田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

跡田直澄『郵貯消滅』(PHP研究所)他を読む

2005-09-08 | Weblog
 衆院選も現状の世論調査では自民党の二元論的ポピュリズム作戦が功を奏して与党が優勢のようだ。選挙自体は今後どうなるかまったく不明であるが、選挙の単純な意見の色彩に埋没している、郵政民営化の意義について今回は検討を加えてみたい。すでに私は郵政民営化への私見を書いているので、今回は郵政民営化論者の代表である跡田直澄氏の『郵貯消滅』を簡単に読んで、この郵政民営化がどんな政策目的をもつものかを検討したい。

 常識的にも(経済学的にも当然)、政策目的がはっきりしていて、それにふさわしい政策手段が採用されることが、経済政策の評価を行う上でもっとも適切な評価基準であろう。この政策目的に適合した政策手段を割り当てることがなによりも大事である。例えば小泉首相が郵政民営化があらゆる改革の入口であると公言することは、かって彼が首相就任当時に発言した「構造改革なくして景気回復なし」と同じように誤った主張である。この後者の発言は、90年代からの日本の長期停滞の原因を構造問題であるとする認識があると同時に、本来は循環的問題(総需要の自律的な変動による経済変動)であるはずの景気対策を構造改革で行うという誤った政策割り当ての認識を伴うものであった。しかしこの標語は熱狂的な小泉ブームとともにかなりの数の国民に支持されたようだ。

 そして実は今回の郵政民営化もその根っこの部分に、この誤った政策割り当てと構造改革主義とでもいうべき日本の長期停滞への判断ミスが内在していると思われる。その代表的な論者が今回とりあげる跡田氏の著作とまた跡田・高橋洋一論文 「郵政民営化・政策金融改革による. 資金の流れの変化について」である。



 跡田氏の本では、冒頭において郵貯民営化が日本の財政危機あるいは国家破綻を解決する必要条件であることが明言されている(3頁)。国民が民間金融機関への預金よりも郵貯を選ぶことによって、郵貯の残高が異常に膨張した。郵貯は財政投融資制度を経由して国債の購入にあたられ、そのことが日本を借金体質にしてしまった(34頁周辺)。

 跡田氏によれば国債は政府の借金であると同時に国民の借金でもある(31頁)から将来世代の負担は増加してしまう。日本の預貯金残高は千四百兆円であり、現在の国債・地方債発行残高が約千百兆円なので、後者が前者を上回るときに、「日本国家は息ができなくなる」(42頁)という。そのために郵貯を民営化することでこの借金体質からの脱皮が重要になる、ということである。

 そして日本の長期停滞の原因については、「今度こそ構造改革をしなければほんとうに日本はダメになるという議論が盛んだったが、結局は従来どおりに政府主導型の一般会計と財政投融資による景気対策で乗り切ろうとした。結果的にはこれは成功しなかった。それが今日のデフレ型経済と、なかなか浮揚しない長期不況の元凶となっている」(25頁)。つまり構造改革をせずに、財政依存(これは政府の借金の累増をもたらす)の政策を採用したことが、長期停滞をもたらしたという認識である。これはまさに「構造改革なくして景気回復なし」という小泉的構造改革主義と同じ認識であろう。

 では、郵貯を民営化するとどうして財政危機が回避されるのであろうか? 跡田・高橋論文では、郵貯民営化によって「官から民へ」資金の流れがかわり、家計資産に占める公的金融のシェアが26%から5%に激減、そして企業負債に占める民間金融機関のシェアは25%から35%に増加するとその成果を示している。しかしこれは本当に郵貯の民営化の成果だろうか?

 まず跡田・高橋論文では、資金循環表を用いて説明しているが、これは経済活動の結果を描いたもので、なにかの政策効果による因果関係を示したものではまったくない。また彼らの説明する「官から民へ」の資金の流れをもたらすいくつかの前提では、1)経済の名目的規模がいわゆるインフレターゲット政策によって実現されている、2)財投残高が半減するがこれ自体は郵貯民営化と直接に関係ない政策目的である、3)郵貯の預金残高も激減するという仮定をおいているが、これもまた民営化とは関係ない。つまり1)から3)はいわば民営化には関係ない「仮定」である。

 例えば経済の名目的な規模が大きくなるのに連動して家計の資産残高が増加しているが、この増加分はすべて民間金融機関への預金に化している。そして家計は個人向けの国債と郵貯をほぼ完全代替とみなしているという設定のもとで、郵貯・簡保の減少分を個人国債の増加とまたもや民間預金の増加に割り当てることになる。これらの家計の資産選択のシフト(個人向け国債や民営化後郵貯への預金から民間金融機関への貯蓄へのシフト)は、理由の明示されないただの数字操作である。

 ここまでかなりごちゃごちゃするが、要するに彼らの論文やまた跡田氏の著作での「官から民へ」の資金の流れの変更を郵貯民営化がもたらしたという理論的根拠が欠けているということである。ただ「官から民へ」という資金の流れの変更は彼らの採用したいくつかの仮定からそのままでてくる「数字」でしかない。そして家計や企業が資産選択行動を「なぜか」シフトしている結果として、「官から民へ」の資金の流れが変わっただけである。

 そして「なぜか」には郵貯民営化ではなく、資産選択をかえる有効な政策である金融政策(ここではインフレターゲットの効果)によるものかもしれない。郵貯民営化によっても旧来の郵貯は事実上、個人向け国債と代替可能であり、民営化自体が「官から民へ」という資産選択の変化をもたらす可能性は乏しいというのが、大方の合意ではないだろうか? それに対して、インフレターゲットなどの積極的な金融政策によってであれば、低インフレのもとでは、国債から株・社債などのさまざまな民間金融資産へのシフトが起こることもまた有力な意見ではないか? すなわち郵貯民営化自体による資産選択シフトを説明した筋書きは現在のところ未見ともいえる。

 跡田氏は郵貯をやめても国民が国債や、結局は国債を購入することになる民間金融機関への預金などはやめるように、その代わりに株などのリスク資産を運用するように、本書の後半ではしつこいほど「説教」を垂れている。これは裏面では、彼らのすすめる郵貯民営化それ自体が「官から民へ」の資金の流れをかえる効果をもたないことを自ら証明しているともいえる。

 また構造改革が市場主義の建前をとるならば、市場化した後に民間主体がどんな資産・負債構成を選択するかに、「説教」を垂れるのは間違いのもとであろう。政府筋からでてくる郵貯民営化論の根拠は、跡田氏の著作と跡田・高橋論文を最高の表現形態にしていると私は理解している。しかしその内容は、あまりにも恣意的なものである。そして跡田氏が『郵貯消滅』の後半で執拗にすすめる国民のリスク資産の運用という「説教」で、財政危機が回避できるならば、その「説教」自体は熱狂的な支持を得ている宗教的なものか、あるいは跡田氏らが批判している社会主義経済の極端な運用の姿そのものでしかありえないであろう。

玄田有史『14歳からの仕事道』(理論社)+ニート論の弊害(再録)

2005-09-06 | Weblog
 村上龍の『13歳のハローワーク』が好評だった理由のひとつは、職業自体の選択でしか著者の主観的な評価を表現しなかったことにある。現代の仕事のパノラマとしては、社会的に非常に高い評価を得、そして目覚しい売れ行きを示したのは、著者のこの種の禁欲的な戦略が成功したためだろう。それに対して本書はほぼ同年齢の読者を対象にしながらも著者の仕事への考えを吐露した書き方になっている。本書の巻末には全国の労働相談コーナーやジョブカフェなどの公的な機関の問い合わせ一覧がかなりの比重で掲載されている。

 本書が重視している視点は、「ちゃんといいかげんに生きる」という著者の標語に表れているように、自分のやりたい仕事を見つけることに焦ることはない、というものである。そして自分が本当にやりたいと思っている仕事は人に説明することができるし、また人の仕事への熱意ある態度を理解する上で、共感という感情が重要である、とも本書では説かれている。これらはそれなりに傾聴に値するだろう。


 しかし私は本書全体で、それはないだろう、という思いに何度も遭遇した。まず公務員や大企業の正社員とフリーターの仕事を比較して、前者(公務員や大企業の正社員)は雇用がかならずしも安定してはおらず、「不安定でもいいから、働きながらも変化すること自体を楽しんでみたい」人以外は、「ならないほうがいい」(34頁)と評価されている。他方で、フリーターについては、「よく、フリーターは正社員に比べて不安定だって言いますけれども、それだって本当かなあと思います」(35頁)とされている。

 仮に「安定」を収入の多寡や平均勤続年数、そして各種の社会的・企業内福祉サービスの享受から計れば、それは前者の公務員や大企業の正社員の方がはるかに恵まれている。例えば橘木俊詔の『脱フリーター社会』(東洋経済新報社)によれば、フリーターの年収別分布では199万円以下のものが6割以上、それに対して正社員はその割合が1割程度で、半数以上のものが300万円以上である。この収入格差がフリーターの7割近くが正社員志向になることをもたらしているといえる。著者の本書での姿勢はフリーターの実情を意図的に美化しているとさえいえる性質の悪いものに思える。

 さらにフリーターになって悩みことがあったら、「市町村の役場や区役所などに行くと必ず相談窓口がありますから、行ってみてください」(35頁)とあり、フリーター問題の丸投げである(相談窓口への丸投げ発言は本書に頻繁に登場する)。そしてこのフリーターの悩みの大半が自らの雇用状況の不安定性にあることを著者はまったく言及することはない。

 「結局、フリーターがいいか、正社員がいいかというのは、あんまり意味がないんです。二十代のとき。自分自身がどう働いてきたのか、他人に語れる何かがそこにあるのか、そんなことが、その後の人生を決めることになるのです」(135頁)という訓示も、その妥当な内容さえ、著者の客観的な分析を欠いた記述の前にはむなしいだけである。

 ところで著者のニート論やそれに刺激?されたニート対策について、私は自分の個人ブログに以下の文章を書いたが、ここに再掲示しておきたい。

ニート論の弊害

 「ニート(NEET)」は、Not in Education,Employment,or Trainingの略語である。英語からわかるように、教育、就業、職業訓練などをいやがり、何もしない若者たちを指している。イギリスではニートが社会問題化し、政府も積極的な対策を採用しているという。日本では、東京大学助教授の玄田有史氏がこのニートの日本版を提唱して話題をよんだ。

 玄田氏によると日本のニートは40万人ほど存在しているらしい。しかも97年以降、急激に増加しているという。わたしはこのようなニートの存在は、玄田氏のいうほど日本の若者の気質が変化したり、労働市場の構造変化のせいだとは思ってはいない。明らかなのは、ニートの総数とその変化率が、97年以降の不況の深化とともに急上昇していることからわかるように、きわめて景気循環的な問題から生じた「偽装的失業」の一種ではないか、と理解している。そうであるならば景気回復とともにこのニートは着実に減少していくかもしれない。

 しかし、先ごろ政府はこのニートがいままでの倍、約80万人超に膨れ上がったと公表した(内閣府「若年無業者に関する調査」(中間報告))。もしこれが本当だとしたら深刻な構造問題だろう。しかしその内実はかなり問題のある「数字操作」である。従来のニートにくわえて、この内閣府の報告では、いわゆる「家事手伝い」や「病気・ケガ」で治療中の人、さらには働きたいが職がないので待機している人たちまでも含んで定義されている。この拡張版「ニート」はいわば、求職意欲喪失者といわれる層を大きく含んで定義され直したといえる。

 例えば従来このような就業意欲喪失者は、景気循環的な要因と密接にかかわっていると理解されていた。例えばパートが不景気で働き先がまったくないのでもう万策尽きて家事手伝いをするケースが考えられる。同報告ではその実数ははっきりしないが10万人近くはいると思われる。もちろんこれらの「家事手伝い」層は、就業意欲がないわけではない。目前の雇用がないだけで、景気がよくなってパート労働者への需要が高まれば、非労働力人口のプールから労働力人口のプールへとでていくと考えられる。

 従来、このニート対策で考えられてきた政策は、公営・民間の就職相談所の活用や、さらにニート層への課税を行うことで労働や教育を受けることへのインセンティブを促す政策が提唱されてきた。もし今回のように拡張ニートに、そのような政策を適用すれば、明らかに間違いといえる。求職意欲喪失者への対策は、まさに景気対策である。この人たちに税金を課したり、公営の説教を垂れることでは決してない。このような政策対応の誤りは、いたずらに社会的なコストを増やしかねないだろう。

 また「ニート」という言葉が独り歩きしはじめ、実際の就職の場などで偏見や誤解を生み出しかねない。玄田氏らの著作をみると日本版ニートには「引きこもり」などの事例がともに解説されており、誤解と混乱を招きかねない。「家事手伝い」「病気・ケガ」「介護」などなどで就職をしていない人たちをすべてひっくるめて「ニート」という言葉で指すのは、新しい社会的な差別さえも助長しかねないだろう。

 他方で、やや皮肉な見方をすれば、このように倍増したニートに社会的注目が集まれば、この対策への予算の増額などの無駄な支出が監督官庁に発生するかもしれない。ニート対策よりも、対策の名をかりた官僚たちの増長がないか、そのチェックのほうがよほど大切かもしれない。