田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

出口政策が熱い?!(その2)

2005-11-29 | Weblog
お待たせしました。続きです。(その1はこちら

●出口政策の理論的基礎―ニューケインジアンモデル―

 出口政策を理解するためにはやはりそれなりの理論的なフレームで考えなくてはいけないだろう。例えばバーナンキ次期FRB議長は日本のデフレ脱出に、エガートソンとウッドフォードの経済学モデルを援用して、インフレ目標政策と物価水準目標の合わせ技を提案した(ベン・バーナンキ『リフレと金融政策』日本経済新聞社)。以下ではこのエガートソンとウッドフォードのモデルの枠組みをきわめて単純化して「出口政策」の理論的基礎とさらに現在しばしば話題になる日銀預金残高の超過準備問題という技術的な側面についてコメントしてみたい。

 いわゆる「ルーカス批判」以降、政策による期待の変化という問題に耐えられる理論構造をもつことがマクロ経済学に求められきた。そのひとつの解が、いわゆる「マクロ経済学のミクロ的基礎」である。「ルーカス批判」以後、マクロ経済学のプログラムはこの「ミクロ的基礎付け」をRBC(実物景気循環論)モデルとニューケインジアンモデルの大まかふたつの方向で深化してきた。両者はいまでは見分けがつかないほど交じり合ってしまった。例えばバーナンキらの理論では長期においては市場の自律的調整機能を信頼しているため、長期的スタンスをとれば例えば失業が深刻であっても市場の調整能力にまかせる、という選択も最初から排除するものではない。しかしもちろんこのような態度は、バーナンキらの積極的に認めるところではなく、実際問題として不況が深刻であったり、極めて高いインフレが起きているときは政策介入を強くすすめることで社会的コストを避けるというのが、いわゆるニューケインジアンの立場であろう。

●消費者の行動(New IS曲線)

 バーナンキらはまずマクロ経済を考える上で、家計(消費者)の行動、企業の行動、そして金融政策を担当する中央銀行の行動を主要なプレイヤーとして考える。それぞれのミクロ的な行動が経済のマクロ的動向に影響を与えていくと考えるわけである。

 まず消費者は自分の効用(満足)を最大化するために行動する。その際に予算の制約をうけるわけであるが、その制約の変化に対してなるべく消費を平準化(スムージング)して行うことが最適な対応である、とこの消費者は考えているとしよう。消費の平準化というのは、今期(現在)と来期(将来)の消費量をあまり変化させずに似たような量だけ消費し続けることを意味している。例えば今期、クリスマスで家族や恋人にプレゼントをするために消費を増やせば、それに対応して将来の消費を減少させることで、期間を通じてみれば消費は一定水準にあるというわけである。例えば経済全体の景気がよく将来的に家計の所得が通常の場合よりも増加すると期待されたとしよう。このような状況を期待産出量ギャップが拡大したと表現する(あるいは期待拡張ギャップの存在とも表現可能)。将来の所得が増えると期待されるので、この家計はそれを見込んで現在の消費を増やすことで平準化を行おうとするだろう(そうしないと予想通りに将来の所得が増えた場合、将来の消費の方が今期にくらべて過大になってしまうので)。

 この状況は先の例でいえば、会社の成績が良好で、ボーナスの増額が望めるために、クリスマスプレゼントはその将来のボーナスで返済することを見込んで、ローンまでして高めのプレゼントを購入することに似ている。すなわち将来の期待産出ギャップ(期待される将来のボーナスの増加)が現在の産出ギャップ(ローンをすることでの現在所得の増加)に反映されることになる。このように家計の消費行動は「来期の産出量ギャップの予想」に依存している。

 さらに家計は今期の消費と来期の消費をバランスするために現在の実質利子率を参考にするだろう。現在の消費を我慢して貯蓄するには、その貯蓄が経済的に見合うものでなくてはいけない。その報酬として実質利子率が付されるとも考えられる。そしてこの実質利子率が増加すればそれだけ消費者は現在の消費よりも貯蓄を選ぶだろうし、また反対に実質利子率が低下すれば将来の消費よりも現在の消費を選ぶであろう。また家計のローンの負担も実質利子率が低下することで軽減され、そのことがローン契約や耐久消費財の購入を促すことが知られている。すなわち消費者の行動は「今期の実質短期利子率」に依存している。

 ニューケインジアンの経済モデルではこのような消費者の行動をIS曲線(New IS曲線)と表現して現在の所得のあり方(産出高ギャップ)に、今期の実質短期利子率と将来の産出量ギャップが影響を与えると考えるわけである。ちなみに伝統的なIS曲線と同じように、今期の実質短期利子率と今期の産出量ギャップとの関係は右下がりの曲線に描くことができる。

●企業の行動(ニューフィリップス曲線)

 次に企業の行動をみてみよう。ニューケインズ経済学では企業の価格設定行動も経済環境の変化に対して緩慢にしか変化することはせず、そのため価格の粘着性という現象が一般的であると主張している。この価格の粘着性を説明するためにケインズ経済学は企業の代表的なイメージとして「独占的競争モデル」を採用する場合が多い。経済学の想定する市場の典型的な姿は、完全競争と独占である。完全競争市場では、多数の売り手と多数の買い手が、お互いに市場価格をシグナルとして販売・購入活動を行っている。価格が資源配分を有効に行うと想定しているので、この完全競争市場では売り手と買い手はプライステイカーとして行動する。他方の独占市場では、売り手もしくは買い手ないし双方が市場の価格をコントロールする力を保有しており、独占市場では完全競争市場にくらべて、価格はより高く、取引される財・サービスの量は少ない。独占市場は完全競争市場に比べると資源の非効率的な配分が行われている。

 しかしこのような両極端な市場の姿よりも、次のような市場のあり方の方が一般的ではないだろうか。例えば近所の本屋にいけば、さまざまなビジネス雑誌が販売されている。そしてそれぞれのビジネス雑誌は、特集する記事が異なったり、価格も各出版社が独自色を打ち出してライバル雑誌に負けないとしているように思える。またどの出版社でも自由にビジネス雑誌を発刊することができ、自由にそれを辞めることができる点でも、完全競争市場の特徴を持っている。

 このようなケースは、なにもビジネス雑誌だけではないだろう。私たちは、完全競争と独占の両方の特徴を持った様々な財・サービス―例えば、書籍、映画、パソコンソフト、レストラン、コンビニ、ケーキ、車など―を日常的に目にしている。経済学では、このような財・サービス市場を「独占的競争市場」と名づけている。独占的競争とは、同質ではないが類似した財・サービスを売る多くの企業が存在する市場だということができるだろう。独占的競争市場では、たくさんの企業が同じ顧客を相手に競争を繰り広げている。その一方で、個々の企業が、他の企業と異なる製品を供給している。これを製品の差別化という。また同時に参入・退出が自由である。

 完全競争市場では市場で決まった価格で販売すればすべての財は売りつくされる。他方で独占的競争市場では、企業は「右下がりの需要曲線」に直面している。これは企業が価格をコントロールできるが、もし価格を上げれば需要は減り、下げれば需要が増加するという市場環境に直面していることを意味している。この結果、この独占的競争企業は若干の独占力を有しているために、限界費用を超える価格を自ら設定することができる。この限界費用というのは、財やサービスを追加的に一単位製造するときに要する費用のことである。経済学ではこの「限界」的な単位で消費者や企業の選択を判断する。例えば、企業は売り上げ全体の動向と価格をみて供給を決定するのではなく、新たに一単位生産するときのコストとその販売価格の大小関係で意思決定を行う。

 例えば『冬ソナ』のDVDを一冊追加的に生産するコスト(=限界費用)が1000円だとすると、この独占的競争企業は5000円で市場での販売が可能になるということである。限界費用と価格との差額は、この企業にとっての「マークアップ」(超過利潤とイメージしてもいい)を得ることが可能であることを意味している。この超過利潤の獲得を目的にして、多くの企業がこの市場に参入する。もちろん独占的競争企業は製品の差別化によってこの熾烈な競争に打ち勝とうとするだろう。独占的競争市場では、このような熾烈な競争の結果、長期的には利潤がゼロになることがしられている。そしてこのような熾烈な競争に生き抜くために、企業は製品の差別化をはかり消費者の需要を喚起し、その有効な手段とし広告やブランド戦略などを展開しているのである。

 ところで独占的競争企業は価格設定を自ら行うことができるが、市場の動向に合わせて絶えず価格を変更しているわけではない。価格の変更に伴うコスト(メニューコスト)が発生するために頻繁に需要の変化に応じて価格を修正することはしない。そのためメニューコストを原因とする価格の粘着性が広く観察される。また価格を改訂する企業が増加するにしたがって、この価格の粘着性は緩んでいくと考えられている。この価格の変更に企業は今期の産出高ギャップをまず参考にする。これはいままでの議論では需要が供給よりも多いと考えられるならば企業は価格を上昇させるように改訂するだろう。また他方で将来のインフレ率の予想も重要である。なぜなら上記のマークアップは名目額よりも各企業はその実質値に注目すするからである。将来獲得したいと期する利益に将来のインフレ率の動向が大きくかかわるわけである。まとめると企業の価格改定行動は、今期の産出高ギャップと、来期の期待インフレ率に依存している。経済全体でみれば現在のインフレ率は期待インフレ率と産出高ギャップに影響される。この関係を表現したのがニューフイリップス曲線という。

●中央銀行の行動(テイラールール)

 さらに中央銀行の金融政策ルールをテイラールールの形で導入するのが一般的である。ジョン・テイラーはグリーンスパン率いるFRBの金融政策の行動を「テイラールール」という形で表現することに成功した。テイラーによるとFRBは産出量ギャップ(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)とインフレ率に反応して利子率を設定しているというものである。テイラールールのもっとも古典的な形式は産出量ギャップとインフレ率を均等に重きを置いて考慮する政策スタンスを採り入れたものとなっている。

名目利子率=0.01-0.5(潜在産出量-現実の産出量/潜在産出量)+0.5×目標インフレ率

である。このテイラールールを用いると、産出量ギャップが0.01、目標インフレ率を0.02だとするとFRBは0.5%利子率を引き下げて、景気の後退を防ぐことがわかるだろう。このテイラールールはグリーンスパン率いるFRBの動きをかなりうまく説明することができるといわれている。

 ところで中央銀行は経済にふりかかるさまざまなショックから国民の経済厚生を守るために行動するとみなされている。いま国民の経済厚生を最大化するような中央銀行を考えて、この中央銀行が考えている経済厚生の損失の最小化が、そのまま国民の経済厚生の損失の最小化になると考えるとしよう。中央銀行は国民の経済厚生の最大化(あるいは損失の最小化)をきちんとフォローできると考えるわけである。

 このとき中央銀行の経済厚生を最小化するための目的関数を「損失関数」といい、これは簡単にいうと今期のインフレ率と今期の産出高ギャップを足したものである。この「損失」を下の(a)(b)(c)のもとで最小化するのが、この経済にとってもっとも望まれる=最適と考える。

(a)New IS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存する 
(b) ニューフィリップス曲線では、今期のインフレ率が(1)今期の産出量ギャップと(2)来期の期待インフレ率に依存する
(c) 中央銀行は目標名目短期利子率を決めるにあたって(1)今期の産出量ギャップ(2)目標インフレ率を参照する。

 ところで上の意味での最適な中央銀行の金融政策を考える上で重要なものが「コミットメント」である。これは中央銀行の金融政策の目標達成への力強い政策的態度をしめす言葉といえる。具体的な目標について責任を持って期間内に達成することを約束することであ。例えば未達成の場合には具体的な形で責任をとる(ペナルティをとる)と考えて同じで効果を発揮する。このコミットメントを行うことが経済で活動するさまざまな主体(家計や企業や市場関係者)の予想に影響を与える。

 例えば、先の(a)のIS曲線では、今期の産出量ギャップが(1)今期の実質短期金利と(2)来期の産出量ギャップの予想に依存していて、さらに来期の産出量ギャップは(1)'来期の実質短期金利と(2)'来来期の産出量ギャップの予想に依存していて以下同様に…となると、結局、今期の産出量ギャップは将来の実質短期金利に依存することになる。ニューケインジアンは産出量ギャップの変動を経済変動で重視しているので、これは将来の金融政策のあり方(=将来の実質短期金利をどうするか)への予想が決定的に重要になるということになる。

 「産出量ギャップ」という表現が苦手な読者は、消費者でいえば(借り入れのケースを含む)所得、企業でいえばマークアップと考えてみればいいだろう。いまのサラリーの額や企業の利益が中央銀行の現在から将来に向けての政策態度に影響されるというのがニューケインジアンモデルもわかりやすい含意だ。

 このような将来が現在を規定するという考え方をフォワード・ルッキングという。このようなフォワード・ルッキングな経済構造では、経済主体の予想に影響を及ぼすコミットメントがいかに重要になるかが分かるであろう。

●出口条件を考える

 さて出口政策の条件を考えるには上の(a)(b)(c)のもとで損失関数が最小化するように計算をしなくてはいけない。しかしここでは直観的な説明を行う。渡辺努・岩村充氏の『新しい物価理論』(岩波書店)で用いられた仮設例を利用したい。この仮設例の面白いところは上記までは顔を出していない長期利子率の動きをフォローすることができることである。現在の出口政策にかかわる議論が長期利子率のオーバーシュート(財政危機の拡大?)への懸念にあることを思えばその重要性がわかるであろう。ちなみに以下では金利の期間構造モデルを採用して、長期利子率は将来の短期利子率の予想値に依存していると考える。すなわち単純化して足元の長期利子率は、足元の短期利子率と次の期の短期利子率の単純平均とする。また産出高ギャップは長期利子率に反応すると考える。あとでわかることだが、長期利子率は短期利子率の予想へのコミットメントに誘導されて決定されるのでいままでの議論と同じである。

 いま三期間(0,1,2期)を生きる経済を考えよう。第0期はデフレで流動性の罠に陥ってるとする。現代版の流動性の罠をバーナンキらは名目短期利子率がゼロ(=利子率の非負制約)であると考えている。そして第1期と第2期では経済が回復しているとする。このとき渡辺・岩村の仮設例をそのまま採用して、利子率の非負制約を度外視して(すなわち仮想的にマイナスの名目利子率がとれると考える)、第0期でのデフレを回避するために必要な名目短期利子率はマイナス4%、そして景気回復後(1期と2期)の名目短期利子率は4%としてておこう。すると第0期の長期利子率は、0期と1期の短期利子率の平均なので0%、第1期は4%、2期も4%になる。

 しかし実際には名目利子率の非負制約があるために、第0期での短期利子率は0%が下限となる(=ゼロ金利制約がバインディングしている、という)。第1期は経済が回復しているので通常ならば4%に短期利子率を誘導するのが本来ならば望ましい。しかしそうなると第0期の長期利子率が2%になるので経済を回復させる長期利子率の0%には届かず、第1期の経済回復が望めなくなる。そこで中央銀行は第1期の短期利子率も0%にするようにコミットすることになる。そうなると第0期の長期利子率は0%と産出高ギャップを回復させるのに十分な水準になる。第2期の短期利子率は4%で、このとき第1期の長期利子率は2%、そして第2期の長期利子率は4%になるだろう。

 すなわち景気回復した第1期においてもこの流動性の罠のケースでは、ゼロ金利政策を続けることが望ましいといえる。これは第1期の金利政策が、第0期の状況の影響を受けるので「歴史依存性」をもつと表現されている。すなわちこの仮設例は、先の(a)(b)(c)のもとで損失関数が最小化したときに導きだされる最適な金融政策のルールをわかりやすくしたものなのだがそこでは実体経済に影響を与える長期利子率のコントロールには、将来の短期金利に関する予想をきちんと中央銀行がコントロールする(コミットメントを行う)ことが重要だとする結果がでてくるわけである。ところでこのような将来の短期金利のコントロールで長期利子率に影響を与える「間接的」な手法は、現在の日本銀行の政策をかなりうまくフォローしているだろう。

●現在の量的緩和解除早期論は日銀のレジーム転換の不在が原因

 ところでこの名目利子率の非負制約のケースとその制約のないケースのそれぞれの第1期の長期利子率を比較すると、前者が2%で後者が4%になる。つまり制約のある場合(すなわち景気回復後でもゼロ金利政策を続行する場合)では、第1期はインフレの方向にオーバーシュートしている可能性がでてくる。たとえば現在の日銀の政策態度のように「安定的にゼロ%以上」という不明確なコミットと政策委員で近時力をましつつあるゼロインフレ以外は認めない態度からは、短期利子率をすぐさま事前に引き締めるようにコミットする、というこが起こりかねない。いや、それが現在の日銀の量的緩和解除早期論に勢いをつけていることなのかもしれない。

 バーナンキらは、出口政策を考える際には、従来のインフレ目標の厳格な適用ではなく、物価水準ターゲットとの併用をすすめている。つまりこのようなインフレ率のオーバーシュートを許容できるからである。また日本でも岩田規久男、安達誠司、伊藤隆敏らが同じ政策を推奨している。つまり日銀と現在の政府との量的緩和早期論の是非をめぐる対立の裏には、実はこのような日本銀行の本格的なデフレ脱出のフレームワークの欠如=レジーム転換の不在が色濃く刻印されているのである。

●レジーム転換なき日銀当座預金残高目標論の危険

 実際にはデフレ脱却を確実にするレジーム転換なきままの技術論として量的緩和解除を語るのがいかに無益なことかは、前回で示唆したつもりである。またレジーム転換なきままの量的緩和解除は日銀の抗弁にかかわらず金融引き締めスタンスへの逆レジーム転換ともみなされるかもしれない。もちろん日銀当座預金残高の目標額をどう技術的に処理するかという論点をつめるのは重要ではある。例えば、『日経公社債情報』の「日銀ウォッチ」10月31日で暗黒大陸氏が興味深いことを書いている。通常、量的緩和解除というのは上記した将来の短期名目利子率を事実上ゼロにコミットする効果(=時間軸効果といわれる)が剥落していく過程である。すなわち当座預金残高を段階的に引き下げるとともにそれと平行して時間軸効果が弱まっていく(=イールドjカーブの正常化)。そして超過準備がちょうどゼロになるときに、従来の利子率操作のターゲットである無担保コールレートを0.15~0.25%程度に引き上げる、というのが望ましいフレームであるという主張である。私もこのような意見には賛成である。例えばこのような主張は先にカミングアウト?したと評価されている植田和男氏の日本経済新聞「経済教室」での論説(出口政策を展望(上)量的緩和解除は遅めに2005/10/27, , 日本経済新聞 朝刊 )でのいわゆる「ビハインド・ザ・カーブ」論とほぼ同じ趣旨であろう。

 しかし現状では、暗黒大陸氏によれば、①残高目標をを段階的削減+超過準備ゼロその後でもゼロ金利維持、そして利上げ、あるいは②残高維持しながら市場との対話で時間軸効果は剥落(=イールドカーブ正常化)、そののち一気に超過準備ゼロ という選択肢が日銀よりのエコノミストたちに主張されている、という。①は量的緩和解除=時間軸効果剥落という定義からいえばゼロ金利にこだわる理由が意味不明であり、ただ単に日本銀行が量的緩和解除をした後でも金融緩和を継続している、という方便に使われる可能性が高い、と暗黒大陸氏は厳しき指摘する。②は佐藤ゆかり氏らが主張しているものとおもわれるが、一気に超過準備をゼロにすると猛烈な売りオペを敢行しなくてはならず、そのような金融引き締めは不可能である、としている。逆「ケチャップ」政策であろうか。

 いずれにせよ、レジーム転換なきまま、デフレ脱却が安定的に可能なのか、また(幸運な外的条件の変化がないとはいえない)可能だったとしてもその後の金融政策の明白な目標が不在でいいのか、出口政策の今後に熱い視線が注がれるであろう。

アイドル・エコノミックス

2005-11-21 | Weblog
 というわけでこのノーガードの初期にエントリーしました山田優嬢について勝手きままに書いた原稿が原因で最近はたま~にアイドルネタでの仕事依頼がきてかなり戸惑うのですが、今回は「出口政策」の続きの前に一休みで、そんな社会の需要??にプチこたえてアイドルネタを。某個人ブログでは頻繁にこの手の話題を書いて、おまけに本まで出してしまいましたが、ここであんまりやると編集部に怒られて 笑 しまいますので自粛モードの展開で。(^^;)

 最近のアイドルの二大潮流は「萌え」と「癒し」ではないだろうか。勢いからいうと前者により注目が集まっている。エコノミストの書いた本でも森永卓郎氏の『萌え経済学』(講談社)がブレイクしている。「癒し」の方はわりと簡単に万人がイメージできる日常語であるが、まだまだ「萌え」の方はそこまで流通してはおらず、森永氏の著作でも丁寧に定義が与えられている。同書によると、「萌え」はアニメのキャラクターに恋すること、と定義されている。そうなるとネットの一部で根強いファンを獲得しているクリステル先生などは現実すぎて「萌え」ではなくなってしまう。いや、現実の女性への恋愛に心奪われることは「萌え」道?からいうとそれだけで失格なのかもしれない。だがクリステル先生であろうが、山田優嬢であろうが、私や読者の大多数にはヴァーチャルでしかありえないので、その意味ではアニメキャラと同じように「萌え」消費の対象なのかもしれない。


  いきなり定義論でわき道にそれてしまい帰ってこれなくなりかけたが、おそらく「萌え」と「癒し」は、両方ともに日本の長期停滞に苦しんできた人たちに憩いのひとときという心理効果を与えてくれただろう。例えば、アルバート・ハーシュマンは公的な社会参加に挫折すると、国民の多くは私的消費により傾斜し、そしてまた公的な社会参加がより可能になると私的な空間からでてくるという興味深い消費循環論を説いている。「萌え」や「癒し」は私的消費の側面が濃厚であることから、これらの特徴をもつアイドルが選好されるということは、日本の長期停滞による社会経済の挫折が反映しているのかもしれない(参照:アルバート・ハーシュマン『失望と参画の現象学』法政大学出版会)。

 阪神の優勝効果や韓流ブームの経済効果と同じように、アイドルの生み出す経済効果(以下ではアイドルサービスと呼称しよう)も無理やり計測すれば何がしかの数字がでるかもしれない。もっとも経済全体の名目所得を一定にすれば、ある財・サービスへの消費減少のみかえりとして、アイドルサービスの消費増加があるだけであり、この種の部分均衡的な計測が常に疑問であるのだが。

 もちろんアイドルサービス自体には景気回復を生み出すものを期待することはおよそ無理がある。日本のアニメが国際的に評価が高くなり、秋葉原がオタク都市化しても、そのような新産業が長期停滞を打破することはなかなか難しいだろう。ただし景気が回復すればそれに伴って消費が増加することでアイドル市場の規模も膨らみ多様性も広がる。そしてアイドル市場の成長がまた消費者の嗜好を刺激して消費の増加をさらに生み出す…という好スパイラルがおこり景気回復の足取りを確かなものにする一助になるかもしれない(ならないかもしれない)。

 もちろん「萌え」とか「癒し」アイドルのもたらす心理的な効果は日本経済の見えざる厚生を高めたのかもしれない。この種の心理的効果をうまく拾う指標はまだ経済計測で一般的ではない。だがいずれにせよ、長期停滞で倒産・失業の増加、さまざまな社会不安が蔓延していてはその心理効果もネットの効果としては大したものではないだろう。ただアイドルがブレイクすることでCMや関連商品などの売り上げが伸びることで直接的な経済利益を生み出す。そして特定のアイドルにCM出演が集中することで規模の経済が発生し、巨大な利益を生み出す相乗効果が期待できるかもしれない。

 さて現在の日本は景気回復期にある。このまま日本銀行や財務省が逆噴射をかけてこなければ、そして政府が日銀とともにリフレ政策をとれば日本経済の将来は明るいだろう。そして景気回復とは将来の経済成長率が上昇することを予想する人が多くなるということだから、将来性に富んだ陽性の正統派アイドルが求められる。昨年、映画『世界の中心で愛を叫ぶ』で注目され、現在8本のCMを抱えている“CMの新女王”候補 長澤まさみ嬢などはそのイメージにぴったりで、彼女をみていると上り坂で激励をうけている気分になるのは、私がやや疲れた中年だからだろうか、そうですか、いやそうですね(--;)。

長澤まさみ公式ホームページ

 いま「国民的アイドル」というサービス財を楽しめる、あらゆる世代や性別を受容している空間がない。かなり昔であればテレビがある家庭の居間や食卓がその役割を果たしただろう。ネット社会が発達しても、眞鍋かをり嬢のように「ブログの女王」という形で似たような趣味の人たちを取り込めることができるが、眞鍋嬢を女王と認める人たちとヨン様をアイドルとする中高年女性とではほとんど交わることはあるまい。ましてや擬似マンツーマン性(個人の日記を読んでる個人の私)がやたらと強いブログでは、嗜好の細分化に柔軟に対応してしまうことで、その消費形態も多様になってしまい、統合化された国民アイドルを生み出すことが難しい。例えば私はクリステル先生のファンで例のサイトも毎日チェックしているし 笑 他方で遠野凪子嬢の「癒し」系ブログもみているのだが、両者ともにコアなファン対応であり、その消費欲望を満たすためにこれらのブログは存在する。

遠野凪子ブログ

 だが消費が好調になり、アイドル市場が成熟してくるにつれて、多様なアイドルが輩出されてくるだろう。またいわゆる正統的なアイドル(70年代であれば山口百恵やピンクレディー、80年代だと松田聖子や小泉今日子ら)を生み出してきたのは堅実な成長が実現していた間であった。それに対して、経済が異常に過熱したバブル期や90年代の長期不況期には正統派のアイドルは衰退し、反対に「改革を構造する」かのような奇妙なアイドルが乱立してしまう。それは先のハーシュマンの消費の循環論と同じ構図である。例えば、いわゆる「勝ち組」「負け組」という経済格差という社会イメージに基づいた経済的勝者を過剰に演出したような、いわゆる「セレブ」的なアイドルがもてはやされるかもしれない(例えば叶姉妹嬢たち、そしてこの補完財としての中村うさぎ嬢なども出現する)。

 「萌え」も「癒し」も「セレブ」も国民的な消費対象というよりも、やはり私的な消費対象として表れている。日本の経済が本格的に復活するかどうか。その分かりやすい指標は平均的な感性から支持されるような正統派アイドルの出現に象徴されるかもしれない。私はどちらかというと正統派よりも上に書いた諸ブログアイドルの方がすきなのだが…。

出口政策が熱い?!(その1)

2005-11-16 | Weblog
 福井総裁が量的緩和解除は来年春、と匂わせた発言に反応するかのように、政府・与党から日銀の早期量的緩和解除をけん制する発言が相次いででてきた。中川政調会長は日銀法の改正を政策カードでちらつかせて、日銀のデフレ対策が不十分であることを批判している。また安部官房長官もそれに呼応するように、日銀が政府と協調して財政再建のためにもデフレ脱却して、自然増収での財政基盤の健全化への寄与が実現されるべきだとこれもまた日銀を牽制した。この種の発言はいずれもなにか具体的な政策に直結しているわけではないので、それ自体どうこうというわけではない。しかし日銀の出口政策=量的緩和解除をめぐる議論は今後も政治的な話題として沸騰していく可能性があるのかもしれない。

 そもそも出口政策をめぐっては、1)前提条件であるデフレ脱却をし、0%以上の安定的なインフレ率を維持できるのか? 2)出口政策の技術的な難しさ の二点から問題が提起されている。最初の点については、『日経公社債情報』10月24日号で匿名記事(末吉名義の記事)「日銀ウォッチ デフレ脱却論議の謎」において、きわめて説得的な議論が行われている。日銀がインフレ率の目安として採用している日本式コアインフレ(生鮮食品を除く消費者物価指数)の前年比上昇率はゼロ近傍であり、このためデフレ脱却は難しく、デフレ脱却のためにはインフレ目標政策が一段と必要である、という趣旨の論説である。

 この主張の背景には、伝統的なCPIの上方バイアスの存在(すなわち1%程度物価がインフレにふれて計測されてしまう)と、さらにコアインフレ率をおしあげているのは石油関連商品であり、この上昇はピークアウトをむかえる可能性が大きく、そのインフレ率に与える押し上げ効果は0.4%程度にとどまると予測されること。そしてこの石油関連商品の影響を除外すると、インフレ率はマイナス0.5%程度であり、さらに上方バイアスを考慮にいれるとマイナス1~1.5%程度となる、と末吉論説は指摘している。これは非常に周到な分析であり、今日の日本経済が決してデフレ脱却を確実にしているわけではなく、むしろ不確実なものであることを示している。

 さらに安達誠司氏の『デフレはなぜ終るのか』(東洋経済新報社)では、1930年代のアメリカのデフレ脱却時の出口政策からの教訓をもって、今日の出口政策論議に警鐘を鳴らしている。安達氏によれば、当時のアメリカは財務省主導によるドルの減価政策により「レジーム転換なきリフレ」を実現した。このレジーム転換とは、中央銀行であるFRBがデフレ脱却のために従来の金融政策スタンスを転換して、超金融緩和政策にコミットするというゲームのルールの変更として理解される。しかしこのようなレジーム転換がない、すなわち従来の事実上のデフレ継続的な金融政策のスタンスのままに、この「レジーム転換なきリフレ」に直面したため、FRBの政策当事者には早急な出口政策の模索(当時の異例な低金利政策の放棄、超過準備がリスクマネーとして高インフレに転じる要因になることへの懸念、さらに株価の急騰をバブルとする警戒感が存在していたことの半面といえる)があった。そしてインフレ率はプラス推移であったにもかかわらず、FRBの早急な出口政策の採用によりふたたびデフレに戻ってしまったと指摘している。

 安達氏によればこのようなデフレに舞い戻る経済の脆弱性を克服するのには、中央銀行のデフレ脱却にむけたレジーム転換へのコミットの必要、さらに実現されたインフレ率という「変化率」への注目だけではなく、それ以上に「水準」が重要であるとしている。本ブログでの「バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ」(10月28日)で紹介した物価水準ターゲットの重要性である。すなわちデフレに陥る前のインフレ率(たとえば1%や2%)が現在も継続していたらどうなるのか、という物価水準経路を考えて、その経路と現実の物価水準の経路のギャップを解消していくという考え方である。

 日本の現在の景気回復とデフレスパイラル的状況からのとりあえずの脱出は、2003年から2004年初頭にかけての財務省の空前の為替介入と(予期せざる?)日銀のマネタリーベースの増加がタイミング的に数度重なるという「非不胎化介入」の結果である(詳細は田中秀臣『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)参照)。すなわち日銀としては明確なレジーム転換が不在であり、あくまでも財務省主導という点で、戦前のアメリカのケースに近似していると、前掲の安達氏は指摘している。これは有益な歴史からの教訓である。

 そのため今日の日銀はまさに戦前のFRBと同じように、出口政策に関わる発言において、「インフレ心理」への懸念を示したり(まだデフレなのに!)、インフレ「率」にのみこだわり、前記したようなリフレ過程には関心を示すことはまったくない。また日銀の政策に理解を示す衆議院議員の佐藤ゆかり氏のように「中小企業や家計部門をオーバーリスクテイクの状況から守ることが大事で、量的緩和政策は速やかに解除すべき」「日経公社債情報」(10月31日)とコメントしているのも、戦前と同様に超過準備が高インフレや資産価格の急騰(バブル?)をもたらすことへの「懸念」と基本的には同じものであろう。

 本格的なリフレ政策の採用と連結しないかぎり、デフレ脱却の道のりはかなり不安定なものであることは否めないのではないか。そして出口政策採用への日銀の現状の早すぎるコミットへの懸念は募るばかりである。(その2)では、仮にデフレを脱却(不安定であってさえも)した場合に採用されると考えられるいくつかの出口政策について考えてみたい。

『二〇〇五年体制の誕生』田中直毅著(日本経済新聞社)

2005-11-15 | Weblog
 論壇でもいち早く時代の雰囲気を伝えることに成功している田中氏の新作である。話題はやはり今年度の最大の政治事件であった先の小泉政権の衆議院選挙での歴史的勝利をめぐる評価である。田中氏はこの勝利を「二〇〇五年体制」の成立と表現している。その直前までの政治体制は「五五年体制」の継続であり、その特徴は旧田中派支配による族議員(郵政、道路、農水、文教、厚生の「五族協栄」)とその支持母体となる利益集団、そしてそれらを束ねる派閥とその長の複雑な利害関係のネットワークである。それが今回の選挙結果によって、小泉首相への権力の集中という一元的な政党運営の構図ができあがったとする。そして有権者もひとつの「政策、政党、首相候補を選ぶことが可能になり、小選挙区制の特徴を活かした論点の明確な選挙が可能になったと肯定的な評価を下している。

 田中氏は「二〇〇五年体制」の実現を直接もたらしたものは、投票率の上昇であり、それを可能にしたのが有権者の消費者としての成熟であるとしている。例えば有権者は現状の「物価の低位安定」すなわちデフレを「明確に評価してきた」、このデフレは一国の金融政策によって大きく左右されるものではなく、「グローバライゼーションと競争と技術によって決まるもので」(35頁)あるという評価を、有権者がもっていたと田中氏は解釈するわけである。田中氏はこのような強い意味での「良いデフレ論」を全面に出し、有権者のこのようなデフレへの支持を「消費者としての成熟」と呼んでいる。そしてこのような消費者の成熟や消費者側の論理を妨害するのが、いままでの政治の仕組みであり、それは「供給者の論理」であったとする。「供給者の論理」とはなにか判然としないが、上述の論旨でいえば、それは一国の金融政策が物価水準に左右し、なおかつデフレが国民生活を悪化させることを認めるような論理なのであろう。

 このように田中氏の主張は「良いデフレ」論をバックとして、国民の投票行動をその点から評価することにつきる。ところでこの田中氏の主張には無理がある。小泉政権の主要政策課題には「デフレ脱却」が大きく掲げられており、その実現は選挙前では郵政民営化、三位一体改革などと並んで政権の主要な未達成の課題であった。当然、小泉政権に支持を与えた有権者は、田中氏の説明の枠組みにあえてのれば、「消費者としての成熟」からデフレを悪としてその退治を求めたと考えたほうが素直な解釈である。田中氏の論旨はこの有権者の成熟論について奇妙な歪みをもっており論旨が破綻しているように思われる。なお現在のデフレ=田中氏の表現の「物価の低位安定」(低位安定の利益をすでに有権者は享受しているので、これは低インフレではなくデフレのことであろう)が良いのではなく、「悪い」理由は、「消費者の成熟」が支持したであろう現政権の「構造改革」の一部として以下のHPにその弊害がそれなりに説明されているので参照されたい。
http://www.keizai-shimon.go.jp/explain/progress/deflation/index.html(注)

 もちろん田中氏の本から離れれば、小泉政権の実際に行われているという意味でのデフレ対策への批判的評価、そもそもなぜ「構造改革」の中にデフレ対策があるのか、などへの批判を私は抱いているがそれはここではふれない(野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)、田中秀臣『経済論戦の読み方』講談社現代新書などを参照されたい)。ここでは田中氏がなぜデフレ対策だけを小泉政権の政策メニューからはずし、政権が公約してもいない『良いデフレ論」への支持として有権者の今回の行動をとらえたのだろうか、という私からみて納得できないところを明確にできればそれでいまのところは十分である。

 本書はいままでの「供給者の論理」を打破して、「有権者満足の政治」を目的とすべきである、としているが、日本の経済と有権者の生活を脅かしているデフレの弊害を評価することに失敗しており、著者の抱く有権者の満足と現実の有権者の満足との間には深刻な「構造問題」が控えている気がしてならない。

(注)それにしてもこのサイトの「デフレの何が問題か」はまだしも「デフレの原因は何か」は支持しがたいものがある。デフレの原因は日本銀行・政府の政策の失敗(金融政策の事実上の引き締め継続が主因)であり、他の要因は基本的なものでもなく、複合的なものとするほどの重みさえもない。