田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

第3回 愛をめぐる経済論戦

2005-08-10 | "失われた15年"の読書日記
 最近も日本のメディアでは“セレブ”女優の“離婚調停?”をめぐるさまざまな観測や報道が飛び交っているように、いつの時代でも男女間の恋愛沙汰は人々の関心を引くのだろう。愛は人類の普遍ともいえる熱い関心の的だが、その一方で人間の生活を扱うはずの経済学ではほとんどこの愛の問題はなかなか議論の中心にはならなかった。

 日本の経済論壇では、90年代の後半に興味深い論戦が中条潮(経済学者)、宮崎哲弥(評論家)、佐藤光(経済学者)の各氏の間で行われたこと(『論争 東洋経済』1996~1997年誌上)がある。今回はこの論争を振り返ってみよう。

 その論争の中心的問題になったのは、愛を効率性という経済学で用いられる基準から評価するのが妥当かどうか、ということだった。まず経済学における効率とはなにかを、中条氏が用いた設例を利用して改めて説明しよう。

 中条氏は、「A君は高学歴で一流会社に就職。親も金持ちだけど、ちょっと好きなだけ。B君は芽のでない貧乏漫画家でいつも私にたかっているけれども大好き・B君と結婚することにした」という問題が、経済学から効率的であるとした(「よくわかる「不経済学」入門 8回 「論争 東洋経済」1997年7月)。

 つまり便益と費用をくらべて、便益の方が上回ることをもって効率であるという。例えば、この中条氏に対して佐藤光氏が経済学的費用と便益の計算は特定の仮定に基づく非常にかぎられた手法であり、無責任にさまざまな社会問題に適用すべきではない、と批判した(「経済学の安易なる「濫用」をするなかれ」同誌、1997年9月号)。

 愛の問題は経済学にはなじまない、と佐藤氏は考えたわけである。これに対して中条氏は効率性で愛の問題も分析できると反論した(同誌11月号)。もちろん愛を経済学の問題にするか、問題にしないか、は実は論じているものの趣味あるいは価値判断に大きく依存している。佐藤氏の批判はその点も明確にしたことで経済思想の論議として興味深い。それに対して中条氏の断言は、経済学的には興味深くともやはり経済学の意義を強調するあまり、その限界についてナイーブであるように思える。

 この議論に先立って、中条氏はやはり同じ効率性(費用と便益の比較)を基準にして、現在の日本の結婚制度があまりに長期的な婚姻関係を前提にしていると主張し、むしろ離婚の前提(=破綻主義)や競合する愛(不倫など)との「市場」的調整も考慮にいれるべきだとした(「よくわかる「不経済学」入門 第3回」 「論争 東洋経済」1996年9月号)。

 例えば永遠の愛などを信じるものばかりを想定して結婚制度を構築するのは正しくない。むしろ永遠の愛は、不倫や離婚が日本の制度で差別的な扱いをうけているために生じている政府に保護された「永遠の愛」にしかすぎない、と中条氏は断言した。こういった主張は、同時期の森永卓郎氏の『非婚のすすめ』(講談社)や『悪女と紳士の経済学』(日本経済新聞社)などとも軌を一にしている。森永氏は「愛の終身雇用制」を日本の婚姻制度は採用しており、それは日本型雇用システムの特徴である終身雇用や年功序列制などと制度補完的な関係にあるとするどく指摘してもいた。彼らは不倫や結婚の破綻を積極的に認めることで、いままで規制によって高止まりしていた婚姻の価格が下がることを期待したのであろう。確かに規制を撤廃し、婚姻の価格を引き下げ、結婚市場への参入・退出の条件を大幅に緩和すること、それ自体は社会の構成員の厚生を高める可能性があるだろう。

 これに対して宮崎哲弥氏は、「経済効率性、利便性、市場適合性を論拠に「破綻主義」の採用を歓迎し、すすんで夫婦関係を、いつでも解消可能な短期的契約関係に「還元」する」と批判し、むしろ家族は基礎的共同体なのでその長期安定性は担保すべきであると主張した(「宮崎哲弥の「正義」の見方 安易な別姓論を排し夫婦「共産」主義を導入せよ」『論争 東洋経済』1996年11月)。

 宮崎氏の指摘は、人間関係(婚姻だけとは限らない)の長期的な維持へのコミットメントがもたらす「社会的信頼」や「安定」を強調するものであり、これもまた(基礎共同体論を持ち出さなくても)経済学的にも正当化できる論理である。

 ところで費用と便益を合理的に計算する人間には人を愛することができない、とアメリカの経済学者ロバート・フランクはフランスの哲学者パスカルの言葉を引用して、彼の愛の経済学を披露している(『オデッセウスの鎖』サイエンス社)。

 フランクが重視するのも宮崎氏と同じような愛(別に婚姻とはかぎらない)は長期的な信頼関係をもたらすことに注目している。愛は中条氏や多くの経済学者が行うように、自分中心の利益と損失の合理的な関係を超える「非合理的」な要素をもっている。合理的計算では自己利益<自己損失であっても、愛のために人間はある行為を選択するかもしれない。愛のために社会的生活を犠牲にすることを厭わぬことを私たち自身体験したことはなかっただろうか? それは自分の生存のためにはまったく不利な派手で動くのに邪魔な孔雀の羽に似ている。

 しかし他方で、離婚の可能性や短期的な婚姻関係を考慮にした制度設計をすべきだ、という主張にわたしは賛成する(フランクもそうだろう)。そのような短期的な婚姻関係もまた愛のかたちにはかわらないからだ。ただ中条氏らの新古典派経済学者が費用と便益計算で「すべて」の愛を評価することは、やはり佐藤氏や宮崎氏の指摘するように経済学の専制以外のなにものでもないだろう。自分本位の愛も孔雀の羽のような愛も、さまざまな愛の多様性を許容する結婚制度や社会の受容性が基本的には望ましいに違いない。選択の多様性を許容することが経済学の教える最も素晴らしい教訓のひとつでもあるからだ。