田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

第4回 見失われた「第3の道」

2005-08-14 | "失われた15年"の読書日記
 現在(2005年8月上旬)、日本は総選挙態勢に突入した。例によって小泉首相の「二元論的ポピュリズム」作戦が当面は功を奏しているようであり、彼と彼の取り巻く政治家や官僚たちへの支持は高い。この二元論とはもちろん「改革勢力」vs「抵抗勢力」、あるいは今回は「郵政民営化」vs「郵政国有化」の対立として政権・与党の大半そしてメディアで喧伝されている構図のことを意味している。もちろん小泉政権の実態が本当に改革的であったり、または民営化志向かどうかはよくよく検討しなくてはいけないことだろう。現政権の郵政民営化についての批判はすでに書いたのでここでは繰り返さない。今回は、この「二元論的ポピュリズム」によって見失われた「第3の道」について、その代表的な文献であり、一時期日本でも熱烈に支持されたジョセフ・E・スティグリッツのふたつの著作『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)と『人間が幸福になる経済とは何か』(徳間書店)の内容についてふれたい。


 『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』は2002年5月に日本で刊行された。本来、この本の趣旨はいわゆる「ワシントンコンセンサス」という経済的イデオロギーとそれに影響されたIMF(国際通貨基金)とアメリカ財務省の経済政策に対する批判にあった。「ワシントンコンセンサス」とは、緊縮財政(小さな政府)、民営化、市場の自由化という三本柱からなり、このイデオロギーは開発途上国や経済危機的状況にある国々に80年代以降積極的に適用された。スティグリッツはこの「ワシントンコンセンサス」が適用された国々の状況を悪化させたと批判している。例えば97年、98年のアジア経済危機においてIMFは経済的低迷を続けるアジア諸国に緊縮財政を融資の条件として課しそれが成長の低下をまねき回復を遅らせたとしている。また市場経済化を急進的なやり方によって主導したため、ロシアをはじめ東欧諸国の経済停滞を深刻なものにしたとも指摘している。むしろスティグリッツは市場経済化は、IMFなどが推奨する急進的改革よりも、中国の採用した漸進的改革のほうが、既得権との折り合いをスムーズにすることで政策目的を実現できたかと評価している。

 もちろんスティグリッツ自身は緊縮財政や民営化そして市場の自由化などそれ自体を否定しているのではない。財政赤字の維持可能性はみたされなければならないし、民間ができる事業を政府がやるよりも民間に開放したほうがその国は豊かになりやすい、貿易の自由化は経済の効率性を増すなどと評価している。問題は政策当事者がえてして陥りやすいのだが、民営化や緊縮財政などは公平で持続的な成長(つまり公平と効率のトレードオフを適切にみたすこと)を実現する「手段」であるのに、これらの「手段」がいつの間にか「目的」になってしまっていることである。現在の郵政民営化もいつの間にかその内実とそれがみたすべき「目的」がかえりみられることなく、民営化か否かの二元論に陥っている日本の状況はこのスティグリッツの懸念に適合するかのようである。このような政策目的が忘却され、政策手段が目的化することはしばしばある。特にその政策手段の実現性が困難であればあるだけその傾向が強い。

 戦前の日本でも第一次世界大戦後の金本位制の復帰はその典型的な事例であった。金本位制への復帰は政治的に障害が多く歴代政権の多くがその課題としたが果たせなかった。当初は、金本位制の復帰は為替レートの安定であったが、しだいにそれに混入ないし上回る形で、金本位制復帰によるデフレ圧力によって非効率部門を清算するという、本来の金本位制の目的とは異なるイデオロギーが結びついた。今日の郵政民営化も郵政事業の効率化よりもむしろ財政赤字の削減(国債発行量の縮減?)というイデオロギーとともに語られている場合がほとんどである(当ブログのをhttp://blog.goo.ne.jp/hwj-tanaka/e/006df85ad2757cc98dad2f17fdc3ec71を参照)。

 さてスティグリッツの「ワシントンコンセンサス」批判は、日本の多くの読者に小泉的構造改革への批判として読み解かれた。特に次のスティグリッツの本からの引用は、その日本的読解があながち間違えていないことを物語る。ちなみに小泉政権が当初頻繁に引用した「痛みを伴う構造改革」をいま一度想起されたい。
「短期的にどんな逆風が生じたとしても、それは改革にともなう必要な「痛み」なのだとされた。金利が高騰すれば、いまは飢餓を呼ぶかもしれないが、市場効率には自由市場が必要なのだから、最終的には効率が成長を呼び、成長が全員を幸せにする。苦しみや痛みは、いわば償却課程の一環であり、むしろ国が正しい方向に進んでいることの証拠だというのである。私に言わせれば、たしかに場合によっては痛みも必要だが、痛み自体は善ではない。よく考えられた政策によるならば、往々にして多くの痛みを避けることができる」(邦訳62-3頁)。
 この「ワシントンコンセンサス」への批判は、開発途上国だけを念頭においたものではない。『人間が幸福になる経済とは何か』では積極的に、現ブッシュ政権の「ワシントンコンセンサス」=新古典派経済学の発想に基づく経済政策への容赦ない批判に発展している。スティグリッツは80年代以降のアメリカ経済の市場中心主義的な発想が、エンロン事件などに典型的な「貪欲な経済」をもたらし、国民の厚生がリスクにさらされていると批判している。そして市場中心でも政府中心でもなく、市場と政府が適切な役割で補完しあう「第3の道」の重要性を彼は説いている。ここでも彼の強調点は政策の「目的」と「手段」の区別とそれぞれ適切な割り当てである。
「市場は一定の目的を達成するための手段(手段に強調点あり)である。最も顕著な目的は、より高い生活水準を実現することだ。市場そのものが目的ではない。もしそうだとしても、この数十年間に保守派が強く主張してきた政策ー民営化と自由化などーの多くは、それ自体を目的とみなすべきではなく、あくまで手段とみなすべきだ」(355頁)。
 その上で最重要な課題が失業を防ぎ完全雇用を目指す政策であり、不況であれば政府が適切なマクロ経済政策で対応するということである。スティグリッツは同じ観点から各国の中央銀行の政策マインドも批判し、中央銀行の政策当事者は物価の安定を第一目的にし、失業にはほとんど配慮していないと批判する。スティグリッツは失業こそ人間価値の毀損を伴う最悪の事態のひとつであり、これを解消することが人間の幸福を促進することになると明言している。このような人間的価値から失業をとらえる見方は、日本では石橋湛山が採用した見方であり、いわゆるリフレ派の一部の日本的ケインジアンの地下水脈をなす思想といえよう。

 政府vs市場という二元論的ポピュリズムを放棄して、人間的価値の回復のために、市場と政府の適切な役割を見つけ出そうというスティグリッツの「第三の道」の方向性は私には日本の今日の状況を考えると実に示唆に富むように思われる。

第3回 愛をめぐる経済論戦

2005-08-10 | "失われた15年"の読書日記
 最近も日本のメディアでは“セレブ”女優の“離婚調停?”をめぐるさまざまな観測や報道が飛び交っているように、いつの時代でも男女間の恋愛沙汰は人々の関心を引くのだろう。愛は人類の普遍ともいえる熱い関心の的だが、その一方で人間の生活を扱うはずの経済学ではほとんどこの愛の問題はなかなか議論の中心にはならなかった。

 日本の経済論壇では、90年代の後半に興味深い論戦が中条潮(経済学者)、宮崎哲弥(評論家)、佐藤光(経済学者)の各氏の間で行われたこと(『論争 東洋経済』1996~1997年誌上)がある。今回はこの論争を振り返ってみよう。

 その論争の中心的問題になったのは、愛を効率性という経済学で用いられる基準から評価するのが妥当かどうか、ということだった。まず経済学における効率とはなにかを、中条氏が用いた設例を利用して改めて説明しよう。

 中条氏は、「A君は高学歴で一流会社に就職。親も金持ちだけど、ちょっと好きなだけ。B君は芽のでない貧乏漫画家でいつも私にたかっているけれども大好き・B君と結婚することにした」という問題が、経済学から効率的であるとした(「よくわかる「不経済学」入門 8回 「論争 東洋経済」1997年7月)。

 つまり便益と費用をくらべて、便益の方が上回ることをもって効率であるという。例えば、この中条氏に対して佐藤光氏が経済学的費用と便益の計算は特定の仮定に基づく非常にかぎられた手法であり、無責任にさまざまな社会問題に適用すべきではない、と批判した(「経済学の安易なる「濫用」をするなかれ」同誌、1997年9月号)。

 愛の問題は経済学にはなじまない、と佐藤氏は考えたわけである。これに対して中条氏は効率性で愛の問題も分析できると反論した(同誌11月号)。もちろん愛を経済学の問題にするか、問題にしないか、は実は論じているものの趣味あるいは価値判断に大きく依存している。佐藤氏の批判はその点も明確にしたことで経済思想の論議として興味深い。それに対して中条氏の断言は、経済学的には興味深くともやはり経済学の意義を強調するあまり、その限界についてナイーブであるように思える。

 この議論に先立って、中条氏はやはり同じ効率性(費用と便益の比較)を基準にして、現在の日本の結婚制度があまりに長期的な婚姻関係を前提にしていると主張し、むしろ離婚の前提(=破綻主義)や競合する愛(不倫など)との「市場」的調整も考慮にいれるべきだとした(「よくわかる「不経済学」入門 第3回」 「論争 東洋経済」1996年9月号)。

 例えば永遠の愛などを信じるものばかりを想定して結婚制度を構築するのは正しくない。むしろ永遠の愛は、不倫や離婚が日本の制度で差別的な扱いをうけているために生じている政府に保護された「永遠の愛」にしかすぎない、と中条氏は断言した。こういった主張は、同時期の森永卓郎氏の『非婚のすすめ』(講談社)や『悪女と紳士の経済学』(日本経済新聞社)などとも軌を一にしている。森永氏は「愛の終身雇用制」を日本の婚姻制度は採用しており、それは日本型雇用システムの特徴である終身雇用や年功序列制などと制度補完的な関係にあるとするどく指摘してもいた。彼らは不倫や結婚の破綻を積極的に認めることで、いままで規制によって高止まりしていた婚姻の価格が下がることを期待したのであろう。確かに規制を撤廃し、婚姻の価格を引き下げ、結婚市場への参入・退出の条件を大幅に緩和すること、それ自体は社会の構成員の厚生を高める可能性があるだろう。

 これに対して宮崎哲弥氏は、「経済効率性、利便性、市場適合性を論拠に「破綻主義」の採用を歓迎し、すすんで夫婦関係を、いつでも解消可能な短期的契約関係に「還元」する」と批判し、むしろ家族は基礎的共同体なのでその長期安定性は担保すべきであると主張した(「宮崎哲弥の「正義」の見方 安易な別姓論を排し夫婦「共産」主義を導入せよ」『論争 東洋経済』1996年11月)。

 宮崎氏の指摘は、人間関係(婚姻だけとは限らない)の長期的な維持へのコミットメントがもたらす「社会的信頼」や「安定」を強調するものであり、これもまた(基礎共同体論を持ち出さなくても)経済学的にも正当化できる論理である。

 ところで費用と便益を合理的に計算する人間には人を愛することができない、とアメリカの経済学者ロバート・フランクはフランスの哲学者パスカルの言葉を引用して、彼の愛の経済学を披露している(『オデッセウスの鎖』サイエンス社)。

 フランクが重視するのも宮崎氏と同じような愛(別に婚姻とはかぎらない)は長期的な信頼関係をもたらすことに注目している。愛は中条氏や多くの経済学者が行うように、自分中心の利益と損失の合理的な関係を超える「非合理的」な要素をもっている。合理的計算では自己利益<自己損失であっても、愛のために人間はある行為を選択するかもしれない。愛のために社会的生活を犠牲にすることを厭わぬことを私たち自身体験したことはなかっただろうか? それは自分の生存のためにはまったく不利な派手で動くのに邪魔な孔雀の羽に似ている。

 しかし他方で、離婚の可能性や短期的な婚姻関係を考慮にした制度設計をすべきだ、という主張にわたしは賛成する(フランクもそうだろう)。そのような短期的な婚姻関係もまた愛のかたちにはかわらないからだ。ただ中条氏らの新古典派経済学者が費用と便益計算で「すべて」の愛を評価することは、やはり佐藤氏や宮崎氏の指摘するように経済学の専制以外のなにものでもないだろう。自分本位の愛も孔雀の羽のような愛も、さまざまな愛の多様性を許容する結婚制度や社会の受容性が基本的には望ましいに違いない。選択の多様性を許容することが経済学の教える最も素晴らしい教訓のひとつでもあるからだ。

2005年度上半期 私の目の前を通り過ぎていった経済本たち(ベスト・ワースト)

2005-08-04 | Weblog
 7月も終り、今年度の経済論壇(単行本のみ)の動向もだんだんみえてきた。『週刊 東洋経済』の最新号では、上半期経済書・経営書ベスト100の選出が行われて、去年の11月からの経済本、経営本の展望が可能になっている。同種の試みとしては年末に行われる『エコノミスト』誌と『週刊東洋経済』の年度ランキングがある。これらは各誌から依頼された経済学者やエコノミストを中心に選評が行われるものである。

 私もこの『週刊 東洋経済』の選評に参加させていただき、また他方で『週刊SPA!』上で上半期の経済本のベスト3・ワースト3を選んでいる。今回はそんな私の選評をご紹介しよう。まずベスト3にあげたのは、実は『週刊東洋経済』と『週刊SPA!』のものとは異なっている。前者は1位『デフレはなぜ終るのか』(安達誠司著、東洋経済新報社)、2位『経済失政はなぜ繰りかえすのか』(中村宗悦、東洋経済新報社)、3位『日本経済を学ぶ』(岩田規久男、ちくま新書)である。後者のベスト3は1位は同じ、2位は岩田本、3位には『お寺の経済学』(中島隆信、東洋経済)を入れている。少し『SPA!』の方では少し多様性を出したかった(『週刊東洋経済』の方は一目瞭然のいわゆる“リフレ派”の文献である)のでそのような構成になった。

 私のベスト3の大きな基準は、いま書いた“リフレ派”の経済学を中心とするものではある。この理由はあいかわらず日本の長期停滞がその基本において変化していないこと(デフレとデフレ期待)、そして長期的な年金や財政問題を考えた上でもリフレ(低インフレによって経済を活性化させる政策)とその後の低インフレ目標を想定した一定水準以上の名目成長率(仮に4~6%)が政策的に維持されないと、今後の日本経済の運行も苦しいものになる、ということを想定して、このような問題意識を共通してもっている論者を中心にチョイスした結果である。

 『週刊 東洋経済』の方では、幸運にも私の選んだ三作は1位、6位、7位の座をしめて、ひろくその価値が認められたようで安心した。ちなみに私の書いた『経済論戦の読み方』(講談社)も運よく第9位にあげられていて、これは予想しなかっただけに嬉しいことだった(本人の関心がいま書いている『冬のソナタの経済学』(仮題)に完全に移ってしまっていることもある)。

 リフレ派ばかりではなく、私は中島氏の『お寺の経済学』を高く評価したわけだが、中島氏の前作『大相撲の経済学』に続く、経済学をいままで経済学になじまないと考えられてきた分野に適用するシリーズの第二弾である。日本に何万ともある神社・仏閣がどのような法的な規制や保護をうけて運営されているのかが、簡単な経済学の知識と念入りな実証とに裏付けられていて評論されている。『大相撲の経済学』の方では、相撲力士の世界を日本型サラリーマン社会(年功序列、終身雇用など)と読み替えて解釈し、特に最近の若貴の相続問題でも話題になった名跡をめぐる市場分析が興味を引いた。名跡が量的に規制されているために、価格の高騰を生んだり、様々な闇市場(その昔の元横綱輪島の名跡売買問題)を生み出していることが鮮明に論証されていた。今回の『お寺の経済学』では、そのようなクリアな分析がみられなかったのは少し残念であるが、それでも未知の領域への開拓精神には敬意を表したい。

 『週刊SPA!』の方に書いたワースト3であるが、そこでわたしは1位に『経済の世界勢力図』(榊原英資、文藝春秋社)を選んだ。日本の長期停滞はアメリカと中国とインドの政治力に大きく依存していると断言し、日本だけでは問題が解決できないので、中国を中心とした共通通貨圏に組み込まれるしかないと断言している。この種の断言があたらないことを私としては祈るのみである。

 2位にあげたのは、『虚構の景気回復』(水野和夫、中央公論新社)である。水野氏の本は、実は私も予測していたのだが、私と立場が異なる人には熱烈に支持されるに違いないと思っていたが、やはり『週刊 東洋経済』のベスト100では第2位であった。基本的な主張は、水野氏の年来のものであり、『100年デフレ』(日本経済新聞社)と変わらない。21世紀は世界的に構造デフレの世紀であることメインにする点では、先の榊原氏とかわらない。しかし、日本以外の先進国はみなインフレであるのが実態ではないだろうか。水野氏の本の「強み」は彼のブローデルなどを援用した“壮大”な絵物語にある。文明論好きの読者にはたまらない魅力をもつだろうが、私にはなぜわざわざ16-17世紀のデフレを今日と対照させるか理解不能だったので、ワーストにいれさせてもらった。

 3位には『郵貯消滅』(跡田直澄、PHP研究所)をランクインさせてもらった。本書では、郵貯の存続は国家を破産させる、という断言が中心になっている。そして郵貯にある資金を民間へ開放することこそが日本を救うとも主張している。国民が郵貯を解約して、リスクの高い株や外国為替を買うと、財政破綻が防げるとしている。なんでだろうか? 低収益(リスクの低い)資産(国債など)を購入することは経済学的にはなんの問題もない。跡田氏の理屈だと国債を購入する経済主体はすべて日本国の財政破綻に加担することになる。もし彼の財政破綻への懸念がそれほど強いならば、個々人の資産選択行動に手を無理やり突っ込む政策を推奨するよりも、リフレーション政策で国債の利回りを経済成長率以下にすること、直感的な説明では、借金の金利よりも収入の伸び率を多くすること、の方がよほど安易で確実な財政破綻の回避方法であろう。