田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

なんのための郵政民営化か?

2005-06-24 | Weblog
 なんのための郵政民営化だろうか。「民間にできるものは民間に」という現政権の基本的方針は一見すると正しい。もし市場の失敗といわている要因が存在しなければ政府介入を正当化するのはきわめて困難である。

 郵政事業全般をみると、郵便、窓口、郵貯、簡保などの事業はどれも民間で運営が可能であり、深刻な市場の失敗は存在しないようである。ならばこれら事業を政府が行わないで民営化するという政府の理屈は基本的には正しい。それは政府部門にくらべて民間部門のほうがより資源配分が効率的であり、また過去の諸外国のデータをみてもほぼ支持できることだからである。

 しかし今回の郵政民営化問題にはこのような正攻法以外の目的が全面にでてきている。それは一言でいえば財政再建であり、そのための財投改革や特殊法人の淘汰である。これは現在の民営化法案の前提である「郵政民営化の基本方針」という閣議決定に端的に言い表されている。

 そこでは「公的部門に流れていた資金を民間部門に流し、国民の貯蓄を経済の活性化につなげることが可能になる」と表現されている。これを資金循環の歪み論と表現しよう。これは財政投融資制度という“第2の予算”といわれる制度において、特殊法人などの非効率的な公的部門に郵貯や公的金融機関を経由して、膨大な資金が流入して、それがより生産性の高い民間部門への資金流入を「押し出し」ているという発想であろう。

 前者の公的部門への資金流入を減らせば、後者の民間部門への資金流入が増加して、それによって国民経済がより成長するという一見するともつともらしい発想である。そしてこのような資金循環の歪みを正せば、700兆円以上に膨れ上がった日本の財政赤字問題も解決できるというのがまた大きな狙いになっている。

 しかしこれらはほぼ誤りといっていい考え方である。まずいまでも主要メディアやある意味確信犯的?な評論家たちの発言のベースになっているのは、2000年の財投改革以前におこなわれていた郵貯を介した事実上の補助金政策をいっている場合が多く、それは確かに“市場原理”を歪めて多量のマネーを特殊法人などに与えて、非効率化の温床にしたであろう。

 しかし現行ではそのような補助金は撤廃され、郵貯の資産運用は国債を中心にして“市場原理”に親和的に行われているだけである。いいかえると特殊法人や政府などの公的部門への資金流入は、経済主体(家計、企業、政府、仲介機関など)が“市場原理”に基づいて選択した結果である。そのため郵貯・簡保などは単なる資金の流れの仲介にすぎず、これを民営化すること事態が劇的に資金の流れを変更することはありえない。

 おそらく郵貯部門が民営化されても従来の国債・地方債中心の運用を劇的に改善することはないであろう。もし政府が郵貯・簡保による国債・地方債の運用を抑えたいのであれば民営化ではなく、これらは現時点で政府部門なのだから直接その購入を制限することが可能であろう。

 しかし政府は民営化本来の目的(当該組織の非効率性の改善)を追求するというよりも、民営化主体の資産選択行動を政府の意図どおりに、市場化のなかで実効させようという錯乱した方式で行うつもりのようである。民営化はするが、政府の都合どおりに資産運用を行ってほしいというのは、この政権の奇怪な発想を端的に表しているだろう。

 22日の国会で、民営化後の郵貯銀行などの経営シュミレーションで、新規事業(住宅ローンなどの貸出など)を行わないと完全民営化前に600億円の赤字に転落するというものが提出された。これはきわめて政治的な手札であり、上記した政府の意図するとおりに民営化した郵貯が資産運用“すべき”であるという「脅し」ともうけとれる。

 ちなみに政府の試算では、新規事業で3000億円の増益が発生するとしている。しかしこのような赤字が想定できるケースが試算されるのであれば、あてにならない新規事業の収益に期待した民営化などは行うべきではないであろう。むしろ最悪の事態を想定して、その損失を最小にする、という「ミニマックス基準」で政策決定を行うできではなかろうか。

 ここ数年あまりでも規模が巨大すぎてつぶすにつぶせず、結局、公的資金を投入して救済した、というケースは枚挙できないほどではなかったか。最悪の事態を想定するならば、長期的に赤字が発生する事業体をわざわざ民営化する意義はとぼしい、とさえいえる。政府が最悪のケースを算出しておきながら、新規事業のバラ色に賭けるというギャンブルをすること自体が、まさに前記した政府のもたらす国民の資金の歪みそのものの行いではないだろうか?

日本のサラリーマンを考える

2005-06-16 | Weblog
 大和総研チーフエコノミストの原田泰さんから、新著の『世相でたどる日本経済』(日経ビジネス文庫)を献本いただいた。この本は以前出ていた『テラスで読む日本経済の原型』(日本経済新聞社)の再刊新本である。戦前のサイレント映画からトーキー映画の初期作品をたくみに援用しながら、当時の庶民や会社員の生活風俗をクリアカットに描いている。このようなミクロ(個々人や企業)の経済行動だけではなく、江戸時代・明治以降から太平洋戦争に至るまでの日本経済のダイナミズムを見事に解説している力技には毎回のことだが感銘してしまう。

 本書を貫くテーマは、日本経済の発展が主に市場経済の進展による効率化によって促されてきたということである。原田さんはそのような経済発展のあり方を、企業や個人が自分の利益を追求していくプロフィット・シーキング行動と形容し、他方で縁故や汚職、フリーライダーによって社会の利益をかすめとる行為が蔓延している経済発展のあり方をレント・シーキング行動として説明している。明治以降の日本の経済発展はプロフィット・シーキング活動による効率化の追求がまず成功をおさめていた、政府の介入や社会運動などはむしろ効率化を阻害する活動であった、という理解である。いいかえるとみんなが他人に配慮するよりも、自分の利益を追求していけば社会が発展するという「非人情」(福澤諭吉)の論理が成功を収めたというわけである。

 この視座は、基本的に戦後の日本経済に対する原田さんの評価にも受け継がれているようである。原田さんは非常に多作であり、「経済学者のバルザック」と評価されることが多いが、私の個人的趣味では、本書と『人口減少の経済学』(PHP)、『日本の「大停滞」が終る日』(日本評論社)がベスト3の座を占めている。

 本書は映画ファンも関心を持って読めるものであり、私も本書を読んで溝口健二の名作『瀧の白糸』を再見した。


 さてこの本でも取り上げられているが、1920年代は、終身雇用、年功序列、企業内組合といった日本型サラリーマン社会の「三種の神器」の発祥を確認できる時代である。私はルーツについては若干、原田さんとは見解が違うのだが(詳細は拙著「日本型サラリーマンは復活する」(NHKブックス)を参照してください)、それでもこれらの「三種の神器」に近いものが当時のサラリーマンたちの共通認識になりつつあったのは確認できる。ちなみに「サラリーマン」は日本語である。

 例えば、昭和三(1928)年にベストセラーになった前田一の『サラリマン物語』(東洋経済新報社)には次のような記述があり、終身雇用・年功賃金的な意識がサラリーマンの間に強かったことをうかがわせる。
「斯うして一年たち、二年たちする中に、給料もだんだん増してくるし、此れに伴う其他の諸給与も違ってくるとなると、最初が程は蟹の飯炊きみたいにブツブツ言っていた人たちでも、愈愈腰弁の味が忘れられなくなって、とうとうずるずるべったりに首をチョンぎられるまで、ヘバリつくということになる。況や、5年たち10年たって、退職慰労金の金高が嵩むのを楽しむようになったら、もう腰弁生活は病膏盲に入って、なかなか足を表れた義理ではないのである。」
腰弁というのは、当時のサラリーマンを指した「蔑称」であり、もともとはしがない下級武士(腰に刀ではなく弁当箱をさげて登城した)をイメージさせたものである。

 原田さんは、生産技術を効率的にかつ安定的に運用するためには、技能・技術の標準化・専門化が必要であり、これらの技能を身につけた高度な熟練労働者を確保するために、企業は長期雇用や年功序列などのシステムを導入したという。いわばこのような日本的雇用慣行には効率を促進する経済論理的な理由がある、というわけである。そしてこのような雇用慣行は、戦後になるとさまざまな企業内福祉(豪華な社宅やレジャー設備の提供など)やつきあいなどの強制によって「会社主義」の弊害をももたらした、と書いている。

 原田さんのサラリーマン論は私も賛成するところが多いが、先の『サラリマン物語』の引用をみると、退職金がサラリーマンに企業への「忠誠心」(従属ともいいかえることができるが)を促す効果をもっていたことも強調していいかもしれない。かってジョージ・J・スティグラーは、働く人が忠誠心をつくすインセンティヴを促すメカニズムとしてふたつの原理をあげた。ひとつは、なにか不正をすれば没収するような債券を発行し、これをサラリーマンに与えること。そして日本の年功序列賃金のように、低い賃金でスタートして、退職時に近づくとその時点で会社をやめて他の会社で稼ぐことが可能な給料よりも高い給料を与えることである。後者には給料は他の企業と同じであっても退職金や企業年金などのオプションで対応できるであろう。

 忠誠心を促す長期雇用と年功序列、そしてそれを補完する企業内組合や福祉、そして退職金・年金など。効率性とほどほどの社会的な満足感に裏打ちされたこの日本のサラリーマンのいままでと今後をこれからもこのブログで考えていきたい。

第2回 ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』

2005-06-05 | "失われた15年"の読書日記
第2回 ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』(東洋経済新報社、2001年)

 「日本型」の資本主義や雇用システムというものはあるのか? 答えはイエスである。各国によって制度や規範が異なればそれに応じて「××型」と形容してもなにも不可解なことはない。経済の与件として考えるか、あるいは経済主体のインセンティヴ構造に関連させて、より「内在的」に考えるかで、この「××型」への対峙の仕方が異なるだけだろう。

 さらに一般に「××型」といわれる経済システムであっても、例えば「日本的雇用システム」の特徴といわれている「終身雇用」、「年功序列」などは、それぞれが日本独自のもの(すなわち過度に日本の制度的仕組に依存して独自の説明が必要である)かは、疑問である。

 例えば、長期の雇用慣行は、日本と同様に欧米の大企業にもみることができる(ジェームズ・C. コリンズ他著『ビジョナリーカンパニー』日経BP出版センターなどを参照されたい)、また年功序列も人的資本仮説、効率賃金仮説などと、他の諸国の雇用システムを観察するときに適用される見解によって、その制度の特徴を記述することが可能である。要するに「日本型」と形容される経済システムの相違はあるが、その相違がよって立つ経済原理には奇異なものはない、ということである。

 特にドーアの主張である「日本型資本主義」が効率的で長期的に安定的なシステムである、という評価を考える際には、いま書いたような一見すると些細な点に留意することが大切である。私もドーアと同様に、「日本型資本主義」はかなりうまく「効率と平等のトレードオフ」に対応した仕組みであると思う。

 もちろんこのシステムに問題がないわけではない。構造的な問題ならおそらくいくらでも列挙することができるだろう。しかし、どの構造的問題も「日本型資本主義」にとっては致命的とはいえない、と私は理解している。おそらくこのような断言は多くの批判を招くだろう。

 ここでドーアのいう「日本型資本主義」の特徴を整理しておきたい。長期的な契約関係を重視する企業構造(日本型雇用システムや系列間・取引先との関係など)、競争者間の協調(競合する企業同士さえゼロサムゲーム的に行動するのではない。また談合の経済合理性への言及など)、産業政策に典型的な政府介入のあり方といった諸特徴が、相互に補完関係にあり、このシステム内に属する経済主体の動機付けに対して整合性をもっている、というものである。

 私は産業政策が戦後の日本経済の成長にどれだけ寄与したのか疑問に感じている。この点はワインシュタインら(Beason, Richard & Weinstein, David E, 1996."Growth, Economies of Scale, and Targeting in Japan (1955-1990)," The Review of Economics and Statistics, vol. 78(2), pages 286-95)やマイケル・E・ポーター&竹内弘高(『日本の競争戦略』ダイヤモンド社)らの実証研究が参照されるべきだろう。

 私も近々、産業政策の実証に関する展望を公表する予定である。むしろこれらの実証研究では、ドーアの指摘するような生産性への寄与や研究開発効果などはほとんど検出されず、反対に産業政策の名の下で行われて「効果あった」のは、衰退産業の保護などの生産性に悪影響をもたらす政策ばかりであったということである。

 ただし政府介入一般には、マクロ経済政策や、いわゆる「セーフティネット」と表現されている社会保障制度や教育・防衛や各種インフラ整備、そして適切な行政の直接介入などがあるだろうし、そこまでを否定する必要はあたりまえだが微塵もない。また談合やそのほかの排他的な商慣行などは一般的に改善されるべきだろう。また産業政策的政府介入や談合が廃止されたからといって、ドーアのあげた「日本型資本主義」がその補完的システムゆえに瓦解したり本質的な変容をとげるとも思えない。

 ドーアも批判の対象とし、私もその批判に同調しているが、今日、日本で「構造改革」を主張する論者たちの多くは、政府の適切な介入のあり方を(啓蒙の次元ではあえて無視ないし徹底的に批判し)、政府に依存する主張をその大小に関係なく、「社会主義的」と非難するのが論戦の流儀のようである。

 ドーアも(その立場に基本的に賛成している私も)、このような構造改革を声高に主張している論者たちの効率第一主義に対して、その「効率性という回転する歯車にわずかばかりの砂をかける」ことを目指しているのだ。特に(大企業を中心とする)いわゆる「日本型雇用システム」や長期的な取引関係を重視する日本の経済システムが、経済のグローバル化や金融化によって適応不全に陥ったとは考えられない(この点については、野口旭・田中秀臣『構造改革論の誤解』東洋経済新報社、田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』NHKブックスなどを参照)。

 本書では、また長期的なコミットメントがもたらす「信頼」や「公正」の観点が強調されていて、株主や経営者たちの短期的な利潤獲得行動に警鐘を鳴らしている。この点はたとえば最近のJR西日本の事故や、ライブドアの結局は短期的利益のみあげただけの敵対的買収事件などの事例をみれば、この「信頼」「公正」の重要性と、他方で短期的な貪欲の問題がさらに明らかになるだろう。ドーアの近著『働くということ』(中央公論新社)も、この問題を「労働の公正」の見地からとらえたものである。

 最後に、ドーアは日本の経済システムが苦境に陥っているのは、主に不況の持続のためである、と正確に診断している。彼はそのような言葉は使わないが、日本の潜在的成長力はこの停滞にあっても依然として高い水準になると評価しているのだろう。

山田優嬢のセレブ価値は保たれたか?

2005-06-03 | Weblog
 山田優嬢の交際報道、その直後の破局宣言は、私の周囲の山田優嬢ファンにもただならぬ影響を与えています。笑

「山田優、伊藤英明に三行半!熱愛発覚後に即破局」

 アイドルはアイドルゆえに、セレブはセレブゆえに価値をもつ。この循環論的な命題が、経済学が提示しているアイドルとセレブへの見方です。アイドルもセレブも広告の一種ですのでアイドルやセレブが華やかであればあるだけ、つまり裏面では広告などのコストがかけられていればかけられているだけ、そのアイドル・セレブへの「質」についての信頼性が増していくと考えられています。消費者側からみればアイドル、セレブを提供している企業のそうした投資行動が、その商品に対する信頼を高める効果があるというわけです。

 その昔、日本でも人気がある経済学者ケネス・ガルブレイス氏(元ハーバード大経済学部教授)が、広告の効果は消費者の選択を歪めるものであると批判したことがあります。その一方で、商品やサービスの内容についての消費者の選択の幅や何を選ぶか判断する上での情報を増やすいう意味で、むしろ広告は経済的な効率性を促すものである、と広告の価値を積極的に評価する考え方も根強いのです。

 ところでガルブレイスの広告のもつマイナスの経済効果は、「依存効果」といわれるものなのですが、仮にこの依存効果が立証されたたとしても(経済学の最新の成果では否定されています)、広告自体は商品の存在を世間に周知させることで、このような依存効果をキャンセルするだけの外部効果を招くことも考えられます。ある企業が自分に都合のいい広告のみを喧伝して消費者の選好をガルブレイスのいうように歪めたとしても、情報を発信しているのはこの広告主だけではありません。

 例えばその商品についての独自の判断や情報をメディアや消費者団体、さらには消費者自身が発信するかもしれません。その商品が世間に知られれば知られるほど(つまり広告が大規模であればあるほど)、そのような外部効果が発生する可能性が大きくなるのではないでしょうか?

 さて山田優嬢の話題に戻りますが、彼女の(流布している)イメージですと、最新の彼女のフォトブックをみればわかりますが、20歳を過ぎて投票にいったりする社会的な関心の高さをアピールしたり、家族との絆やプロ意識を全面に出しているように思えます。そこにみえてくるのは仕事熱心で古い言葉ですみませんが、「自立している」人というイメージの流布でしょうか?

『山田優 Photo&エッセイ集 yu(ゆう)』小学館

 今回の写真週刊誌の恋人報道は、この「山田優」という商品の広告価値からすると確かにマイナスだったかもしれません。いままでの彼女の宣伝には、恋人というファクターは否定的なものだったからです。これはべつに彼女だけではなく、多くのアイドルやセレブの広告戦略の特徴といえるでしょう。

 しかし、今回の山田嬢の決別宣言は、従来、このような恋人発覚報道をされたアイドルたちとはまったく一線を画すものです。おそらく決別するにしても表にはわからない曖昧な形であるのが普通でしたでしょう。その意味では不当な表現ですが画期的な行動です。おそらくこの行動は、上記した彼女の広告の特徴と非常に親和的であり、そこに山田優ファンは当惑しつつも、彼女なりのいさぎよさを認知することでしょう。広告価値からいえばマイナスのショックを十分打ち消す、山田優らしい決断(広告価値を高める行為)といえるでしょう。

 ええ、つまりこれだけ書いて何いいたいかというと、ただファン心情を露呈しているだけなわけですが…笑。