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天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

鹽竈神社

2023-05-05 23:47:58 | 日記

  陸奥国一之宮の鹽竈神社に參った。
  御祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)に、別宮として鹽土老翁神(しをつちをぢのかみ)であるけれど、土地柄から塩土老翁神が主祭神であると思う。
  鹿島神宮が武甕槌、香取神宮が経津主を主祭神として競っているのに対し、両方祀っているのは東北的おおらかさで面白い。
  塩釜神社だけに塩土老翁が主役でなければならない。武甕槌と経津主と違って日本書紀と古事記の両方に登場する。面倒臭いので書紀だけ見ると、日本神代記十大ストーリーの一つ、海彦山彦物語の中で活躍する。兄の海幸(火闌降命=ほのすそりのみこと)が、弟の山幸(彦火火出見尊=ひこほほでみのみこと)にお互いの仕事道具を交換してみようじゃないかと誘い、自分の釣針を渡し、弟の弓矢を貰った。しかし、弓矢が上手く使えなかった兄ちゃんは、やっぱり駄目だ、釣針を返せと弟に迫った。ところが弟の山幸も慣れない針を使って、魚に持っていかれ無くしていた。
  返せ返せと責め立てられ山幸は海辺で泣いていた。そこに現れたのが塩土の爺さんだった。困窮を聞いて塩爺は、何だ心配すんな、心当たりがあると、解決策を教えてやった。そして無目籠(まなしかたま)という、水が浸入しないようガチガチに編んだ籠に、山幸=彦火火出見尊(結局は浦島太郎)を入れて、海に沈めた。
  あとは竜宮城に行って乙姫さまといっぱい楽しい日々を過ごし、お土産を沢山持ち帰って、最後に兄を懲らしめるという有名なおとぎ話になる。
  ここで個人的に気になるのは、浦島太郎繋がりである。私の今回の旅の始まりは京都・宮津の丹後一宮・籠神社だった。伊勢に皇祖神を祭る前の元伊勢と言われる神社であり、浦島太郎伝説に関わりの深いところである。それが塩爺が山幸を竜宮城に送るために作ってやった籠に繋がった。私が各地一宮を訪ねて北に向かった旅は、一応の区切りがついたようである。

籠のまま
乙姫に逢はず
日の目見ず
塩釜に焼かれ
我老いにけり













富沢摩崖仏群

2023-05-04 10:30:07 | 日記

 宮城県柴田町富沢の岩崎山の岩肌に阿弥陀如来坐像が彫り出されている。側面に嘉元2年(1306年)や恵一坊藤五良などの刻字があり、籐五良が父の供養のため、その年に彫ったと伝えられている。途方も無い信心であり、遠路を厭わずお詣りした。
 周囲に虚空蔵菩薩像4体も彫られていると記されていたけれど見付からなかったため、ウロウロしていると、付近に珍しい植物がいろいろ生えており、お陰で牧野富太郎博士も悔しがりそうな新種の植物を発見した。
 すると初老の男性が現れ、磨崖仏群のほか、近隣のことをいろいろ說明、案内してくれた。植物にはかなり詳しく、これは榊だ、イロハモミジだ、タラだ、マムシソウだなどと教えてくれた。しかし、私が一番興味があった三つ葉の真ん中に舌が出ているのは、山野草だとしか答えられなかった。あとでグーグル・レンズで調べると、トリリウム・フレクシプスだとするが、似ても似つかない。やはり日本古来種の新発見に違いなかった。
 その人と出合えて幸運だったのは、所在の分からなかった虚空蔵菩薩の在り処を教えてくれたことだった。阿弥陀如来の裏手をぐるっと回った民家の間の細道を伝って上った崖の上にひっそり掘られていた。場所が分からないのでほとんど誰も来ないけれど、たまに来ると滑って転んで大怪我したりすることが何回もあったので、積極的に案内していないそうである。私の守り本尊がいつも肌身離さない虚空蔵さんなので有り難かった。
 その人の案内癖はとどまるところを知らなかった。近くの能化寺の大仏さんは有り難いよと連れて行き、写真撮っておいた方が良いよ、というのが口癖だった。住み着いた大勢の猫まで撮らされた。向こうに韓国どぶろく醸造所があると、付いていったら冬場の商品のため休業中だった。土産に買って帰りたかったのに休みですかとガッカリすると、「そうよ」と言うのも口癖だった。しかも本人は体調の加減で酒を一滴も飲まないという。次は貝塚。ここら辺りは数百年前は海だったと説明してくれた。山向かいの鹿島神社に參ろうという。いや、来る途中、茨城の鹿島神宮に寄ってきましたと言ってもお構いなしだった。自分で参拝したあと、もう一度賽銭を入れ、あんたの分も出したから拝んでおいた方が良いよと勧めてくれ、いい人だった。ずうっと自転車で先導して案内してくれた。いろいろ世間話、身内話も交わした。最後はホテルまでの帰り道を途中まで案内してくれた。別れづらくなり、写真を撮らせてもらった。狸か、狐のような方だった。何が遭遇させてくれたのか、今回の紋次郎旅のハイライトになりそうである。

みちのくの
岩崎山に
彫り出さる
阿弥陀如来ぞ
富さはにせむ























陸奥国一宮・都々古和気神社

2023-04-27 17:36:27 | 日記

 諸国一宮の中でも外来者には「都々古和気神社」は難解である。
 福島県の近接した石川町と棚倉町に3つも都々古神社がある。神名が微妙に違う。石川のは石都々和気神社、棚倉の2つはそれぞれ八槻都々古別神社、馬場都々別神社(都々古山神社とも)とある。
 都々古は中国式のトトコでなく、和名のツツコと読む。「つつこ」とは地元の人の話では、藁で編んだ大きな米の容れ物、すなわち大俵のことで、豊作豊穣の神様のようである。村々でそれぞれ豊穣の神を祀ったようで、本家分家の関係はないと教えてもらった。
 一の宮と言っても八槻さんは奥州一宮であり、石さんは陸奥の国一の宮と称する。
 石都々古神社は当地で武門として勢力のあった石川城跡と併存しており、城社一体が特徴と言える。また、和歌山の巨石がご神体の神倉神社のように、亀石とか鏡石とか巨石を祀っており、信仰の年代は相当古いと想像される。氏子も盛んそうで一番栄えているように見えた。
 八槻都々古別神社には御田植えという伝統行事、お祭りがあり、「(田の)堀をさらう演目での、『ガリ、ガリ、ガリ・・・ガリ』や畔(くろ)ぬりを演じる際の、『ガンブリベタリ、ドロリベッタリ』など、演じながら発する独特擬音も特徴的である」との説明は、素戔嗚尊(すさのをのみこと)が「春は渠填(みぞう)め、畔毀(あはなち)す。又、秋の穀(たなつもの)すでに成りぬるときに、則ち冒(ひきわたす=他人の田を犯す)に絡縄(あぜなは)を以てす」と、田んぼ荒らしの乱暴狼藉を働き、天照大神が怒って岩戸隠れした(日本書紀巻1)故事に倣っているのではないかと、勝手な想像をしたくなる。
 都々古山神社は周辺一帯が車乗り入れ禁止となっており、やや神寂びていらっしゃる。地域の豊穣のためには手厚くしてほしいと願いたくなる。

村人の
豊かさ護る
つつこ様
がんぶりべたり
岩戸な隠れそ




























都々古山神社拝殿


上野一之宮・貫前神社

2023-04-24 08:39:57 | 日記

 上野国の一之宮である貫前神社(ぬきさきじんじゃ)は地名や人名、神名を冠する社名が多い中、ユニークなネーミングである。現代人にとって読み辛さは上総国一之宮の玉前神社(たまさきじんじゃ)と同等である。
 共通項の「前」を抜くと、「玉」と「貫」が残る。玉に貫く、というのは真珠などの玉を糸(緒)に通して首飾りを作ったりする時に使う。二つは縁語である。
 伊勢物語に「白露は けなばけななん きえずとて たまにぬくべき 人もあらじを」の歌のように、相思相愛の関係を指す。貫前神社と玉前神社は古え、深い繋がりが有ったのではないか。
 一方で、下総国一之宮の香取神宮と常陸国一之宮の鹿島神宮が利根川を挟んでライバル関係にあったように、上総と下総も良好な時ばかりでなく、房総の激浪に見舞われたこともあったのではないか。香取神宮と同じ経津主神(ふつぬし)をご祭神とする貫前神社が上野(富岡市)に引っ越したのではないかと想像すると、けっこう面白い三角関係の神話となる。
 ユニークなのは名前だけでなく、屹立する鳥居に向けて参道から階段を72段苦労して上ったかと思うと、今度は逆に97段下って拝殿に着くシェルターみたいな構造となっている。隣の日枝神社から見ると屋根しか見えない。周りは石垣に囲われ、まるで山城の佇まいである。
 また、鳥居の脇に鎮座するスダジイの樹が凄まじい。木に精霊が付くというけれど、この厳めしさには精霊も逃げ出してしまいそうな妖気が漂う。樹齢千年と言われているそうだけれど、納得してしまう。とにかく抜き差しならない神社である。

貫前や
登るとみせて
こもりくの
底ゆ湧き上る
ふつぬしの魄


日本寺大仏

2023-04-13 19:04:20 | 日記

 日本寺なんて天皇の御願寺のように大層で、知らない者が聞くとぎょっとする寺が、古への都から遥かに離れた千葉県鋸南町に実際に有ったので行ってみた。
 むかし聖徳太子何とかという方が東京都知事選なんかに出馬なさっていたけれど、それと似た命名かと軽く見ていたら、実際に聖武天皇の勅願によって建てられたと知ってびっくりした。しかも国号を使った寺名の額を手づから書いて賜ったというから、国分寺級の比類なき社格なのだと、無知を恥じて俯いた。
 俯くどころか、手を突いて土下座するようにしないと登れないような険しい階段道の上に大仏が鎮座していた。若い時に参拝した身延山久遠寺の方が段数が多いような気がするけれど、息の切れ方がこちらの方が堪えた。年のせいもある。
 この大仏が、山の巌を刳り抜いて彫った31メートルもある石像で圧倒される。ついでに千五百羅漢像を経て頂上展望台まで歩いたら膝が笑った。もうホトトギスの季節だけれど、山上ではウグイスが美声を発して唱和してくれた。
 鋸山に所在するだけに、切り立った岩山からの相模の海の景色も一見の価値があった。

 

日本寺は
大ぼらならで
名にし負ふ
瓦の喜捨に
うぐいす囀る