ふるさとは誰にもある。そこには先人の足跡、伝承されたものがある。つくばには ガマの油売り口上がある。

つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

筑波山の伝承芸能ガマの油売り口上の歴史、衰退と復活 

2020-06-12 | ガマの油口上 技法

永井村の平助の活躍
 ガマの油の由来は、1614(慶長19)年の大阪冬の陣に筑波山大御堂の光誉上人が徳川方として出陣し、外用にガマ成分を含んだ蟾蜍膏(通称“ガマの油”)を、内用に筑波橘の果皮(陳皮)を活用した。
 この効能素晴らしく、全国から参戦した将兵によりその効能は津々浦々に知られることとなった。

 1632(宝永9)年、徳川家光が筑波山大御堂に鐘楼を寄進した。
この鐘楼の音がガマの油売り口上に出てくる“山寺の鐘”のモデルになったと伝えられている。

 1737(元文2)年頃、常陸国筑波郡永井村(その後、旧茨城県新治郡永井村大字永井、町村合併で現在は土浦市の一部)に平助が生まれた。平助9歳の頃、同村の普門院の雑役に雇われた。
 16歳のころ出火にあい平助は責任を取って辞め江戸に出て行った。
 江戸深川のとある問屋の雑役につくことが出来た。
 
           
   
 
    

 あるとき、筑波大御堂参拝団講中に加わり筑波山にやって来た。
筑波山大御堂門前で口上よろしくガマの油が飛ぶように売れているのを見て、ガマの油でひと儲けしようと決心した。
 
   
 平助は、
江戸蔵前の居合抜歯磨き売り、香具師の元締、長井兵助の門下に入り修業を重ねるうちに親分の居合抜きの技をヒントに、紙切り、腕切りの刀技を工夫した。
 これが大評判になり油売りの商売も繁盛した。 
    
 以来、香具師によりガマの油売りは全国にひろがり、ガマ口上を各地で聞くことが出来るようになった。
 後に永井村の平助は親分格になり、1769(明和6)年頃、永井兵助を名のり初代永井兵助が誕生した。その後、兵助の名は有名になったが、その消息は定かでない。
 郷里にも噂話らしいものも残っていない。ニセ兵助が各地に出没したという。 
 

明治時代から第2次世界大戦までは衰退期 
 ガマの油売り口上は落語に取材され舞台芸能として垢抜けた姿で人気を呼んだ。油を売る商売ではなく、あくまでも面白い芸であった。

 明治時代初期の浅草では長井兵助と称する人物が大刀が居合い抜きを披露してガマの油を売っていたのであろう。明治の文豪夏目漱石は、その状況を1912(明治45)年1月1日から4月29日まで「朝日新聞」に連載さし、同年に春陽堂から刊行された小説『彼岸過迄』(ひがんすぎまで)に描写している。
     
   

 ところが、ガマの油の大道における販売は、文明開化で米英等と不平等条約改正を意図した欧米文物の流入・模倣の時代を迎えるにつれ伝統芸能、特に大道芸は欧米人には野蛮なものと誤解されるかの卑屈な意識もあり時が経つにつれ人々の関心から遠ざかっていった。

 また、庶民文化の向上とともに薬の販売ルートが薬局を通した販売に変わったことやワセリンに着色した不良のガマの油が出回るようになり人気を落としていった。
 これがため粗悪品排除を目的とした薬事法の改正があり大道における“薬”の販売ができなくなった。

 こうして大道での販売は途絶えたが、その後もガマの油売り口上は庶民の間で伝承芸能の形で生き続けて来たのである。 

  【関連記事】
  文豪夏目漱石らが描写した江戸・浅草の香具師「長井兵助」

 

戦争後、伝承芸能として復活 
 戦後、筑波山観光振興のために「ガマの油売り口上」を復活させる上で功績があったのは、江戸屋の主人であった吉岡茂氏である。来館する観光客にガマの油売り口上を披露していたという。

 1946(昭和21)年、筑波町観光協会設立、町おこしのためガマの油を観光の目玉とすることにした。 そこで筑波山でガマの油売り口上を伝承していた造園業の原政男氏、畳業の稲葉卯之助氏の2人に協力を依頼した。
 2人は観光には無縁であったが筑波山の観光開発のためならと快諾した。

 2人はホテルの観光客、公私の催しごとに出演するうちに筑波の街では口上の愛好者も増え、口上を学ぶ者も出てくるようになった。中でも江戸屋の女将(吉岡茂氏の妻)の吉岡久子さんが苦労されて演技を磨き、女性口上士として人気を呼ぶようになった。 

 1948(昭和23)年には、ガマ供養祭が始まり、余興には 当時ガマの油の第一人者であった落語家の春風亭柳橋が呼ばれた。
 これがマスコミに大きく取り上げられ、各方面から観光客が訪れるようになった。また、原氏と稲葉氏はマスコミで取り上げられ、各地に赴き演技をする機会が多くなった。

 1951(昭和26)年にはNHKラジオの 『日本三元放送』 があり、仙台-筑波-宮崎が結ばれたとき、筑波を代表して稲葉卯之吉氏が 「ガマの油売り口上」 を演じるまでになった。当時、稲葉氏は畳職の傍ら浪曲や役者など多芸の人として活躍されていた。
 翌年には、「ガマの油売り口上」の大会が行なわれ応募者20名にも及ぶ盛会で、その後も続いた。

〔17代名人〕
 1952(昭和27)年、筑波町観光協会では永井兵助の称号を得たいと調査したところ、第16代までの存在は分かったが行方不明であった。このため断絶、再興という考えに立ち筑波町観光協会は、この年のガマの油売り口上大会に優勝した稲葉卯之吉氏に第17代永井兵助の襲名状を授与することにした。

第17代 永井兵助襲名追認の事情  
 1957(昭和32)年、NHKテレビ「夜店風景」と題して、各種の大道芸を見せる企画が有り、NHKから筑波町に「ガマの油売り口上」をやる人を推薦してほしいと依頼があった。

 役場では大会に優勝し、その後旅館などで「ガマの油売り口上」を演じていた稲葉氏に出演を依頼した。
NHKのスタジオに出向いたところ、そこに居合技の長井兵助(本名・倉持忠助)が招かれていた。

 稲葉氏は長井兵助の立派な衣装、堂々とした立ち居振る舞いに圧倒されたという。
 控室で雑談の折り、16代の名刺を渡し、彼は「私は第16代ガマの油永井兵助を襲名しているが、ガマの油口上はやらない。ガマの油口上を伝承してくれる人を探している。筑波町が後援しているあなたに第17代ガマの油売り口上永井兵助襲名をお願いしたい。」とのことであった。 

 稲葉氏は咄嗟の申し出にあっけにとられたが、受諾する旨答えた。
 その日は、「NHKスタジオであるので仔細はあとで・・・・・。」ということでは別れたが、数年後、筑波町役場の榎戸総務課長に長井兵助(本名・倉持忠助)が死亡したとの連絡がった。

 これを契機に筑波町観光協会では、追認していただいたものと受け止め対応することとした。 

 1959(昭和34)年には供養祭がガマ祭りに成長して、ガマみこしや、口上の奉納などの多彩な行事が行われ、今日に至っている。

〔18代永井兵助〕
 1972(昭和47)年、第17代永井兵助が体調優れず、後継として岡野寛人氏に観光協会長から第18代永井兵助の襲名状が授与された。

 1972年(昭和47)年7月30日、NETテレビ(現テレビ朝日)の黒柳徹子司会の『13時ショー』に17代が高血圧で倒れたので、岡野寛人氏が出演した。
 この際、スタジオで筑波観光協会長から襲名状がわたされ、正式に第18代永井兵助となった。岡野寛人氏は、地元の小学校長であったが、17代とは師弟関係はなく、刀の扱い方などをアドバイスされた程度の関係であったらしい。

                 平成11年の梅まつりでガマ口上を演ずる18代名人
   
 岡野寛人氏は茨城国体でガマの油売り口上を演じ、筑波山のガマの油売り口上が全国に知られることになった。
 また岡野氏は全国各地の口上や落語の口上等を調査研究し集大成したものが世の注目を浴びるようになり、それが伝承芸能「
ガマの油売り口上」として継承され現在に至っている。
   
  
   

 1980(昭和55)年筑波山の地元では、ガマの油売り口上を筑波山の伝承芸能としてとらえる気風が生まれ保存継承の声が上がり、地元有志により初代兵助の慰霊碑とガマの油売り口上発祥の地の碑が筑波山梅林の隣地に建立された。

  〔梅林にあった「おたちあい」〕
    

   
      
     
  
    
  
  

保存会の設立 

 1999(平成11)年、第18代永井兵助90歳を迎えたのを機に、その技芸を継承するため地元観光業関係者等有志が保存会を結成する運びになった。
 平成11年10月7日、「おたちあい」にて設立総会が開催され、出席18名、委任状6名、在籍者は
40名であった。なお私も設立総会に参加した。

  〔設立趣意書〕
  

 2003(平成15)年、第18代永井兵助老齢のため吉岡久子さんが岡野氏の後を継ぐことになり観光協会長(注、つくば市長)から第19代永井兵助の襲名状が授与された。       

             保存会の総会でガマ口上を演ずる19代名人 
   
 第18代はその後もガマの油売り口上の演技を続け、第19代とともに全国各地でガマの油売り口上の演技をつづけ、筑波山の伝承芸能の発展のために尽力された。 

        

〔無形民俗芸能に認定〕

  2013(平成25)年1月17日、つくば市認定地域文化財規則第3条の規定により、つくば市認定地域無形民俗芸能に認定された。

〔土日・祝日の公演〕

  週末の土日曜日及び祝日は、筑波山神社でガマ口上保存会の会員がガマの油売り口上を実演している。
  
     

【関連記事】
ガマの油売り口上 初代名人・永井兵助と刀について

 


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