田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

量的緩和解除後の日本経済III

2006-03-29 | Weblog
 一年近く続いた「ノーガード経済論戦」も今回が最終回です。このブログの続きというわけではないですが、以前から継続している個人ブログEconomics Lovers Live や太田出版のエコノミストミシュラン で経済論評を続けるつもりですのでご関心があれば参照ください。

 さて量的緩和解除を行った日銀ですが、今回の政策決定については主にふたつの問題点を指摘することができると思います。ひとつは、本当にデフレ脱却を確実にした段階で政策転換を行ったのか、という点です。0.1%から解除時の0.5%までの数ヶ月の推移をもって安定的にデフレを脱出したという日銀の説明ですが、本ブログでも指摘しましたように、上方バイアスの存在があり、それは日銀のエコノミストの推計でも0.3%その前後の糊代があるなかでは、せいぜいせいぜいゼロインフレもしくは石油価格の上昇貢献分を考慮するとマイナスであった可能性があります。さらにデフレに陥った時点からの名目価値の毀損を回復するリフレーション過程に日銀がまったく配慮していないことは確実なようです。

 第二に、今後の物価水準ないしインフレ率に対する日銀の見通しが不鮮明なことです。一部の識者や政府側にはこの日銀の物価の「理解」を単なる政策委員の個々の見通しを集計したものではなく、「インフレターゲットもどき」に昇華させようとする動きがありますが、日銀自身はこの動きに否定的なように思えます。量的緩和解除は、よくいわれていますようにゼロ金利を市場が予想するよりも継続するといった「時間軸効果」が剥落化していく過程ですが、そのような市場の物価水準やインフレ率の予想に作用する政策を日銀が今後明示的にはコミットする枠組みが存在しない、あるいはそれに近いものがあっても予想形成効果をわざわざ削いでいるようにさえ思えます。これも過去の日銀の歴史をみてみると速水前総裁時に量的緩和を採用していても自らその予想形成効果に懐疑的である旨を公言することで効果を減少させてしまった負の歴史を想起させます。

 ただ今後、さまざまな政治的圧力や市場のリスクの高まりを背景に、このような日銀の「裁量政策」が次第にインフレターゲットに転換していくという楽観的予想や、これもまた裁量ゆえですがゼロ金利を維持し続けるような(その場合はなんで量的緩和解除をしたのかわからなくなりますが)可能性も否定できません。両方の場合は日本経済にとって景気浮揚効果をもたらすことはいえると思います。

 日銀自身は過去の経済政策の失敗は存在せず、そして今後のリスクにも十分対処しているという姿勢を崩していませんし、最近ではその弁護の姿勢をより強固なものにしています。日銀とそのシンパのエコノミスト(これは民間で金融・資産運用などのコンサルタントをしている多くのエコノミストを含みます)さらにはメディアは、日銀及びそのシンパ集団相互との長期的な信頼関係を維持するために、真実を述べるよりも日銀への配慮からそのあからさまな批判をさけているようにも思えます。

 ただこのような人間的な関係が裏にあるにしてもそれをもってだけで彼らとその組織を批判するのではあまり有意義なものではありません。やはりどんな組織的なレントが存在しそれによって人々が真実を歪曲していたとしても、それ以上に重要なのは誤まった経済思想の蔓延だと思います。もちろん完全で誤まりなきエコノミストはいません。ほぼすべてのエコノミストは私ももちろん含めて事実の認識や経済学的知識を誤解している可能性があるでしょう。問題は古くからいわれている通り、その過ちの可能性に意識的になることなのでしょう。これは自戒を込めていえば困難な道であると思いますが、他方で最も魅力ある途でもあるように思えるのです。

 経済学や経済の認識は今後もゆっくりと改善していくと私は楽観視しています。そして日銀の政策や確信犯的に誤まった経済情報を流し続けるもうひとつの負の遺産=財務省の政策も今後ともに批判的に検討していくと思いますが、私は日本の経済社会の今後の発展に実は懐疑的である以上に楽観もしているのです。

 今後は冒頭であげたブログで経済論戦を継続して検証する予定ですのでどうかよろしくお願いいたします。

野口旭『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』東洋経済新報社

2006-03-09 | Weblog
 いままで曖昧で陰湿な批判が横行していたムラ社会であった日本の経済論壇の中で、革命的ともいえる実名と批判箇所を明示しての率直な議論の姿勢を示した『経済学を知らないエコノミストたち』(日本評論社)や『経済論戦』(日本評論社)に続く、野口氏の00年代の経済論戦の記録を生々しくとどめた最新論説集である。題名の「エコノミストたちの歪んだ水晶玉」というのは聞きなれない言葉である。本書によれば、「経済学は役に立たない」という世間一般の抜きがたい批判に答えることを目的にしているという。著者は、経済学は予測の科学として十分に役立つが、世間で役立たないと思われているのは「歪んだ水晶玉」=間違った経済理論で預言を行う「エコノミスト」たちの活躍に原因のひとつがあるという。実際に野口氏が90年代後半から現在まで経済論壇で行ってきたことは、この「歪んだ水晶玉」で預言するエコノミストや評論家そしてメディアなどへの容赦ない批判だったといえる。

 本書の後半は、当「ノーガード経済論戦」を読まれている読者にはなじみ深いHotwired に掲載された「野口旭 ケイザイを斬る!」をベースにした02年から04年までの当時の経済論戦の見取り図とその批判的な検証になっている。特に経済の動きは複雑でありマクロ経済学のような単純な論理では十分にとらえることができないと主張する論者の多くが、実は単純な自らの意見をカムフラージュするために複雑系な話を利用していることが指摘されていることころなど改めて参考になる。

 前半は最近の経済政策論争をベースにした最新版の野口氏の経済見通しと政策への批判的検証が収録されている。その要点は、1)小泉政権の構造改革路線の検証、2)03年から04年にかけて明瞭になった景気回復の原因、3)今日の量的緩和解除論議をめぐる見通し のおおよそ3点に分けることができよう。

 1)の点であるが、これについては小泉政権の構造改革路線が、日本経済の停滞が非効率部門の存在という構造的な問題にあり、これを淘汰することで高い成長率を目指すという「清算主義」であったこと、そして構造的な要因が日本経済の停滞の原因ではなく循環的な要因である総需要の不足にこそ真因を求めるべきことが明記されている。

 個人的な回想で申し訳ないが、小泉政権の清算主義的な色彩の強かった01年当時の政策批判を行った野口氏と私の共著『構造改革論の誤解』(東洋経済新報社)は、私の事実上の処女作の一つであり、そのときから野口氏は経済論戦を分析する上での私の教師でもあり抜きがたい目標でもあった。当時は「構造改革」自体の満足のいく経済学的な定義さえも不分明であり、それを野口氏は同書でクリアに説明し、もって構造改革とマクロ経済政策は異なる政策目的に割り振られる政策であり、両者を適切な目的(構造改革ならば構造問題、マクロ経済政策は景気循環問題)に割り当てるならば矛盾もしなければ競合もしないこと、さらに適用する目的を小泉政権のように誤まるとそれは経済社会の低迷をより深刻なものにすることを説いた。

 ところで本書によると小泉政権の当初の清算主義的な性格は、「国債発行枠30兆円以下」を公約にした財政再建路線に明白だったが、不況の深刻化からこの清算主義的な路線は早々に放棄されることになった。そして実態的には「循環的財政赤字」の発生を放置することで事実上(受動的にではあれ)景気の落ち込みの下支えに貢献したことを指摘している。この点については、私も当ブログ「裏声で語れ! 小泉構造改革」で説明したことがあるので参照されたい。

 また竹中平蔵経済財政担当相(当時)の金融相就任とそれに伴って発足した「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」とそれが打ち出したいわゆる「竹中プラン」(金融再生プログラム)の評価は興味深い。当初、このチームにごりごりの清算主義者として名高い木村剛氏が加わったこともあって、いわゆる竹中・木村ショックで日本の株価は急降下した。政府が不良債権の抜本的な対策で銀行・企業の統廃合に積極的にのりだすという懸念がマーケットや国民の間に広がった。しかし実際には清算主義路線を放棄しつつあった小泉政権にあっては、その後のりそな銀行への公的な救済に端的に表されたように銀行を潰すようなハードランディング路線は放棄された。竹中プランは骨抜きになったかにみえた。しかし、本書ではマクロ経済的な清算主義は放棄したものの、この竹中プランが金融庁が大手銀行を中心とした不良債権処理に不必要なほど過度の介入を行うことにお墨付きを与えてしまい、規制のハード化が資源の誤配分を招来してしまったことを指摘している。この竹中プランへの評価は妥当だろう。

 2)の点については、今日の景気回復の主動因についての分析である。それは簡単にいうと財務省の円安介入と、それと連動した日銀の当座預金残高の引き上げという量的緩和政策が重なったことが契機となっている。この事態を本書では「なし崩しのレジーム転換」という表現を使っている。これは私流に表現すれば、あくまで財務省主導のデフレ対策としての円安介入であり、それを福井総裁が意図せざる形でサポートした量的緩和政策のあり方を表現しているのだろう(本書では触れられていないが福井総裁は明確に財務省の円安介入をサポートしたことを否定している)。野口氏はいわゆる中国特需と表現されたり、アメリカからの日本株式市場への投資が盛んになったことなど、外的要因が堅調であれば政策対応が受動的でもかまわない、というスタンスである。

 「以上から、日本経済の二〇〇二~〇三年以降の契機回復の様相については、ほぼ次のように整理することができる。まず、その最大の牽引車は、外需の拡大であり、それをもたらした世界的な景気拡大であった。しかしながら、国内のマクロ経済政策がリフレ的な方向へなし崩し的に転換されていたということも、同様に重要な意味を持った。それは具体的には、二〇〇三年秋から〇四年初頭まで行われた、財務省の巨額為替介入と日銀の金融緩和の同時遂行という形でのマクロ的政策協調である。つまり、今回の日本の景気回復と国内のマクロ経済政策の両方に支えられて、かろうじて定着したのである」(本書20頁)。

 すなわち浩瀚喧伝されているような、「構造改革が景気回復に寄与した」のではなく、先の説明どおりに循環的要因=総需要不足の改善が外需の好転と政策対応によってもたらされたというわけである。

 3)については、現状の景気回復は不安定であり、より一層のリフレ政策の重要性が強調されている。そのため06年末頃まではデフレ脱却をめざすリフレ過程(少なくとも現状の財政・金融政策のスタンスの維持)である。さらに第二段階は金融政策正常化のための段階であり、量的緩和の解除、インフレ目標の導入、プラスの政策金利への復帰などが目指される。これはほぼ2007年半ば頃であり、財政再建はその後の第三段階となる。野口氏は現時点での量的緩和解除はリスクがありすぎて日銀は採用しないだろうとみている。だが、この野口氏の楽観的な見通しだけが本書を通じて外れてしまいそうである。もちろんそれは野口氏の誤りではなく、通常では考えられないほどのリスクをあえて選択した日本銀行の誤りなのである。

 本書は他にも、リフレ派の正しい定義、「声の出るゴキブリ」とリフレ派を批判した山崎元氏のその後、木村剛日本振興銀行の「実験」へのエール(?)など微苦笑を禁じえない記述も多く、あっという間に通読できてしまう。学ぶべきことが多い本書は野口氏の論戦の記録だけでなく、迷走する日本の経済論壇の記録としても重要である。

量的緩和解除以後の日本経済 II

2006-03-08 | Weblog
 前回に去年の夏に事実上の"親日銀派"のエコノミストたちが今年春の量的緩和解除やデフレ脱却、政策オプションとしてのインフレ参照値の導入を語っていたと述べた。そのような発言を聞く一方で、小泉政権サイドに近いところからは夏の終りに日銀と政府との名目経済成長率論争が起きるだろうという観測を聞いた。もっとも去年の夏は郵政民営化を焦点とした政治の季節に吹き飛ばされて、この「論争」が正体を現したのは年末になってからであった。具体的には昨年12月に経済財政諮問会議において与謝野馨経済財政・金融担当相と竹中平蔵総務相との間で交わされた財政再建をめぐる論争である。これは財政再建をめぐっての金融政策の位置づけをどうとらえるのか、という論争であったともいいかえることができる。長期国債の利回りである長期利子率と名目成長率の大小関係がどのように金融政策と関連しているのか、という点で与謝野大臣と竹中大臣との間で意見が交換された。では、なぜ長期利子率と名目成長率の大小が財政再建や金融政策のあり方に関係するのだろうか(以下は拙著『経済論戦の読み方』(講談社現代新書)による)。

 国債の新規発行額が次式で表わされるとしよう。
国債の新規発行=政府支出-税収+名目金利×国債残高   
 ところで国債残高が財政の健全性で問題になるのは絶対的な大きさではなく、ネットでみた名目国民所得との比率である。上式を用いて簡単に導出されたのが次の関係である。

(国債の新規発行分/名目GDP)の一年間の変化分
  =〔(政府支出-税収)/名目GDP〕-(名目GDPの成長率-利子率)×(国債の新規発行/名目GDP)

 政府支出-税収がプライマリーバランスとよばれるものだが、この式の右辺第2項をみるように名目GDPの成長率が利子率を上まわれば、プライマリーバランスにかかわらず国債の新規発行分・名目GDP比率はある一定の値に収束する。逆に名目GDPの成長率が利子率を下回ると発散する。すなわちしばしば財政再建論議で話題になるプライマリーバランスの改善よりも財政危機を回避する際にきわめて重要なのは、名目利子率と名目GDP成長率の大小関係ということになる。この関係を「ドーマー命題」と呼んでいる。

 そしてどのような国債残高の初期水準からはじめても、利子率が成長率よりも大きいときは財政破綻に直面し、利子率が成長率よりも低ければ財政破綻の危機は訪れない。もちろん現在の日本はゼロ金利であり、長期国債の利回りも歴史上まれにみる低水準である(1~2%)。しかし他方で名目成長率はマイナスで推移している。つまり名目成長率よりも金利のほうが大きい事態が長期的に継続しているのが日本の現在の状況である。日本の名目公債残高/名目GDP比が90年代から今日まで増加トレンドを変更しないのは主にこの事情による。成長率の低下をもたらしているデフレが継続すれば、ドーマーの命題でいうところの財政破綻の危険性が高まっていくわけである。

 さて与謝野大臣は近年では長期金利が名目成長率を下回ることはない、という認識であり、対して竹中大臣は金融政策などの政策対応がきちんとしていれば名目金利が名目成長率を長期にわたって上回ることはない、という立場にたっている。このことは言い換えると、与謝野大臣側は金融政策による名目経済成長率の引き上げは難しく、せいぜい3%程度だという認識のようだ。竹中大臣側は金融政策によって名目成長率は4%程度が達成できると主張しており、実は与謝野・竹中両者ともに実質成長率は2%の認識があるため、問題はインフレ率をどう判断するかによっている。与謝野大臣側はゼロインフレからせいぜい1%以下にインフレ率を抑えことが望ましいという判断であろう。これは今日の日銀の政策と整合的である。竹中大臣はいわゆる「リフレ」的観点に立脚して発言していると思われ、中長期的に2%程度の低インフレを目指して、税収を改善しもって財政再建に資するという考えかたである。わたしはOECD諸国の多くが名目成長率≧長期金利 を実現しているために、日本においても達成可能であると思っている。

 ここで今回の量的緩和解除をめぐる騒動でもこの種の日銀的なゼロインフレ志向(世界的にはデフレ基調の水準を最適インフレ率とみなしているようである)と竹中大臣に代表される政府内の「リフレ」的見解の対立が底流のひとつとしてあるということである。

 昨年の郵政民営化以後、小泉政権は目的喪失現象を起こしているのではないだろうか。首相は積年の懸案を達成して、残る政策課題として小泉流の誰からも政策の障害=犯人が明瞭となる課題を探して、政権の緊張感の維持、そして後継選出の影響力を保とうとしたのかもしれない。その意味で、この名目成長率論争を通じて、金融政策のあり方がクローズアップされたのは自然な成り行きだったのかもしれない。なぜならデフレ対策だけはいっこうに改善の兆しがみえないものだったからである。しかし政府の挑発ともいえた日銀パッシングはどうも政府自身の思惑や日銀自体の計算(4月以降の解除)を上回る形で、早期の量的緩和解除にむけて日銀自体を走らせてしまったのかもしれない。
(続く)


量的緩和解除以後の日本経済

2006-03-07 | Weblog
 80年代後半のバブル形成、そして90年代のバブル崩壊から「失われた10年」といわれる時期を経過して世紀をまたいだ日本経済の大停滞は今日明らかに転換点を迎えている。

 日本の経済的な停滞の主要因が日本銀行の金融政策の失敗にあり、事実上の株価、地価、そして為替レートの動向を重視する資産価格ターゲットを採用していることがその「失敗」の内実である。そして財政再建路線を重視する財務省(旧大蔵省)の財政緊縮や不良債権問題を伴う金融システムの不安定化は、この日本銀行の政策失敗に付随する二次的な経済悪化の要因であった。そしてこのような日本銀行の政策の失敗は多くの論者の指摘することになり、いまでは一定程度の理解を獲得することになっている。

 他方で、日本経済は一時期のどん底から回復し、長い景気回復局面にある。失業率も一時期の5%台真ん中から4%台まで減少し、銀行の不良債権問題は事実上消え去り、消費や設備投資なども堅調に推移している。これらは日本経済の停滞を象徴している大規模なGDPギャップが明らかに縮小に向かっているシグナルともいえる。一部のマスコミやエコノミストたちはこの景気回復を「神武景気」以来などと表現しているが、最悪期で150兆円に達したGDPギャップがようやく縮小に向かった“だけ”であり、これらのエコノミストたちの景気への認識は徒な誤解(景気の過熱?)をもたらすだけに安易なものである。しかしいずれにせよ日本経済は現状では最悪期を超えているのは事実である。

 そして日本銀行を中心とする「政策の季節」を私たちは迎えている。8,9日にある日本銀行の政策決定会合において、5年ぶりに日本銀行のいわゆる量的緩和政策(日銀の当座預金残高をターゲットにした金融緩和政策)を解除するという観測が強く、市場やマスコミを含めてほぼ確定事項となってしまっている。日本銀行が量的緩和政策の早期解除を本年の4月に行い、その際に批判が強ければなんらかの量的な指標(インフレ参照値と呼ばれるもの)を導入して行うことは、一部の“親日銀派”のエコノミストたちが昨年の夏ごろから口にしていたことである。

 ところで先に簡単に述べたいが、いわゆる「インフレ参照値」とはなんなのだろうか? 私はこの「インフレ参照値」の導入をすすめるエコノミストは“偽り”であることを自ら公言し、日銀がこれを述べることは随意な裁量政策と無責任主義の反映を自ら表明しているとしか思えない。なぜなら言葉通りならば、金融政策でインフレ率を「参照」するという凡庸な中央銀行に求められるごく当たり前のことをいっているだけなのか? もしそうならば確かに日銀にとっては画期的なことなのかもしれない。なぜなら先に述べたようにわが非凡なる日本銀行はこの10数年もの間、どうも資産価格をターゲットにした政策を運営してきたように思えるからだ。とはいえ、当たり前のことを当たり前ならざる組織に実行させるにはやはり強制もしくはなんらかのインセンティブデザインが必要であろう。しかし「インフレ参照値」には実際にはそのような工夫はない。参照するかしないかの強制もインセンティブデザインもなければそのような参照は本当には行わない(いままでも行ってきたとはいいがたいためそのような行動を採用するインセンティブは不在)というのが経済学の常識であるし、また世間の常識でもあろう。

 今回の量的緩和解除にはこの「インフレ参照値」に類した試みが喧伝されるに違いないが、いずれにせよ現行の日銀法にはインフレ率を重視する、すなわち現在であればデフレを問題視するインセンティブ構造が決定的に不在である。そのようなインセンティブなき「インフレ参照値」を声高に主張するものは、日本銀行に捉われた亡者であるか、少なくとも経済学の理解には遠い。(続く)