田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

日本経済の現在の問題とは何か

2005-05-30 | Weblog
 日本経済の課題はなんでしょうか? この点を入門的な見地から実にクリアに解説した好著をご紹介したいと思います。学習院大学の岩田規久男教授の『日本経済にいま何が起きているのか』(東洋経済新報社)です。

 日本が1990年代初頭から経験した長期の停滞の原因 ーーそれは前半は金融政策の過度の引き締め、後半は金融政策の対応の遅れ(と一時的だが財政の過度の引き締め)ーーであると本書は指摘しています。この長期の停滞によって日本経済はまた戦後の先進国の中では例外的にデフレ(長期的な物価水準の下落)に直面してしまいました。そして今日の景気回復局面においてもデフレはいまだ継続中です。

 デフレが続くと何が悪いのでしょうか? 

 まず企業や家計の実質的な負担が増加してしまいます。借金やローンの実質的な返済額がデフレによって増加し、また人件費などのコストが高止まることで家計や企業は苦境に陥ります。またしばしば注目されている年金財政に関する問題も、デフレで名目所得が減少すれば年金収支が悪化していくことが知られてますし、また税収が低下することで日本の財政赤字問題についても悪影響をもたらしています。

 これらの「悪いデフレ」を脱却しないことには、日本経済は本当の意味での長期停滞を脱したとはいえない、というのが本書の大きなメッセージです。つまりデフレを脱却しないと、いまの景気回復にうかれていてはダメなのです。

 私が本書を読んで特に注目したのは、現在の経済政策への評価でした。上にあげたいくつかのデフレの悪には、その背景に最悪の「デフレの悪」があります。それは予想(期待)デフレの悪というものです。

 例えば企業は予想実質金利というものを事実上考慮して設備投資や在庫投資を行っています。この予想実質金利は、名目金利から予想される価格変化率を引いたものになります。現状では名目金利はゼロに近い低い水準ですから一見すると銀行などから資金を借りて事業を行うには好都合に思えます。しかし他方で予想される価格変化率は、マイナス1~ 1.5%ほどになることが知られていて、予想デフレが人々の予想の上にガチンコで定着したままと考えられています。これによって予想実質金利は高止まりしており、これが企業の投資活動を鈍らせてしまのです。

 同様なことが家計の消費行動についてもいえます。消費も予想実質金利に影響されるので、これが高い水準ですと、現在消費したり住宅購入でのローンの設定を控えるなどして経済に悪影響与えることになってしまうのです。

 つまりデフレ予想が定着していると、短期的には景気が回復していても、中長期的には安定的な経済成長を達成することが難しくなる、というのが本書のきわめて重要なメッセージのひとつなのです。これを本書では、
「デフレ予想があるかぎり、経済は、短期的にはともかく、長期的には、潜在成長率を維持できない。長期的に潜在成長率が維持できなければ、長期にわたって、非自発的失業をなくすこともできない」(本書 187頁)

といいかえています。「潜在成長率」というのは経済の基本的な体力のようなもので、デフレという基本的な病を克服しないと、病状が回復したと思ってもやがては取り返しのつかない状態になりかねないのです。そのため根強く市場に蔓延する現行の日本銀行の金融緩和政策である量的緩和政策の解除(=出口政策)も時機が早いとし、むしろ現行の政策の枠組みではいまだデフレとデフレ予想を安定的に脱するには不十分であると考えています。

 日本銀行は現在の量的緩和政策から離脱してインフレ目標政策に転換すべきであると岩田教授は指摘していますが、私もこの考え方には賛成しております。インフレ目標政策は、日本銀行が安定的なインフレの持続を国民に強く約束することで、デフレ予想からインフレ予想に転換しようとするより積極的な政策なのです。

 デフレ予想やゼロインフレではなく、緩やかなインフレ(1~3%)を維持することが、家計や企業の消費・投資活動を活発化させ、また年金問題、財政問題、不良債権問題などさまざまな経済問題に現状にくらべて遥かに好影響をもたらすことが本書では実にわかりやすく解説されていますのでぜひ一読ください。

 今日の景気の回復による「自然治癒」に長期停滞の脱出の夢をかけるか、それとも確実な選択肢を選ぶか、日本経済の今後の議論を考える上でも大きな参考軸になるのではないでしょうか。

第1回 森嶋通夫『なぜ日本は没落するのか』

2005-05-24 | "失われた15年"の読書日記
『なぜ日本は没落するのか』(1999年)森嶋通夫、岩波書店 

 日本経済の停滞が長期化する中で、その停滞の主因が日本の構造的な問題であるとする見解はいまも根強く存在する。このときの構造問題とは、経済のグローバル化に日本の産業や企業システムが不適応になっているとか、日本の金融システムが不良債権によって機能不全に陥っているなどとするものまでいくつかのパターンに分類できる。今回の読書日記で取り上げた本書もこれらの構造問題に注目している点ではまったく同じである。ただ本書のユニークな点はよくも悪くも極端なところである。本書では、森嶋人口史観とでもいうべき「理論」から日本の長期没落が予測され、それを避ける処方箋として「東北アジア共同体案」が提起されている。
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 森嶋人口史観とは、日本は今後人口減少するのみならず、より深刻なのは「人口の質」が低下するため日本の没落が避けられないということである。現象的にはそれは、教育の荒廃や政治の荒廃に典型的に示されている。この「人口の質」の荒廃をもたらしたのは、戦後のアメリカ型の教育システムによって、戦前まで支配的だった儒教教育の伝統やエリート主義的なメリトクラシーシステムが廃れたことによるとされる。この「人口の質」の低下が、日本の経済・社会システムがグローバル化に適応不全であったり、不良債権問題の真相に結びつくとされる。
「このような社会の動きを、人口という土台の動きから導き出す思考は、人口史観と呼んで差し支えないであろう。人口史観で一番重要な役割を演じるのは、経済学ではなく教育学である。そして人口の量的、質的構成が決定されるならば、そのような人口でどのような経済を営みえるかを考えることが出来る。土台の質が悪ければ、経済の効率も悪く、日本が没落するであろうことは言うまでもない。私はこういう方法にのっとって、没落を予言したのである」(同書14-15頁)

 具体的にこの「人口の質」論の適用を見てみよう。まず戦後の日本の経済は、護送船団的に政府に保護された銀行システム(メインバンクシステム)と企業集団の相互依存性に特徴がある。企業は銀行からの長期融資に依存しているので、大企業は終身雇用制、年功序列制などの長期的な雇用システムを採用するのに容易であり、他方そのような長期的な契約関係に入ることができない中小企業は賃金格差などの点でさまざまな「差別」にある「二重構造」が確立した。しかし、70年代から新株発行によるエクイティ・ファイナンスが盛んになり、銀行からの融資よりも新株発行が有利になることで、日本型金融に「不均衡」を生じさせたとする。この「不均衡」のために銀行融資は減少し、メインバンクシステムは事実上崩壊してしまった。同時にこれに依存していた日本型雇用システムも崩壊の危機にある、とする。この危機を回避する上で、「人口の質」の低下問題が非常に大きく森嶋の議論で係ってくる。なぜなら「日本的「仲良しクラブ」」とでもいうべき雇用システムの中では、この危機を引き受けて企業を改革するイノベーションが生まれないからである。むしろ事態は森嶋には逆である。
「能率に大きい差があるのに、仲良しの看板ゆえに同待遇されてしまうのだから、能率の良い人は不公平だと不平を鳴らし、自分の仕事の手を抜くであろう。そうして自分の能率にふさわしい額の収入をえるために、彼らは悪事を働くであろう。仲良しはこうして頽廃をもたらすのである」(同書、107頁)

 森嶋は日本企業の体質である仲良しクラブがとし改まらないかぎり、有能な人が有能ゆえに悪事や非効率的なことを行うのである。この構図は民間企業だけでなく、政治やまた官僚も同じであり、政・官・財の「鉄の三角形」がモラルの点で衰退しているのはまさにこの「日本的「仲良しクラブ」」という制度的な問題に拠る。このような構図を森嶋は「上からの資本主義」とも形容している。「上」「下」の違いは、前者が政府主導であり、後者は民間主導であることによって性格づけられている。

 これは強調されるべき点であるが、多くの現在の構造改革者は人間の経済的な態度や倫理・道徳面は改革可能であると信じているが、他方で森嶋は、人間は簡単に変われないという信条をもっていると思われる(正しこの見解は後記するように簡単に自己矛盾に陥っている)。なぜなら戦後教育と前記した「日本的「仲良しクラブ」」で精神形成された現在の10代~40代の日本人には社会的・政治的なイノベーションは不可能であり、これから半世紀の間、日本は没落するだろう、というのが森嶋の見立てである。

 そしてなぜ「東北アジア共同体案」が処方箋として持ち出されるのか? 「東北アジア共同体」とは、日本、中国、朝鮮半島、台湾、琉球が、現行の「領土」を分割する形でいくつかのブロック化され、政治的・文化的・軍事的な共同体を構築することである。この政治的共同体の構築は、EUとは異なり経済的統合に先行する(アジアの単一通貨はいわばおまけであり、この点で多くのアジア共通通貨論者とは異なる)。この「東北アジア共同体」の障害になるのが、日本の「歴史認識」などのナショナリズム的動向である、という。具体的には、歴史教科書の記述における「右傾化」などの諸現象であるという。このような右傾化は、共同体建設への歴史の歯車に逆らうので正しくない、というのが森嶋の主張のすべてである。 この森嶋の主張は、その後も彼の多くの著作で反復されていく。『日本にできることは何かー東アジア共同体を提案する』(日本版2001年、岩波書店)、『なぜ日本は行き詰まったか』(日本版2004年、岩波書店)などである。

 そしてこの森嶋の日本没落論をめぐって、小宮隆太郎氏との白熱?した論争が、『論争東洋経済』紙上で行われたのである(実際には「調停」としての奥野雅寛論文もある)。発端は森嶋の本の中の小宮批判であるが、そのこと自体はどうでもよく(中身がない)、むしろ小宮の森嶋批判が(もともとの森嶋の小宮批判に関連するドタバタ以外)非常に切れ味がするどいものである。小宮の森嶋批判は、現在の構造改革主義的な意見への有効な反論も提供しているといえる。

 まず小宮は処方箋たる「東アジア共同体」がまったく非現実的であるとする。まず地域統合は森嶋のように国家主権を統合するという作業とはまったく別物であり、むしろ森嶋案のように既存の「国家」を分断し、いくつかのブロックのもとに再統合することは、例えばいまの中国のように国家の統一を重視する国にとってはまったく許容できない、と指摘する。たとえできたとしてもそのようなブロック化は、相対的に政治的・軍事的に強力な中国の影響下に事実上おかれてしまうだろう。

 森嶋の没落論自体への批判も容赦ない。まず森嶋的人口史観は、「人口の質」という科学的に定義できないものに基づいており、しかも森嶋自身が現状の日本人を変えることができない、すなわち手遅れなほど堕落していると断定する一方で、「東アジア共同体」では優秀ゆえにその共同体で埋没することなく力を発揮するとしており、矛盾していると指摘する。実際に小宮の指摘のように、「東アジア共同体」でその心性が劇的に変化するのは、現在世代ではなく、将来世代であるから、まさに矛盾しているといえよう。さらに森嶋が重視する戦前教育を受けた(エリート層に属する)科学者に比べて、現在の日本の科学者の方が例えば世界的な研究に貢献する業績を実証的に数多く残しており、日本の教育システムが劣っているとする材料は見出せないと指摘している。

 この小宮の指摘は重要であり、例えば私は今年の『経済セミナー』の1月号に「日本人はノーベル経済学賞をとれるか」という記事を寄稿したが、そこでノーベル経済学賞受賞候補である上位20位までで森嶋の賞賛した戦前教育をうけた人材は宇沢弘文氏と森嶋氏だけである。この事態は過去に遡っても変化することはなく、むしろノーベル経済学賞を受賞できるほどの国際貢献(海外の専門ジャーナルなどへの掲載論文数など)を行ったものは、戦前教育の成果といえる戦前の経済学者には皆無である(戦時的要因を加味してもそうである)。要するに森嶋の戦前教育への過剰な期待は、自らの体験談以上を出ないと私は思う(戦前の経済学者については私の『沈黙と抵抗』などの著作を参考のこと)。

 さらに小宮は、日本的金融システムの限界は、森嶋の指摘するように、銀行借り入れから新株発行への「不均衡」ゆえではない、とする。なぜなら森嶋はエクィティ・ファイナンスが銀行借り入れよりも有利ではない(モジリアーニー・ミラー命題を小宮は援用して両者は同じ資本コストかむしろ法人税の存在を考慮すると前者の方が高いと指摘)。むしろ80年代においてみられたのは、銀行借り入れから新株発行といったエクィティ・ファイナンスではなく、銀行借り入れから外貨建てやユーロ建ての転換社債・ワラント債などの発行が自由化し、債券発行に市場の選好がシフトしたことによる、銀行収益の低下にある、と述べている。この小宮の指摘は重要である。なぜならば森嶋と同様の指摘(銀行借り入れからエクィティ・ファイナンスへのシフトが日本的金融システムの衰退を招いた)を、90年代の初頭にブームを起こし、いまなお影響力をもつ宮崎義一の『複合不況』(1991年、中央公論社)も主張していたからである。ただ日本的金融システムの衰退自体については、小宮は森嶋と同様の立場であろう。また小宮は金融制度と相互依存とは述べていないが、日本的といわれる雇用システムへの評価はあまり行われていない。

 むしろ小宮の現状分析の力点は、「不況からの景気回復」と「銀行はじめ金融部門の不良債権の完全な解決」という主に短期=循環的問題であると指摘したことになる。つまり森嶋は日本の停滞は、構造的で必然的でもある衰退であるが、小宮にとっては基本的には景気の問題である(もっとも不良債権の扱いが実はこの論争では扱いが宙に浮いていて、これが小宮流日銀理論登場の重要な問題意識につながるのだが)。

 そのため雇用システムの限界とみえるものは、小宮にとっては基本的に総所得の循環的な変動がもたらすものとして把握されている。私もこのような解釈に賛成である。この「日本的」雇用システムの問題については、次回(あくまで予定)のロナルド・ドーアーの『日本型資本主義と市場主義の衝突』(邦訳2001年、東洋経済新報社)で私見も含めて述べる(詳しくは田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』、野口旭との共著『構造改革論の誤解』などを参照されたい)。

 さてこの森嶋・小宮の没落論争は、そもそもなにをもって「没落」なのかで見事なほどずれている。森嶋の「没落」は「人口の質」の低下という一種の精神の荒廃であり、小宮は「没落」自体はほとんど考慮外である、なぜなら基本的に日本の停滞は循環的問題だからである。そのため短中期的には停滞期における趨勢的傾向を上回る「高成長」も可能であると念をおしている。また人口減少自体は、晩婚化・晩産化・生涯未婚率の上昇などでテンポが早くすすむために、長期的には1%程度の実質成長率しか実現できないだろうと見通しを述べている。しかし、小宮は人口減少自体よりもそのテンポこそが問題であり、少子化対策として公的な介入によってこのテンポが緩む余地が多いにあると指摘していて建設的である(人口減少問題についても稿を改めて論じなければいけない…論じるべき問題があまりに多いが)。

 この論争をみると、森嶋の現役世代への失望と彼にとっての最適な制度改革(東アジア共同体)による新世代の「人間改造計画」というものが濃厚に押し出されているといえる。これは小宮が正しく指摘したように、「科学」というよりも一人の戦前エリート層の「願望」でしかないのだろう。

本音と建前の「成功」で失ったもの

2005-05-22 | Weblog
 20日の日本銀行の政策決定会合が終わり、その結果は政策のフレームワークは現状維持であり、いわゆる「量的緩和政策」の継続と、そしていわゆる「なお書き」修正が行われた。今回の決定に先立ち、各種マスコミの報道や市場関係者やエコノミストたちの事前予測が行われ、さまざまな憶測や意見が交錯した。今回の「なお書き」修正では、日銀の量的緩和政策のターゲットである日銀預金残高目標の水準を割り込むことがあっても容認するとの文言などが追加された。

 通常であれば中央銀行は短期金利を引き下げることで景気刺激を行うが、現在の日本は長期的な停滞によって金利をこれ以上引き下げられない非負制約に直面している(もっとも技術的にはまだ引き下げ余地はある)。いわゆる「ゼロ金利政策」である。しかし、日銀はマネタリーベースを増加させることで一層の金融緩和を行うことができるとされ、日銀は短期・長期国債などの買いオペレーションを通じて、この量的緩和政策を実行してきた。現在では量的緩和政策は、「当座預金残高が30~35兆円程度」となるように目標が設定されている。しかし近時、短期国債オペにおいていわゆる「札割れ」が頻発し、従来のオペの手法ではこの当座預金残高目標を割り込む恐れがでてきた。

 その一方で、日本経済の景気回復を受けて、日本銀行が「出口政策」すなわち事実上の金融引き締め政策に転換するのではないか、という予想が市場関係者の間で早くから強まっていた。今回の政策決定会合の直前において発表された2005年1~3月期の実質経済成長率は、大方のエコノミストたちの予測を上回る水準にまで回復し、さらに有力なエコノミストらの予測では今年後半にも景気は「踊り場」を脱出して、潜在経済成長率を上回る安定的な成長経路に回復するという見込みが立てられている。

 また日本銀行の福井総裁は、一時期は「出口政策」は時機尚早であり、ゼロ金利政策と量的緩和の現状のフレームをデフレ脱却が確認できるまで行わないと繰り返し説明を行ってきた。しかし、この数ヶ月に福井総裁の出口政策についての答弁は微妙に変化をみせており、特に前記した「札割れ」問題に関連した預金残高目標の切り下げを匂わす内容が見られた。

 つまり、状況的には、従来からの「出口政策」への市場の一部からの圧力、日本経済の予想を上回る景気回復、そして福井総裁の微妙な説明の変化、といくつかの要素が、出口政策が迫っているのではないか、という観測をもたらしていた。かくいう私も自分のブログの中で、5月が出口政策採用の危険ゾーンであると書いたことがある。経済予測のアマチュアである私でさえそのような見通しを立てられるのだから、プロの予測家はいやでもそのような予想をもったであろう。

 日銀サイドはこの預金残高目標の切り下げを実施したとしてもあくまでも技術的な対応である、という説明する広報活動を行ってきたが、市場関係者・エコノミスト及びメディアでは、この日銀の対応は事実上の「出口政策の第1歩」と理解されていた。しかし、実際には政治的な感覚では群を抜くと評価される福井総裁が、市場にそのような「出口政策」採用というシグナルを不用意に送る対応をとることはあるまい、という希望的観測もあった。

 なぜなら日本の長期停滞の元凶であるデフレーション(デフレ:経済全体の財・サービスの平均価格の継続的な減少。通常は消費者物価指数やGDPデフレータなどで観測する。いまでもメディアなどで散見される個々の財価格の低下とは異なる現象である)は以前として継続中であり、しかも近時においてはデフレは強まる傾向にあった。デフレ対策を(ひところに比べると明らかに熱意は減少しているものの)重視する政府との関係からいって、デフレ脱却が不透明な現状において、事実上の金融引き締めのシグナルを市場に送ることを、あえて政治巧者の総裁が行うわけはない、という観測であった。

 しかし、この希望的な観測の根拠はどうも誤りだったようである。どんな経緯かわからないが、政策決定会合の数日前から市場関係者の間では、政策決定会合での「決定予定事項」が情報流出?し、新聞各紙ではこの「決定予定事項」が大きく掲載された。
例えば、以下のリンク先参照
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050518AT3K1701J17052005.html
その内容は預金残高目標の切り下げを一時的に容認する方向などを示唆する具体的なものだった。そして実際の決定は冒頭でも書いたようにこの事前報告?と同じ内容であった。

 日本銀行の政策決定に関する透明性とその説明責任の重要性からいってこのような事実上の決定事項の事前流出?は危惧されるべきことである。実際にこの情報どおりの決定が行われたわけで、まさになんのための政策決定会合であったのだろうか、という嘆息を禁じえない。

 またすでに書いたように、預金残高目標の一時的な割り込み容認は、日銀総裁がいくら記者会見において技術的な対応であり、金融引き締めではない、と言明していても、各種報道に掲載された市場関係者のコメントでは、ほぼ一様にこれが事実上の出口政策の第1歩である、とする評価を与えている。つまり日本銀行の政策決定の説明は、ただの「建前」であり、その「本音」は市場によってよく理解されている、という図式になっている。まさに、ザ・日本社会。その本音と建前の構図は、日本的な金融政策の隠微な市場とのコミュニケーションとその期待形成の妙味をたっぷりと味わうものとなっている。もちろんこれは皮肉だ。

 このような本音と建前の分離という期待形成政策はもちろん健全なものとはいえないだろう。建前はしばしば政策責任の回避の隠れ蓑に利用されるからだ。例えばある発言の建前がAであるが、本音はBであると理解される。Bと理解されたことでなんらかの損失が生じても、発言者はAといったのでありBではなく、勝手に相手が「誤解」した、という言い逃れである。
 もし仮に日本銀行が、単なる技術的な対応であると本気で主張するのならば、市場参加者の出口政策採用という現在蔓延している期待形成を解消する手段を打ち出すべきであった。それは従来の日銀が公式に説明してきた「札割れ」のときの対応である、長期国債の買いオペ増額という手段である。

以下<>内は引用。
<2001年 3月19日の日本銀行(参考2)新しい金融調節方式Q&A より
http://www.boj.or.jp/seisaku/01/pb/k010319c.htm
問6: 日本銀行はこれまで、長期国債買い切りオペの増額に反対してきたのではないですか。
答 : 今回、新しい金融調節方式の実施にあたり、長期国債買い切りオペを増額するのは、あくまで、資金供給オペの未達(いわゆる「札割れ」)が多発するケースなど、所要の資金供給を円滑に実施するうえで必要と判断される場合です。したがって、今後も、国債価格の買い支えや財政ファイナンスを目的として長期国債買い切りオペを増やすということは考えていません。このような趣旨を明らかにするため、今回、これまでの「長期国債買い切りオペは銀行券に対応させる」という考え方を守り、銀行券発行残高を長期国債保有残高の上限とする明確な歯止めも用意しました。>引用終わり

この手法であれば、市場は金融緩和スタンスの継続として理解したであろう。また技術的には、手形買い入れオペ期間の長期化、入札金利(0.001%)をさらに小刻みにするか完全にゼロ金利にするかなどが提唱されていた(河野龍太郎氏「技術的な理由だけで当座預金残高の誘導目標は引下げられるか?」BNP Paribas : Weekly Economic Report - May. 16, 2005 )。しかし、あえて日銀は事実上の金融引き締めとして最も理解されるだろう手法を採用した。まさに確信犯といえるだろう。

 市場は日銀の「本音」をよく理解し、そして日銀の「本音」の狙い通りに期待形成を行ったといえる。しかし、それで失われたものはなんだったろうか? まさに政策担当者への信頼性そのものではないだろうか?

(重要な付記)ところでこの問題については、以下のブログやHPなどが率直な意見を掲載していて実に参考になりましたので紹介させていただきます
今朝のドラめもん
(特に25日付けの「中原三原則」プラスワンやその前後の市場の様子へのきわめて妥当な見方は毎度参考になります)
本石町日記
(日銀取材を通しての率直な意見。見方が私とは違うときも多いがそれでも率直さに敬服)
盟友bewaadさんのブログ
(今回の預金残高目標の切り下げなどをネット上でいち早く指摘)

本コラムの誤植・勘違いなどのご指摘は、 こちらからお願いいたします。

ノーガード戦法・・

2005-05-20 | Weblog
「ノーガード戦法」ご存知でしょうか?漫画 「あしたのジョー」の主人公である矢吹丈が使ったファイティング・ポーズ(?)のことです。両手をだらんとして対峙するわけですから、相手のボクサーも思いっきり踏み込んでパンチを打ってきます。その相手の勢いを利用して、すざまじいカウンターパンチを放つという、まさに肉を切らせて骨を断つを地でいく戦法です。まあ、その「ノーガード戦法」からこのブログの表題が派生してきてはいますが、矢吹丈みたいにいさぎよくはないのでそこはおおいに割り引いてくださいm( )m.

 ところでここでは、田中が日々接する経済問題について率直にコメントしたり、日本経済の長期にわたる大停滞(人によっては「失われた10年」とか「15年」とか表現しているようです)の間に、みなさんの目前を通りすぎていった経済本の数々をノーガード風に(書いてる本人もよくわかってませんが(^^;))論評していこうかと思っています。経済問題へのコメントは、なるべくちょっとしたエッセイのつもりで書いてみたいと思っています。

 特に「失われた15年の読書日記」は、バブル崩壊前後(1991年)から今日までに経済論壇に登場し話題になった「名作」「迷作」の数々を、その書籍の扱った経済問題はその後どのようになったか、あるいはその著者の主張はどのように進展・退化・隠蔽?されていったか、などを軸にして論評していきたいと思っております。

 今後どんな風に展開するのかわかりませんが、ご愛読いただきますよう、お願い申し上げますm( )m.
なお姉妹店? Economics Lovers Liveもご贔屓に。