田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

量的緩和解除後の日本経済III

2006-03-29 | Weblog
 一年近く続いた「ノーガード経済論戦」も今回が最終回です。このブログの続きというわけではないですが、以前から継続している個人ブログEconomics Lovers Live や太田出版のエコノミストミシュラン で経済論評を続けるつもりですのでご関心があれば参照ください。

 さて量的緩和解除を行った日銀ですが、今回の政策決定については主にふたつの問題点を指摘することができると思います。ひとつは、本当にデフレ脱却を確実にした段階で政策転換を行ったのか、という点です。0.1%から解除時の0.5%までの数ヶ月の推移をもって安定的にデフレを脱出したという日銀の説明ですが、本ブログでも指摘しましたように、上方バイアスの存在があり、それは日銀のエコノミストの推計でも0.3%その前後の糊代があるなかでは、せいぜいせいぜいゼロインフレもしくは石油価格の上昇貢献分を考慮するとマイナスであった可能性があります。さらにデフレに陥った時点からの名目価値の毀損を回復するリフレーション過程に日銀がまったく配慮していないことは確実なようです。

 第二に、今後の物価水準ないしインフレ率に対する日銀の見通しが不鮮明なことです。一部の識者や政府側にはこの日銀の物価の「理解」を単なる政策委員の個々の見通しを集計したものではなく、「インフレターゲットもどき」に昇華させようとする動きがありますが、日銀自身はこの動きに否定的なように思えます。量的緩和解除は、よくいわれていますようにゼロ金利を市場が予想するよりも継続するといった「時間軸効果」が剥落化していく過程ですが、そのような市場の物価水準やインフレ率の予想に作用する政策を日銀が今後明示的にはコミットする枠組みが存在しない、あるいはそれに近いものがあっても予想形成効果をわざわざ削いでいるようにさえ思えます。これも過去の日銀の歴史をみてみると速水前総裁時に量的緩和を採用していても自らその予想形成効果に懐疑的である旨を公言することで効果を減少させてしまった負の歴史を想起させます。

 ただ今後、さまざまな政治的圧力や市場のリスクの高まりを背景に、このような日銀の「裁量政策」が次第にインフレターゲットに転換していくという楽観的予想や、これもまた裁量ゆえですがゼロ金利を維持し続けるような(その場合はなんで量的緩和解除をしたのかわからなくなりますが)可能性も否定できません。両方の場合は日本経済にとって景気浮揚効果をもたらすことはいえると思います。

 日銀自身は過去の経済政策の失敗は存在せず、そして今後のリスクにも十分対処しているという姿勢を崩していませんし、最近ではその弁護の姿勢をより強固なものにしています。日銀とそのシンパのエコノミスト(これは民間で金融・資産運用などのコンサルタントをしている多くのエコノミストを含みます)さらにはメディアは、日銀及びそのシンパ集団相互との長期的な信頼関係を維持するために、真実を述べるよりも日銀への配慮からそのあからさまな批判をさけているようにも思えます。

 ただこのような人間的な関係が裏にあるにしてもそれをもってだけで彼らとその組織を批判するのではあまり有意義なものではありません。やはりどんな組織的なレントが存在しそれによって人々が真実を歪曲していたとしても、それ以上に重要なのは誤まった経済思想の蔓延だと思います。もちろん完全で誤まりなきエコノミストはいません。ほぼすべてのエコノミストは私ももちろん含めて事実の認識や経済学的知識を誤解している可能性があるでしょう。問題は古くからいわれている通り、その過ちの可能性に意識的になることなのでしょう。これは自戒を込めていえば困難な道であると思いますが、他方で最も魅力ある途でもあるように思えるのです。

 経済学や経済の認識は今後もゆっくりと改善していくと私は楽観視しています。そして日銀の政策や確信犯的に誤まった経済情報を流し続けるもうひとつの負の遺産=財務省の政策も今後ともに批判的に検討していくと思いますが、私は日本の経済社会の今後の発展に実は懐疑的である以上に楽観もしているのです。

 今後は冒頭であげたブログで経済論戦を継続して検証する予定ですのでどうかよろしくお願いいたします。

野口旭『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』東洋経済新報社

2006-03-09 | Weblog
 いままで曖昧で陰湿な批判が横行していたムラ社会であった日本の経済論壇の中で、革命的ともいえる実名と批判箇所を明示しての率直な議論の姿勢を示した『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社)や『経済論戦』(日本評論社)に続く、野口氏の00年代の経済論戦の記録を生々しくとどめた最新論説集である。題名の「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」というのは聞きなれない言葉である。本書によれば、「経済学は役に立たない」という世間一般の抜きがたい批判に答えることを目的にしているという。著者は、経済学は予測の科学として十分に役立つが、世間で役立たないと思われているのは「歪んだ水晶玉」=間違った経済理論で預言を行う「エコノミスト」たちの活躍に原因のひとつがあるという。実際に野口氏が90年代後半から現在まで経済論壇で行ってきたことは、この「歪んだ水晶玉」で預言するエコノミストや評論家そしてメディアなどへの容赦ない批判だったといえる。

 本書の後半は、当「ノーガード経済論戦」を読まれている読者にはなじみ深いHotwired に掲載された「野口旭 ケイザイを斬る!」をベースにした02年から04年までの当時の経済論戦の見取り図とその批判的な検証になっている。特に経済の動きは複雑でありマクロ経済学のような単純な論理では十分にとらえることができないと主張する論者の多くが、実は単純な自らの意見をカムフラージュするために複雑系な話を利用していることが指摘されていることころなど改めて参考になる。

 前半は最近の経済政策論争をベースにした最新版の野口氏の経済見通しと政策への批判的検証が収録されている。その要点は、1)小泉政権の構造改革路線の検証、2)03年から04年にかけて明瞭になった景気回復の原因、3)今日の量的緩和解除論議をめぐる見通し のおおよそ3点に分けることができよう。

 1)の点であるが、これについては小泉政権の構造改革路線が、日本経済の停滞が非効率部門の存在という構造的な問題にあり、これを淘汰することで高い成長率を目指すという「清算主義」であったこと、そして構造的な要因が日本経済の停滞の原因ではなく循環的な要因である総需要の不足にこそ真因を求めるべきことが明記されている。

 個人的な回想で申し訳ないが、小泉政権の清算主義的な色彩の強かった01年当時の政策批判を行った野口氏と私の共著『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)は、私の事実上の処女作の一つであり、そのときから野口氏は経済論戦を分析する上での私の教師でもあり抜きがたい目標でもあった。当時は「構造改革」自体の満足のいく経済学的な定義さえも不分明であり、それを野口氏は同書でクリアに説明し、もって構造改革とマクロ経済政策は異なる政策目的に割り振られる政策であり、両者を適切な目的(構造改革ならば構造問題、マクロ経済政策は景気循環問題)に割り当てるならば矛盾もしなければ競合もしないこと、さらに適用する目的を小泉政権のように誤まるとそれは経済社会の低迷をより深刻なものにすることを説いた。

 ところで本書によると小泉政権の当初の清算主義的な性格は、「国債発行枠30兆円以下」を公約にした財政再建路線に明白だったが、不況の深刻化からこの清算主義的な路線は早々に放棄されることになった。そして実態的には「循環的財政赤字」の発生を放置することで事実上(受動的にではあれ)景気の落ち込みの下支えに貢献したことを指摘している。この点については、私も当ブログ「裏声で語れ! 小泉構造改革」で説明したことがあるので参照されたい。

 また竹中平蔵経済財政担当相(当時)の金融相就任とそれに伴って発足した「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」とそれが打ち出したいわゆる「竹中プラン」(金融再生プログラム)の評価は興味深い。当初、このチームにごりごりの清算主義者として名高い木村剛氏が加わったこともあって、いわゆる竹中・木村ショックで日本の株価は急降下した。政府が不良債権の抜本的な対策で銀行・企業の統廃合に積極的にのりだすという懸念がマーケットや国民の間に広がった。しかし実際には清算主義路線を放棄しつつあった小泉政権にあっては、その後のりそな銀行への公的な救済に端的に表されたように銀行を潰すようなハードランディング路線は放棄された。竹中プランは骨抜きになったかにみえた。しかし、本書ではマクロ経済的な清算主義は放棄したものの、この竹中プランが金融庁が大手銀行を中心とした不良債権処理に不必要なほど過度の介入を行うことにお墨付きを与えてしまい、規制のハード化が資源の誤配分を招来してしまったことを指摘している。この竹中プランへの評価は妥当だろう。

 2)の点については、今日の景気回復の主動因についての分析である。それは簡単にいうと財務省の円安介入と、それと連動した日銀の当座預金残高の引き上げという量的緩和政策が重なったことが契機となっている。この事態を本書では「なし崩しのレジーム転換」という表現を使っている。これは私流に表現すれば、あくまで財務省主導のデフレ対策としての円安介入であり、それを福井総裁が意図せざる形でサポートした量的緩和政策のあり方を表現しているのだろう(本書では触れられていないが福井総裁は明確に財務省の円安介入をサポートしたことを否定している)。野口氏はいわゆる中国特需と表現されたり、アメリカからの日本株式市場への投資が盛んになったことなど、外的要因が堅調であれば政策対応が受動的でもかまわない、というスタンスである。

 「以上から、日本経済の二〇〇二~〇三年以降の契機回復の様相については、ほぼ次のように整理することができる。まず、その最大の牽引車は、外需の拡大であり、それをもたらした世界的な景気拡大であった。しかしながら、国内のマクロ経済政策がリフレ的な方向へなし崩し的に転換されていたということも、同様に重要な意味を持った。それは具体的には、二〇〇三年秋から〇四年初頭まで行われた、財務省の巨額為替介入と日銀の金融緩和の同時遂行という形でのマクロ的政策協調である。つまり、今回の日本の景気回復と国内のマクロ経済政策の両方に支えられて、かろうじて定着したのである」(本書20頁)。

 すなわち浩瀚喧伝されているような、「構造改革が景気回復に寄与した」のではなく、先の説明どおりに循環的要因=総需要不足の改善が外需の好転と政策対応によってもたらされたというわけである。

 3)については、現状の景気回復は不安定であり、より一層のリフレ政策の重要性が強調されている。そのため06年末頃まではデフレ脱却をめざすリフレ過程(少なくとも現状の財政・金融政策のスタンスの維持)である。さらに第二段階は金融政策正常化のための段階であり、量的緩和の解除、インフレ目標の導入、プラスの政策金利への復帰などが目指される。これはほぼ2007年半ば頃であり、財政再建はその後の第三段階となる。野口氏は現時点での量的緩和解除はリスクがありすぎて日銀は採用しないだろうとみている。だが、この野口氏の楽観的な見通しだけが本書を通じて外れてしまいそうである。もちろんそれは野口氏の誤りではなく、通常では考えられないほどのリスクをあえて選択した日本銀行の誤りなのである。

 本書は他にも、リフレ派の正しい定義、「声の出るゴキブリ」とリフレ派を批判した山崎元氏のその後、木村剛日本振興銀行の「実験」へのエール(?)など微苦笑を禁じえない記述も多く、あっという間に通読できてしまう。学ぶべきことが多い本書は野口氏の論戦の記録だけでなく、迷走する日本の経済論壇の記録としても重要である。

量的緩和解除以後の日本経済 II

2006-03-08 | Weblog
 前回に去年の夏に事実上の"親日銀派"のエコノミストたちが今年春の量的緩和解除やデフレ脱却、政策オプションとしてのインフレ参照値の導入を語っていたと述べた。そのような発言を聞く一方で、小泉政権サイドに近いところからは夏の終りに日銀と政府との名目経済成長率論争が起きるだろうという観測を聞いた。もっとも去年の夏は郵政民営化を焦点とした政治の季節に吹き飛ばされて、この「論争」が正体を現したのは年末になってからであった。具体的には昨年12月に経済財政諮問会議において与謝野馨経済財政・金融担当相と竹中平蔵総務相との間で交わされた財政再建をめぐる論争である。これは財政再建をめぐっての金融政策の位置づけをどうとらえるのか、という論争であったともいいかえることができる。長期国債の利回りである長期利子率と名目成長率の大小関係がどのように金融政策と関連しているのか、という点で与謝野大臣と竹中大臣との間で意見が交換された。では、なぜ長期利子率と名目成長率の大小が財政再建や金融政策のあり方に関係するのだろうか(以下は拙著『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)による)。

 国債の新規発行額が次式で表わされるとしよう。
国債の新規発行=政府支出-税収+名目金利×国債残高   
 ところで国債残高が財政の健全性で問題になるのは絶対的な大きさではなく、ネットでみた名目国民所得との比率である。上式を用いて簡単に導出されたのが次の関係である。

(国債の新規発行分/名目GDP)の一年間の変化分
  =〔(政府支出-税収)/名目GDP〕-(名目GDPの成長率-利子率)×(国債の新規発行/名目GDP)

 政府支出-税収がプライマリーバランスとよばれるものだが、この式の右辺第2項をみるように名目GDPの成長率が利子率を上まわれば、プライマリーバランスにかかわらず国債の新規発行分・名目GDP比率はある一定の値に収束する。逆に名目GDPの成長率が利子率を下回ると発散する。すなわちしばしば財政再建論議で話題になるプライマリーバランスの改善よりも財政危機を回避する際にきわめて重要なのは、名目利子率と名目GDP成長率の大小関係ということになる。この関係を「ドーマー命題」と呼んでいる。

 そしてどのような国債残高の初期水準からはじめても、利子率が成長率よりも大きいときは財政破綻に直面し、利子率が成長率よりも低ければ財政破綻の危機は訪れない。もちろん現在の日本はゼロ金利であり、長期国債の利回りも歴史上まれにみる低水準である(1~2%)。しかし他方で名目成長率はマイナスで推移している。つまり名目成長率よりも金利のほうが大きい事態が長期的に継続しているのが日本の現在の状況である。日本の名目公債残高/名目GDP比が90年代から今日まで増加トレンドを変更しないのは主にこの事情による。成長率の低下をもたらしているデフレが継続すれば、ドーマーの命題でいうところの財政破綻の危険性が高まっていくわけである。

 さて与謝野大臣は近年では長期金利が名目成長率を下回ることはない、という認識であり、対して竹中大臣は金融政策などの政策対応がきちんとしていれば名目金利が名目成長率を長期にわたって上回ることはない、という立場にたっている。このことは言い換えると、与謝野大臣側は金融政策による名目経済成長率の引き上げは難しく、せいぜい3%程度だという認識のようだ。竹中大臣側は金融政策によって名目成長率は4%程度が達成できると主張しており、実は与謝野・竹中両者ともに実質成長率は2%の認識があるため、問題はインフレ率をどう判断するかによっている。与謝野大臣側はゼロインフレからせいぜい1%以下にインフレ率を抑えことが望ましいという判断であろう。これは今日の日銀の政策と整合的である。竹中大臣はいわゆる「リフレ」的観点に立脚して発言していると思われ、中長期的に2%程度の低インフレを目指して、税収を改善しもって財政再建に資するという考えかたである。わたしはOECD諸国の多くが名目成長率≧長期金利 を実現しているために、日本においても達成可能であると思っている。

 ここで今回の量的緩和解除をめぐる騒動でもこの種の日銀的なゼロインフレ志向(世界的にはデフレ基調の水準を最適インフレ率とみなしているようである)と竹中大臣に代表される政府内の「リフレ」的見解の対立が底流のひとつとしてあるということである。

 昨年の郵政民営化以後、小泉政権は目的喪失現象を起こしているのではないだろうか。首相は積年の懸案を達成して、残る政策課題として小泉流の誰からも政策の障害=犯人が明瞭となる課題を探して、政権の緊張感の維持、そして後継選出の影響力を保とうとしたのかもしれない。その意味で、この名目成長率論争を通じて、金融政策のあり方がクローズアップされたのは自然な成り行きだったのかもしれない。なぜならデフレ対策だけはいっこうに改善の兆しがみえないものだったからである。しかし政府の挑発ともいえた日銀パッシングはどうも政府自身の思惑や日銀自体の計算(4月以降の解除)を上回る形で、早期の量的緩和解除にむけて日銀自体を走らせてしまったのかもしれない。
(続く)


量的緩和解除以後の日本経済

2006-03-07 | Weblog
 80年代後半のバブル形成、そして90年代のバブル崩壊から「失われた10年」といわれる時期を経過して世紀をまたいだ日本経済の大停滞は今日明らかに転換点を迎えている。

 日本の経済的な停滞の主要因が日本銀行の金融政策の失敗にあり、事実上の株価、地価、そして為替レートの動向を重視する資産価格ターゲットを採用していることがその「失敗」の内実である。そして財政再建路線を重視する財務省(旧大蔵省)の財政緊縮や不良債権問題を伴う金融システムの不安定化は、この日本銀行の政策失敗に付随する二次的な経済悪化の要因であった。そしてこのような日本銀行の政策の失敗は多くの論者の指摘することになり、いまでは一定程度の理解を獲得することになっている。

 他方で、日本経済は一時期のどん底から回復し、長い景気回復局面にある。失業率も一時期の5%台真ん中から4%台まで減少し、銀行の不良債権問題は事実上消え去り、消費や設備投資なども堅調に推移している。これらは日本経済の停滞を象徴している大規模なGDPギャップが明らかに縮小に向かっているシグナルともいえる。一部のマスコミやエコノミストたちはこの景気回復を「神武景気」以来などと表現しているが、最悪期で150兆円に達したGDPギャップがようやく縮小に向かった“だけ”であり、これらのエコノミストたちの景気への認識は徒な誤解(景気の過熱?)をもたらすだけに安易なものである。しかしいずれにせよ日本経済は現状では最悪期を超えているのは事実である。

 そして日本銀行を中心とする「政策の季節」を私たちは迎えている。8,9日にある日本銀行の政策決定会合において、5年ぶりに日本銀行のいわゆる量的緩和政策(日銀の当座預金残高をターゲットにした金融緩和政策)を解除するという観測が強く、市場やマスコミを含めてほぼ確定事項となってしまっている。日本銀行が量的緩和政策の早期解除を本年の4月に行い、その際に批判が強ければなんらかの量的な指標(インフレ参照値と呼ばれるもの)を導入して行うことは、一部の“親日銀派”のエコノミストたちが昨年の夏ごろから口にしていたことである。

 ところで先に簡単に述べたいが、いわゆる「インフレ参照値」とはなんなのだろうか? 私はこの「インフレ参照値」の導入をすすめるエコノミストは“偽り”であることを自ら公言し、日銀がこれを述べることは随意な裁量政策と無責任主義の反映を自ら表明しているとしか思えない。なぜなら言葉通りならば、金融政策でインフレ率を「参照」するという凡庸な中央銀行に求められるごく当たり前のことをいっているだけなのか? もしそうならば確かに日銀にとっては画期的なことなのかもしれない。なぜなら先に述べたようにわが非凡なる日本銀行はこの10数年もの間、どうも資産価格をターゲットにした政策を運営してきたように思えるからだ。とはいえ、当たり前のことを当たり前ならざる組織に実行させるにはやはり強制もしくはなんらかのインセンティブデザインが必要であろう。しかし「インフレ参照値」には実際にはそのような工夫はない。参照するかしないかの強制もインセンティブデザインもなければそのような参照は本当には行わない(いままでも行ってきたとはいいがたいためそのような行動を採用するインセンティブは不在)というのが経済学の常識であるし、また世間の常識でもあろう。

 今回の量的緩和解除にはこの「インフレ参照値」に類した試みが喧伝されるに違いないが、いずれにせよ現行の日銀法にはインフレ率を重視する、すなわち現在であればデフレを問題視するインセンティブ構造が決定的に不在である。そのようなインセンティブなき「インフレ参照値」を声高に主張するものは、日本銀行に捉われた亡者であるか、少なくとも経済学の理解には遠い。(続く)

都留重人氏とは誰だったのかII

2006-02-28 | Weblog
 戦後の日本人の常識のひとつに、アメリカのウォール街から始まった大恐慌は、ルーズベルト大統領によるケインズ型の財政政策によって回復した、というものがある。このケインズ政策が公共事業によるダム、港湾施設、道路の建設といった政府主導のものであるという「常識」はいつ形成されたのだろうか。それと解く鍵のひとつに、戦時下において東大で行われた都留の講義にあるのかもしれない。

 都留の戦中に行った講義『米国の政治と経済政策』(昭和19年)は、1920年代のアメリカ経済の繁栄と大恐慌による危機、そして30年代以降のニューディール政策の評価を包括的に解明した経済政策の書である。しかも都留はアメリカからの帰国(昭和17年)する当時から心に決めていたように、すでに日本の敗戦は必死とみており、“敗戦”後の日本の見取り図を彼なりに吐露した処女作である。

 全体は四章からなり、第1章 二十年代の性格、第2章 大恐慌と米国経済の変容、第3章 「ニュー・ディール」、第4章 経済政策の新しい方向 からなる。都留の所論の特徴は「政治」や「制度」的要因と経済的な要因とを峻別し、前者が後者に本質的な影響を及ぼすという制度的アプローチを採用している。

 20年代のアメリカの空前ともいえる繁栄は、(a)電気、自動車、(b)建築などの諸産業が異常に発達し、また(c)外国貿易も好調であったことに牽引されている。さらにこれらの産業の発展を支えたのは(d)人口の急速な増加であった、と都留はみている。

 この経済の構造的な側面は、当時の「徹頭徹尾ビジネス助長ビジネス擁護」の経済政策と政治のあり方によって主導された。これを都留は「工業生産の分野における資本団体と金融団体に於ける支配的な力」と表現している。当時の経済政策を左右する諸力として、都留は他に農業団体と労働団体をあげているが、これらへの20年代の政府の取り組むは消極的なものであり、工業重視の経済政策スタンスを採用していたと都留はみている。

 この二十年代の経済を崩壊させた大恐慌の原因は何か?

 それは都留にあって上記の(a)から(d)までのすべての要因の同時的な下降として考えられている。特にキーになるのは、従来の牽引役であった産業が衰退産業に転じてしまい、新産業や新技術の可能性が絶たれたことである。

 なぜ新産業や新技術が生れないのか? それはアメリカの産業の独占化が深刻であり、新しい技術を導入するインセンティブに欠けるため、シュンペーター的な創造のための破壊=清算主義(この「清算主義」という言葉を都留は使用してはいないが)の活動を阻害するからである。

 独占集中の弊害は、例えば価格面をみればそれは価格硬直化であり、さらに都留がより注目していたのは独占企業が投資資金を内部ファイナンスすることで外部からの規律付けが行われていないため、非効率的な投資や資金運用が行われている、ということである。これが過剰な投資を生み出し、「制度に内在する矛盾を激化する」、要するに「バブル」を生み出すといいたいわけであろう。

 さて都留は先のように大恐慌の原因を構造的な複合要因(複合不況?)として捉えた。その上で大恐慌に対処したふたつの政権の経済政策を評価していく。

 まずフーヴァー政権の経済政策は当初は経済の「自動的回復力」を信頼していたが、その末期には銀行や鉄道業の救済のために緊急貸付や公的資金の投入などの「金融政策」を適用したが、それは「人為的な膨張」維持政策にすぎず「経済の現象面にのみ捉われ、それより一歩深く掘り下げることは科学の問題ではなくて信念の問題」としてフーヴァー政権の政策当事者はみなしてしまったと述べている。

 現代的にいえば「金融政策」は根本的治癒ではなかった、対症療法にすぎなかった、というわけである。

 さて金融政策への低評価は都留の場合は次のルーズベルト政権の評価でも一貫している。彼はニューディールを第1期(1933年~39年)、そして第2期(39年から現在)までに分けている。第一期の主要な政策は通貨膨張政策を中心にした金融政策と「政府とビジネスの協同体制的観念」(要するに全国産業復興法NIRAのこと)であり、第2期は公共事業を中核にした財政政策である。

 第1期は失敗し、第2期はアメリカ資本主義の危機を回避するには政府の財政的な介入が必然である、という後年まで維持された都留の見解を形成するのに役立った。

 第1期の政策の主眼は「高価格」の実現であり、そのための政策手段が通貨膨張政策と平価切下げであった。さらにこれに農産物価格の吊り上げ政策と工業製品価格抑制政策もオプションとして加わっている。

 しかし都留は金融政策では、「自由主義的資本主義」の衰退がきわまっているので根本的治療にはなりえない。さらに独占集中の状態を解消するほどの政府介入がない、などでこれらの政策が34年秋にはすでに行き詰まりをみせたと評価している。

 この点についてはむしろこの時期のFRBの「出口政策」がデフレ脱却の点で誤まったものであったことが、近年いくつかの研究から明らかにされている(『昭和恐慌の研究』、安達誠司『デフレは終わるのか』などを参照)。

 「第2期」である39年以降のニューディールを拡張的な財政支出を伴うより積極的な政府介入として都留はとらえる。興味深いのはこのニューディール政策を都留は大恐慌の根源ともいえる独占集中という産業の状態を「統制」するためであったと解釈していることである。

 例えばかのTVA(テネシー峡谷事業局)は「米国独占企業の中でも特に重要な一環をなしている民間電気業」の活動を抑制し、政府からの補助金を得ていたTVAの割安な「適正価格」によってテネシー峡谷にあった民間電気業社の価格は「統制」された。

 さて都留はニューディールの出現によってアメリカ経済の性格とその国民の認識も変化したと書いている。

 「即ち、1929年後の大不況は米国人に次ぎのような教訓を与えた。アメリカの経済制度はもはや、制度それ自身の力では、経済の安定と資源の全的利用を達成できなくなった。従って、この安定と全的利用とを果たす為には、政府が一役買って出ねばならない。そしてその場合、政府がとるべき政策の集中的焦点をなすものは財政政策にほかならぬ。投資額の調整、租税制度の意識的な利用などを契機とする財政政策である、そこにこそ今後の財政政策の新しい意義がある」

 ところで都留の所論で興味深いのはこれらの新しい財政政策の効果が実はアメリカでは未決であったことである。効果がはっきりしないまま、事実上は「戦争」によってニューディールが取り組みべき課題としてあげた「国民的利益」と「資源資材の全的利用」「全的就業」はなしとげられたというのである。さらに都留はニューディール期における「国民的利益」の実現の中味が特に「全的就業」であることが、かえって戦争につながった、という注目すべき見方を提供している。

 「「国民的利益」概念の二つの具体的内容をなしている「国防」と「全的就業」とが同時に満足される機会が与えられたのであるから、大東亜戦争開始にいたるまでの好戦的態度には十分の根拠があつたと云はねばならなぬ。「ニューディール」政策は、このような形で戦争につながっていたのである」。

 かくして日本の経済論壇に影のように長く付き従う大恐慌戦争解決策は、その戦争そのものを惹起するという論理とともにロックインされたのである。

都留重人氏とは誰だったのか

2006-02-08 | Weblog
 都留重人氏が亡くなられたそうです…合掌。

 実は先週の土曜日に早稲田大学図書館で都留氏の著作をかなりの数借り出しました。それはナカニシア出版から今年の夏には出る予定の浜田宏一先生、野口旭さん、若田部昌澄さん、中村宗悦さん、浅田統一郎さん、松尾匡さん、というメンバーによる統一的なテーマで構成された論文集のために借り出したものです。私の仮のテーマは当初は小宮隆太郎氏の所説変遷を中心とするものにしようと思いましたが、次第に小宮氏がおそらく批判の対象のひとつとしてきたと思われる日本のマルクス主義的ケインズ経済学あるいは日本の制度学派経済学の歴史的考察を批判的に読み解いていこうと思っていました。図書館から大量に借り出した矢先なので虫の知らせみたいですね、個人的には。

 この日本のマルクス主義的ケインズ経済学あるいは日本の(旧)制度派経済学の流れは、大学で言えば一橋大学そして人物でいえば杉本栄一と都留重人氏にはじまると私は認識しています。この両者の経済学形成はそれぞれ異なりますが、やはり十代の頃にマルクス主義経済学の洗礼をうけていることは共通します。

 で、戦後、この両者は「マルクスとケインズ」(都留)、「マルクス経済学と近代経済学」(杉本)というテーマで経済学にアプローチしていくわけですが、杉本氏の研究プログラムがマルクス経済学の中に「近代経済学」(新古典派、ケインズ経済学など)を包摂していくという試みであってそれが結局は学説の併記以上のものをでませんでした。この点はマルクス経済学の中に近代経済学を包摂するというアプローチ自体が不毛である、という安井琢磨の批判が当を得ていると思います(安井琢磨『経済学とその周辺』の第一論文参照)。

 むしろ安井がその杉本批判の中で指摘しているように、マルクス経済学の特徴である「制度的」分析、いまであるならば比較制度分析的観点こそ「近代経済学」に活かすべき方向であり、近代経済学の中にマルクス経済学の成果を吸収していくという杉本の研究プログラムとはちょうど逆の方向(安井琢磨が承認した方向)が今日までも生き残っている研究の方途のように思えます。もっとも比較制度分析の淵源はマルクスだけではありません。

 この前者の研究プログラムの方に近いのが都留氏の研究プログラムでしょう。ところで都留氏の自伝『いくつもの岐路を回顧して』で、戦後まもないころ理論社から出版された『自然科学と社会科学の現代的交流』が杉本と都留のコラボレーションの記録として注記されていまして、都留氏は下の杉本の発言を引いています。

 「資本主義末期の経済現象を理解するためには、何かの測定の過程までが価格決定の中に入り込んでくるという複雑な問題を考える必要がある」。

 この本にやはり参加していた武谷三郎が、この杉本の発言を量子力学のアナロジーとして検討を加えていますが、もちろん杉本は十分その種のテーマとの類縁性を意識して発言したものでしょう。

 今日まで延々と続く反経済学的な方法論と複雑系なるものへのあこがれを、この杉本発言からひろうのは容易です。

 この『自然科学と社会科学の現代的交流』と、先にあげた杉本と安井琢磨の反論(都留の論文もあり)も収録された同じ理論社の『近代理論経済学とマルクス主義経済学』の両者を読むと戦後の日本経済学の独自性である反経済学的風土の淵源を簡単に確認することができます。

 さて話しは戻って、都留氏のマルクス主義的ケインズ経済学=日本の古い制度派経済学の特徴について述べたいと思います。彼の処女作であり昭和19年に出版された東大での講義『米国の政治と経済政策』には彼のその後60年に及ぶ経済学の萌芽と、そして何よりも強調したいのは今日の構造問題説のすべての雛形を見出すことができることだと思います。

教訓を活かせないのはなぜか?

2005-12-29 | Weblog
 先ごろ、次期FRB議長に指名されたベン・バーナンキは日本の長期停滞の教訓から株価や為替レートの動向を金融政策を運営する上での指標にすべきではないとことある機会で発言している。現在のアメリカ経済ではは石油価格の高騰によるインフレ、そして「住宅バブル」が主要な経済問題にあげられている。これらの問題についてバーナンキと共同作業も多いアダム・ポーゼン(米国際経済研究所上級研究員)は、バーナンキが従来から金融政策の舵取りでは一般物価水準の安定を基にすべきであり、資産価格(株価、不動産価格、為替レートなど)の動向をもとに金融政策の方向を決めるべきではない、と考えていると指摘している。ポーゼンはこのようなバーナンキの基本的な姿勢はFRB議長就任後も当然に堅持されるだろうし、目前のリスクが石油価格の高騰によるインフレであればそれを抑制することに勢力を集中するであろうと予測している。そしてこのような物価水準に関心を払うことに集中して、消費や投資活動に影響しないかぎり資産価格の動向に金融政策を左右させないというスタンスは、実は継承を約束したグリーンスパン前議長の政策観とまったく同じである、ともポーゼンは指摘している。

 「実はバーナンキ氏も(グリーンスパン氏と)同じ考えだ。八〇年代に資産バブルへの対処で道を誤った日本の金融政策を反面教師として肝に銘じていると語ってくれたことがある。したがって、住宅価格上昇が今後のFRBの基本政策に根本的な影響を与えるとはまず考えにくそうだ」(「過小評価されるFRB次期議長 政策透明性は間違いなく増す」「週刊ダイヤモンド」2005年11月12日号)。

 またグリーンスパンもバーナンキもまた「バブル」は「バブル」が崩壊してみないとそれが本当にバブルであったかどうか判別することは非常に困難だとも述べている。そしてこのバブルの判定が難しいこと以上に深刻な問題は、株価などの資産価格「バブル」を潰すために行われた金融政策の積極的運営が、その後の経済を非常に困難に直面させてしまっている、という歴史的な証拠があまりに豊富なことである。そして(そのような積極的な金融政策の運営の有無にかかわらず)仮に「バブル」が崩壊したときには予防的なデフレ回避策が重要であったことも日本の失敗の教訓や、またアメリカのITバブル崩壊後の経験から得ることができる。このようなグリーンスパンやバーナンキらの金融政策運営の智恵は積極的に活用しなくてはいけないだろう(詳細は近刊予定の田中秀臣『ベン・バーナンキ 世界経済の新皇帝』(講談社、2006年)を参照いただきたい)。

 しかしいま経済論壇でヒートしているのは株価「バブル」への懸念とそれを予防するために日本銀行の金融政策レジーム転換への期待である。いわゆるエコノミストの中前忠・斎藤明子「経済教室 消費主導へ構造転換 金利と日本経済 上」『日本経済新聞』12月26日、菅野雅明・加藤出「経済教室 金利の正常化を急げ 金利と日本経済 下」『日本経済新聞』12月28日 などはその典型的な意見を表明している。菅野・加藤論説では、現行の金融政策がマイナスの実質金利を実現しているのでそれが「劇薬」として資産価格の高騰を招くと書いている(もっとも両氏は「バブル」とはせずにバブル手前?のユ―フォリア(陶酔)」状況であると評している)。また中前・斎藤論説は独自の新解釈であるゼロ金利が家計から企業への所得移転を生むという議論の延長として、過剰流動性が不動産投機の形で資産インフレを招くと警鐘を発している。両者の論説は切り口は違うが、株・不動産の資産インフレやバブル一歩手前の状況を改善するために日本銀行に金融政策の転換を促している点ではまったく同じである。簡単にいうとデフレやインフレといった物価水準への配慮よりも資産価格の動向を重視した金融政策の転換を金利水準の上昇を中心とした政策で達成しようというのがその趣旨であろう。

 これらの政策提言はバブルが事前に判定することが困難であることに加え、さらに目標インフレ率やGDPギャップといった通常の政策目標に比較してこれらの資産価格の“最適”水準がどこにあるのか理論的にも経験的にも不明であろう。例えば中前・斎藤論説は「預金金利が3%になれば、家計の一兆円の純金融資産は30兆円の利子所得を生み出す。20%の源泉税、6兆円(税収増)を払った後でも24兆円残る。これは帰属家賃を除いた個人消費240兆円のちょうど10%に相当する」として、3%の利上げを主張しているようである。しかしバーナンキらが指摘しているように家計の消費動向をみる際に名目利子率に注目するのは正当化されない。デフレとデフレ予想が継続している状況での名目金利引き上げは、むしろ実質利子率を上昇させることで消費を抑制させてしまうだろう。彼らの机上の計算では純金融資産の増加が単純に消費支出増に向かっているがそんな保証はどこにもない。また経済全体でみて彼らの主張は資産価格や不動産価格の低下に主眼があるのであるからこの側面から家計の純金融資産は減少するだろう。なぜなら中前・斎藤論説とは異なり家計は企業の株や社債や土地を保有している主体だからだ。

 実はこのような資産価格の現状の動向を「バブル」あるいはそれに近似した状況として認識した上で、金融政策の運営を見直せ(=事実上の金融引き締めスタンス)という主張はエコノミストばかりではなく、政治家、財界人、そして立花隆氏のようなジャーナリストなどにも顕著に見られるようになってきた(http://nikkeibp.jp/style/biz/topic/tachibana/media/051226_kouboh/)。

 しかしバブル崩壊とその後の長期停滞はまさにバブル潰しという資産価格をターゲットにした金融政策の失敗に基づくものではなかったのか? そしてこの15年にわたる大停滞というのはデフレとデフレ期待の定着による消費や投資の伸び悩み、それによる失業や倒産の累増ではなかったのか? なぜ停滞の真因に目を背け、「バブル」懸念論者は目前の資産価格の動向ばかりに目をむけてしまうのだろうか? ひょっとしたらそれは単に理論的心情だけではなく、資産保有のアンバランスを異常に気にするアンバランスな価値観や、または特定のポジショントークがからんでいるのかもしれない。それは今後、興味深い経済思想上のテーマを提供するだろう。

バーナンキのインフレターゲット論の復習

2005-12-05 | Weblog
 ベン・バーナンキはFRB議長指名を受けての上院銀行委員会の公聴会においてグリーンスパン路線の継承を約束した。バーナンキは90年代からグリーンスパン後の金融政策のあり方のひとつとして、インフレターゲット政策を採用すべきだとする論陣を張っていた。この上院での証言では、まさに物価安定と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うためにインフレターゲット導入が必要であると、バーナンキは力強く述べた。このバーナンキ証言に対して、委員会のメンバーからインフレターゲットを採用することで物価安定が優先されてしまい雇用の確保が保たれないのではないか、という質問がだされた。それに対してバーナンキはインフレターゲットは物価と雇用の安定に共に貢献することができると言い切っている。

 インフレターゲットとは、改めて定義すると、インフレ率の一定の範囲(例えば2~4%)におさえることを中央銀行が公表し、その達成のために必要な金融政策を行うことである。ただしバーナンキ自身がかっていったように何がなんでもインフレ率の達成にこだわるような、「インフレ狂のいかれぽんち」に陥ることはない。

 バーナンキ自身は、現実の経済は非常に複雑であり、また不確実性を伴うものであるので、しばしばいわれる金融政策とその政策担当者を「自動車と運転手」の関係に喩えるのは誤りであると述べている(講演「金融政策の論理」2004年12月2日)。なぜなら運転手は自分の走行中におこることがらをかなりの程度予測して運転しているが、金融政策の担当者には四半期先の予想でさえも困難なことが多い。確かに金融政策を通じて中央銀行は経済主体の予想に働きかけることができるが、それがどのように現実の経済に反作用するかを見極めることは実に難しい。しかしそれだからこそこの複雑で不確実な経済において経済主体の予想に働きかける政策の方が、それを考慮しない政策よりも重要になる。なぜなら主体がどのように政策に反応するかの理解を欠いた政策実行は予期しない失敗を引きおこすからである。

 そして経済主体の予想形成とその経済への反作用をしっかりと政策当局が見極めるためには、予想をベースにした政策の実行とともに市場参加者と中央銀行とのコミュニケーションがきわめて重要になる、とバーナンキは述べている。そして中央銀行は市場に対してその政策の目的や予測を伝えることで、市場からのリアクションに対して柔軟に対応するべきである、とも述べている。これらの政策に対する基本姿勢は、彼のインフレターゲット論の中にいかんなく反映されている。

 従来の経済学では金融政策をめぐっては、「ルールか裁量か」という二元論でしばしば議論が行われている。金融政策が長期的には貨幣の中立性が成立していて、実体経済には影響を及ぼさずに、ただ単に名目変数(例えば物価水準)を動かすだけである、という点では新古典派経済学・マネタリスト、そして(ニュー)ケインジアンは一致している。しかし短期的に実体経済に影響を及ぼすことができるのか、いいかえると経済の深刻な変動に対して金融政策は有効な手段になるのかどうかで、新古典派とケインジアンには特に深い対立が残っている。

 現時点で新古典派とマネタリスト、そしてケインジアンは非常に深く混じってしまっており、例えばバーナンキの初期の金融モデルは新古典派的な発想に立脚したRBCモデルを基本にしている。しかし、最近のバーナンキの政策スタンスは経済の変動(産出量ギャップの大きな変化)には積極的な金融政策中心の政策対応をすすめるものであり、その基本はまぎれもなくケインジアンである。そして財政政策よりも金融政策を中心に景気対策を行う点では昔風?の区分ではマネタリストでもあるだろう。

 一般的に新古典派やマネタリストは中央銀行がマネタリーベースを四半期ごとにX%にコントロールする「ルール」に準拠して金融政策を行うことで、中央銀行が戦前の大恐慌時のように大きな経済変動の原因になることを未然に防ぐことができるとし、安定的な経済成長に資することができると考えている。そしてルールを事前に公表することで中央銀行の行動に対して市場が信頼をもつことができることも経済の不安定性を回避するとルール主義者は信じている。それに対して裁量を重視する旧来のケインジアンは産出量ギャップの拡大に対して機動的な政策対応を主張している。裁量主義者はルールのもたらす「信頼」と、大恐慌のような予期しない経済変動に迅速に対処する際の政策の「柔軟性」にはトレードオフの関係があると信じて疑っていない。もし柔軟性を認めれば、そのことがマネタリストの主張するようなマネタリーベースの成長率ルールへの信頼性を損ねるというわけである。

 バーナンキのインフレターゲット論は、この「ルールか裁量か」でいえばまさに彼の経済学の総合的性格を反映するかのように、彼自身の言葉で「制約された裁量」というコンセプトに即したものである。バーナンキの「制約された裁量」としてのインフレターゲット論は、バーナンキらの論集『インフレターゲット:国際的経験からの教訓』やFRB理事としての講演「インフレ目標の展望」(2003年3月25日、ベン・バーナンキ『リフレと金融政策』(高橋洋一訳、日本経済新聞社)に収録)に表明されている。

 バーナンキのインフレターゲット論の主要内容は、1)フレームワーク、2)コミュニケーション戦略 のふたつで構成されている。フレームワークとは、先ほどの制約された裁量と同じであり、金融政策をいかに行うかについての「ベスト・プラクティス」(最善の実践)であるという。

 「制約下の裁量のもとで、中央銀行は、経済構造と政策効果について知識が不完全なことに注意を払いながら、短期的な混乱は無視してでも生産と雇用の安定のために自主的に最善を尽くせます(これが制約下の裁量の「裁量」部分です)。しかし決定的に重要な条件は、安定化政策を実施するにあたり、中央銀行がインフレーーそして、それゆえ国民のインフレ予想??をしっかりとコントロールするという強いコミットメントを維持する必要もあるということです(これが制約下の裁量の「制約下」部分です)」(邦訳39頁)。

 そしてこのようなインフレターゲットは金融政策が通常、半年から1年半ほどの政策ラグを伴って効果があらわれるために、先行して経済主体の予想をリードしていくという性格を色濃くもった期待形成のフレームワークでもある。

 例えば、今日のアメリカ経済の低インフレの好循環が成立している背景には、まさに低インフレ予想がキーであるといえる。その反対のケースが70年代の石油ショックのエピソードである。産油国の石油価格の戦略的値上げによってコストプッシュ型の激しいインフレが起きたというのが定説である。しかしバーナンキは実際には石油価格の高騰が各種財やサービスのコストを引き上げたことによってインフレが多少は悪化したのは事実であるが、むしろそれよりも深刻だったのは家計や企業がFRBの金融引き締めが不十分であることを予想し、それが高いインフレ予想を招き、そして賃金値上げや製品価格値上げに移行した、という見方を立てている。むしろFRBが石油ショックに直面する以前の金融緩和姿勢もそのような経済主体の高インフレ期待を促したともバーナンキは指摘している。

 実は日本でも石油価格の高騰が70年代の「狂乱物価」を引き起こしたとする通説が根強い。しかし小宮隆太郎は「昭和47,48年のインフレーションの原因」の中で日本銀行の石油ショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れがこの「狂乱物価」の犯人であり、日銀の政策の遅れが(小宮はバーナンキのように期待の経路は明示していないが)企業や労働組合などに製品価格上昇や賃上げに走らせた、と述べている。そして70年代末から80年にかけての第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省していち早く強い金融引き締めスタンスを採用したことにあり、それに応じて(これも期待の経路は小宮では不明確なのだが)労働組合や企業も賃上げなどのコストプッシュの要因をおさえるべく、労使協調路線を採用することでこの事態を乗り切った、と書いている(小宮隆太郎『現代日本経済』東大出版会)。

 アメリカの方はボルカー元FRB議長の1979年における断固たる“タカ派”的レジーム転換で、徹底的に高インフレと闘ったことで、その後の低インフレの好循環の基礎ができた、とバーナンキはボルカーの業績を評価している。しかし、このボルカーのタカ派へのレジーム転換が社会的にきわめて重いコストを伴ったことを指摘することをバーナンキは忘れていない。

 ボルカーの行った「ディスインフレ」(高いインフレ率を抑えて低インフレにすること)政策が、積極的な名目利子率と実質利子率の引き上げによって実行され、それが80年代に入ってインフレ率の劇的な低下を見る一方で、それと見返りに10%にせまる高い失業を生み出してしまった。バーナンキはこの70年代のインフレ予想形成の失敗がいかに社会的コスト(失業)を生み出したのか、このような失敗を今後しないためにも経済主体の予想形成が金融政策の欠かせない要素になると力説している。

 第二の要素のコミュニケーション戦略であるが、これはすでに自動車と運転手の比喩の話で触れたように、中央銀行が国民や市場参加者に対して政策目標、フレームワーク、経済予測を事前に公表することで、中央銀行の政策に対する信頼を醸成し、さらに政策責任の明確化と政策の決定過程とその帰結の透明性をはかろうというものである。このことが自動車と運転手の比喩でも問題となった経済の不確実性について、少なくとも政策当事者の行動とそれを予測する民間主体の不確実性を大幅に減少することは疑いがないであろう。

 ところでこの「ベスト・プラクティス」としてのインフレターゲットがアメリカに導入される見込みはどうであろうか。従来、インフレターゲット導入への反対の論拠として、連邦準備制度の目的規定(連邦準備法2A条)とのダブルスタンダードになるという点をあげて反論するのが一般的であった。

 「連邦準備制度理事会及び連邦公開市場委員会は最大雇用、物価の安定及び緩やかな長期金利という目標を有効的に推進するために、生産を増加する経済の長期的潜在性と均衡する通貨及び信用総量の長期的成長を維持する」

 と連邦準備法にある。これはかってのハンフリー・ホーキンズ法の趣旨を反映した条文であるが、議会にもこの雇用と物価の両方への重視が強いことはすでに述べた。このようなダブルスタンダード批判について、バーナンキはここでインフレターゲットの柔軟性を強調し、雇用と物価双方にどんなウェイトづけを行っても首尾一貫したインフレターゲットの援用が可能である、と断言している。バーナンキ議長の意思が強固なことが伺われる。

 今後、アメリカでインフレターゲット導入の議論が高まることは当然に予想される。この議論が高まることによって日本においても同様の議論が高まることが予想されよう。実際に政府の一部では強力にインフレターゲット導入を視野にいれた日銀法改正論議まで行われようとしているようである。すでに私はこのバーナンキ経済学を通して、日本銀行がその政策の説明責任、透明性、そして経済主体の予想形成、ほぼすべてにおいて稚拙な決定の連続であり、また今日においても外的な要因が重なっただけで金融政策のレジーム転換なきまま景気回復がある現状も指摘した。簡単にいえば、丸山真男が過去に指摘した官僚的な「無責任主義」がまだ日本銀行とその利益団体ともいえる日銀シンパのエコノミストに根強い。この無責任主義を打破するためにもインフレターゲットの導入とそれによるリフレマインドの形成が日本社会にいま最も望まれているように思われる。

出口政策が熱い?!(その2)

2005-11-29 | Weblog
お待たせしました。続きです。(その1はこちら

●出口政策の理論的基礎―ニューケインジアンモデル―

 出口政策を理解するためにはやはりそれなりの理論的なフレームで考えなくてはいけないだろう。例えばバーナンキ次期FRB議長は日本のデフレ脱出に、エガートソンとウッドフォードの経済学モデルを援用して、インフレ目標政策と物価水準目標の合わせ技を提案した(ベン・バーナンキ『リフレと金融政策』日本経済新聞社)。以下ではこのエガートソンとウッドフォードのモデルの枠組みをきわめて単純化して「出口政策」の理論的基礎とさらに現在しばしば話題になる日銀預金残高の超過準備問題という技術的な側面についてコメントしてみたい。

 いわゆる「ルーカス批判」以降、政策による期待の変化という問題に耐えられる理論構造をもつことがマクロ経済学に求められきた。そのひとつの解が、いわゆる「マクロ経済学のミクロ的基礎」である。「ルーカス批判」以後、マクロ経済学のプログラムはこの「ミクロ的基礎付け」をRBC(実物景気循環論)モデルとニューケインジアンモデルの大まかふたつの方向で深化してきた。両者はいまでは見分けがつかないほど交じり合ってしまった。例えばバーナンキらの理論では長期においては市場の自律的調整機能を信頼しているため、長期的スタンスをとれば例えば失業が深刻であっても市場の調整能力にまかせる、という選択も最初から排除するものではない。しかしもちろんこのような態度は、バーナンキらの積極的に認めるところではなく、実際問題として不況が深刻であったり、極めて高いインフレが起きているときは政策介入を強くすすめることで社会的コストを避けるというのが、いわゆるニューケインジアンの立場であろう。

●消費者の行動(New IS曲線)

 バーナンキらはまずマクロ経済を考える上で、家計(消費者)の行動、企業の行動、そして金融政策を担当する中央銀行の行動を主要なプレイヤーとして考える。それぞれのミクロ的な行動が経済のマクロ的動向に影響を与えていくと考えるわけである。

 まず消費者は自分の効用(満足)を最大化するために行動する。その際に予算の制約をうけるわけであるが、その制約の変化に対してなるべく消費を平準化(スムージング)して行うことが最適な対応である、とこの消費者は考えているとしよう。消費の平準化というのは、今期(現在)と来期(将来)の消費量をあまり変化させずに似たような量だけ消費し続けることを意味している。例えば今期、クリスマスで家族や恋人にプレゼントをするために消費を増やせば、それに対応して将来の消費を減少させることで、期間を通じてみれば消費は一定水準にあるというわけである。例えば経済全体の景気がよく将来的に家計の所得が通常の場合よりも増加すると期待されたとしよう。このような状況を期待産出量ギャップが拡大したと表現する(あるいは期待拡張ギャップの存在とも表現可能)。将来の所得が増えると期待されるので、この家計はそれを見込んで現在の消費を増やすことで平準化を行おうとするだろう(そうしないと予想通りに将来の所得が増えた場合、将来の消費の方が今期にくらべて過大になってしまうので)。

 この状況は先の例でいえば、会社の成績が良好で、ボーナスの増額が望めるために、クリスマスプレゼントはその将来のボーナスで返済することを見込んで、ローンまでして高めのプレゼントを購入することに似ている。すなわち将来の期待産出ギャップ(期待される将来のボーナスの増加)が現在の産出ギャップ(ローンをすることでの現在所得の増加)に反映されることになる。このように家計の消費行動は「来期の産出量ギャップの予想」に依存している。

 さらに家計は今期の消費と来期の消費をバランスするために現在の実質利子率を参考にするだろう。現在の消費を我慢して貯蓄するには、その貯蓄が経済的に見合うものでなくてはいけない。その報酬として実質利子率が付されるとも考えられる。そしてこの実質利子率が増加すればそれだけ消費者は現在の消費よりも貯蓄を選ぶだろうし、また反対に実質利子率が低下すれば将来の消費よりも現在の消費を選ぶであろう。また家計のローンの負担も実質利子率が低下することで軽減され、そのことがローン契約や耐久消費財の購入を促すことが知られている。すなわち消費者の行動は「今期の実質短期利子率」に依存している。

 ニューケインジアンの経済モデルではこのような消費者の行動をIS曲線(New IS曲線)と表現して現在の所得のあり方(産出高ギャップ)に、今期の実質短期利子率と将来の産出量ギャップが影響を与えると考えるわけである。ちなみに伝統的なIS曲線と同じように、今期の実質短期利子率と今期の産出量ギャップとの関係は右下がりの曲線に描くことができる。

●企業の行動(ニューフィリップス曲線)

 次に企業の行動をみてみよう。ニューケインズ経済学では企業の価格設定行動も経済環境の変化に対して緩慢にしか変化することはせず、そのため価格の粘着性という現象が一般的であると主張している。この価格の粘着性を説明するためにケインズ経済学は企業の代表的なイメージとして「独占的競争モデル」を採用する場合が多い。経済学の想定する市場の典型的な姿は、完全競争と独占である。完全競争市場では、多数の売り手と多数の買い手が、お互いに市場価格をシグナルとして販売・購入活動を行っている。価格が資源配分を有効に行うと想定しているので、この完全競争市場では売り手と買い手はプライステイカーとして行動する。他方の独占市場では、売り手もしくは買い手ないし双方が市場の価格をコントロールする力を保有しており、独占市場では完全競争市場にくらべて、価格はより高く、取引される財・サービスの量は少ない。独占市場は完全競争市場に比べると資源の非効率的な配分が行われている。

 しかしこのような両極端な市場の姿よりも、次のような市場のあり方の方が一般的ではないだろうか。例えば近所の本屋にいけば、さまざまなビジネス雑誌が販売されている。そしてそれぞれのビジネス雑誌は、特集する記事が異なったり、価格も各出版社が独自色を打ち出してライバル雑誌に負けないとしているように思える。またどの出版社でも自由にビジネス雑誌を発刊することができ、自由にそれを辞めることができる点でも、完全競争市場の特徴を持っている。

 このようなケースは、なにもビジネス雑誌だけではないだろう。私たちは、完全競争と独占の両方の特徴を持った様々な財・サービス―例えば、書籍、映画、パソコンソフト、レストラン、コンビニ、ケーキ、車など―を日常的に目にしている。経済学では、このような財・サービス市場を「独占的競争市場」と名づけている。独占的競争とは、同質ではないが類似した財・サービスを売る多くの企業が存在する市場だということができるだろう。独占的競争市場では、たくさんの企業が同じ顧客を相手に競争を繰り広げている。その一方で、個々の企業が、他の企業と異なる製品を供給している。これを製品の差別化という。また同時に参入・退出が自由である。

 完全競争市場では市場で決まった価格で販売すればすべての財は売りつくされる。他方で独占的競争市場では、企業は「右下がりの需要曲線」に直面している。これは企業が価格をコントロールできるが、もし価格を上げれば需要は減り、下げれば需要が増加するという市場環境に直面していることを意味している。この結果、この独占的競争企業は若干の独占力を有しているために、限界費用を超える価格を自ら設定することができる。この限界費用というのは、財やサービスを追加的に一単位製造するときに要する費用のことである。経済学ではこの「限界」的な単位で消費者や企業の選択を判断する。例えば、企業は売り上げ全体の動向と価格をみて供給を決定するのではなく、新たに一単位生産するときのコストとその販売価格の大小関係で意思決定を行う。

 例えば『冬ソナ』のDVDを一冊追加的に生産するコスト(=限界費用)が1000円だとすると、この独占的競争企業は5000円で市場での販売が可能になるということである。限界費用と価格との差額は、この企業にとっての「マークアップ」(超過利潤とイメージしてもいい)を得ることが可能であることを意味している。この超過利潤の獲得を目的にして、多くの企業がこの市場に参入する。もちろん独占的競争企業は製品の差別化によってこの熾烈な競争に打ち勝とうとするだろう。独占的競争市場では、このような熾烈な競争の結果、長期的には利潤がゼロになることがしられている。そしてこのような熾烈な競争に生き抜くために、企業は製品の差別化をはかり消費者の需要を喚起し、その有効な手段とし広告やブランド戦略などを展開しているのである。

 ところで独占的競争企業は価格設定を自ら行うことができるが、市場の動向に合わせて絶えず価格を変更しているわけではない。価格の変更に伴うコスト(メニューコスト)が発生するために頻繁に需要の変化に応じて価格を修正することはしない。そのためメニューコストを原因とする価格の粘着性が広く観察される。また価格を改訂する企業が増加するにしたがって、この価格の粘着性は緩んでいくと考えられている。この価格の変更に企業は今期の産出高ギャップをまず参考にする。これはいままでの議論では需要が供給よりも多いと考えられるならば企業は価格を上昇させるように改訂するだろう。また他方で将来のインフレ率の予想も重要である。なぜなら上記のマークアップは名目額よりも各企業はその実質値に注目すするからである。将来獲得したいと期する利益に将来のインフレ率の動向が大きくかかわるわけである。まとめると企業の価格改定行動は、今期の産出高ギャップと、来期の期待インフレ率に依存している。経済全体でみれば現在のインフレ率は期待インフレ率と産出高ギャップに影響される。この関係を表現したのがニューフイリップス曲線という。

●中央銀行の行動(テイラールール)

 さらに中央銀行の金融政策ルールをテイラールールの形で導入するのが一般的である。ジョン・テイラーはグリーンスパン率いるFRBの金融政策の行動を「テイラールール」という形で表現することに成功した。テイラーによるとFRBは産出量ギャップ(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)とインフレ率に反応して利子率を設定しているというものである。テイラールールのもっとも古典的な形式は産出量ギャップとインフレ率を均等に重きを置いて考慮する政策スタンスを採り入れたものとなっている。

名目利子率=0.01-0.5(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)+0.5×目標インフレ率

である。このテイラールールを用いると、産出量ギャップが0.01、目標インフレ率を0.02だとするとFRBは0.5%利子率を引き下げて、景気の後退を防ぐことがわかるだろう。このテイラールールはグリーンスパン率いるFRBの動きをかなりうまく説明することができるといわれている。

 ところで中央銀行は経済にふりかかるさまざまなショックから国民の経済厚生を守るために行動するとみなされている。いま国民の経済厚生を最大化するような中央銀行を考えて、この中央銀行が考えている経済厚生の損失の最小化が、そのまま国民の経済厚生の損失の最小化になると考えるとしよう。中央銀行は国民の経済厚生の最大化(あるいは損失の最小化)をきちんとフォローできると考えるわけである。

 このとき中央銀行の経済厚生を最小化するための目的関数を「損失関数」といい、これは簡単にいうと今期のインフレ率と今期の産出高ギャップを足したものである。この「損失」を下の(a)(b)(c)のもとで最小化するのが、この経済にとってもっとも望まれる=最適と考える。

(a)New IS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存する 
(b) ニューフィリップス曲線では、今期のインフレ率が(1)今期の産出量ギャップと(2)来期の期待インフレ率に依存する
(c) 中央銀行は目標名目短期利子率を決めるにあたって(1)今期の産出量ギャップ(2)目標インフレ率を参照する。

 ところで上の意味での最適な中央銀行の金融政策を考える上で重要なものが「コミットメント」である。これは中央銀行の金融政策の目標達成への力強い政策的態度をしめす言葉といえる。具体的な目標について責任を持って期間内に達成することを約束することであ。例えば未達成の場合には具体的な形で責任をとる(ペナルティをとる)と考えて同じで効果を発揮する。このコミットメントを行うことが経済で活動するさまざまな主体(家計や企業や市場関係者)の予想に影響を与える。

 例えば、先の(a)のIS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存していて、さらに来期の産出量ギャップは(1)'来期の実質短期金利と(2)'来来期の産出量ギャップの予想に依存していて以下同様に…となると、結局、今期の産出量ギャップは将来の実質短期金利に依存することになる。ニューケインジアンは産出量ギャップの変動を経済変動で重視しているので、これは将来の金融政策のあり方(=将来の実質短期金利をどうするか)への予想が決定的に重要になるということになる。

 「産出量ギャップ」という表現が苦手な読者は、消費者でいえば(借り入れのケースを含む)所得、企業でいえばマークアップと考えてみればいいだろう。いまのサラリーの額や企業の利益が中央銀行の現在から将来に向けての政策態度に影響されるというのがニューケインジアンモデルもわかりやすい含意だ。

 このような将来が現在を規定するという考え方をフォワード・ルッキングという。このようなフォワード・ルッキングな経済構造では、経済主体の予想に影響を及ぼすコミットメントがいかに重要になるかが分かるであろう。

●出口条件を考える

 さて出口政策の条件を考えるには上の(a)(b)(c)のもとで損失関数が最小化するように計算をしなくてはいけない。しかしここでは直観的な説明を行う。渡辺努・岩村充氏の『新しい物価理論』(岩波書店)で用いられた仮設例を利用したい。この仮設例の面白いところは上記までは顔を出していない長期利子率の動きをフォローすることができることである。現在の出口政策にかかわる議論が長期利子率のオーバーシュート(財政危機の拡大?)への懸念にあることを思えばその重要性がわかるであろう。ちなみに以下では金利の期間構造モデルを採用して、長期利子率は将来の短期利子率の予想値に依存していると考える。すなわち単純化して足元の長期利子率は、足元の短期利子率と次の期の短期利子率の単純平均とする。また産出高ギャップは長期利子率に反応すると考える。あとでわかることだが、長期利子率は短期利子率の予想へのコミットメントに誘導されて決定されるのでいままでの議論と同じである。

 いま三期間(0,1,2期)を生きる経済を考えよう。第0期はデフレで流動性の罠に陥ってるとする。現代版の流動性の罠をバーナンキらは名目短期利子率がゼロ(=利子率の非負制約)であると考えている。そして第1期と第2期では経済が回復しているとする。このとき渡辺・岩村の仮設例をそのまま採用して、利子率の非負制約を度外視して(すなわち仮想的にマイナスの名目利子率がとれると考える)、第0期でのデフレを回避するために必要な名目短期利子率はマイナス4%、そして景気回復後(1期と2期)の名目短期利子率は4%としてておこう。すると第0期の長期利子率は、0期と1期の短期利子率の平均なので0%、第1期は4%、2期も4%になる。

 しかし実際には名目利子率の非負制約があるために、第0期での短期利子率は0%が下限となる(=ゼロ金利制約がバインディングしている、という)。第1期は経済が回復しているので通常ならば4%に短期利子率を誘導するのが本来ならば望ましい。しかしそうなると第0期の長期利子率が2%になるので経済を回復させる長期利子率の0%には届かず、第1期の経済回復が望めなくなる。そこで中央銀行は第1期の短期利子率も0%にするようにコミットすることになる。そうなると第0期の長期利子率は0%と産出高ギャップを回復させるのに十分な水準になる。第2期の短期利子率は4%で、このとき第1期の長期利子率は2%、そして第2期の長期利子率は4%になるだろう。

 すなわち景気回復した第1期においてもこの流動性の罠のケースでは、ゼロ金利政策を続けることが望ましいといえる。これは第1期の金利政策が、第0期の状況の影響を受けるので「歴史依存性」をもつと表現されている。すなわちこの仮設例は、先の(a)(b)(c)のもとで損失関数が最小化したときに導きだされる最適な金融政策のルールをわかりやすくしたものなのだがそこでは実体経済に影響を与える長期利子率のコントロールには、将来の短期金利に関する予想をきちんと中央銀行がコントロールする(コミットメントを行う)ことが重要だとする結果がでてくるわけである。ところでこのような将来の短期金利のコントロールで長期利子率に影響を与える「間接的」な手法は、現在の日本銀行の政策をかなりうまくフォローしているだろう。

●現在の量的緩和解除早期論は日銀のレジーム転換の不在が原因

 ところでこの名目利子率の非負制約のケースとその制約のないケースのそれぞれの第1期の長期利子率を比較すると、前者が2%で後者が4%になる。つまり制約のある場合(すなわち景気回復後でもゼロ金利政策を続行する場合)では、第1期はインフレの方向にオーバーシュートしている可能性がでてくる。たとえば現在の日銀の政策態度のように「安定的にゼロ%以上」という不明確なコミットと政策委員で近時力をましつつあるゼロインフレ以外は認めない態度からは、短期利子率をすぐさま事前に引き締めるようにコミットする、というこが起こりかねない。いや、それが現在の日銀の量的緩和解除早期論に勢いをつけていることなのかもしれない。

 バーナンキらは、出口政策を考える際には、従来のインフレ目標の厳格な適用ではなく、物価水準ターゲットとの併用をすすめている。つまりこのようなインフレ率のオーバーシュートを許容できるからである。また日本でも岩田規久男、安達誠司、伊藤隆敏らが同じ政策を推奨している。つまり日銀と現在の政府との量的緩和早期論の是非をめぐる対立の裏には、実はこのような日本銀行の本格的なデフレ脱出のフレームワークの欠如=レジーム転換の不在が色濃く刻印されているのである。

●レジーム転換なき日銀当座預金残高目標論の危険

 実際にはデフレ脱却を確実にするレジーム転換なきままの技術論として量的緩和解除を語るのがいかに無益なことかは、前回で示唆したつもりである。またレジーム転換なきままの量的緩和解除は日銀の抗弁にかかわらず金融引き締めスタンスへの逆レジーム転換ともみなされるかもしれない。もちろん日銀当座預金残高の目標額をどう技術的に処理するかという論点をつめるのは重要ではある。例えば、『日経公社債情報』の「日銀ウォッチ」10月31日で暗黒大陸氏が興味深いことを書いている。通常、量的緩和解除というのは上記した将来の短期名目利子率を事実上ゼロにコミットする効果(=時間軸効果といわれる)が剥落していく過程である。すなわち当座預金残高を段階的に引き下げるとともにそれと平行して時間軸効果が弱まっていく(=イールドjカーブの正常化)。そして超過準備がちょうどゼロになるときに、従来の利子率操作のターゲットである無担保コールレートを0.15~0.25%程度に引き上げる、というのが望ましいフレームであるという主張である。私もこのような意見には賛成である。例えばこのような主張は先にカミングアウト?したと評価されている植田和男氏の日本経済新聞「経済教室」での論説(出口政策を展望(上)量的緩和解除は遅めに2005/10/27, , 日本経済新聞 朝刊 )でのいわゆる「ビハインド・ザ・カーブ」論とほぼ同じ趣旨であろう。

 しかし現状では、暗黒大陸氏によれば、①残高目標をを段階的削減+超過準備ゼロその後でもゼロ金利維持、そして利上げ、あるいは②残高維持しながら市場との対話で時間軸効果は剥落(=イールドカーブ正常化)、そののち一気に超過準備ゼロ という選択肢が日銀よりのエコノミストたちに主張されている、という。①は量的緩和解除=時間軸効果剥落という定義からいえばゼロ金利にこだわる理由が意味不明であり、ただ単に日本銀行が量的緩和解除をした後でも金融緩和を継続している、という方便に使われる可能性が高い、と暗黒大陸氏は厳しき指摘する。②は佐藤ゆかり氏らが主張しているものとおもわれるが、一気に超過準備をゼロにすると猛烈な売りオペを敢行しなくてはならず、そのような金融引き締めは不可能である、としている。逆「ケチャップ」政策であろうか。

 いずれにせよ、レジーム転換なきまま、デフレ脱却が安定的に可能なのか、また(幸運な外的条件の変化がないとはいえない)可能だったとしてもその後の金融政策の明白な目標が不在でいいのか、出口政策の今後に熱い視線が注がれるであろう。

アイドル・エコノミックス

2005-11-21 | Weblog
 というわけでこのノーガードの初期にエントリーしました山田優嬢について勝手きままに書いた原稿が原因で最近はたま~にアイドルネタでの仕事依頼がきてかなり戸惑うのですが、今回は「出口政策」の続きの前に一休みで、そんな社会の需要??にプチこたえてアイドルネタを。某個人ブログでは頻繁にこの手の話題を書いて、おまけに本まで出してしまいましたが、ここであんまりやると編集部に怒られて 笑 しまいますので自粛モードの展開で。(^^;)

 最近のアイドルの二大潮流は「萌え」と「癒し」ではないだろうか。勢いからいうと前者により注目が集まっている。エコノミストの書いた本でも森永卓郎氏の『萌え経済学』(講談社)がブレイクしている。「癒し」の方はわりと簡単に万人がイメージできる日常語であるが、まだまだ「萌え」の方はそこまで流通してはおらず、森永氏の著作でも丁寧に定義が与えられている。同書によると、「萌え」はアニメのキャラクターに恋すること、と定義されている。そうなるとネットの一部で根強いファンを獲得しているクリステル先生などは現実すぎて「萌え」ではなくなってしまう。いや、現実の女性への恋愛に心奪われることは「萌え」道?からいうとそれだけで失格なのかもしれない。だがクリステル先生であろうが、山田優嬢であろうが、私や読者の大多数にはヴァーチャルでしかありえないので、その意味ではアニメキャラと同じように「萌え」消費の対象なのかもしれない。


  いきなり定義論でわき道にそれてしまい帰ってこれなくなりかけたが、おそらく「萌え」と「癒し」は、両方ともに日本の長期停滞に苦しんできた人たちに憩いのひとときという心理効果を与えてくれただろう。例えば、アルバート・ハーシュマンは公的な社会参加に挫折すると、国民の多くは私的消費により傾斜し、そしてまた公的な社会参加がより可能になると私的な空間からでてくるという興味深い消費循環論を説いている。「萌え」や「癒し」は私的消費の側面が濃厚であることから、これらの特徴をもつアイドルが選好されるということは、日本の長期停滞による社会経済の挫折が反映しているのかもしれない(参照:アルバート・ハーシュマン『失望と参画の現象学』法政大学出版会)。

 阪神の優勝効果や韓流ブームの経済効果と同じように、アイドルの生み出す経済効果(以下ではアイドルサービスと呼称しよう)も無理やり計測すれば何がしかの数字がでるかもしれない。もっとも経済全体の名目所得を一定にすれば、ある財・サービスへの消費減少のみかえりとして、アイドルサービスの消費増加があるだけであり、この種の部分均衡的な計測が常に疑問であるのだが。

 もちろんアイドルサービス自体には景気回復を生み出すものを期待することはおよそ無理がある。日本のアニメが国際的に評価が高くなり、秋葉原がオタク都市化しても、そのような新産業が長期停滞を打破することはなかなか難しいだろう。ただし景気が回復すればそれに伴って消費が増加することでアイドル市場の規模も膨らみ多様性も広がる。そしてアイドル市場の成長がまた消費者の嗜好を刺激して消費の増加をさらに生み出す…という好スパイラルがおこり景気回復の足取りを確かなものにする一助になるかもしれない(ならないかもしれない)。

 もちろん「萌え」とか「癒し」アイドルのもたらす心理的な効果は日本経済の見えざる厚生を高めたのかもしれない。この種の心理的効果をうまく拾う指標はまだ経済計測で一般的ではない。だがいずれにせよ、長期停滞で倒産・失業の増加、さまざまな社会不安が蔓延していてはその心理効果もネットの効果としては大したものではないだろう。ただアイドルがブレイクすることでCMや関連商品などの売り上げが伸びることで直接的な経済利益を生み出す。そして特定のアイドルにCM出演が集中することで規模の経済が発生し、巨大な利益を生み出す相乗効果が期待できるかもしれない。

 さて現在の日本は景気回復期にある。このまま日本銀行や財務省が逆噴射をかけてこなければ、そして政府が日銀とともにリフレ政策をとれば日本経済の将来は明るいだろう。そして景気回復とは将来の経済成長率が上昇することを予想する人が多くなるということだから、将来性に富んだ陽性の正統派アイドルが求められる。昨年、映画『世界の中心で愛を叫ぶ』で注目され、現在8本のCMを抱えている“CMの新女王”候補 長澤まさみ嬢などはそのイメージにぴったりで、彼女をみていると上り坂で激励をうけている気分になるのは、私がやや疲れた中年だからだろうか、そうですか、いやそうですね(--;)。

長澤まさみ公式ホームページ

 いま「国民的アイドル」というサービス財を楽しめる、あらゆる世代や性別を受容している空間がない。かなり昔であればテレビがある家庭の居間や食卓がその役割を果たしただろう。ネット社会が発達しても、眞鍋かをり嬢のように「ブログの女王」という形で似たような趣味の人たちを取り込めることができるが、眞鍋嬢を女王と認める人たちとヨン様をアイドルとする中高年女性とではほとんど交わることはあるまい。ましてや擬似マンツーマン性(個人の日記を読んでる個人の私)がやたらと強いブログでは、嗜好の細分化に柔軟に対応してしまうことで、その消費形態も多様になってしまい、統合化された国民アイドルを生み出すことが難しい。例えば私はクリステル先生のファンで例のサイトも毎日チェックしているし 笑 他方で遠野凪子嬢の「癒し」系ブログもみているのだが、両者ともにコアなファン対応であり、その消費欲望を満たすためにこれらのブログは存在する。

遠野凪子ブログ

 だが消費が好調になり、アイドル市場が成熟してくるにつれて、多様なアイドルが輩出されてくるだろう。またいわゆる正統的なアイドル(70年代であれば山口百恵やピンクレディー、80年代だと松田聖子や小泉今日子ら)を生み出してきたのは堅実な成長が実現していた間であった。それに対して、経済が異常に過熱したバブル期や90年代の長期不況期には正統派のアイドルは衰退し、反対に「改革を構造する」かのような奇妙なアイドルが乱立してしまう。それは先のハーシュマンの消費の循環論と同じ構図である。例えば、いわゆる「勝ち組」「負け組」という経済格差という社会イメージに基づいた経済的勝者を過剰に演出したような、いわゆる「セレブ」的なアイドルがもてはやされるかもしれない(例えば叶姉妹嬢たち、そしてこの補完財としての中村うさぎ嬢なども出現する)。

 「萌え」も「癒し」も「セレブ」も国民的な消費対象というよりも、やはり私的な消費対象として表れている。日本の経済が本格的に復活するかどうか。その分かりやすい指標は平均的な感性から支持されるような正統派アイドルの出現に象徴されるかもしれない。私はどちらかというと正統派よりも上に書いた諸ブログアイドルの方がすきなのだが…。

出口政策が熱い?!(その1)

2005-11-16 | Weblog
 福井総裁が量的緩和解除は来年春、と匂わせた発言に反応するかのように、政府・与党から日銀の早期量的緩和解除をけん制する発言が相次いででてきた。中川政調会長は日銀法の改正を政策カードでちらつかせて、日銀のデフレ対策が不十分であることを批判している。また安部官房長官もそれに呼応するように、日銀が政府と協調して財政再建のためにもデフレ脱却して、自然増収での財政基盤の健全化への寄与が実現されるべきだとこれもまた日銀を牽制した。この種の発言はいずれもなにか具体的な政策に直結しているわけではないので、それ自体どうこうというわけではない。しかし日銀の出口政策=量的緩和解除をめぐる議論は今後も政治的な話題として沸騰していく可能性があるのかもしれない。

 そもそも出口政策をめぐっては、1)前提条件であるデフレ脱却をし、0%以上の安定的なインフレ率を維持できるのか? 2)出口政策の技術的な難しさ の二点から問題が提起されている。最初の点については、『日経公社債情報』10月24日号で匿名記事(末吉名義の記事)「日銀ウォッチ デフレ脱却論議の謎」において、きわめて説得的な議論が行われている。日銀がインフレ率の目安として採用している日本式コアインフレ(生鮮食品を除く消費者物価指数)の前年比上昇率はゼロ近傍であり、このためデフレ脱却は難しく、デフレ脱却のためにはインフレ目標政策が一段と必要である、という趣旨の論説である。

 この主張の背景には、伝統的なCPIの上方バイアスの存在(すなわち1%程度物価がインフレにふれて計測されてしまう)と、さらにコアインフレ率をおしあげているのは石油関連商品であり、この上昇はピークアウトをむかえる可能性が大きく、そのインフレ率に与える押し上げ効果は0.4%程度にとどまると予測されること。そしてこの石油関連商品の影響を除外すると、インフレ率はマイナス0.5%程度であり、さらに上方バイアスを考慮にいれるとマイナス1~1.5%程度となる、と末吉論説は指摘している。これは非常に周到な分析であり、今日の日本経済が決してデフレ脱却を確実にしているわけではなく、むしろ不確実なものであることを示している。

 さらに安達誠司氏の『デフレはなぜ終るのか』(東洋経済新報社)では、1930年代のアメリカのデフレ脱却時の出口政策からの教訓をもって、今日の出口政策論議に警鐘を鳴らしている。安達氏によれば、当時のアメリカは財務省主導によるドルの減価政策により「レジーム転換なきリフレ」を実現した。このレジーム転換とは、中央銀行であるFRBがデフレ脱却のために従来の金融政策スタンスを転換して、超金融緩和政策にコミットするというゲームのルールの変更として理解される。しかしこのようなレジーム転換がない、すなわち従来の事実上のデフレ継続的な金融政策のスタンスのままに、この「レジーム転換なきリフレ」に直面したため、FRBの政策当事者には早急な出口政策の模索(当時の異例な低金利政策の放棄、超過準備がリスクマネーとして高インフレに転じる要因になることへの懸念、さらに株価の急騰をバブルとする警戒感が存在していたことの半面といえる)があった。そしてインフレ率はプラス推移であったにもかかわらず、FRBの早急な出口政策の採用によりふたたびデフレに戻ってしまったと指摘している。

 安達氏によればこのようなデフレに舞い戻る経済の脆弱性を克服するのには、中央銀行のデフレ脱却にむけたレジーム転換へのコミットの必要、さらに実現されたインフレ率という「変化率」への注目だけではなく、それ以上に「水準」が重要であるとしている。本ブログでの「バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ」(10月28日)で紹介した物価水準ターゲットの重要性である。すなわちデフレに陥る前のインフレ率(たとえば1%や2%)が現在も継続していたらどうなるのか、という物価水準経路を考えて、その経路と現実の物価水準の経路のギャップを解消していくという考え方である。

 日本の現在の景気回復とデフレスパイラル的状況からのとりあえずの脱出は、2003年から2004年初頭にかけての財務省の空前の為替介入と(予期せざる?)日銀のマネタリーベースの増加がタイミング的に数度重なるという「非不胎化介入」の結果である(詳細は田中秀臣『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)参照)。すなわち日銀としては明確なレジーム転換が不在であり、あくまでも財務省主導という点で、戦前のアメリカのケースに近似していると、前掲の安達氏は指摘している。これは有益な歴史からの教訓である。

 そのため今日の日銀はまさに戦前のFRBと同じように、出口政策に関わる発言において、「インフレ心理」への懸念を示したり(まだデフレなのに!)、インフレ「率」にのみこだわり、前記したようなリフレ過程には関心を示すことはまったくない。また日銀の政策に理解を示す衆議院議員の佐藤ゆかり氏のように「中小企業や家計部門をオーバーリスクテイクの状況から守ることが大事で、量的緩和政策は速やかに解除すべき」「日経公社債情報」(10月31日)とコメントしているのも、戦前と同様に超過準備が高インフレや資産価格の急騰(バブル?)をもたらすことへの「懸念」と基本的には同じものであろう。

 本格的なリフレ政策の採用と連結しないかぎり、デフレ脱却の道のりはかなり不安定なものであることは否めないのではないか。そして出口政策採用への日銀の現状の早すぎるコミットへの懸念は募るばかりである。(その2)では、仮にデフレを脱却(不安定であってさえも)した場合に採用されると考えられるいくつかの出口政策について考えてみたい。

『二〇〇五年体制の誕生』田中直毅著(日本経済新聞社)

2005-11-15 | Weblog
 論壇でもいち早く時代の雰囲気を伝えることに成功している田中氏の新作である。話題はやはり今年度の最大の政治事件であった先の小泉政権の衆議院選挙での歴史的勝利をめぐる評価である。田中氏はこの勝利を「二〇〇五年体制」の成立と表現している。その直前までの政治体制は「五五年体制」の継続であり、その特徴は旧田中派支配による族議員(郵政、道路、農水、文教、厚生の「五族協栄」)とその支持母体となる利益集団、そしてそれらを束ねる派閥とその長の複雑な利害関係のネットワークである。それが今回の選挙結果によって、小泉首相への権力の集中という一元的な政党運営の構図ができあがったとする。そして有権者もひとつの「政策、政党、首相候補を選ぶことが可能になり、小選挙区制の特徴を活かした論点の明確な選挙が可能になったと肯定的な評価を下している。

 田中氏は「二〇〇五年体制」の実現を直接もたらしたものは、投票率の上昇であり、それを可能にしたのが有権者の消費者としての成熟であるとしている。例えば有権者は現状の「物価の低位安定」すなわちデフレを「明確に評価してきた」、このデフレは一国の金融政策によって大きく左右されるものではなく、「グローバライゼーションと競争と技術によって決まるもので」(35頁)あるという評価を、有権者がもっていたと田中氏は解釈するわけである。田中氏はこのような強い意味での「良いデフレ論」を全面に出し、有権者のこのようなデフレへの支持を「消費者としての成熟」と呼んでいる。そしてこのような消費者の成熟や消費者側の論理を妨害するのが、いままでの政治の仕組みであり、それは「供給者の論理」であったとする。「供給者の論理」とはなにか判然としないが、上述の論旨でいえば、それは一国の金融政策が物価水準に左右し、なおかつデフレが国民生活を悪化させることを認めるような論理なのであろう。

 このように田中氏の主張は「良いデフレ」論をバックとして、国民の投票行動をその点から評価することにつきる。ところでこの田中氏の主張には無理がある。小泉政権の主要政策課題には「デフレ脱却」が大きく掲げられており、その実現は選挙前では郵政民営化、三位一体改革などと並んで政権の主要な未達成の課題であった。当然、小泉政権に支持を与えた有権者は、田中氏の説明の枠組みにあえてのれば、「消費者としての成熟」からデフレを悪としてその退治を求めたと考えたほうが素直な解釈である。田中氏の論旨はこの有権者の成熟論について奇妙な歪みをもっており論旨が破綻しているように思われる。なお現在のデフレ=田中氏の表現の「物価の低位安定」(低位安定の利益をすでに有権者は享受しているので、これは低インフレではなくデフレのことであろう)が良いのではなく、「悪い」理由は、「消費者の成熟」が支持したであろう現政権の「構造改革」の一部として以下のHPにその弊害がそれなりに説明されているので参照されたい。
http://www.keizai-shimon.go.jp/explain/progress/deflation/index.html(注)

 もちろん田中氏の本から離れれば、小泉政権の実際に行われているという意味でのデフレ対策への批判的評価、そもそもなぜ「構造改革」の中にデフレ対策があるのか、などへの批判を私は抱いているがそれはここではふれない(野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)、田中秀臣『経済論戦の読み方』講談社現代新書などを参照されたい)。ここでは田中氏がなぜデフレ対策だけを小泉政権の政策メニューからはずし、政権が公約してもいない『良いデフレ論」への支持として有権者の今回の行動をとらえたのだろうか、という私からみて納得できないところを明確にできればそれでいまのところは十分である。

 本書はいままでの「供給者の論理」を打破して、「有権者満足の政治」を目的とすべきである、としているが、日本の経済と有権者の生活を脅かしているデフレの弊害を評価することに失敗しており、著者の抱く有権者の満足と現実の有権者の満足との間には深刻な「構造問題」が控えている気がしてならない。

(注)それにしてもこのサイトの「デフレの何が問題か」はまだしも「デフレの原因は何か」は支持しがたいものがある。デフレの原因は日本銀行・政府の政策の失敗(金融政策の事実上の引き締め継続が主因)であり、他の要因は基本的なものでもなく、複合的なものとするほどの重みさえもない。

バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ

2005-10-28 | Weblog
 すでに既報の通り、ブッシュ大統領はグリーンスパン氏の後任としてベン・バーナンキ氏をFRB議長に指名した。バーナンキ議長(来年二月就任予定)はかねてから日本の長期停滞の処方箋を様々な角度から提案してきた。どんな提案だっただろうか、その主要点を彼の講演を訳した『リフレと金融政策』(高橋洋一訳 日本経済新聞社)を利用してみておこう。

1 物価水準目標の提言

 この提言は、日本のデフレ(一般物価の継続的下落)をふせぐための政策である。日本の消費者物価指数でみてデフレが始まる1998年を基準年にして、デフレではなく1ないし2%のインフレがその後、かりに毎年継続したときの物価水準経路を考える。例えば2%の物価水準経路と実際の物価水準経路のギャップが、デフレのもとでは当然存在していることになる。この両者のギャップを埋めていくことを目指した政策である。バーナンキと同じように物価水準目標を採用した岩田規久男編著の『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社)を利用すると、4%のインフレ経路(毎年、4%のインフレ率を実現していく)を目指すと、約7年後の2010年近傍で目標達成することになる。つまりこの期間までがリフレ期間と考える。そして目標達成後には、今度はインフレ目標として1~3%を採用する。物価水準目標によるリフレ過程とその後の物価安定を目標としたインフレターゲットのあわせ技にコミットすることを中央銀行(日本銀行)が明確に、市場に伝えることで公衆の期待に働きかける政策である。

 つまりここではリフレ期間内の物価水準目標と、その後の長期的なインフレ目標の二段構えになっているわけである。これはインフレ期待を形成する上でも異なる情報(短期と長期のインフレ率についての情報)を市場関係者に与えることになる。エガートソン&ウッドフォードの論文(下記参照)では、もしこの物価水準目標が所定期間内に達成困難になるならば、中央銀行は翌期以降一層の努力を義務づけられる。そしてこの「一層の努力」へのコミットが、国民にデフレからインフレ期待への転換を促す、と彼らとバーナンキは考えるている。そうして(名目金利一定すなわちゼロ金利でも)実質金利を低下させ、総需要を刺激する、と考えるわけである。

http://www.columbia.edu/~mw2230/BPEA.pdf
(エガートソン&ウッドフォードの論文)

 この「一層の努力」に中央銀行が拘束されることで、日本の長期停滞の原因である実質金利の高止まり(実質金利=名目金利ー期待インフレ率 なので名目金利がゼロであってデフレ期待なので実質金利は高止まりする)を解消する政策をバーナンキは推奨しているわけである。そして、「一層の努力」の中味として、ゼロ金利の継続や長期国債オペの買い切りを国債オペの買い切りを主張した。

2 財務省(政府)と日銀の政策協調(アコード問題)の提言

 政府が日銀のバランスシートの悪化を防止(そもそも日銀のバランスシートの悪化は問題ではないが)、それとクロスする形で、日銀は政府の減税と見合う形での長期国債の「買い切り」オペをすることである。恒常所得仮説に従えば、民間主体の消費や投資は増加することが期待される。リフレ過程では財政赤字問題の解消にも一定の寄与をはかることが可能であろう。この点についてのバーナンキの発言を前掲書から引用しておこう。いまや政策論争の大きな関心が財政「危機」問題に引き寄せられてしまっているだけに重要であり、バーナンキの提言がリフレなき財政危機の解消の困難性とそして無益な点も明らかにしていると思うからである。

 「たとえば、日本銀行による国債の買い入れ額の増加と明らかに一体となった家計と企業に対する減税を考えてみてくださいーーしたがって減税は結果的に通貨創造によってファイナンスされます。さらに、日本銀行が、物価水準目標を公表することによって、景気回復にコミットしたと仮定します。そうすると、マネーの増加の大部分あるいはすべてが恒久的だとみなされます。 略 日銀が減税額に等しい額の国債を買い入れるためにーー将来の増税を示唆するような現在あるいは将来の債務償還のための負担は発生しません。要するに金融政策と財政政策が一体となって家計部門の名目財産を増加させ、これが名目支出ひいては物価を増大させるのです。略 この政策は、債務対GDP比率を減少させるという意味で、まず間違いなく安定をもたらすものなのです。名目支出の増加により名目GDPは上昇しますが、日銀による買い入れがあるので市中にある政府債務の名目額は変わりません。日本財政の悩みを減らすためには、名目GDPひいては税収の健全な増加ほど効果的なものはありません」(邦訳137-8頁)。

 日本国民が心の底で抱いている最大の不安ー日本の返済不能であるとマスコミや評論家・エコノミスト・政治家・官僚たちにさんざん煽られたり、信じられている「宗教的信条」-を解決するハッピーニュースは、すでにバーナンキ議長によって日本国民に贈られていたのである! 

 バーナンキ議長、お体にお気をつけて。そしてご健闘を日本のネットの片隅でお祈りします。

ノーベル経済学賞とDr.Strangelove

2005-10-27 | Weblog
(注意! 『博士の異常な愛情』については完全ネタバレ)
 『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』などの名作でしられるスタンリー・キューブリック監督に『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を・愛する・ようになったか』という作品がある。邦題の『博士の異常な愛情』は原題ではDr.Strangeloveとなっていて、これは映画の中に登場する元ナチスの科学者の名前である。アメリカ戦略空軍基地の司令官が部下に核兵器でソ連を先制攻撃しろ、という指令を出してしまうことから物語は展開する。これを知ったアメリカ政府はなんとかこの暴挙を止めようとするが、複雑な統制システムが裏目に出てしまい、ついにソ連の核兵器基地に水爆が投下される。ソ連側はアメリカ側に攻撃の意図がなく偶発の事故であることは認めているにもかかわらず、北極にある最終兵器(人類すべてを皆殺しにする報復兵器)が自動的に作動してしまう。

 名優ピーター・セラーズ演じるストレンジラブ博士は、アメリカ国防総省の地下にある会議室で大統領や政府高官、将軍たちを前にこの人類絶滅の危機を前にして狂気にみちた熱弁をふるうのである。「地下1000メートルに選ばれた人間が100年過ごせば地上に出られます。男性1に対して女性10を交配し、人類の伝統と未来を守るのです」。そして車椅子から立ち上がると、ストレンジラブ博士は“ハイル・ヒットラー”の姿勢をとりながら「総統! 歩けます」と叫ぶのである。映画はこの後、ヴェラ・リンの「また会いましょう」という優雅な歌声とともに、水爆による無数のキノコ雲の実写を流しながら終えるというまことにブラックな作品に仕上がっている。この映画の公開年はいまからちょうど40年前の1965年であり、その前後には米ソの核による人類最終戦争を描いた多くの映画作品が現れている。『渚にて』(1959年)、『未知への飛行』(1964年)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(1965年)、そして日本の円谷英二特撮による『世界大戦争』(1961年)などが代表的なものとして知られている。

 ちょうどこれらの米ソ冷戦やキューバ危機の悪夢を背景にした映画が続出したころ、今年度のノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングやロバート・オーマンらのゲーム理論の業績が登場した。特にストレジラブ博士と縁が深い業績が、シェリングの東西冷戦分析であろう。相手側の先制攻撃に対しては、自動的に核攻撃を行うシステムを構築することが抑止に有効であることをシェリングは証明した。一方の先制攻撃は互いの共倒れになるために、先制攻撃自体が抑制されるというわけである。これはストレンジラブ博士たちが直面した状況と同じであるのだが、シェリングの理論との重要な差異は事前のコミットメント(ゲームのプレイヤーがプレイの前に採用する戦略を明らかにし、確実にその行動を将来行うことをアナウンスすること)がストレンジラブ博士たちには欠けていたことである。ソ連の開発した自動報復最終兵器や、ストレンジラブ博士が開発中であった同種のシステムもともに相手方に十分知られていなかった。このようにコミットメントが不在の冷戦ゲームでは、ひょっとしたらキューブリックの映画のような事態があったかもしれない。しかし現実にはキューバ危機の反省から米ソはホットラインを開設し、また互いに報復システムへのコミットを明瞭にするなどの抑止策を徹底した。ところでブログ 「限界革命」によると、シェリングは『博士の異常な愛情』についてキューブリックに助言していたらしい。経済学と芸術の見事な共演を、公開40周年を迎えるこの映画を楽しみながら実感したい。

『最後の「冬ソナ」論』(太田出版)を書いてみて

2005-10-27 | Weblog
 『四月の雪』、『私の頭の中の消しゴム』、『親切なクムジャンさん』などスマッシュヒットを重ねて、ヨン様の来日フィーバーもあわせると依然として「韓流ブーム」が続いているような感じもあるが、率直にいえばそろそろブームは終焉みたいです。東京国際映画祭のクロージング作品である『力道山』など注目作もこれからあると思いますが、いずれも「冬ソナ」ほどの反響を巻き起こすことはできないでしょう。むしろ最近は『嫌韓流』の出版に呼応して明らかにアンチ韓国(朝鮮)ものがブームの気配です。韓流ブームが終ることによる損失には、まだ日本で公開されたり販売されていない映画やテレビドラマなどが日本版でみれなくなることがまずあげられるでしょう。例えば、私がみてみたい作品としてな、ユン・ソクホのテレビドラマ『カラー』やいくつかの単発ドラマ(イ・ヨンエ主演の『ウンビョン峰』など)などです。 

 ブームの終る効用としては、個々の作品を冷静に見ることができることや宣伝に踊らされない、ということでしょうか。例えば、『四月の雪』はヨン様ブームの依存してかなり過大評価されてしまっている作品だと思います。実際には佳品であるけれども、ストーリー展開が淡白すぎて、また必要以上に観客の行間を読む力に依存しすぎるように思いました。

 私個人としては、『冬のソナタ』を中心とするユン・ソクホ監督の四季シリーズ(『秋の童話』、『夏の香り』)と『招待』を観れたことが、この韓流ブームから受けた最も大きな恩恵でした。そして『冬ソナ』に描かれたドラマ世界を分析したくなり、そこに経済思想家としての視点を組み合わせて、『最後の「冬ソナ」論』を上梓できたことは運がよかったと思います。


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 本書は「冬ソナ」とユン・ソクホ作品の分析を前半に、そして純愛をめぐる経済学的分析が後半に納められています。このノーガードをご覧の方にはぜひ後半の愛の経済学に関する考察をお読みいただけますようお願いいたします。ニート論、JMMや村上龍論も収録しております。

 とちょっと宣伝してみるテスト。