多利久が入城し、大規模な改修を行った。
本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸御殿を造営し、城内には
17基の三重櫓が築かれ近世城郭に移行する。利久の孫にあたる敏政まで本多家
が治めたが、嗣子なく没したため本多氏は廃絶。桑山氏・小出氏が城番をつとめ、
1640年、旗本の植村家政が入城し大和高取初代藩主となる。以後、植村家が
14代228年間、藩主を務めた。1873年廃城。
高取城の図
天守跡
井戸跡か。
天守石垣を上る。
先程通ってきた桝形を上から
穴蔵
天守石垣に使用された転用石 古墳の石棺を使用している。
南側から
ニノ門先にあった猿石もそうだが、石垣構築に莫大な数の石が
必要であった為、このように転用石も用いられた。
下城
13:45 高取城八幡口登り口出発
14:00 夢創館到着
名城スタンプ押印、高取城関連のグッズを購入
本旅行で初の城クリアファイルをGET
14:15 夢創館を出発
次に目指すは大和郡山城(2-3へつづく)
引用(高取城地図)
高取町観光ガイド
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