飄評踉踉

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CENTURY COLOR

2008-03-25 18:42:45 | 
杉並区の西武新宿線上井草駅前にガンダムの銅像が登場。
それにしても、「宇宙移民の『ジオン軍』から地球を守ったガンダム」って…。いかにも「魂を重力に引かれた人」が言いそうなフレーズですね(笑)。

ところで、先日、福井晴敏の『月に繭、地には果実』を今更読了しました。この作品は『∀ガンダム』の小説版として2000年に発表されたものです(だから、もう少し早く読んでおきたかったのですが…)。もっとも、『月に繭…』はアニメ『∀ガンダム』を小説化したものだという表現は正確ではなく、共通のコンセプトを一方でアニメ化し、もう一方で小説化したというほうが正しいのでしょう。アニメ『∀』の本放送は1999~2000年のことですから、私としてはアニメ版の細部をかなり忘れてしまっていましたが、このように、小説『月に繭…』とアニメ『∀』は独立した作品として成り立っているので、そのことは『月に繭…』を読むのに不利に働くことはありませんでした。むしろ、アニメの記憶に引っ張られることなく素直に読むことができたように思います(*1)。ただし、『月に繭…』の終盤に近づくにつれ、福井節が強まるので、他の福井作品の記憶に引っ張られるきらいはありましたが。
このようなコンセプトを共有したメディアミックスは、小説『終戦のローレライ』と映画『ローレライ』との間や、アニメ『エヴァ』と漫画『エヴァ』との間にも見られるので、世間にはそれなりに知られた手法であるとも思えます。ただし、福井氏ほど映像的な文章を書ける人はそう多くはないので、活字と映像のメディアミックスをきちんと実現できるのは、どうしても福井作品になってしまうのも事実です。ただし、アニメ『∀』は映像作品として傑出しているので、『月に繭…』からは活字の限界について考えされられました。そうした限界は、『∀』シリーズの二大特徴において顕著に現われていたように思います。
『∀』シリーズの第一の特徴は、20世紀初頭程度の文明に退行してしまった地球人が、かつての地球人が使っていたモビルスーツや宇宙船を発掘するという点にあります(*2)。そのため、20世紀初頭のアメリカという「過去」を背景に宇宙世紀のモビルスーツという「未来」が活躍するという奇妙な光景が、アニメ『∀』ではほぼ全編を通じて展開されます。しかも、そうした奇妙な光景は、過去でも未来でもなく、宇宙世紀をさらに過ぎた「大未来」のものであるというのが、このアニメの面白いところです(*3)。こうした時制を超えた表現は、福井氏をもってしても活字化しきれなかったように思います。
他方、『∀』シリーズのもう一つの特徴は、立体的な群像劇にあります。そして、この立体化を成り立たせているのは、主要人物の入れ替わりにあります。すなわち、物語の二焦点であり、互いに瓜二つである、月の女王ディアナ・ソレルと地球の令嬢キエル・ハイムとが入れ替わるわけですね。これは「王子と乞食」的でもあるわけですが、「王子と乞食」であれば今までお互いができなかったようなことをするわけですが、この二人が面白いのは入れ替わっても同じようなことをしている点にあるといえます(*4)。そして、富野アニメの持ち味は群像劇にあるわけですが、この入れ替わりによって、地球側の群像劇と月側の群像劇がパラレルに配置され、アニメ『∀』はより立体的な群像劇を描くことに成功しています。しかし、富野的な群像劇は登場人物をいくらでも投入することができるアニメの特性を生かしたテクニックであるので、さらにこれを立体化させた群像劇などはさすがに活字化するのは難しかったものと思われます。福井氏もこれを自覚していたようで、『月に繭…』では、立体的な群像劇ないしは「ディアナとキエルを二焦点とした楕円型の物語」をあきらめ、ディアナを中心として限られた重要人物を深く描くという円構造の物語を指向したように見えます。その結果、『月に繭…』では、富野監督がアニメではあまりやらない登場人物の心情描写が深くなされることになった点は、それなりに良かったと思います。もっとも、ディアナが立派に描かれすぎている一方、キエルがかなりダメな女に描かれているのが少し残念でした。
以上のようなことを考えていたら、アニメ『∀』をまた見たくなりました。ただ、50話もあるから長いんだよなぁ…(*5)。

(*1)福井氏の奥様は、「ガンダムを知らない人はモビルスーツをデカい戦車か何かだと思って読んでください」という趣旨のことを、雑誌『ダヴィンチ』で述べていました。要するに、そういう姿勢でも十分読める作品だということです。
(*2)『月に繭…』の中巻では、巽孝之氏が、先日亡くなったアーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』にも言及しながら解説を書いています。もっとも、アーサー・C・クラークは科学文明の進歩に希望を抱いていたのに対し、富野・福井両氏は『∀』シリーズを通して科学文明の進歩に懐疑的な姿勢を示している点に違いはありますが。  
(*3)さらに、アニメ『∀』では、そういったシーンを菅野よう子の民族的な音楽が包み込むわけです。
(*4)富野由悠季『戦争と平和』207頁の上野俊哉発言
(*5)アニメ50話を2本立てにまとめた映画もありますが、賛否両論ですね。


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