田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

第4回 見失われた「第3の道」

2005-08-14 | "失われた15年"の読書日記
 現在(2005年8月上旬)、日本は総選挙態勢に突入した。例によって小泉首相の「二元論的ポピュリズム」作戦が当面は功を奏しているようであり、彼と彼の取り巻く政治家や官僚たちへの支持は高い。この二元論とはもちろん「改革勢力」vs「抵抗勢力」、あるいは今回は「郵政民営化」vs「郵政国有化」の対立として政権・与党の大半そしてメディアで喧伝されている構図のことを意味している。もちろん小泉政権の実態が本当に改革的であったり、または民営化志向かどうかはよくよく検討しなくてはいけないことだろう。現政権の郵政民営化についての批判はすでに書いたのでここでは繰り返さない。今回は、この「二元論的ポピュリズム」によって見失われた「第3の道」について、その代表的な文献であり、一時期日本でも熱烈に支持されたジョセフ・E・スティグリッツのふたつの著作『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)と『人間が幸福になる経済とは何か』(徳間書店)の内容についてふれたい。


 『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』は2002年5月に日本で刊行された。本来、この本の趣旨はいわゆる「ワシントンコンセンサス」という経済的イデオロギーとそれに影響されたIMF(国際通貨基金)とアメリカ財務省の経済政策に対する批判にあった。「ワシントンコンセンサス」とは、緊縮財政(小さな政府)、民営化、市場の自由化という三本柱からなり、このイデオロギーは開発途上国や経済危機的状況にある国々に80年代以降積極的に適用された。スティグリッツはこの「ワシントンコンセンサス」が適用された国々の状況を悪化させたと批判している。例えば97年、98年のアジア経済危機においてIMFは経済的低迷を続けるアジア諸国に緊縮財政を融資の条件として課しそれが成長の低下をまねき回復を遅らせたとしている。また市場経済化を急進的なやり方によって主導したため、ロシアをはじめ東欧諸国の経済停滞を深刻なものにしたとも指摘している。むしろスティグリッツは市場経済化は、IMFなどが推奨する急進的改革よりも、中国の採用した漸進的改革のほうが、既得権との折り合いをスムーズにすることで政策目的を実現できたかと評価している。

 もちろんスティグリッツ自身は緊縮財政や民営化そして市場の自由化などそれ自体を否定しているのではない。財政赤字の維持可能性はみたされなければならないし、民間ができる事業を政府がやるよりも民間に開放したほうがその国は豊かになりやすい、貿易の自由化は経済の効率性を増すなどと評価している。問題は政策当事者がえてして陥りやすいのだが、民営化や緊縮財政などは公平で持続的な成長(つまり公平と効率のトレードオフを適切にみたすこと)を実現する「手段」であるのに、これらの「手段」がいつの間にか「目的」になってしまっていることである。現在の郵政民営化もいつの間にかその内実とそれがみたすべき「目的」がかえりみられることなく、民営化か否かの二元論に陥っている日本の状況はこのスティグリッツの懸念に適合するかのようである。このような政策目的が忘却され、政策手段が目的化することはしばしばある。特にその政策手段の実現性が困難であればあるだけその傾向が強い。

 戦前の日本でも第一次世界大戦後の金本位制の復帰はその典型的な事例であった。金本位制への復帰は政治的に障害が多く歴代政権の多くがその課題としたが果たせなかった。当初は、金本位制の復帰は為替レートの安定であったが、しだいにそれに混入ないし上回る形で、金本位制復帰によるデフレ圧力によって非効率部門を清算するという、本来の金本位制の目的とは異なるイデオロギーが結びついた。今日の郵政民営化も郵政事業の効率化よりもむしろ財政赤字の削減(国債発行量の縮減?)というイデオロギーとともに語られている場合がほとんどである(当ブログのをhttp://blog.goo.ne.jp/hwj-tanaka/e/006df85ad2757cc98dad2f17fdc3ec71を参照)。

 さてスティグリッツの「ワシントンコンセンサス」批判は、日本の多くの読者に小泉的構造改革への批判として読み解かれた。特に次のスティグリッツの本からの引用は、その日本的読解があながち間違えていないことを物語る。ちなみに小泉政権が当初頻繁に引用した「痛みを伴う構造改革」をいま一度想起されたい。
「短期的にどんな逆風が生じたとしても、それは改革にともなう必要な「痛み」なのだとされた。金利が高騰すれば、いまは飢餓を呼ぶかもしれないが、市場効率には自由市場が必要なのだから、最終的には効率が成長を呼び、成長が全員を幸せにする。苦しみや痛みは、いわば償却課程の一環であり、むしろ国が正しい方向に進んでいることの証拠だというのである。私に言わせれば、たしかに場合によっては痛みも必要だが、痛み自体は善ではない。よく考えられた政策によるならば、往々にして多くの痛みを避けることができる」(邦訳62-3頁)。
 この「ワシントンコンセンサス」への批判は、開発途上国だけを念頭においたものではない。『人間が幸福になる経済とは何か』では積極的に、現ブッシュ政権の「ワシントンコンセンサス」=新古典派経済学の発想に基づく経済政策への容赦ない批判に発展している。スティグリッツは80年代以降のアメリカ経済の市場中心主義的な発想が、エンロン事件などに典型的な「貪欲な経済」をもたらし、国民の厚生がリスクにさらされていると批判している。そして市場中心でも政府中心でもなく、市場と政府が適切な役割で補完しあう「第3の道」の重要性を彼は説いている。ここでも彼の強調点は政策の「目的」と「手段」の区別とそれぞれ適切な割り当てである。
「市場は一定の目的を達成するための手段(手段に強調点あり)である。最も顕著な目的は、より高い生活水準を実現することだ。市場そのものが目的ではない。もしそうだとしても、この数十年間に保守派が強く主張してきた政策ー民営化と自由化などーの多くは、それ自体を目的とみなすべきではなく、あくまで手段とみなすべきだ」(355頁)。
 その上で最重要な課題が失業を防ぎ完全雇用を目指す政策であり、不況であれば政府が適切なマクロ経済政策で対応するということである。スティグリッツは同じ観点から各国の中央銀行の政策マインドも批判し、中央銀行の政策当事者は物価の安定を第一目的にし、失業にはほとんど配慮していないと批判する。スティグリッツは失業こそ人間価値の毀損を伴う最悪の事態のひとつであり、これを解消することが人間の幸福を促進することになると明言している。このような人間的価値から失業をとらえる見方は、日本では石橋湛山が採用した見方であり、いわゆるリフレ派の一部の日本的ケインジアンの地下水脈をなす思想といえよう。

 政府vs市場という二元論的ポピュリズムを放棄して、人間的価値の回復のために、市場と政府の適切な役割を見つけ出そうというスティグリッツの「第三の道」の方向性は私には日本の今日の状況を考えると実に示唆に富むように思われる。

第3回 愛をめぐる経済論戦

2005-08-10 | "失われた15年"の読書日記
 最近も日本のメディアでは“セレブ”女優の“離婚調停?”をめぐるさまざまな観測や報道が飛び交っているように、いつの時代でも男女間の恋愛沙汰は人々の関心を引くのだろう。愛は人類の普遍ともいえる熱い関心の的だが、その一方で人間の生活を扱うはずの経済学ではほとんどこの愛の問題はなかなか議論の中心にはならなかった。

 日本の経済論壇では、90年代の後半に興味深い論戦が中条潮(経済学者)、宮崎哲弥(評論家)、佐藤光(経済学者)の各氏の間で行われたこと(『論争 東洋経済』1996~1997年誌上)がある。今回はこの論争を振り返ってみよう。

 その論争の中心的問題になったのは、愛を効率性という経済学で用いられる基準から評価するのが妥当かどうか、ということだった。まず経済学における効率とはなにかを、中条氏が用いた設例を利用して改めて説明しよう。

 中条氏は、「A君は高学歴で一流会社に就職。親も金持ちだけど、ちょっと好きなだけ。B君は芽のでない貧乏漫画家でいつも私にたかっているけれども大好き・B君と結婚することにした」という問題が、経済学から効率的であるとした(「よくわかる「不経済学」入門 8回 「論争 東洋経済」1997年7月)。

 つまり便益と費用をくらべて、便益の方が上回ることをもって効率であるという。例えば、この中条氏に対して佐藤光氏が経済学的費用と便益の計算は特定の仮定に基づく非常にかぎられた手法であり、無責任にさまざまな社会問題に適用すべきではない、と批判した(「経済学の安易なる「濫用」をするなかれ」同誌、1997年9月号)。

 愛の問題は経済学にはなじまない、と佐藤氏は考えたわけである。これに対して中条氏は効率性で愛の問題も分析できると反論した(同誌11月号)。もちろん愛を経済学の問題にするか、問題にしないか、は実は論じているものの趣味あるいは価値判断に大きく依存している。佐藤氏の批判はその点も明確にしたことで経済思想の論議として興味深い。それに対して中条氏の断言は、経済学的には興味深くともやはり経済学の意義を強調するあまり、その限界についてナイーブであるように思える。

 この議論に先立って、中条氏はやはり同じ効率性(費用と便益の比較)を基準にして、現在の日本の結婚制度があまりに長期的な婚姻関係を前提にしていると主張し、むしろ離婚の前提(=破綻主義)や競合する愛(不倫など)との「市場」的調整も考慮にいれるべきだとした(「よくわかる「不経済学」入門 第3回」 「論争 東洋経済」1996年9月号)。

 例えば永遠の愛などを信じるものばかりを想定して結婚制度を構築するのは正しくない。むしろ永遠の愛は、不倫や離婚が日本の制度で差別的な扱いをうけているために生じている政府に保護された「永遠の愛」にしかすぎない、と中条氏は断言した。こういった主張は、同時期の森永卓郎氏の『非婚のすすめ』(講談社)や『悪女と紳士の経済学』(日本経済新聞社)などとも軌を一にしている。森永氏は「愛の終身雇用制」を日本の婚姻制度は採用しており、それは日本型雇用システムの特徴である終身雇用や年功序列制などと制度補完的な関係にあるとするどく指摘してもいた。彼らは不倫や結婚の破綻を積極的に認めることで、いままで規制によって高止まりしていた婚姻の価格が下がることを期待したのであろう。確かに規制を撤廃し、婚姻の価格を引き下げ、結婚市場への参入・退出の条件を大幅に緩和すること、それ自体は社会の構成員の厚生を高める可能性があるだろう。

 これに対して宮崎哲弥氏は、「経済効率性、利便性、市場適合性を論拠に「破綻主義」の採用を歓迎し、すすんで夫婦関係を、いつでも解消可能な短期的契約関係に「還元」する」と批判し、むしろ家族は基礎的共同体なのでその長期安定性は担保すべきであると主張した(「宮崎哲弥の「正義」の見方 安易な別姓論を排し夫婦「共産」主義を導入せよ」『論争 東洋経済』1996年11月)。

 宮崎氏の指摘は、人間関係(婚姻だけとは限らない)の長期的な維持へのコミットメントがもたらす「社会的信頼」や「安定」を強調するものであり、これもまた(基礎共同体論を持ち出さなくても)経済学的にも正当化できる論理である。

 ところで費用と便益を合理的に計算する人間には人を愛することができない、とアメリカの経済学者ロバート・フランクはフランスの哲学者パスカルの言葉を引用して、彼の愛の経済学を披露している(『オデッセウスの鎖』サイエンス社)。

 フランクが重視するのも宮崎氏と同じような愛(別に婚姻とはかぎらない)は長期的な信頼関係をもたらすことに注目している。愛は中条氏や多くの経済学者が行うように、自分中心の利益と損失の合理的な関係を超える「非合理的」な要素をもっている。合理的計算では自己利益<自己損失であっても、愛のために人間はある行為を選択するかもしれない。愛のために社会的生活を犠牲にすることを厭わぬことを私たち自身体験したことはなかっただろうか? それは自分の生存のためにはまったく不利な派手で動くのに邪魔な孔雀の羽に似ている。

 しかし他方で、離婚の可能性や短期的な婚姻関係を考慮にした制度設計をすべきだ、という主張にわたしは賛成する(フランクもそうだろう)。そのような短期的な婚姻関係もまた愛のかたちにはかわらないからだ。ただ中条氏らの新古典派経済学者が費用と便益計算で「すべて」の愛を評価することは、やはり佐藤氏や宮崎氏の指摘するように経済学の専制以外のなにものでもないだろう。自分本位の愛も孔雀の羽のような愛も、さまざまな愛の多様性を許容する結婚制度や社会の受容性が基本的には望ましいに違いない。選択の多様性を許容することが経済学の教える最も素晴らしい教訓のひとつでもあるからだ。

第2回 ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』

2005-06-05 | "失われた15年"の読書日記
第2回 ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社、2001年)

 「日本型」の資本主義や雇用システムというものはあるのか? 答えはイエスである。各国によって制度や規範が異なればそれに応じて「××型」と形容してもなにも不可解なことはない。経済の与件として考えるか、あるいは経済主体のインセンティヴ構造に関連させて、より「内在的」に考えるかで、この「××型」への対峙の仕方が異なるだけだろう。

 さらに一般に「××型」といわれる経済システムであっても、例えば「日本的雇用システム」の特徴といわれている「終身雇用」、「年功序列」などは、それぞれが日本独自のもの(すなわち過度に日本の制度的仕組に依存して独自の説明が必要である)かは、疑問である。

 例えば、長期の雇用慣行は、日本と同様に欧米の大企業にもみることができる(ジェームズ・C. コリンズ他著『ビジョナリーカンパニー』日経BP出版センターなどを参照されたい)、また年功序列も人的資本仮説、効率賃金仮説などと、他の諸国の雇用システムを観察するときに適用される見解によって、その制度の特徴を記述することが可能である。要するに「日本型」と形容される経済システムの相違はあるが、その相違がよって立つ経済原理には奇異なものはない、ということである。

 特にドーアの主張である「日本型資本主義」が効率的で長期的に安定的なシステムである、という評価を考える際には、いま書いたような一見すると些細な点に留意することが大切である。私もドーアと同様に、「日本型資本主義」はかなりうまく「効率と平等のトレードオフ」に対応した仕組みであると思う。

 もちろんこのシステムに問題がないわけではない。構造的な問題ならおそらくいくらでも列挙することができるだろう。しかし、どの構造的問題も「日本型資本主義」にとっては致命的とはいえない、と私は理解している。おそらくこのような断言は多くの批判を招くだろう。

 ここでドーアのいう「日本型資本主義」の特徴を整理しておきたい。長期的な契約関係を重視する企業構造(日本型雇用システムや系列間・取引先との関係など)、競争者間の協調(競合する企業同士さえゼロサムゲーム的に行動するのではない。また談合の経済合理性への言及など)、産業政策に典型的な政府介入のあり方といった諸特徴が、相互に補完関係にあり、このシステム内に属する経済主体の動機付けに対して整合性をもっている、というものである。

 私は産業政策が戦後の日本経済の成長にどれだけ寄与したのか疑問に感じている。この点はワインシュタインら(Beason, Richard & Weinstein, David E, 1996."Growth, Economies of Scale, and Targeting in Japan (1955-1990)," The Review of Economics and Statistics, vol. 78(2), pages 286-95)やマイケル・E・ポーター&竹内弘高(『日本の競争戦略』ダイヤモンド社)らの実証研究が参照されるべきだろう。

 私も近々、産業政策の実証に関する展望を公表する予定である。むしろこれらの実証研究では、ドーアの指摘するような生産性への寄与や研究開発効果などはほとんど検出されず、反対に産業政策の名の下で行われて「効果あった」のは、衰退産業の保護などの生産性に悪影響をもたらす政策ばかりであったということである。

 ただし政府介入一般には、マクロ経済政策や、いわゆる「セーフティネット」と表現されている社会保障制度や教育・防衛や各種インフラ整備、そして適切な行政の直接介入などがあるだろうし、そこまでを否定する必要はあたりまえだが微塵もない。また談合やそのほかの排他的な商慣行などは一般的に改善されるべきだろう。また産業政策的政府介入や談合が廃止されたからといって、ドーアのあげた「日本型資本主義」がその補完的システムゆえに瓦解したり本質的な変容をとげるとも思えない。

 ドーアも批判の対象とし、私もその批判に同調しているが、今日、日本で「構造改革」を主張する論者たちの多くは、政府の適切な介入のあり方を(啓蒙の次元ではあえて無視ないし徹底的に批判し)、政府に依存する主張をその大小に関係なく、「社会主義的」と非難するのが論戦の流儀のようである。

 ドーアも(その立場に基本的に賛成している私も)、このような構造改革を声高に主張している論者たちの効率第一主義に対して、その「効率性という回転する歯車にわずかばかりの砂をかける」ことを目指しているのだ。特に(大企業を中心とする)いわゆる「日本型雇用システム」や長期的な取引関係を重視する日本の経済システムが、経済のグローバル化や金融化によって適応不全に陥ったとは考えられない(この点については、野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』東洋経済新報社、田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』NHKブックスなどを参照)。

 本書では、また長期的なコミットメントがもたらす「信頼」や「公正」の観点が強調されていて、株主や経営者たちの短期的な利潤獲得行動に警鐘を鳴らしている。この点はたとえば最近のJR西日本の事故や、ライブドアの結局は短期的利益のみあげただけの敵対的買収事件などの事例をみれば、この「信頼」「公正」の重要性と、他方で短期的な貪欲の問題がさらに明らかになるだろう。ドーアの近著『働くということ』(中央公論新社)も、この問題を「労働の公正」の見地からとらえたものである。

 最後に、ドーアは日本の経済システムが苦境に陥っているのは、主に不況の持続のためである、と正確に診断している。彼はそのような言葉は使わないが、日本の潜在的成長力はこの停滞にあっても依然として高い水準になると評価しているのだろう。

第1回 森嶋通夫『なぜ日本は没落するのか』

2005-05-24 | "失われた15年"の読書日記
『なぜ日本は没落するのか』(1999年)森嶋通夫、岩波書店 

 日本経済の停滞が長期化する中で、その停滞の主因が日本の構造的な問題であるとする見解はいまも根強く存在する。このときの構造問題とは、経済のグローバル化に日本の産業や企業システムが不適応になっているとか、日本の金融システムが不良債権によって機能不全に陥っているなどとするものまでいくつかのパターンに分類できる。今回の読書日記で取り上げた本書もこれらの構造問題に注目している点ではまったく同じである。ただ本書のユニークな点はよくも悪くも極端なところである。本書では、森嶋人口史観とでもいうべき「理論」から日本の長期没落が予測され、それを避ける処方箋として「東北アジア共同体案」が提起されている。
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 森嶋人口史観とは、日本は今後人口減少するのみならず、より深刻なのは「人口の質」が低下するため日本の没落が避けられないということである。現象的にはそれは、教育の荒廃や政治の荒廃に典型的に示されている。この「人口の質」の荒廃をもたらしたのは、戦後のアメリカ型の教育システムによって、戦前まで支配的だった儒教教育の伝統やエリート主義的なメリトクラシーシステムが廃れたことによるとされる。この「人口の質」の低下が、日本の経済・社会システムがグローバル化に適応不全であったり、不良債権問題の真相に結びつくとされる。
「このような社会の動きを、人口という土台の動きから導き出す思考は、人口史観と呼んで差し支えないであろう。人口史観で一番重要な役割を演じるのは、経済学ではなく教育学である。そして人口の量的、質的構成が決定されるならば、そのような人口でどのような経済を営みえるかを考えることが出来る。土台の質が悪ければ、経済の効率も悪く、日本が没落するであろうことは言うまでもない。私はこういう方法にのっとって、没落を予言したのである」(同書14-15頁)

 具体的にこの「人口の質」論の適用を見てみよう。まず戦後の日本の経済は、護送船団的に政府に保護された銀行システム(メインバンクシステム)と企業集団の相互依存性に特徴がある。企業は銀行からの長期融資に依存しているので、大企業は終身雇用制、年功序列制などの長期的な雇用システムを採用するのに容易であり、他方そのような長期的な契約関係に入ることができない中小企業は賃金格差などの点でさまざまな「差別」にある「二重構造」が確立した。しかし、70年代から新株発行によるエクイティ・ファイナンスが盛んになり、銀行からの融資よりも新株発行が有利になることで、日本型金融に「不均衡」を生じさせたとする。この「不均衡」のために銀行融資は減少し、メインバンクシステムは事実上崩壊してしまった。同時にこれに依存していた日本型雇用システムも崩壊の危機にある、とする。この危機を回避する上で、「人口の質」の低下問題が非常に大きく森嶋の議論で係ってくる。なぜなら「日本的「仲良しクラブ」」とでもいうべき雇用システムの中では、この危機を引き受けて企業を改革するイノベーションが生まれないからである。むしろ事態は森嶋には逆である。
「能率に大きい差があるのに、仲良しの看板ゆえに同待遇されてしまうのだから、能率の良い人は不公平だと不平を鳴らし、自分の仕事の手を抜くであろう。そうして自分の能率にふさわしい額の収入をえるために、彼らは悪事を働くであろう。仲良しはこうして頽廃をもたらすのである」(同書、107頁)

 森嶋は日本企業の体質である仲良しクラブがとし改まらないかぎり、有能な人が有能ゆえに悪事や非効率的なことを行うのである。この構図は民間企業だけでなく、政治やまた官僚も同じであり、政・官・財の「鉄の三角形」がモラルの点で衰退しているのはまさにこの「日本的「仲良しクラブ」」という制度的な問題に拠る。このような構図を森嶋は「上からの資本主義」とも形容している。「上」「下」の違いは、前者が政府主導であり、後者は民間主導であることによって性格づけられている。

 これは強調されるべき点であるが、多くの現在の構造改革者は人間の経済的な態度や倫理・道徳面は改革可能であると信じているが、他方で森嶋は、人間は簡単に変われないという信条をもっていると思われる(正しこの見解は後記するように簡単に自己矛盾に陥っている)。なぜなら戦後教育と前記した「日本的「仲良しクラブ」」で精神形成された現在の10代~40代の日本人には社会的・政治的なイノベーションは不可能であり、これから半世紀の間、日本は没落するだろう、というのが森嶋の見立てである。

 そしてなぜ「東北アジア共同体案」が処方箋として持ち出されるのか? 「東北アジア共同体」とは、日本、中国、朝鮮半島、台湾、琉球が、現行の「領土」を分割する形でいくつかのブロック化され、政治的・文化的・軍事的な共同体を構築することである。この政治的共同体の構築は、EUとは異なり経済的統合に先行する(アジアの単一通貨はいわばおまけであり、この点で多くのアジア共通通貨論者とは異なる)。この「東北アジア共同体」の障害になるのが、日本の「歴史認識」などのナショナリズム的動向である、という。具体的には、歴史教科書の記述における「右傾化」などの諸現象であるという。このような右傾化は、共同体建設への歴史の歯車に逆らうので正しくない、というのが森嶋の主張のすべてである。 この森嶋の主張は、その後も彼の多くの著作で反復されていく。『日本にできることは何かー東アジア共同体を提案する』(日本版2001年、岩波書店)、『なぜ日本は行き詰まったか』(日本版2004年、岩波書店)などである。

 そしてこの森嶋の日本没落論をめぐって、小宮隆太郎氏との白熱?した論争が、『論争東洋経済』紙上で行われたのである(実際には「調停」としての奥野雅寛論文もある)。発端は森嶋の本の中の小宮批判であるが、そのこと自体はどうでもよく(中身がない)、むしろ小宮の森嶋批判が(もともとの森嶋の小宮批判に関連するドタバタ以外)非常に切れ味がするどいものである。小宮の森嶋批判は、現在の構造改革主義的な意見への有効な反論も提供しているといえる。

 まず小宮は処方箋たる「東アジア共同体」がまったく非現実的であるとする。まず地域統合は森嶋のように国家主権を統合するという作業とはまったく別物であり、むしろ森嶋案のように既存の「国家」を分断し、いくつかのブロックのもとに再統合することは、例えばいまの中国のように国家の統一を重視する国にとってはまったく許容できない、と指摘する。たとえできたとしてもそのようなブロック化は、相対的に政治的・軍事的に強力な中国の影響下に事実上おかれてしまうだろう。

 森嶋の没落論自体への批判も容赦ない。まず森嶋的人口史観は、「人口の質」という科学的に定義できないものに基づいており、しかも森嶋自身が現状の日本人を変えることができない、すなわち手遅れなほど堕落していると断定する一方で、「東アジア共同体」では優秀ゆえにその共同体で埋没することなく力を発揮するとしており、矛盾していると指摘する。実際に小宮の指摘のように、「東アジア共同体」でその心性が劇的に変化するのは、現在世代ではなく、将来世代であるから、まさに矛盾しているといえよう。さらに森嶋が重視する戦前教育を受けた(エリート層に属する)科学者に比べて、現在の日本の科学者の方が例えば世界的な研究に貢献する業績を実証的に数多く残しており、日本の教育システムが劣っているとする材料は見出せないと指摘している。

 この小宮の指摘は重要であり、例えば私は今年の『経済セミナー』の1月号に「日本人はノーベル経済学賞をとれるか」という記事を寄稿したが、そこでノーベル経済学賞受賞候補である上位20位までで森嶋の賞賛した戦前教育をうけた人材は宇沢弘文氏と森嶋氏だけである。この事態は過去に遡っても変化することはなく、むしろノーベル経済学賞を受賞できるほどの国際貢献(海外の専門ジャーナルなどへの掲載論文数など)を行ったものは、戦前教育の成果といえる戦前の経済学者には皆無である(戦時的要因を加味してもそうである)。要するに森嶋の戦前教育への過剰な期待は、自らの体験談以上を出ないと私は思う(戦前の経済学者については私の『沈黙と抵抗』などの著作を参考のこと)。

 さらに小宮は、日本的金融システムの限界は、森嶋の指摘するように、銀行借り入れから新株発行への「不均衡」ゆえではない、とする。なぜなら森嶋はエクィティ・ファイナンスが銀行借り入れよりも有利ではない(モジリアーニー・ミラー命題を小宮は援用して両者は同じ資本コストかむしろ法人税の存在を考慮すると前者の方が高いと指摘)。むしろ80年代においてみられたのは、銀行借り入れから新株発行といったエクィティ・ファイナンスではなく、銀行借り入れから外貨建てやユーロ建ての転換社債・ワラント債などの発行が自由化し、債券発行に市場の選好がシフトしたことによる、銀行収益の低下にある、と述べている。この小宮の指摘は重要である。なぜならば森嶋と同様の指摘(銀行借り入れからエクィティ・ファイナンスへのシフトが日本的金融システムの衰退を招いた)を、90年代の初頭にブームを起こし、いまなお影響力をもつ宮崎義一の『複合不況』(1991年、中央公論社)も主張していたからである。ただ日本的金融システムの衰退自体については、小宮は森嶋と同様の立場であろう。また小宮は金融制度と相互依存とは述べていないが、日本的といわれる雇用システムへの評価はあまり行われていない。

 むしろ小宮の現状分析の力点は、「不況からの景気回復」と「銀行はじめ金融部門の不良債権の完全な解決」という主に短期=循環的問題であると指摘したことになる。つまり森嶋は日本の停滞は、構造的で必然的でもある衰退であるが、小宮にとっては基本的には景気の問題である(もっとも不良債権の扱いが実はこの論争では扱いが宙に浮いていて、これが小宮流日銀理論登場の重要な問題意識につながるのだが)。

 そのため雇用システムの限界とみえるものは、小宮にとっては基本的に総所得の循環的な変動がもたらすものとして把握されている。私もこのような解釈に賛成である。この「日本的」雇用システムの問題については、次回(あくまで予定)のロナルド・ドーアーの『日本型資本主義と市場主義の衝突』(邦訳2001年、東洋経済新報社)で私見も含めて述べる(詳しくは田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』、野口旭との共著『構造改革論の誤解』などを参照されたい)。

 さてこの森嶋・小宮の没落論争は、そもそもなにをもって「没落」なのかで見事なほどずれている。森嶋の「没落」は「人口の質」の低下という一種の精神の荒廃であり、小宮は「没落」自体はほとんど考慮外である、なぜなら基本的に日本の停滞は循環的問題だからである。そのため短中期的には停滞期における趨勢的傾向を上回る「高成長」も可能であると念をおしている。また人口減少自体は、晩婚化・晩産化・生涯未婚率の上昇などでテンポが早くすすむために、長期的には1%程度の実質成長率しか実現できないだろうと見通しを述べている。しかし、小宮は人口減少自体よりもそのテンポこそが問題であり、少子化対策として公的な介入によってこのテンポが緩む余地が多いにあると指摘していて建設的である(人口減少問題についても稿を改めて論じなければいけない…論じるべき問題があまりに多いが)。

 この論争をみると、森嶋の現役世代への失望と彼にとっての最適な制度改革(東アジア共同体)による新世代の「人間改造計画」というものが濃厚に押し出されているといえる。これは小宮が正しく指摘したように、「科学」というよりも一人の戦前エリート層の「願望」でしかないのだろう。