飄評踉踉

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グッバイ、オタキング!

2008-05-03 18:21:54 | 
先週末、岡田斗司夫さんの『オタクはすでに死んでいる』を読みました。本書はオタキング最後の仕事とされているだけあって(*1)、本書ではオタクをめぐる錯綜した言説がきれいに整理してあったと思います。とりわけ、本書における岡田流のオタク世代論(第7章)は、強く印象に残りました。
岡田さんによれば、岡田さんのような第一世代オタクは貴族主義であるといいます。「貴族だから一般庶民と違うのは当然」というのが、この貴族主義の基本姿勢です。そして、第一世代は貴族なのでノーブレス・オブリージが伴うことになります。だから、第一世代は、つまらないと思っている作品も我慢して見なければなりません。また、第一世代は、「貴族なので」ボランティアとしてアニメなどを布教するのですが、そのときは心の中で「貴族がたしなむアニメって、君たち庶民には理解できないだろうね?」ということを思っているわけです。
これに対し、現在30代くらいの第二世代オタクはエリート主義だということになります。第二世代はエリートなので、アニメを布教するにしても「このアニメのすごさは、がんばれば一般の人にもわかるはず」という姿勢をとります。アニメはアカデミックだから価値があると言ってしまいがちなのも、この世代の特徴とされています。
これら二つの世代の違いが生じた理由は、第一世代が「のほほんとしたお坊ちゃん、お嬢ちゃんみたいな人たち」が中心だったのに対し(*2)、第二世代が宮崎勤事件からオウム事件に至るまで一貫して迫害されてきたという点にあるというのが、本書の立場です。
他方、第三世代は、ひたすら個人の問題に終始します。だから、第一世代のようにノーブレス・オブリージを伴わないし、第二世代のように迫害と闘うことありません。すなわち、第三世代は努力しないのです。
前述の第一世代・第二世代論と異なり、この努力しない第三世代という捉え方は類書にもよく見られるものです。私は、かねてから、第三世代オタクとは、宗教改革直前のローマ・カトリック教徒みたいなものだと考えていました(*3)。第三世代オタクが、「萌え」という、従来のオタクにとっては非本質的な部分にこだわる様子は、ローマ・カトリック教徒がマリア信仰のようなキリスト教にとっての非本質的部分にこだわる様子に似ているように見えるからです。また、ローマ教会が健在ならばそれでよいとするローマ・カトリック教徒の姿勢は、オタク第三世代にも通ずるところがありそうです。
そして、これと対比すると、第一世代・第二世代(*4)というのは、伝統を堅持しようとしている点で東方正教会的だというのが以前からの私見でありました。しかし、岡田説を参照する限りでは、第一世代はユダヤ教的であり、第二世代は初期キリスト教的であるような気もします。
 とはいえ、岡田さんの言うとおり、オタク文化は滅んでしまいました(*5)。そうした現状にあっては、このような分類論を展開することは、無意味なのかもしれません。しかし、岡田説によれば第二世代的な私としては(*6)、まだ希望を持ちたいという思いはあります。アキバに「宗教改革」の風が吹く日は来るでしょうか?

(*1)岡田さんは、今週の木曜日には、『徹子の部屋』にも出演されていました。今学期の私は木曜が定休日なので、リアルタイムで(!)見ていたのですが、岡田さんは専らダイエット談義に終始していました。もっとも、昼間にこの番組を見ているのは主婦が中心だろうから、これは当然とも言えますが。
(*2)この手の育ちの良いオタクとしては、岡田さんの他、唐沢兄弟や新井素子氏などがいます。
(*3)私がこうした考えを抱くようになったのは、何かのニュースで「オタク文化発祥の地であるここ秋葉原では…」というような言われ方がされているのを聴いたのがきっかけです。この表現は、キリスト教発祥の地はローマであると言ってしまうくらいに間違っていますね。
(*4)第一世代と第二世代は、時系列的な登場順序を除けば、特に区別基準を設ける必要はないというのが、私の考えです。この考えは、本書を読んだ後でもあまり変わっていません。というのも、岡田説に従えば形式的には第二世代に入る人であっても、個人の性格として第一世代な人は存在しうるからです。たとえば、道灌山の「あの学校」では、「外界」よりも迫害が小さいせいか、形式的には第二世代ながら第一世代的な人が結構いたように記憶しています。
(*5)本書に書かれたオタク文化の崩壊過程は、地域共同体の崩壊過程に類似しているようにも思えます。
(*6)やたら他人に自分の趣味を押しつけたがる私の癖は、このブログをみても明らかですね。


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