田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

バーナンキFRB議長就任と日本のリフレ

2005-10-28 | Weblog
 すでに既報の通り、ブッシュ大統領はグリーンスパン氏の後任としてベン・バーナンキ氏をFRB議長に指名した。バーナンキ議長(来年二月就任予定)はかねてから日本の長期停滞の処方箋を様々な角度から提案してきた。どんな提案だっただろうか、その主要点を彼の講演を訳した『リフレと金融政策』(高橋洋一訳 日本経済新聞社)を利用してみておこう。

1 物価水準目標の提言

 この提言は、日本のデフレ(一般物価の継続的下落)をふせぐための政策である。日本の消費者物価指数でみてデフレが始まる1998年を基準年にして、デフレではなく1ないし2%のインフレがその後、かりに毎年継続したときの物価水準経路を考える。例えば2%の物価水準経路と実際の物価水準経路のギャップが、デフレのもとでは当然存在していることになる。この両者のギャップを埋めていくことを目指した政策である。バーナンキと同じように物価水準目標を採用した岩田規久男編著の『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社)を利用すると、4%のインフレ経路(毎年、4%のインフレ率を実現していく)を目指すと、約7年後の2010年近傍で目標達成することになる。つまりこの期間までがリフレ期間と考える。そして目標達成後には、今度はインフレ目標として1~3%を採用する。物価水準目標によるリフレ過程とその後の物価安定を目標としたインフレターゲットのあわせ技にコミットすることを中央銀行(日本銀行)が明確に、市場に伝えることで公衆の期待に働きかける政策である。

 つまりここではリフレ期間内の物価水準目標と、その後の長期的なインフレ目標の二段構えになっているわけである。これはインフレ期待を形成する上でも異なる情報(短期と長期のインフレ率についての情報)を市場関係者に与えることになる。エガートソン&ウッドフォードの論文(下記参照)では、もしこの物価水準目標が所定期間内に達成困難になるならば、中央銀行は翌期以降一層の努力を義務づけられる。そしてこの「一層の努力」へのコミットが、国民にデフレからインフレ期待への転換を促す、と彼らとバーナンキは考えるている。そうして(名目金利一定すなわちゼロ金利でも)実質金利を低下させ、総需要を刺激する、と考えるわけである。

http://www.columbia.edu/~mw2230/BPEA.pdf
(エガートソン&ウッドフォードの論文)

 この「一層の努力」に中央銀行が拘束されることで、日本の長期停滞の原因である実質金利の高止まり(実質金利=名目金利ー期待インフレ率 なので名目金利がゼロであってデフレ期待なので実質金利は高止まりする)を解消する政策をバーナンキは推奨しているわけである。そして、「一層の努力」の中味として、ゼロ金利の継続や長期国債オペの買い切りを国債オペの買い切りを主張した。

2 財務省(政府)と日銀の政策協調(アコード問題)の提言

 政府が日銀のバランスシートの悪化を防止(そもそも日銀のバランスシートの悪化は問題ではないが)、それとクロスする形で、日銀は政府の減税と見合う形での長期国債の「買い切り」オペをすることである。恒常所得仮説に従えば、民間主体の消費や投資は増加することが期待される。リフレ過程では財政赤字問題の解消にも一定の寄与をはかることが可能であろう。この点についてのバーナンキの発言を前掲書から引用しておこう。いまや政策論争の大きな関心が財政「危機」問題に引き寄せられてしまっているだけに重要であり、バーナンキの提言がリフレなき財政危機の解消の困難性とそして無益な点も明らかにしていると思うからである。

 「たとえば、日本銀行による国債の買い入れ額の増加と明らかに一体となった家計と企業に対する減税を考えてみてくださいーーしたがって減税は結果的に通貨創造によってファイナンスされます。さらに、日本銀行が、物価水準目標を公表することによって、景気回復にコミットしたと仮定します。そうすると、マネーの増加の大部分あるいはすべてが恒久的だとみなされます。 略 日銀が減税額に等しい額の国債を買い入れるためにーー将来の増税を示唆するような現在あるいは将来の債務償還のための負担は発生しません。要するに金融政策と財政政策が一体となって家計部門の名目財産を増加させ、これが名目支出ひいては物価を増大させるのです。略 この政策は、債務対GDP比率を減少させるという意味で、まず間違いなく安定をもたらすものなのです。名目支出の増加により名目GDPは上昇しますが、日銀による買い入れがあるので市中にある政府債務の名目額は変わりません。日本財政の悩みを減らすためには、名目GDPひいては税収の健全な増加ほど効果的なものはありません」(邦訳137-8頁)。

 日本国民が心の底で抱いている最大の不安ー日本の返済不能であるとマスコミや評論家・エコノミスト・政治家・官僚たちにさんざん煽られたり、信じられている「宗教的信条」-を解決するハッピーニュースは、すでにバーナンキ議長によって日本国民に贈られていたのである! 

 バーナンキ議長、お体にお気をつけて。そしてご健闘を日本のネットの片隅でお祈りします。

ノーベル経済学賞とDr.Strangelove

2005-10-27 | Weblog
(注意! 『博士の異常な愛情』については完全ネタバレ)
 『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』などの名作でしられるスタンリー・キューブリック監督に『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を・愛する・ようになったか』という作品がある。邦題の『博士の異常な愛情』は原題ではDr.Strangeloveとなっていて、これは映画の中に登場する元ナチスの科学者の名前である。アメリカ戦略空軍基地の司令官が部下に核兵器でソ連を先制攻撃しろ、という指令を出してしまうことから物語は展開する。これを知ったアメリカ政府はなんとかこの暴挙を止めようとするが、複雑な統制システムが裏目に出てしまい、ついにソ連の核兵器基地に水爆が投下される。ソ連側はアメリカ側に攻撃の意図がなく偶発の事故であることは認めているにもかかわらず、北極にある最終兵器(人類すべてを皆殺しにする報復兵器)が自動的に作動してしまう。

 名優ピーター・セラーズ演じるストレンジラブ博士は、アメリカ国防総省の地下にある会議室で大統領や政府高官、将軍たちを前にこの人類絶滅の危機を前にして狂気にみちた熱弁をふるうのである。「地下1000メートルに選ばれた人間が100年過ごせば地上に出られます。男性1に対して女性10を交配し、人類の伝統と未来を守るのです」。そして車椅子から立ち上がると、ストレンジラブ博士は“ハイル・ヒットラー”の姿勢をとりながら「総統! 歩けます」と叫ぶのである。映画はこの後、ヴェラ・リンの「また会いましょう」という優雅な歌声とともに、水爆による無数のキノコ雲の実写を流しながら終えるというまことにブラックな作品に仕上がっている。この映画の公開年はいまからちょうど40年前の1965年であり、その前後には米ソの核による人類最終戦争を描いた多くの映画作品が現れている。『渚にて』(1959年)、『未知への飛行』(1964年)、『駆逐艦ベッドフォード作戦』(1965年)、そして日本の円谷英二特撮による『世界大戦争』(1961年)などが代表的なものとして知られている。

 ちょうどこれらの米ソ冷戦やキューバ危機の悪夢を背景にした映画が続出したころ、今年度のノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングやロバート・オーマンらのゲーム理論の業績が登場した。特にストレジラブ博士と縁が深い業績が、シェリングの東西冷戦分析であろう。相手側の先制攻撃に対しては、自動的に核攻撃を行うシステムを構築することが抑止に有効であることをシェリングは証明した。一方の先制攻撃は互いの共倒れになるために、先制攻撃自体が抑制されるというわけである。これはストレンジラブ博士たちが直面した状況と同じであるのだが、シェリングの理論との重要な差異は事前のコミットメント(ゲームのプレイヤーがプレイの前に採用する戦略を明らかにし、確実にその行動を将来行うことをアナウンスすること)がストレンジラブ博士たちには欠けていたことである。ソ連の開発した自動報復最終兵器や、ストレンジラブ博士が開発中であった同種のシステムもともに相手方に十分知られていなかった。このようにコミットメントが不在の冷戦ゲームでは、ひょっとしたらキューブリックの映画のような事態があったかもしれない。しかし現実にはキューバ危機の反省から米ソはホットラインを開設し、また互いに報復システムへのコミットを明瞭にするなどの抑止策を徹底した。ところでブログ 「限界革命」によると、シェリングは『博士の異常な愛情』についてキューブリックに助言していたらしい。経済学と芸術の見事な共演を、公開40周年を迎えるこの映画を楽しみながら実感したい。

『最後の「冬ソナ」論』(太田出版)を書いてみて

2005-10-27 | Weblog
 『四月の雪』、『私の頭の中の消しゴム』、『親切なクムジャンさん』などスマッシュヒットを重ねて、ヨン様の来日フィーバーもあわせると依然として「韓流ブーム」が続いているような感じもあるが、率直にいえばそろそろブームは終焉みたいです。東京国際映画祭のクロージング作品である『力道山』など注目作もこれからあると思いますが、いずれも「冬ソナ」ほどの反響を巻き起こすことはできないでしょう。むしろ最近は『嫌韓流』の出版に呼応して明らかにアンチ韓国(朝鮮)ものがブームの気配です。韓流ブームが終ることによる損失には、まだ日本で公開されたり販売されていない映画やテレビドラマなどが日本版でみれなくなることがまずあげられるでしょう。例えば、私がみてみたい作品としてな、ユン・ソクホのテレビドラマ『カラー』やいくつかの単発ドラマ(イ・ヨンエ主演の『ウンビョン峰』など)などです。 

 ブームの終る効用としては、個々の作品を冷静に見ることができることや宣伝に踊らされない、ということでしょうか。例えば、『四月の雪』はヨン様ブームの依存してかなり過大評価されてしまっている作品だと思います。実際には佳品であるけれども、ストーリー展開が淡白すぎて、また必要以上に観客の行間を読む力に依存しすぎるように思いました。

 私個人としては、『冬のソナタ』を中心とするユン・ソクホ監督の四季シリーズ(『秋の童話』、『夏の香り』)と『招待』を観れたことが、この韓流ブームから受けた最も大きな恩恵でした。そして『冬ソナ』に描かれたドラマ世界を分析したくなり、そこに経済思想家としての視点を組み合わせて、『最後の「冬ソナ」論』を上梓できたことは運がよかったと思います。


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 本書は「冬ソナ」とユン・ソクホ作品の分析を前半に、そして純愛をめぐる経済学的分析が後半に納められています。このノーガードをご覧の方にはぜひ後半の愛の経済学に関する考察をお読みいただけますようお願いいたします。ニート論、JMMや村上龍論も収録しております。

 とちょっと宣伝してみるテスト。

イグ・ノーベル賞と構造改革の切り札

2005-10-26 | Weblog
 イグ・ノーベル賞というのをご存知な人も多いだろう。「裏ノーベル賞」であり、世間をいかに笑わせ、いかに考えさせたかを基準に、1991年以降、本物?のノーベル賞受賞者やただの通行人を審査委員にして選考を行い、そしてハーバート大学講堂で授賞式を挙行、そしてここでもノーベル賞受賞者がプレゼンターであったりする。

イグ・ノーベル賞のホームページ


『もっと イグ・ノーベル賞』(ランダムハウス講談社)

 日本人の受賞者も多く(もっとも多くは授賞式出席を辞退)、毎年日本のネットでも話題になっている。今年は、本家にはない栄養賞をドクター中松氏が何年もの間自分の食べた食事を写し続け、そこから栄養法を編み出したとして栄誉?に輝いた。そして注目?の経済学賞であるが、今年はユニークな目覚まし時計(車輪のついた目覚ましで、いつの間にかナイトテーブルから姿を消すので見つかるまで目覚ましが鳴り止まない)を開発して、早起きを励行したために労働時間を増やした貢献に対してMITのガウリ・ナンダ氏に授与された。確かに労働時間が増えれば経済成長に貢献するだろう。日本の構造改革主義の代表的見解では、余暇の増加が日本の経済成長を鈍化させたそうなので、この商品名「クロッキー」はクールビズやウォームビズに並ぶ構造改革の象徴として今後どんどん政府の規制緩和?によって官公庁から民間に不朽するだろう。ただしいつまでもなりっぱなしで、探す時間がかかるようだとその分また生産性がさがるかもしれないが。

“構造改革の切り札”クロッキーのホームページ

 イグ・ノーベル経済学賞の過去の受賞者には、20年来世界恐慌を説き続け、その「予言」が外れることによって(すなわち、「予言」を行うことが人々に注意を促し、恐慌を未然に防ぐ)人類に貢献したラビ・バトラ氏、本家のほうではまだ受賞者がいないが日本人の受賞者としては「たまごっち」の開発者など多士済々である。ラビ・バトラ氏と共同受賞をすべき日本人も数多く活躍中であるが、その影響力はまだバトラ氏ほどの効果(恐慌を予言することで恐慌をさける。ん?予言がはずれたなんて、そんな不穏当なことはいわないように!)を世間に知らしめていないのであろう。日本の危機論者たちの一層の努力と世界恐慌の回避を切念して稿を閉じたい。

お気楽に読む経済小説:『デフォルト』相場英雄

2005-10-14 | Weblog
ブログ世界で話題の相場英雄(そうば えいゆう ではなく あいば ひでお さんです念為)のデビュー作であるダイヤモンド経済小説大賞を受賞した『デフォルト』をよんでみました。


(以下、ネタばれありですのでご注意を。)
 ここでいう“デフォルト”とは債務不履行のことを意味しています。「金融機関は毛細血管のように決済の網の目を張り巡らせている。アルバイト職員の給与振込みから、書店の手形決済、大手商社の送金や外為取引の決済。どれかひとつでもデフォルト(債務不履行)に陥れば、ドミノ式に決済不能が伝播する」(13頁)ということです。

 さらに物語のメインは「東北新和」なる地方銀行が破綻する「予定」なのですが、それの資金繰りを日銀が担っていて(よくわからんですがいつのまに日銀は金融庁になったのですか?)、フィリピンのペソを支払う必要がその地銀にはあるのですが、それがある種の「陰謀」によってできず、そのためにこの地銀がデフォルトに陥るという話だそうです。なぜかこの地銀の資金繰りは日銀の「金融機構局」なるところが担っているので、このペソが調達できないためのデフォルトは日銀の責任になり、ために上の引用にあるように「ドミノ式に決済不能が伝播する」危機に日銀は直面し冷や汗をかくという筋書きです。

 この「陰謀」は、時の金融担当大臣の政策スタンスが「顔なし」(田中の表現です念為)であることを批判したエコノミストが、その批判のために職を追われ、やがてかの大臣の湾岸にあるマンションの敷地内で文化包丁で自殺することに触発されたものです。「陰謀」はこのエコノミストの死になぜか(ここがまったく説得的には読めませんでした)感応した、新聞社の日銀担当記者、中堅ヘッジファンドオーナー、ホストクラブの支配人、日銀総裁秘書たちの、現金強奪モドキ、日銀施設テロもどき、日銀マンの拉致、そして日銀や財務省の裏をかくマネーゲームを展開して、最後は未成年であるエコノミストの娘をそそのかして証券会社に不正プログラムを侵入させ、それで恨みある日銀(総裁)と金融担当大臣にダメージを与えて溜飲を下げるというどう考えてもありえねえ~という展開のコメディ経済小説です。

 いまコメディ経済小説と書きましたが、確かに件のエコノミストが、ブルース・スプリングスティーンの歌を口ずさみ、「多少錆びているが、大丈夫でしょ」(なんか2ちゃんネラーぽい表現だぞby田中こころの声)とつぶやきながら頚動脈を一突きして果てる導入部は、これからのハードな展開を予想させるのですが、あいにく全然深刻さが伝わらないのです。まさにこの自殺自体が「逝ってよし」レベルでの描写になってまして、このエコノミストがもったであろう他の「陰謀」に加担した人たちを突き動かすだけの「怨」みたいなものが伝わらないのです。あるいはわざと深刻さを避けているのかもしれません。全編を70年代のロックだかポップスが小ネタでつかわれ、登場人物が妙に明るく軽いノリで描かれています。

 それにいくら日銀の金融政策がひどいからって(笑)、さすがに一ディーラーの事務所に日銀マンが「上層部の意向できました」とわざわざことわった上で、いまの取引をやめないと奥さんの事業とか邪魔するよ、と脅迫してやめさせたシーンはいくらなんでも荒唐無稽です。荒唐無稽でもフィクションだからいいんですか、そうですか。この種のありえねえ~ネタや小ネタが満載してまして、「日銀の様々な金融政策に論戦を挑もうとする輩たちからのアクセスもしばしばある。日銀の理屈で論破されると、こうした連中が嫌がらせ的な行動にでたり、感情的なメールを投げてくるのも日常茶飯事だ」(10頁)なんてあると、リフレ派は日銀にインタゲ採用しろなどと屁理屈をいって「嫌がらせをしている」なんてことをいってた某経済学の超老大家の顔を思い出す私は変ですか、そうですか(参考:『金融政策論議の争点』)。日銀の方々に取材されたそうですが、少なくともリフレ派はいままで日銀理論に論破されたことはまったくなく、毎回、屁理屈に似た実務の細則運用に逃げられてわけわかめの論戦にはなってはおりますが。

 さて本題に戻りますと、いままで書いたあらすじをご覧いただければまさに仮構の名に恥じないものであることは明白です。ちなみに銀行がアルバイトの給料振込みに失敗したぐらいで、金融システム全体にデフォルトが伝播することはありませんのでご安心ください。本書はその陽性な筆致に非常に価値があると思いました。ぜひ著者にはコミカルな調子の経済小説をぜひ書きついでいただきたいと思います。

裏声で語れ、小泉構造改革

2005-10-04 | Weblog
 衆議院選挙での歴史的な大勝を契機として、構造改革の成果を誇張する動きがメディアやネット世論で散見されるようになってきた。この種の構造改革誇張論については私の個人ブログに 簡単な意見を書いたので参考にしていただきたいが、ここでは小泉構造改革とはいままでなんであったのか、その一面を簡単に振り返りたい。実はこの小泉政権の経済政策の特質を見る上で見逃せないのが、郵政民営化論戦以降、リフレ派のダースヴェーダー卿としてネットの人気者になった高橋洋一氏の小泉政権の経済政策についての評価である。

ヴェーダー卿については以下を参照
http://reflation.bblog.jp/entry/193845

 注目すべきは高橋@ダースヴェーダー卿の論考「「何もしない」小泉政権をマクロ的にどう評価すべきか」(『週刊金融財政事情』6月27日号)である。その評価は端的にいえば小泉政権が受動的ケインズ!!政策の出動を行ったという次のものである。

 「小泉政権になって以降、積極的なマクロ政策は行われていないが、税収のビルトインスタビライザーが機能し受動的なマクロ政策となっているのである。歳出差額(=一般会計歳出-税収)の対GDP比率をみてみると、積極財政といわれた小泉政権以前の九八~〇〇年度の平均が七・九%であったが、小泉政権になってからの〇一~〇四年度の平均は七・八%とほとんど同じである。小泉政権の財政運営は清算主義のような印象を与え、その心理的な効果はわからないが、実際のデータでみる限り、かなりケインズ的な景気下支え機能をもっていたといえる」。

 もちろん長期にわたる経済停滞の時期に積極的ではなく、不景気ゆえに税収が低下するという自動装置の働きを放置したことをもって小泉政権への好意的な評価とすることには、さすがに暗黒の力を感じざるをえないが、それでもこの指摘はよくよく考慮する内容をもっている。論壇では慶応大学の金子勝氏の近時の発言に代表されるように、小泉政権が当初の公約ともいえた国債発行枠30兆円を早々に放棄したことにはいまだに批判が根強くある。しかし、上記の小泉政権の受動的「ケインズ政策」の裏面はこの「公約」破りが必然的に伴ってもいることは見逃すべきではない。もしこの発行枠にこだわれば、それはまさに積極的逆ケインズ政策であり、小泉政権の表のトレードマークたる清算主義的な発想といえたであろう。

 しかし竹中・木村ショックという株式市場に一大打撃を与えた心理効果にある意味でおそれおののいたのか、以後はりそな救済というモラルハザードつき国有化や受動的「ケインズ政策」とともに、小泉政権の特質は政権当事者たちの発言とは相反して反構造改革(むしろリフレ効果を多少とももつ「改革」)なものであると市場からも信認?を得てのではないだろうか。 
  
 ヴェーダー卿の論考では、なにもしないマクロ経済政策スタンスを受動的なケインズ政策であると、きわめて好意的に書かかれているがそれは政権の当事者のリップサービスと割り引いておこう。むしろ正確には小泉政権が(竹中・木村ショックに代表される)自らの清算主義の効果に驚き、また積極的なマクロ経済政策の責任を放棄したことで、日本経済の今日の景気回復局面の必要条件の一部を形成した僥倖を裏声で祝すべきなのだろう。