田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

エコノミストたちを分析する

2005-07-14 | Weblog
「学者が斬る(219) 日本のエコノミスト市場は質量ともに劣化が進んでいる」(『エコノミスト』(毎日新聞社)6月28日掲載)の元原稿をここに再掲載します。

●博士が100人いるむらの話

 一時期大ブームを起こした『世界が100人の村だったら』。この物語は題名通りに、世界人口を100人に比例させ、「世界が100人の村だったら××」と展開していくお話である。この作品のパロディや便乗企画が書籍でも、あるいはインターネット上の掲示板などでもいくつも登場した。最近、その中でも注目を集めた「博士が100人いるむら」は、その衝撃度で群を抜いている。毎年100人の博士が生まれたとして、そのうち16人が医者、14人が大学の先生や助手、ポスドク(博士課程履修を終えたが大学に在籍)が20人、8人が会社員、11人が公務員、7人が他分野への転出、16人が無職、そして8人が行方不明ないし死亡である。無職や死亡・行方不明の多さは深刻なものであることを示唆している。

 このパロディは専門家の卵の大半が、その長期に及ぶ専門的訓練を実にすることなく、いたずらに人生時間を浪費していることを指摘していて辛らつなものがある。文部科学省が毎年公表する『学校基本調査』でもほぼこの比率は妥当していて、単なる寓話とはいえない(図1参照)。
図1
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文部科学省『平成16年度学校基本調査』
*就職者のうち教員は30%未満。

 日本のエコノミストの卵たちの就職状況をみたときにも、この寓話は信憑性をもっている。「エコノミスト」という言葉は、日本では特殊な使われ方をしている。「経済学者」で主に大学に所属している経済学を専門にする教員を指し、他方で「エコノミスト」では、民間の経済調査部などに在籍している経済問題の分析家、内閣府や日銀などの政府関連機関に所属する経済分析を担当する官僚・職員を意味することが多い。しかしここでは一括して「エコノミスト」として表現しよう。

 日本経済が90年代初頭からの長期停滞を経験する過程で、さまざまな経済論戦が戦われた。いまでも日常的にエコノミストたちはテレビや新聞・雑誌などのさまざまな媒体で活躍している。まさに時代は「エコノミストたちの時代」といった印象がある。しかしこのエコノミストたちの華やかな活躍かげで、エコノミストたちの労働市場はこの長期停滞の中で確実に縮小している。まさにイメージとはうらはらに、その内実はエコノミストの質量ともに劣化がすすんでいるというのが真相である。

●大学エコノミスト市場の中高年サラリーマン問題

 エコノミストはまたサラリーマンでもある。外資系エコノミストや自営できるほどの評論活動が可能であるならば別だが、多くのエコノミストたちは企業に属する会社人間である。彼らの給与体系は成果給が導入されているものの、基本的には従来の日本的雇用システムの特徴である長期雇用、年功序列などが昇進・昇給で採用されている。また官僚は無論のこと、国公私立大学・短大の経済学教官たちも、 "終身"雇用が保障され、研究業績よりも年功、教育上の貢献、同僚との付き合いのよさ、勤務態度(試験監督や教授会への出席状況など)が決定的に昇進に影響を与えている。

 日本型雇用システムの限界や欠陥を指摘しているエコノミストたちが、その所属先をみれば大組織の一員であり雇用が基本的に守られているのは悪い冗談のようでもある。また大学エコノミストたちの大半が、ほぼ40歳代までには研究上の野心も費え、見事なほどに生産性がダウンすることもよく知られている。そして彼らの野心を満たすのは、今度は学会や学内の「政治活動」(主に採用や昇進などの人事面の縄張り争い)である。しばしばこの政治活動が白熱化して、自派のライバルや不本意な者を解雇するなどの事件が、訴訟にまで発展するケースもある。

 このような生産性なき大多数の中高年エコノミストたちは、人口構造の上でも重石となって、後進の若手研究者の進路を妨害している。図2では、大学エコノミストの年齢分布の一例が描かれている。1940~50年生まれの層がちょうどひとつの大きな "峰"を形成しているのがわかる。かって藤野正三郎一橋大学名誉教授が、1980年代はじめのエコノミストの年齢分布(悉皆調査)を研究したときに、ふたつの "峰"の存在を発見した。当時は、1930年代生まれの層と今回と同じ層との双峰型であった。現在では、後者の峰のみが当時より高齢化して残存しているわけである。そしてこの高齢の"峰"が高い人件費となって、日本のエコノミスト市場に資源配分上のゆがみをもたらしている。

 日本の大学教員の雇用市場は極端に流動性が低いことが知られている。これは長期雇用や年功序列の存在、共同体意識に基づく転職のしずらさといった供給面の制約だけではなく、公募形式を採用した求人の絶対数が不足するという需要不足にも原因する。たとえば、「研究者人材データーベース」JREC-INで検索すると、経済系で公募を出しているのは6月初旬の段階で51件でしかない。毎年、経済分野の博士課程修了者が数百名も生まれるなかでは、この数字はあまりにも低すぎる。もっともこの水準でさえ経済系は社会科学や人文科学の中ではかなり恵まれているのが事実である。

 いずれにせよ大学からエコノミストになる道はきわめて狭い。また転職希望があっても需要が不足していることは、公募人員数だけみても想像がつこう。もっとも経験者は公募ではなく、コネクションで転職するパスがいまだ有力であるのだが。

 求人情報の内容を点検すると、明らさまに年齢差別が横行していること、また有名無実に近いのではないかと疑わせる膨大な資料の提出を義務づけている大学も多い。これらは就職上の取引コストを引き上げることで参入障壁を形成しているといえるだろう。特に問題なのは、年齢制限であり、多くの大学が35~40歳で制限を設けている。これだと博士課程修了後、就職までの待機時間が数年から10年以上にも及ぶエコノミスト希望者たちは、門前払いをくい、非常勤講師をいくつも兼務する不安定な生活を強いられるか、求職意欲を喪失してしまうだろう。このことは冒頭の調査データでも裏付けられている。この年齢差別の原因は、高齢エコノミストを膨大に抱えているため、人員の年齢構成をバランス化させる試みの表れであろう。
図2: エコノミストの年齢分布例(経済政策(経済事情)研究者のみ)
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出所:「研究者人材データーベース」JREC-IN

●民間エコノミスト市場の現状?「勝ち組」と「負け組」

 では、民間エコノミストの市場はどうだろうか。現職外資系エコノミストのW氏は次のように指摘する。
 「エコノミストの需要ははっきりいって「縮小」の一途をたどっております。理由は、供給源であった民間シンクタンクの多くが金融機関であり、この10年余りの低迷で収益にならないシンクタンクを縮小する動きとなっています。研究所の中でもエコノミストは最も収益を稼がない部署ですので、リストラの標的になっているようです。これは外資系も同様です」。

 日本のシンクタンクは、主に銀行・証券・生保系などの親会社の調査部門が独立していく形で、バブル景気であった80年代後半に次々と設立されていく“ブーム”を起こした。しかしそれらの民間シンクタンクもここ10年以上の長期不況の影響を受け、親会社の経営危機や合併などに伴って次々と縮小・再整理が進んだ。例えば住友生命総合研究所は解散したのはその典型例である。また第一勧銀総合研究所と日本興業銀行の調査部門と富士総合研究所の三者が統合して誕生したみずほ総合研究所でも設立当初は30名を超すエコノミストを抱えていたが現在は縮小されている。今後は東京三菱とUFJの合併が控えており、さらに民間エコノミスト市場の淘汰がすすむことが予想される。

 現状において、民間エコノミスト市場はどのくらいの規模なのだろうか。例えば、外資系証券や国内の投資顧問会社の典型的な布陣は、チーフエコノミスト、シニアエコノミスト、エコノミスト(リサーチ・アシスタント)のだいたい3名ほど、国内シンクタンク系の典型的な布陣は、経済調査部長(兼チーフエコノミスト)、日本経済総括・経済政策全般(チーフもしくはシニアエコノミスト)、家計担当、企業担当、アシスタントの若手、米国担当、欧州担当、アジア担当のエコノミストなどのだいたい5~7名程度の布陣である。日本で景気予測などを提供する民間シンクタンクは、ESPフォーキャストの予測回答者数が38機関であるので、約40社程度と見積もることができる。上記の人員配置を勘案すると、経済予測を行う民間エコノミスト市場の規模はたかだか200名からせいぜい250名程度ということになろう。これに他のシンクタンクや地方銀行・投資信託などの金融機関に所属するエコノミストをくわえてもせいぜい500名程度だと思われる。

 先のW氏は続けて言う
「新規採用のほうですが、大学で修士課程や博士課程を出た人も「実務能力」という点ではさっぱりという傾向が続いており、人事担当も困っているようです。なにしろ、エコノミストにコストをかけたくないのが本音で即戦力が求められています」。

 このときのエコノミストの「即戦力」とは具体的にはどんなものだろうか。ある民間エコノミストへのアンケート調査(『東洋経済 統計月報』2000年12月)によれば、エコノミストに必要な資質として次のものがあげられている。「経済理論、時代を予見する先見性、総合的な情報分析力、統計的な分析力、プレゼンテーション力・文章力」などである。ちなみに政策提言能力はあまり要求されていない。

 このような「現場」からの要求に対して、各有力大学院の修士課程からのシラバスを点検すると、経済予測に必要な統計学・計量経済学の応用や、各種パッケージソフトの利用を必修にしている大学院はほとんどない。また多くの院生にとって現実の経済問題は一段と劣った研究話題か、または関心の対象外といえるだろう。あくまでも大学エコノミストの場では、実践的な課題よりも、モデルビルディング自体を最優先する風土が教員・学生ともに濃厚である。さらに民間エコノミストにはきわめて大切な要素であるプレゼンテーション能力については、せいぜい研究室やセミナーなどでの報告にかぎられ、それが成績などにフィードバックすることはない。

 またこれも日本的な風土だが、「近代経済学」以外の開発・環境系の研究者、歴史・マルクス経済学系研究者には、伝統的に反経済学的感情が根強いのも、日本のエコノミスト市場を複雑怪奇なものにしている。経済系大学院に属しながらも、反経済学を学習(?)している学生が多いのはなんという不可思議な光景だろうか?

 ところで民間エコノミストの大半が、その属するシンクタンクの設立経緯から、親会社からの委託調査・研究に依存していることが多い。ここでも一種のサラリーマン根性が求められるわけで、独自の分析力よりも、親会社の意向やまた各社との歩調を合わせるコンセンサス意識の強さなどが依然として指摘することができる。もっとも外資系エコノミストやまた邦人系でも一部のエコノミストには、それぞれの見識で論を提示する人たちが増えてきてもいる。

 このように民間エコノミスト市場自体は需給両面で縮小傾向にあるが、それでも民間から大学エコノミスト市場へは一部のエコノミストには有利に作用しているようである。例えば、野村総研のエコノミストであった植草一秀氏を早稲田大学が採用したことは、そのような「実務家偏重」の象徴であった。また各種官庁や日本銀行などの「エコノミスト」が、最終的に大学に職を求める傾向が高まっているとの指摘もある(「エコノミスト・バブルの陰で」横田由美子『論座』7月号)。もちろんこの民間・官界からの一種の「天下り」は、大学エコノミスト市場の需給をさらに逼迫させるのに貢献している。

 ここで念をおせば、「天下り」組の大半が過去の組織の意見の代弁者として、学会内で発言を強める懸念もある。もちろん彼らは新しい大学というサラリーマン組織にもうまく適合し、そこで人事権を掌握し、子飼いの弟子を養成して、特定の組織の代弁を再生産する仕組みをつくることもできるだろう。大学というそれ自体は経済問題の利益団体になりにくい機関から、国民の利益の代弁者が育たなくなれば、その国が衰亡することは間違いない。

●改革のキーは公務員制度・大学雇用改革と専門教育の充実
 
 では、このようなサラリーマン根性にみちみちたエコノミスト市場をどう改革すべきだろうか。まず現状のエコノミスト市場の最大の供給源である大学院教育の改善が望まれる。ミクロ、マクロ、計量経済学のコースワークをいかなる分野であっても課すべきである。また同時により現実問題への接合を意識したカリキュラム編成も求められる。場合によれば官庁や民間シンクタンクへの学生の派遣研修も必要かもしれない。しかしより根本的には、博士課程への進学者を量的に制約する必要がある。だが90年代半ばから文部科学省は博士課程入学者を増加させる政策を行っており、この方針との衝突は避けられないであろう。

 またエコノミスト市場における雇用の流動化を加速しなくてはいけない。年齢制限や推薦者を求めること、意味のない多量の書類の提出などは廃止すべきである。本来ならば人口構造のゆがみをもたらしている高年エコノミストのリストラが一番有効であろうが、これは10年もすれば自然に解決する問題だと達観も可能である。なにしろ改革すべき人たちが改革の当事者にならざるをえないのでこの手法はほとんど不可能に近い。

 むしろより長期的には、大学エコノミスト市場から、民間や官界への経路を確保することが大切である。特に後者は、エコノミスト市場の改革が主張されるたびに焦点になるが、あまりにも閉鎖的である。ポリティカル・アポインティを部分的に導入するなど、政権交代などのタイミングで民間の人材をうけいれることも必要であろう。また公務員の新規採用の年齢条件などを緩和し、30代以上の大学やその外で埋もれているエコノミスト希望者や就職意欲喪失者にも直接雇用の途を開くべきである。

 もちろんこのようなエコノミスト市場の改革に伴って、日本のエコノミストが本当に社会に役立つかどうか、既存のサラリーマン根性を打開できるかどうかが、いま以上に厳しく問われることになるのは疑いがない。

会社の社会責任の基礎を求めてー岩井克人氏の新刊を読んで?

2005-07-12 | Weblog
 以前、『エコノミストミシュラン』という本の中で岩井克人氏の『会社はこれからどうなるのか』(平凡社)を批判的に論評したことがある。簡単にいうと、岩井氏がこれからの経済社会のあり方として規定している「ポスト産業資本主義」というものの意味がわからなかったこと、岩井氏と類似の発言をしている論者への参照が皆無に近いので、研究者としては「不誠実」な対応であるという趣旨のものであった。今回の岩井氏の新作『会社はだれのものか』も前作と同じ内容がほぼ繰り返されているが、より論点が明確にはなっている。前作と批判すべき点は同じであるが、今回はより積極的に(必ずしも肯定的という意味ではないが)検討すべき点をみてみたい。

 岩井氏は、いわゆる日本型企業論(終身雇用・年功序列・企業内組合)もアメリカ型企業論(株主主権論)も、会社Corporationがもっている「二階建て構造」の部分しかみていないとする。
 
「会社は、二階建ての構造を持っています。まず、二階部分では、株主が会社をモノとして所有している。具体的には株式を所有しているわけです。そして一階部分では、その株主に所有されている会社が、こんどはヒトとして会社資産を所有している。すなわち会社とは二重の所有関係の組み合わせによって成立している組織なのです」(同書、21-22頁)
 アメリカ企業論=株主主権論は、この二階部分しか注目しておらず、また日本的経営論は、資産(これには組織特殊的人的資産も属しているし、機械・設備・在庫などの物的資産も属している)への所有という一階部分だけへの注目になり、いずれも満足なものではない。

 特に株主主権論は、今日のグローバル標準として喧伝されており、またこれは経済学的にはミルトン・フリードマンらのように会社を株主利益の追求=経済的な利益の追求を目的とするものに限定してしまうという誤りをもたらす、と岩井は批判する。フリードマン流の考え方では、会社は利益を生み出すための単なる道具でしかなくなる。それでは会社と経営者、または会社と社員との「信任関係」を生み出すことができない。これがアメリカのエンロン事件、日本の雪印、JR西日本などの最近の不祥事の温床になった、と岩井氏は指摘している。「信任関係」を構築できている会社は、社会的な責任を担う必要条件をみたしているともいいかえることができる。

 岩井氏の会社論を私なりに理解すると、それは会社が、二つのトレードオフの関係になる目的?経済利益の最大化と社会的責任?を適切にコントロールしながら進化できる道を見出す経済社会環境を構築することが必要である、ということであろう。特に最近のフリードマン流=アメリカ型企業論の蔓延に、岩井氏はきびしい態度で臨んでいる。この姿勢には基本的に私も賛成である。岩井は現状の日本的経営は、産業資本主義(製造業中心の経済システム?)には適応できても、ポスト産業資本主義(サービス産業中心の経済システム?)には適応できない、と断言しているので、「信任関係」の構築は、新たな会社像CSR(会社の社会的責任)に期待することになる。ただ日本的経営とCSRとの関係がわたしにはあまりよくわからなかった。前者にある会社に帰属するヒト同士の「信任関係」の厚い鎖(これは悲惨な面も生産性を上昇させたり職場環境を改善する面もある)を、いかにして会社の外の社会への「信任関係」に進化させていくのかがよくわからなかった。

 原理論的には、会社の進化が経済利益以外の目的をもみたすように行われている(行われるべきだ)という議論には、私も異論はない。ここにも本ブログでのドーア書評に書いたように、「効率性という車輪にわずかに砂をかける」という共通の問題意識をみることはたやすい。

 なお著者の新論点であるこれからの時代が貨幣の力が低下する(=そのまま経済学的に解釈するとインフレになるということか?)という議論をよくは理解できなかった。年功序列報酬制や長期雇用が安定的な低インフレと調和的な関係にあるというならば理解できる。この点については拙著『日本型サラリーマンは復活する』(NHKブックス)で以前書いたことがあるので参照いただければ幸いである。

クールビズにみえる小泉改革の奇妙さ

2005-07-04 | Weblog
 小泉政権による最近目立ったプロバガンダ作戦といえば、クールビズと郵政民営化。ここではクールビズをノーガード風(筋金入りの素人風)に考察してみたい。大した問題ではないので簡単に。個人的にはクールビズだろうがなんだろうが、暑いときには軽装がいいでしょう。実は私も大学では夏場はふつうの軽装で通してます。伝統を重んじる?地方ですと軽装派は圧倒的少数で、例えば通りすがりに出会う知人が、「田中先生、涼しげでいいですなあ」と向こうは重機動兵なみの紺スーツに雑巾大のネクタイで玉の汗をながしてふうふういっているのが相場で、つまり「嫌味」をいわれることもあります(あるいは「羨望」か?)。

 ただ重機動兵でいくか軽装でいくかは個人の選択の自由でして、慣習や馴れ合い、またはただの趣味嗜好などさまざまな要因で、個人は着ているものを選択しているのでしょう。で、このような夏場の仕事着についてはほぼ政府の思惑抜きに勝手に民間がやっているわけでしょう。

 もちろん下のリンク先のご意見のように、経営者の趣味嗜好や慣例に縛られているのも大半なのは承知しております。どこかの大学では教授会では正装せよ、とかで法廷闘争に至った奇怪な事例がありました。

(around the XL1200R)


 ところがいまの政府はこのクールビズによってネクタイをしないことで体感温度が二度さがり、京都議定書のフロンガス削減に個々の立場から役立つと、「ミクロの積み上げがマクロ」という観点から猛然と仕事着市場に政府介入してきました。ところで政府介入の根拠といえば、市場の失敗です。でもネクタイをするしないことによる体感温度の高低が市場の失敗なんでしょうか? 不思議ですね。

 この種の「政府介入」を、小泉政権による「規制緩和」だとする論説まで現れました。私の個人的なブログでも再三登場している高橋洋一(早稲田大学、財務省)さんの「「何もしない」小泉政権をマクロ的にどう評価すべきか」『金融財政事情』6月27日 です。政府のクールビズ運動は、小泉政権の基本的思想である「規制緩和」と「自助努力」を特徴としているそうです。いくら高橋さんがいまの小泉構造改革の「骨格」のお一人とはいえ、さすがにこれって典型的なヨイショ記事ではないでしょうか?

(田中秀臣の個人ブログ)

 まずどんな「規制」があったんでしょうか? 民間の仕事着市場に政府の「規制」はありましたでしょうか? 公務員の方は以前のスーツという「規制」から新たなクールビズという「規制」に変身しただけですよね? 民間の仕事着市場にネクタイをしめるしめないで発生する資源の誤配分として何が存在したんでしょうか? ネクタイをしめるとフロンガス削減がすすまないという実証はあるんでしょうか? 以下のブログでは体感温度と室温調整の複雑な関係を直感的に説明しています。

(H-Yamaguchi.net)

 「自助努力」というのも変な話でして、多くのクールビズは政府主導、ないし経営者主導ですね。それとも服を選ぶことも民間のサラリーマンは(「規制」のせいで?!)してこなかったというのでしょうか? 高橋論説には、サラリーマンは服装を自分で考えてこなかったと断言していて、非常にその狭隘なものの見方が気になりました。スーツやネクタイを家族と相談したり、自分で選んだりしていなかったのでしょうか? 

 さて高橋論説以外にも便乗している論説が多くあります。例えば次の研究では、クールビズの経済効果を100億円と試算しています。

(「軽装励行の経済波及効果」第一生命経済研究所 経済調査部)

 この種の予測はだいたいが部分均衡的(産業連関分析を使用しているのでこれも奇妙な話ですが)な見方が大半です。簡単にいうと将来の所得が一定ならば、ある財への支出増は別な財への支出減を伴います。ここでは前者はクールビズ、後者はネクタイ。こういった向こうのプラスがかならず他方でマイナスを伴う、という当たり前の発想がこの種の予測にはどうも欠けるようですね。しかも今回の「政府介入」によってネクタイ業者は規制にさえ直面しているともいえますね。これが小泉政権の構造改革の手法なのでしょうか? そしてこの種のクールビズ運動をもりあげるために官庁や関係機関はいくばくかの広告費を計上しているはずでしょう。すなわち税金が投入されているわけです。このコストもいれない試算にどんな意味があるのでしょうか。