そよかぜ秘密基地 

開設時アラ4からアラ5になったおやじの趣味を中心とした『ブログ日記』でやす。不定期に更新。

晴と雨

2023-08-26 14:14:50 | 日記




北の空は若干、雲は多いものの晴れ





南の空は、雨が降っている・・・



こちらに来ませんように



スーパーの屋上にて 12:46撮影
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ブルー&ブルー

2023-08-25 19:00:00 | カブクワ飼育
7月上旬から組んでいたパプキン

ブルーレッドアイ♂とブルー♀の産卵セット。



現在、2セット目に投入中なのですが

まずは1セット目の割りだしをしました。



ほとんどが初令で4~5頭2令がいました。

コバエ進入を阻止するため、飼育容器への

移し替えに夢中で、ほとんど入れてからの写真撮影。





全部で21頭。ブルー♀は健在です。



8月25日割出 CBF1




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真田ゆかりの城へ2

2023-08-18 20:19:18 | 旅行
8日(3日目)





6:35  起床

8:25  出発   

      息子が休みを合わせてくれたので今日は一緒に城巡りへ行く。

9:00  沼田城址(沼田公園)駐車場到着

      

      

      今日も暑い

      

      ゲーム戦国無双の真田幸村のパネルと記念撮影

      息子の顔出しは許可を貰っていないので真田信之パネルに差し替えw

      

      駐車場付近は三の丸跡で武家屋敷だったらしい。



      観光案内所へ

      

       

      案内所内を見学、散策マップを入手



9:30  さっそく城(公園)内を巡る。 

      

      駐車場の東側 こちらも三の丸に位置する。

      現在はテニスコートとあるが、立ち入りはできない模様。

      これから発掘調査をするのだろうか?

      
      

      堀跡

      

      野球場 三の丸(球場の中央から南)から二の丸(球場北の一部)であった。



      
      
      二の丸から本丸へ入る大門(本丸御門)跡

      礎石等は良く分からない。赤丸で囲った石がそうなのか??

      

      




      本丸へ

       

      昨日の岩櫃城『クマ出没注意』に続き、イノシシ注意

      

      

      沼田城

      1532年沼田顕泰(あきやす)が築城。沼田氏が拠点とした。沼田城は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として
      上杉氏・北条氏の争奪戦となっていたが、1580年、武田勝頼の命を受け沼田に進出した真田昌幸が、当時、北条氏に
      従属していた金子泰清(沼田顕泰側室の兄といわれる)を調略によって無血開城させた。翌1581年に沼田城の奪還に
      来攻した沼田平八郎景義を謀殺。これにより沼田家は滅亡。1582年武田家が滅亡し一時、織田(滝川)領となるが、
      天正壬午の乱において北条氏に降った昌幸が再び支配した。以後、昌幸は主君を変えつつ沼田城の支配を続けた。領有を
      主張する北条氏とこれに応じない昌幸との間で攻防が続いたが、1589年豊臣秀吉の裁定により、真田氏から北条氏に
      引き渡され、北条方の猪俣邦憲が城代となった。しかし、同年に邦憲が昌幸の治める名胡桃城を略奪したことが、秀吉の
      怒りを買い、翌1590年の小田原征伐によって北条家は滅びた。戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康
      養女の婿である真田信幸(之)が沼田領2万7千石の城主となり支配。5層5階の天守閣を建造し、以後5代にわたって
      この地を治めた。1682年に破却。本多氏が城の再興の命を受け入封したが、天守は再建されず三の丸に館を建てた。
      黒田氏2代、土岐氏12代の居館として使用された。

      

      

      本丸は、公園として整備され小動物園や季節の花を楽しめる植物園等がある。春は御殿桜を
      はじめとする210本の桜が見ごろ。

      
      
      

      

      本丸で会った息子は少し飽きてきたように見えたので、案内所へ戻り

      展示を見学して涼んでいるように促した。






      

      鐘楼

      1634年、領内の安泰を祈願して2代藩主真田信吉が鋳造、沼田城内三の丸の楼に掛けて時報に用いた。
      真田氏改易により平等寺の焚鐘となっていたが、明治32年(1899年)旧沼田町役場敷地内に鐘楼が
      建てられた。昭和39年(1964年)、市庁舎改築で取り壊された後、昭和58(1983年)年に
      沼田公園内に復元。鐘は複製品で実物は沼田市歴史資料館に展示されている。



      

      真田信之公パネル



      

      本丸西櫓台へ

      

      

      櫓台石垣

      

      櫓台上には入れないらしい

      




      

      真田信之公とその妻小松姫像



      沼田城と小松姫の逸話

      真田信幸(信之)の正室 小松姫(稲姫)は徳川四天王の1人『猛将 本多忠勝』の娘。
      徳川家康の養女として信之の妻となった。関ヶ原の戦いの時、真田父子は、佐野犬伏に
      おいて信之は東軍、昌幸と信繁(幸村)は西軍へ与することになった。徳川の陣を引き
      上田城へ向う途中、昌幸らは沼田城へ立ち寄ったが、小松姫は武装し、城門を閉ざし、
      「たとえ舅といえども、夫信之の許しがなくては入城を許しませぬ」と、昌幸らの入城
      を拒否。昌幸は「孫の顔を見に来ただけじゃ」と開門を願ったが、開城をしなかった。
      昌幸と信繫は沼田城入城を諦め、正覚寺で休憩していたところ、小松姫が孫の顔を見せ
      るために訪れ、もてなした。昌幸も「さすがは本多忠勝の娘。小松姫がいる限り真田の
      家は安泰じゃ」と喜んだとされる。
      また男勝りと評される事が多い小松姫だが、戦後処理で流罪となった昌幸のもとへ鮭を
      送ったり、気遣いを忘れなかったとされる文献もあり、やさしく細やかさも兼ね備えた。
         



      

      利根英霊殿 利根沼田地区出身の戦没者を祀っている。

      

      大手門の沓石

      沓石(くついし):礎石の上、柱や縁の束柱 (つかばしら) の下に据える石。






      

      天守台

      天守台には1597年(慶長2年)、5層5階の天守が建造された。1681年 天和元年、
      5代城主信利が改易、領地は天領(江戸幕府に没収)とされ、翌年1月に幕府の命により
      破却、その後再建はされなかった。

      



      天守台から北側の捨曲輪へ

      

      トンボ発見

      

      捕獲w 撮影後に逃がしました。



      捨曲輪に入ると社?堂?を見つけた

      



      覗くと・・・






      

      堂内には昭和34年に造られた長さ3m、幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1t。

      日本一の大きさを誇る木彫りの天狗面だった。

      天狗堂というらしい。



      

      捨曲輪

      

      

      

      戦国無双 真田昌幸パネル



      

      平八石

      真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後に載せた石といわれている。



      案内所へ戻る。

      息子と合流し、名城スタンプ、御城印を購入。



10:55 沼田城址出発 次は名胡桃城へ






11:10 途中、すき家があったので、立ち寄り昼食 



11:40 すき家 出発






      

11:50 名胡桃城址到着 

      

      案内所のトイレを借り、さっそく攻城

      

       

      名胡桃城

      豊臣秀吉の天下統一の発端となる小田原北条征伐のきっかけになった城。

      名胡桃城のはじまりは1492年に沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館を築いたものとされる。
      上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、1579年に家臣の真田昌幸に命じ、
      北条氏から沼田城を奪取するための前線基地として築いた城である。昌幸は、この城を足がかりとして
      攻略を企図し調略の結果、沼田城を奪取した。沼田・吾妻領の領有を主張する北条氏とこれに応じない
      昌幸との間で攻防が続き、名胡桃城は沼田城の有力な支城として沼田領に攻め入る北条の軍を退けた。
      1587年に豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令。2年後の1589年、秀吉の裁定が
      行われ、名胡桃城を含めた全体の3分の1は真田領に、沼田城を中心とする3分の2は北条領として、
      沼田城は真田氏から北条氏に引き渡された。手放した土地の代替地として信濃国の箕輪を与えられた。
      しかし、同年11月3日に沼田城代猪俣邦憲が昌幸の治める名胡桃城を調略により占領。昌幸は直ちに
      寄親である家康を通して秀吉に訴えた。秀吉は手切れ書を北条氏と諸大名に配布するとともに北条へ
      家臣を派遣し関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条家当主氏直は詰問に対し「名胡桃城は真田氏
      から引き渡されて北条領となっている城なので、そもそも奪う必要なく、全く知らないことである」
      と書状で釈明、引き渡しと処罰を拒否した。1590年3月に秀吉は軍勢を出立。小田原北条征伐に
      よって北条家は滅びた。真田氏への旧領復活を受け、廃城となった。



       

      馬出

      

      三郭堀切 ↑ ↓

      

      

      

      三郭へ

       

      三郭 64×24mで横(東西)に長い郭

      三郭から薬研型の三日月堀が検出されたことから、築城当初は郭ではなく

      馬出であった事が分っている。

      

      グレーのコンクリート部が三日月堀跡

      

      建物跡 三郭には3つの建物跡が確認されている。



      二郭へ

       

      二郭南虎口 喰い違い虎口となっている。

      

      二郭堀切 ↑ ↓ 三郭側が傾斜45°に対し二郭側は攻めにくいように55°に掘られた。

      

      ピンク線:二郭側/赤線:三郭側 堀の深さは5.5~7mとあるので、安全の為、埋め戻したのだろう。



      また左右の堀切は一直線ではなく堀幅1つ分ずらして掘られている。(下図参照)

      

      

      二郭内の南西側の土塁上に見学台があるので上から見てみる。

      



       

      二郭

      65×50mの(南北)縦長の台形。西側縁辺は広く崩落している。

      南北の虎口を直線でつなぐ通路とその西側に建築時期が異なる建物群が8棟確認されている。

      

      二郭見学台から西(般若廓)側の堀を撮影



      北虎口へ

      

      北東の土塁上にも見学台。上から見てみる。

       

      二郭北虎口

      本郭間との左右堀切の掘り幅を変えることで、本丸へ向かう出口であるが

      大きくクランク状に進入せざるを得ないようにしている。

      本郭へ

      

      発掘調査にて橋の基壇上に柱穴(6本)がみつかり木橋が架かっていた事が分かっている。






      

      本郭

      

      本郭は51×30mで洋梨の形をした廓。東西縁辺が崩落し、

      コンクリートで補強されており、もっと大きな廓であった。

      この城に天守は無く、本郭内の虎口、建物の状況は分かっていない。

      

      名胡桃城址碑

      



      

       

      ささ郭

      31×14mの狭長な通路。この城跡で唯一両側に土塁が残存する郭だった。

      本郭がむき出しにならないように設けた廓で先端に搦手門を有し袖郭、物見に続く。

      

      

      袖郭 のぼり脇で記念撮影



      案内所へ
      
      

      御城印、スタンプ入手。

      案内所は資料展示、グッズや土産物の販売、喫茶店も併設している。



      最後に

      般若廓

       

      名胡桃城のうち最大の郭。主体となる連郭式山城の西側に孤立して位置する。

      築城以前から館があったのではないかと考えられているが、詳細は不明。

      現在は駐車場となっている。

      到着した時、解説板があるのに気付いたが、最後に観ることにした。



13:35 名胡桃城址駐車場出発



14:20 息子宅へ到着

      息子と別れ、帰路へ

      城に興味も無いのに付き合ってくれてありがとう



      以前知人からもらった群馬のブランド豚。とても美味しくって販売している店を

      教えてもらっていたので、今の場所から少し距離があるが、立ち寄ってみることに。

      

      パワーセンターうおかつ榛名店

      群馬のお土産はブランドの豚肉。


18:30 帰宅 走行距離400.9km

       



      

      

      戦利品      
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真田ゆかりの城へ

2023-08-18 19:20:21 | 旅行
8月6日から8日まで群馬県に行ってきた。



息子の様子を久しぶりに見に行くのと、

真田ゆかりの城をまわる目的。



今夏、2回目の城巡りとなる。

城巡りは3日間のうち2日のみなので、

2部に分けてUPの予定。



6日(1日目)
      初日は移動日。息子の家へ。

      途中、高速のサービスエリアで

      

      雨が降ったり、曇ったり晴れたり・・・

      台風の影響で変わりやすい天気だ。



      息子の家に到着

      夏バテしているかと思ったが、元気そう。

      晩飯を兼ねて、2人で中華料理を食べながら

      2時間ほど飲んだ。



7日(2日目)

      息子は仕事のため、今日は単独行動。

      武田家家臣 真田氏の城 岩櫃城へ

7:35  出発


7:55  道の駅おのこ

      少し早めに出発したため、トイレ等で立ち寄り

      時間の調整。(8:20頃まで)

   

      国道145号から原町市街地を抜け、案内に沿って右折。

      山道へ。

       

      看板発見

      ※ 車から降りて撮影しています



9:00  岩櫃山平沢登山口駐車場に到着。

      

      駐車場の路面は昨夜降った雨で濡れていたが

      現在は降っていない。雲の流れが早くまた

      降るかもしれないので、雨具と傘を持参。

      

      駐車場入り口にある周辺マップ

      

      

      駐車場から観光案内所までは少し離れているが、歩いて1~2分



9:15  登山口手前にある観光案内所

      続名城スタンプ、御城印販売はここで。

      帰りにもう一度立ち寄ることに。

      

      

      案内所でマップを入手したが、いまいち分からず。

      所員さんに城の遺構をまわりたいと伝え、

      マップを見ながら、ルートを教えてもらった。

      

      攻城開始

      

      尾根通りを行く。


      

      熊出没しませんように。遭遇してしまったら携行した傘が唯一の武器w

      



      少し登ると

       

      開けた場所に出る。

      

      中城跡


      

      






       


       

      現在は二ノ丸、本丸へ上る登場ルート

      もとは堅掘であった。

      敵兵が攻める際、横への移動を制限するために造られた。




       

      三ノ丸(山側から)

      『三ノ丸』と『中城』を区別しているものと同一とするものが

      HP等で見られるが、当ブログでは別の曲輪とする。






       

      二ノ丸、本丸へ                             本丸東側の横堀は竪堀に続いている。

      

      

      

      二ノ丸到着


      

      二ノ丸案内

      

      本丸を背に三ノ丸方面

      

      二ノ丸から本丸(階段は本丸へと続く)

      曲輪間も横堀が施されている。



      本丸へ

      

      本丸

      

      本丸東側の堅掘。 画像左の堀は、二ノ丸手前で見た横堀

      

      本丸から城下

        

      ニノ丸から本丸への唯一の登城路。腰曲輪跡

      先程、二の丸から本丸へと上ってきた階段は当時なかった。 

 

      

      後方の草むらで羽音がするので覗いてみると

      ヒグラシ

      羽根が雨の雫で濡れたためか、飛べない様子。

      少し手の中で休ませたら、飛んで行った。

      

      本丸櫓台跡






       

      本丸北側から城下を望む。

      

      

      東屋

       

      東屋内にアリ地獄の巣を発見






      

      

      

      岩櫃城

      築城年および築城主は不詳。上杉謙信に臣従した斎藤氏がこの地を治めていたが、甲斐武田信玄より、
      上州攻略の命を受けた家臣の真田幸隆が岩櫃城を攻略、従属国衆となった海野氏を推挙し城代とした。
      幸隆の死後、長子の信綱が真田家を継いだが、翌年の1575年長篠の戦いにおいて信綱が戦死した
      ため、三男の昌幸が跡を継ぐ。1581年、それまで城代を務めていた海野氏は武田・真田氏による
      突然の粛清を受け、自害。1582年の織田・徳川軍による甲州征伐で、昌幸は武田勝頼を岩櫃城へ
      迎え入れて再興を図ろうとしたが叶わず、勝頼は天目山で自刃し武田家は滅亡した。以後は、昌幸の
      長子であった信行(幸)が、江戸幕府以後まで治めたが、1615年の一国一城令を受け破却された。
      岩櫃城は信濃上田城、上野沼田城を結ぶ重要拠点に位置付けられ、西は堅牢な岩櫃山、南は吾妻川、
      北は岩山に囲まれた天然の要害で、城内に竪堀、横堀を巡らせた難攻不落の城であった。久能山城、
      岩殿城とともに『武田の三堅城』と呼ばれた。
      2017年、続100名城に選定、2019年に国の史跡に指定された。             


      

      本丸内西寄 居館があったらしい。

      そろそろ下城

      

      帰りは登城ルート(尾根通り)とは別の道(沢通り)から行ってみる。

      

      本丸南の奥に看板がある 丸印のところ

      本丸に戻って行ってみる。



      

      二ノ丸から本丸に繋がる腰曲輪を見たが、樹木が生い茂り

      南桝形虎口の位置が良く分からなかった。こんな奥にあったとは・・・

      

      しかし、樹木で良く分からなかったw



      沢通りへ

      

      岩櫃山への登山者はこの先の岩山を更に登り頂上を目指すのだろう。

      山の西側には敗走する武田勝頼を迎えるために急造した御殿『潜龍院』跡が

      あるらしいのだが、岩山は梯子や鎖場を登るらしく超軽装備危ないので下山。

      

      北桝形虎口跡 こちらは何となく桝形が分かる感じ。

      



      

      一の木戸跡(本丸の北西) 

      解説板(白いポール)の前に石が落ちているが関係あるのか??



      

      水曲輪跡

      

      竪堀 

      マップで確認すると二の丸の真北に位置する。

      マップを見ていて、登城時に中城の端を通る

      もう1本の“北の竪堀”を見忘れている事に気付き

      見に行く事にする。

      

      この直線の道も竪堀の続きと思われる。



      登山口まで戻り、また中城に向け登る

      

      北の竪堀 ↑ ↓

      

      春先か秋の攻城だともう少し草木が少なくて

      分かりやすいのかな。(たしか冬季は登山禁止



11:00 案内所へ戻る。

      続100名城スタンプを押して御城印を購入。

      また所員さんに、岩櫃山の撮影スポットを尋ねたところ、

      吾妻線郷原駅の先の信号を左折し、川を渡った辺りが

      撮影スポットと教えてくれた。

      汗だくで気持ち悪いので、一度車に戻り着替え。

      少し車内で涼みながら、水分補給とおにぎりの昼食



      再度、観光案内所のトイレで手と顔を洗い

      

      (綺麗なトイレでした。)



11:50 出発


12:05 

      

      NHK大河 真田丸のオープニングで観た岩山。

      良い写真が撮れた。案内所のおじさまありがとう!



12:50 道の駅おのこ



      渋川市に入って温泉施設の看板を見つけた。

      すでに通り過ぎていたので、Uターン

13:10 金島温泉 富貴の湯に到着

      

      昼間から温泉は贅沢だなと思ったが

      結構お客さんが来ていた。

      気持ち良くって、少々長湯してしまった。

14:30 富貴の湯出発      

      今晩も息子と夕食を取る予定なので時間つぶし。

18:00 息子と合流。

      少し息子宅でゆっくりして、酒を飲むので徒歩で向かう。

19:00 焼肉屋あおぞらへ

      ビールと焼き肉は間違いない

      リーズナブルとはいかないが肉はとても柔らかく美味かった

      メニューに中華もあり、地元の人はラーメンだけ食べて帰る人も結構いた。



      息子の家へ戻り、飲み直し

23:30 就寝

      3日目は息子と2城を巡る予定。






      ブログUP時の店舗情報です。
      下記店舗の利用時は、仕様が変更されている場合も
      あると思うので必ずご自分で店舗へ連絡、確認してね。



      金島温泉 富貴の湯

      所在地:群馬県渋川市川島99-1
      営業時間;10:00~21:00(受付終了30分前まで)
      休館日:毎月15日(土日・祝日は営業し翌日休館)
      料金:大人(中学生以上)400円、小学生200円、以下100円
      電話:0279-23-0001
      泉質:カルシウム・ナトリウムー塩化物温泉(低張性中性低温泉)      



      うまい焼肉 あおぞら

      所在地: 群馬県内4カ所あるようです。            
      営業時間:11:30~21:30(LO終了30分前まで)
      休館日:年中無休(大晦日・元日のみ休み)
      
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戦利品

2023-08-18 18:18:18 | 旅行






紀州征伐の戦利品・・・お土産です。





初の御城印帳 伊賀上野城版

これでクリアファイル保管をやめられるわ








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紀州攻め3-2

2023-08-17 23:23:19 | 旅行
紀州攻め3-1のつづき






      伊賀上野城を目指す。









      

      三重県名張市内の比奈知バイパスから見える赤岩大橋






12;10 付近到着

      ナビ案内のとおりにメイン道路から路地に入ったら

      

      高石垣撮影の絶景ポイントだった。

      この路地は、堀の道と言われているらしい。

      でも入口なし。引き返して近隣の駐車場を探す。



      城の北西まで来たところで

      

      駐車場を発見

12:30 城北駐車場到着

      攻城(暑さ対策)準備をして出陣

      

      反対車線側も看板があった。

      南側に大手門含む入口があるようなので

      とりあえず向かってみる。     



      

      

      近道だ






      



       公園(城の東寄り)に出た。

       売店やトイレがある。帰りに立ち寄ってみよう。

       

      

      城代役所跡

      









      

      裏門(台所門)跡

      

      
      
      






      

      天守(復興模擬)



      伊賀上野城

       伊賀上野城は筒井定次によって築かれた城で、1611年にに築城の名手と謳われる藤堂高虎が
      家康の命により、豊臣氏を包囲する城として大改修を行った。本丸を西に拡張し、高さ約30mの
      高石垣をめぐらして南を大手とした。五層の天守は築城中の1612年9月2日、この地を襲った
      大暴風で倒壊。大坂の役によって豊臣氏が滅んだため工事は中止された。
       現在は当時の内堀と石垣、昭和10年に建てられた天守閣が残る。約30mと日本有数の高さを
      誇る内堀の石垣は見どころ。三層からなる城内には武具・甲冑や藤堂家の遺品、横山大観をはじめ
      名士の色紙46点の天井絵がある。白く三層の美しい天守から、別名『白鳳城』とも呼ばれている。



      



      

      天守台石垣 算木積、打込接がみられる。

      



      

      2層小天守

      

      さっそく城内へ

      

      大天守と小天守間の門を潜ると登閣チケット売り場がある。

     

       



       

      兜 面具

      

      唐冠形兜(とうかんなりかぶと)

      高虎が豊臣秀吉から拝領した。高虎から藤堂玄蕃良重に与えられた。

      藤堂玄蕃家に代々伝わり、子孫から伊賀市に寄贈。三重県指定文化財



        

      甲冑



      

      天守鬼瓦

      

      城下









      外へ

      大天守入口に伊賀上野城グッズが各種販売されていたが

      名城スタンプをまだ押印してなかったのでチケット売り場へ

      押印後、チケット売り場にも御城印を販売していたから、こちらで購入。

      入口係員のお姉さん、ごめんなさい。






      

      入城前にも思ったのだが、大天守石垣が少し膨らんで歪になっている



      

      高石垣へ向かう。案内板の曖昧な表現に笑ってしまった

      伊賀上野城の石垣高さは、正確には29.7mで、大阪城は高さ32mらしい。

      1でも2でも現在まで大切に管理、保存されていることが素晴らしい。



      

      向かう途中、天守を南西方向から






      

      高石垣から内堀

      

      打込接

       表面に出る石の角や面を叩いて平らにし、石と石の接合部の隙間を
      加工して減らして積み上げる工法。残った隙間には石を詰め補強する。
   
      

      延長368m

      

      綺麗に整形された石。江戸期以降の物だろうか?最近??

      石の大きさが分かるようGショックの腕時計を置いて撮影。大きい



      天守南西側の石垣から北側の石垣へ移動

      

      その途中で西側から天守を      



      北側高石垣は、安全の為、進入禁止のパイロン(セーフティコーン)配置あり。






      城代役所跡方面に向かう。

      

      行きに通った裏門から行こうかと

      思ったが、南方面に回ってみる



      

      表門跡



      
      
      城代役所の解説板

      幕末頃の役所建物位置と発掘調査をもとに配置を

      再現したものらしい。



      公園東の土産店『伊賀上野 地場産買物処』に

      手裏剣型の堅焼きを購入

      のちに職場へ持って行き同僚たちと食べたが、

      半端なく固いながらも、味は美味しかった。



      駐車場へ戻り、昨日途中まで攻城し撤退した

      大和郡山城へ

14:20 伊賀市立城北駐車場出発









15:30 大和郡山城駐車場到着

      

      追手向櫓

      

      追手向櫓と追手門の間に架かる多門櫓

      

      追手門 門外から

      

      追手門(梅林門)

      追手門は豊臣秀長が入城した際に築かれたと考えられる。関ケ原の戦いの後、伏見城に移築されるが、1618年
      松平忠明が城主となった際、郡山城へ戻された。当時、一庵丸門(いちあんまるもん)と呼ばれ豊臣秀長と秀保に
      仕えた家老の横浜一庵(桑山一庵)の名前に由来する。1724年、柳澤吉里が甲府城から郡山に移封となって、
      梅林門と呼ばれるようになった。
      1873年廃城令により取り壊されたが、1983年(昭和58年)に復元された。

      

      追手門 門内から

      

      毘沙門曲輪内の番屋カフェ?から天守跡

      

      城址会館(旧奈良県立図書館)

      法印曲輪に位置する。法印曲輪は、一庵丸、常盤曲輪(常盤郭)とも呼ばれている。



      城址会館の右奥裏手(東側)へ

      

      追手東隅櫓(法印曲輪)

      

      






      

      久護門跡

      

      多門櫓

      駐車場に到着した時に追手門外から撮影した櫓

      

      追手向櫓

      






      最後に柳澤文庫に行ってみた



      



      









      やはり休館日であった。



      今回の城巡り



      最長4日間を計画し、当初3・4日目は和歌山の

      城を巡ろうと思っていた。和歌山の城も残り1日で

      回ることは難しそうだ。これから明日の移動を考え、

      和歌山の予定地入りもこの場から遠く到着は、4~

      5時間が掛かる見込み。

      悩む



      歳のせいか、それとも山城が結構多かったせいか

      暑さのせいなのか、なぜか心が折れた。



      体力的には、もう少し行けそうな気もするが・・・



      松永久秀公の信貴山城、多聞山城も行きたいし、

      大和郡山城リベンジという奈良に来る理由が

      出来た。紀州(和歌山)攻略も・・・

      また機を見て再来する事にして、今回は余力を

      残し、完全撤退に決めた。

16:00 大和郡山城駐車場出発

      すぐに高速に入らず、少し一般道で帰る。



17:40 伊勢自動車道

      東名阪自動車道

18:00 亀山ハイウエイオアシス

      土産購入と夕飯

      すき家の牛丼と迷ったが亀山亭のノボリに釣られ

      

      鈴鹿甘だれ唐揚げ定食

      ダシ塩と同じくダシを使った甘ダレの2色唐揚げ

      見た目よりボリュームがあって満足。美味かった



21:00 浜松SAで休憩

       

      




28日

0:20  無事に帰宅



走行距離 1328km



今回の旅行

数日でブログにUPするつもりが、

撮影した画像が700枚を超え

途中で萎えてしまい1カ月以上も
かかってしまった。  反省






      伊賀上野城

      住所   三重県伊賀市上野丸之内106

      入館時間 9:00〜17:00(入館16:45まで)

      登閣料  大人600円、子ども300円

      休館日  12月29日~12月31日

      駐車場  伊賀市営城北駐車場
           平日は無料、土・日・祝日・年末年始は有料らしい
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紀州攻め3-1

2023-08-11 06:06:06 | 旅行
紀州攻め2-3からのつづき



紀州攻め3日目


3:30  起床 

      トイレに行って、更に二度寝をしようと

      したが、完全に目が覚めてしまった。

      今日回る予定の城を車のナビに地点登録

      したり、スタンプ、御城印の入手場所を

      確認したりした。



      

      スワロー親

       

      スワローズ(子らが6羽程いるみたい) 






8:00  道の駅みつえを出発



8:30  最初の目的地 多気北畠氏城館跡(北畠神社)到着

      初日に来る予定だったが、時間の制約でなかなか来れず。

      3日目にやっと来れた



      今日もまた、既に暑い

      

      

      

      まっすぐ進むと神社へ

      北畠神社は城を攻略後にする。

      

      

      攻城始め

       



      

      少し登っただけなのに、かなり高い位置まで来たようだ。

      左に神社内建物の屋根が見える。



      10分ほど登ると

      

      山道から開けた平らな空間に出た。①北東方面を撮影

      もう城に到着か? 1.3Kmも歩いたか??



      解説板を発見

      

      詰城だった

      今いる場所は曲輪Aのようだ

      

       

      詰城から東側城下の眺め②東方面を撮影

       

      南側通路③西方面を撮影

      

      竪堀④北方面を撮影

      

      曲輪B?

      

      風化のため、竪堀、堀切、曲輪等の位置が、今1つ

      断定できないので、石碑や案内板があるとうれしいが。



      霧山城の本丸を目指す。

      

      

      

      

      半分は来ただろうか?

      ハーハーと息を切らしながら、ただ登る。

      こんな山に居城を造り構えるとは

      北畠氏おそるべし

      




      

       

      分岐案内板

9:33  攻城開始から約1時間

      あともう少し

      

      

      霧山城の案内板と鐘突堂跡の表示

      

      鐘突堂はこの上。

      

      鐘突堂に到着。

      この場所は霧山城南曲輪に位置する。

      



      とりあえず水分補給

      ひと息ついて

       

      石碑後ろ(南西側)に土塁跡



      いよいよ北曲輪群へ 

      尾根を大きく下り、また登る。応えるUPDOWN

       

      北曲輪群の中で東に位置する矢倉跡

      

      矢倉東側の堀切

      

      



      本丸へ

      

      

      

       

      本丸



      霧山城
      南北朝時代初期の1342年(1343年とも)南勢を拠点としていた
      北畠顕能(あきよし)が北勢の霧山に築城した。その後、歴代北畠氏が
      この地を本拠として治める。1499年に一度焼失するが、1506年
      に再建。1567年からの織田信長による伊勢侵攻に伴い、大河内城に
      本拠を移し城代として北畠政成が残った。1569年の大河内城の戦い
      を経て、織田との和睦条件として北畠具房の養子となった織田信雄は、
      具房を隠居させ、北畠家を家督相続、田丸城へ本拠を移転させ、翌年の
      1576年11月に北畠一族を謀殺。その直後、信長命により羽柴秀吉、
      神戸信孝、関盛信らの大軍が霧山城を攻め、城代であった政成が必死の
      防戦をみせるも、城館を焼き払われて落城した。別名を多気城ともいう。
      


      

      本丸南側の土塁



      

      本丸北側の土塁

      

      

      本丸西から東






      米倉跡へ



       

      米倉跡

            

      米倉と本丸の境界は、風化のためか不明瞭



      下城

      


      鐘突堂前

      

      堂を経由するとまた登りだが、左に迂回路を発見

      

      迂回して正解

      神社から本丸まで1時間30分

      帰りは同じ道で30分であった。






      一度車に戻り、攻城装備を解き神社へ

      

10:30 北畠神社社務所で続名城スタンプを押印。

      御城印も合わせて購入。
      
       

      

      参拝

      残りの城巡り安全を祈願



      

      北畠氏居館の入り口跡




      神社の隣にある商店でジュースとクーラーBOX用に氷を購入。 



11:00 多気北畠氏城館跡を出発

      次は伊賀上野城を目指す。



      紀州攻め3-2へ





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紀州攻め2-3

2023-08-05 06:07:08 | 旅行
紀州攻め2-2からのつづき



14:15 高取町観光協会が運営している夢創館を後にして

      本日の最終攻城となるであろう大和郡山城を目指す。



      途中、橿原市街を通過の際、カブクワブーム を

      突っ走り、現在は廃業してしまった奈良オオクワセンターは

      どのあたりにあったのだろうと思いながら走行。

      跡地はもちろん分からず。



      大和郡山市に入った位から、城になるべく近い駐車場を

      ナビで検索かけるが、城直近の駐車場は見つからず。

      また近鉄線とその駅、市街地なので一方通行等が多く

      城の周りを車で周回して探すのには時間が掛かりそう。



15:30 郡山城南東側の有料駐車場に到着

      ここから少し距離があるが、徒歩で向かう。





      

      鷲池南側の遊歩道に上がってきた。城がある大体の位置は

      ナビで確認してきたが、なかなか近づけないmmm。

      (この時、池の名前は全く知らない)

      遊歩道を散歩中の高齢ご夫婦がいたので道を尋ねると、

      「この先右に曲がってまっすぐ行くと城があるよ」と。



      右に曲がってしばらく行く・・・

      一瞬石垣かと思ったが違った

      と思ったら

      

      あ!石垣!!途中から城の石垣が。



      

      丁字路の先に郡山城発見。丁字路交差点をさらに右へ。



      道の両脇に石垣がある。門跡か(撮影無し)





      

      学校の体育館

      城の広大な跡地は、役所、学校、グラウンド等の公的施設や寺社等に

      なっている事が多いので、多分この場所も昔は城の一部だったのだろう。



      

      県立郡山高校だった。



      

      柳沢神社とある。

      

      鳥居を潜って先へ

      

      郡山城石碑



      

      

      極楽橋と言うらしい。この先に庭園??



      

      天守跡

      天守石垣の北側に回る。

       

      北側の石垣に使用されていた石仏(転用石)

      現在は供養され、取り除かれた模様。



      天守上へ

      

      舗装されている。

      

      一部、発掘で見つかった天守礎石が保存、展示されていた。

      

      発掘時の様子



      

      天守石垣上から

      

      天守から下りて本丸から




      

      柳澤神社



      続名城スタンプ帳を確認すると、スタンプは柳澤文庫に。

      先程の極楽橋を渡り



      柳澤文庫へ

      

      !!!!!

      まさかの休館日

      そういえば旅行前、一応各城のスタンプ設置場所をサラッと

      見た時に定休・休館日に気を付けなきゃと思った事を思い出した。

      そして、さらに追い打ちをかける事実

      今日は6月26日(月曜)で休館

      明日は・・・月末で火曜日。第4火曜日も休館とある。ショック



      今日回れなかった三重・奈良周辺の城を明日3日目に回ろうかと

      思っていたが、明日も休館

      今回は最長4日で、その4日目は和歌山県(紀伊)を

      回ろうかと思っている。






      ここにいても埒が明かない



      追手門へ

      

      追手門 

      写真を数枚撮っていると

      更に更に、心を表すかのように雨が降ってきた

      駐車場まで約10分、傘は携帯していない。

      何かの間違いでも、明日開館しているかもしれないので

      ここで撤退開始。

      信長の“金ヶ崎の退き口”か

      島津の関ケ原“捨て奸”か

      はたまた家康の“伊賀越え”か・・・









      ここで唯一の吉報



      追手門を出たところで

      

      城址公園の駐車場を発見

      明日来たときはここに駐車しよう



      ガッチリ計画を立てない1人旅

      こういう事もあるさと気を取り直し

      郡山城を後に


      






16:25 駐車場を出発

      奈良県の道の駅みつえへ向かう。

      明日のスタートは、初日に行く予定だった

      北畠氏館から巡るので、その近くを選択した。



      途中、晩飯としてすき屋で牛丼をテイクアウト。






18:16 道の駅伊勢本街道みつえに到着

      



      まずは温泉へ

      

      みつえ温泉 姫石の湯(ひめしのゆ)

      

      施設前に懐かしいせんとくん

      おーw 久しぶりに見たよ



      大浴場、露天風呂、つぼ風呂、気泡風呂、打たせ湯、座湯、サウナ等があり

      1日の疲れが癒されるぅ。



      車に戻って、エアコンでクールダウン



20:00 運転席でTVを観ながら、牛丼とビールで晩飯

      その後、後ろの席に移動して寛ぐ。



21:00すぎ?? 

      いつの間にか就寝




紀州攻め3-1へ


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紀州攻め2-2

2023-08-03 23:51:51 | 旅行
8月に入り、猛暑日が続いている。

沖縄で被害をもたらしている台風6号の

動向も気になる。今後も注視、警戒が必要だ





紀州攻め2-1から

11:20 大宇陀を出発



      市街地を抜け、途中から高取山の山道を登っていく。  



11:50 高取城八幡口登り口到着

      舗装道は続くがこれより先、車止めがあり一般車の進入は出来ない。

      登り口脇に1台車が止まっており先に登城している人がいるみたい。

      その登城者の家族らしい女性が、登り口付近で帰りを待っていた。

       

      入口に城の解説板



      準備完了。雲行きが怪しいので一応ウインドブレーカーも携帯し攻城開始。



      

      入口から進んでまもなく右側に石垣

      

      番所跡だろうか?

      

      石垣をしていたら、登城者が下りてきた 

      急いで周ったのでしょう・・・大汗かいている



      

      若干ぬかるんでいる。小石や粘土質の土も混ざり、滑りやすいので注意して登る。

      

      ガチ登山



       

      落石注意の看板があるが、石垣の崩れは見られない。



      落石注意の看板を見ていつも思うのだが、注意していても、

      落ちてきたら避けられないだろうなぁ



      ここから連なる石垣は

      

      壺坂口門跡

      ここから先が城内となる模様。

       

      壺坂口曲輪

       

      石垣が崩壊



      

      壺坂口中門 (ここまでが壺坂口曲輪)



      この先三ノ丸 先へ



      案内板

       

      ←ニノ門  本丸→

      この辺りから雨が降り出した。



      小雨なのでそのままニノ門へ向かう。

       

       


      

      突然降りが強くなってきたので、案内板のあった分岐点のベンチへ戻り、

      ウインドブレーカーを装着し再出発。



      

      宇陀門

       

      宇陀門を通過して

      

      本丸から離れて行くため下り坂。戻りが怖い

      

      松の門

      

      松の門を通過、振り返って 

      各門、若干石垣上部から崩れている感じ。成長した木の根が押し出しているのか?

      

       

      左に行くと国見櫓 真っすぐニノ門

      

      櫓に行ってみる。



       

      国見櫓跡 画像が暗い・・・ 2層櫓があった。

      

      櫓台石垣

      

      石垣上から城下

      

      石垣上から眼下

      

      引き返してニノ門へ






      やっと到着



       

      ニノ門跡 ↑↓

      

      高取城の最北部となる。



       

      水堀跡



      

      ニノ門から城下町方面

       

      猿石というらしい。説明版を見ると飛鳥時代に制作したとみられ、

      明日香村で掘り出された後、高取城築城の際に石垣材として運ばれ

      この位置に置かれたようだと書かれている。

      

      背面にも表現が見られるが不明確。



12:40 登城を開始してまもなく1時間

      急いで本丸に向かい引き返す。



      

      千早門跡 行きに見落としていた



      三の丸案内板を抜け、大手門へ



       

      大手門     

      

      手前三ノ丸から二の丸に向け徐々に高くなっている。


      

      13間多門櫓門跡



      二ノ丸

      

      

      

      

      二ノ丸は上段・下段があり左の石垣が分かつ。石垣上には左右に櫓があったらしい。

      今いるのは下段。

      

      こちらから上段へ

      

      二ノ丸上段の入り口。左右石垣上に15間(約27m)の多門櫓門があった。

      

      上段から。右が太鼓櫓(跡)

      

      左が新櫓(跡)

      いずれも2層櫓であったとされる。

      

      こちらから石垣上へ

      

      太鼓櫓から新櫓

      

      石垣上から二の丸下段

      

      石垣上から天守石垣



      櫓跡石垣から下りて

      

      天守石垣 約12mの高さがある

      



      

      いよいよ本丸へ

      本丸へ向かう側道?から北側は

      
      急な切岸 滑落したら

      
      
      横から見ると急斜面であることがよく分かる。



      

      

      幾重に重なる桝形

      

      地面に礎石。本丸の門があったと推測できる。

      

      

      本丸(奥に天守跡)



      高取城

      岐阜県の岩村城、岡山県の備中松山城と共に日本3大山城の1つとされている。

      南北朝時代の1332年に大和高市地区を治める豪族越智氏(越智八郎邦澄)
      が標高583mの高取山に支城を築く。(当時、越智氏の本城は別に貝吹山城が
      あり、堀と土塁、逆茂木、板塀を配置しただけの掻揚城であったとされる)
      1580年信長が発した城割の命によって一時廃城となるが、1584年に筒井
      順慶が詰城として再建。翌年に伊賀上野国へ転封となり豊臣秀長の大和郡山入部
      に伴い、家臣脇坂安治が入城。その後本多利久が入城し、大規模な改修を行った。
      本丸には、多聞櫓で連結された3重の大小天守、二の丸御殿を造営し、城内には
      17基の三重櫓が築かれ近世城郭に移行する。利久の孫にあたる敏政まで本多家
      が治めたが、嗣子なく没したため本多氏は廃絶。桑山氏・小出氏が城番をつとめ、
      1640年、旗本の植村家政が入城し大和高取初代藩主となる。以後、植村家が
      14代228年間、藩主を務めた。1873年廃城。

      

      高取城の図



      

      天守跡

      

      井戸跡か。

      

      天守石垣を上る。

      

      

      先程通ってきた桝形を上から

      

      穴蔵

      

      天守石垣に使用された転用石 古墳の石棺を使用している。

      

      南側から



      ニノ門先にあった猿石もそうだが、石垣構築に莫大な数の石が

      必要であった為、このように転用石も用いられた。

      



      



      下城

      


13:45 高取城八幡口登り口出発



14:00 夢創館到着

      名城スタンプ押印、高取城関連のグッズを購入

      本旅行で初の城クリアファイルをGET



14:15 夢創館を出発

      次に目指すは大和郡山城(2-3へつづく)
      




      引用(高取城地図)
      高取町観光ガイド
コメント
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