モンマルトルが好き J'♡ Montmartre.

パリのモンマルトル、絵描きたちの日常などを綴ります。
Blog en japonais sur Montmartre.

私の名は(『ジロー先生の獣医日誌(仮)』より)

2020-12-11 22:30:38 | 

こんにちは。今日は、前回予告通り、獣医さんの本(『ジロー先生の獣医日誌(仮)』)の中からエッセイを一節、抜粋です。タイトルは《私の名は》。 

それでは、以下。

**********

 

《私の名は》 (『ジロー先生の獣医日誌(仮)』より)

 

 むかしむかしあるところに、二人の女の子がおりました……。

 年は十五。首輪のない犬がさまよっているのを黙って見ていられない、感じやすい年頃。心の声に動かされるまま、すさまじい騒音のパリで車の波に流されているシェパードを、つかまえるまでは成功した。しかしその後、どうしてよいか分からずに、私の戸を叩いたのだった。

 犬を間に合わせの紐につないで、二人は入ってきた。犬は汚れて、しっぽを股の間に隠して、頭を下げて、おどおどと悲しそうな目で、耳を伏せて小さくなって、存在感がなく、何にも関心がなく、もうどうにでもしてくれという様子だった。世の中の哀れと疲れが全部肩にのしかかっていた。まっすぐに家具の下に入って、丸くなってしまった。

 二人の女の子が、犬を捕獲したいきさつを語り、突然ここに飛び込んできてすみません、このホームレスの犬に何かしてあげられないでしょうか、というところまできたとき、私は、犬の耳に番号が彫られていることに気がついた。飼い犬が刺青されるべきその位置に。刺青されているということは、飼い主がいるということだ。捨てられたわけではなく、迷子になったのだ。私はすぐに、犬の登録名簿を探してみた。

 幸い、この犬はちゃんと登録されていた。名前は〈ジェフ〉と出ている。そうと分かったら第一にしてみることは、見つけた名前を呼んで、本当にこの犬かどうかを確かめることだ。私は短く権威をこめて呼んだ。

「ジェフ!」

 と、その瞬間、電気ショックでも受けたみたいに、一秒前には半分死んだようだった犬が跳ね起きて、しっぽをふりふり、両の耳をぴんと立てて、目を輝かせて私のほうへやってくるではないか。そしてすぐさま場所の探索をはじめた。あちこちに鼻と足をつっこみ、距離を測り、自分の位置を定め、さあお祭りをはじめようよと決めこんだ。突然別の犬に変身してしまった。十分前にここに入ってきた犬とは、まったく正反対の犬だった。完全に生まれ変わった。ただ名前を呼ぶという行為が、まるで魔法の杖をふったかのように、生命を吹きこんだのだ。

 私はあまりの驚きに、この豹変ぶりをすぐには信じることができなかった。もちろん犬は自分の名前を知っている。しかし、名前を通して自分の存在を確認するということがあるだろうか。「私には名前がある。ゆえに私は存在する」というのは、抽象概念を前提としている。この意識水準が動物にあるとは、とても想像しがたい。

 この犬はまったく予想外の反応を見せてくれた。名前を呼ばれ、アイデンティティを認められてはじめて、存在しはじめたのだ。

 この小さな出来事は、私を深い思考におとしいれた。動物について、私たちは何を知っていると言えるだろう。私が動物を見る。動物も私を見る。私はその目の中に、喜び、恐れ、愛情、怒り、無関心などの基本感情を読みとる。これが画家だとしたら、虹の基本色しか見えずに、色を混ぜることができないようなものじゃないか。かわいがっている犬の、猫の、内的体験について、何を知っていると言えるだろう。おだてられるとき、おしおきされるとき、捨てられるとき、もらわれるとき、どう解釈しているのだろう。

 私たちは何も知らない。動物行動学も教えてくれることはないだろう。犬の、猫の、馬の脳を持たないことには、理解しようもないのだ。物事を納めるべき位置に納めるにも、私たちには人間の脳しか使えない。自分以外の人間の脳を理解するのに、最もうまくいった場合で、十年の精神分析が必要なのだ。いくつ川をさかのぼっても、藻の海に出られる可能性はない。越えることのできない隔たりが、私たちと動物の間にはある。

 動物の世界とは、単純で不可解だ。

 しかし、他者の不可解さが高い城壁となって自己閉塞をまねく人間界とちがって、動物たちの城では、私たちは木を植え、花を咲かせ、鳥を歌わせる。いちばんの不思議は、人間はそこに、孤独が溶けてなくなる自由の空間を創り出すということだ……。

 

(終)

 

著者/クリスチアン・ジロー

翻訳/大串 久美子

装画/TAQUA

 


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