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つくば市認定地域民俗無形文化財がまの油売り口上及び筑波山地域ジオパーク構想に関連した出来事や歴史を紹介する記事です。

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (4) 

2022-03-13 | 茨城県南 歴史と風俗

 

島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (3) の続き    


第10章 3 


 半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。
彼が贄川(にえがわ)や福島の庄屋と共に急いで江戸を立って来たのは10月下旬で、
ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。
時と場合により、街道の混乱から村民を護(まも)らねばならないとの彼の考えは、
すでにそのころに起こって来た。


 諸国の人の注意は尊攘を標榜する水戸人士の行動と、
筑波挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、
那珂港の没落と共に榊原新左衛門以下1200余人の降参者と
武田耕雲斎はじめ900余人の脱走者とを
いかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。  


 30日近くの時の間には、
幕府方に降った宍戸侯(ししどこう)(松平大炊頭(おおいのかみ))の心事も、
その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。 


 幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、
宍戸侯に死を賜わったという。

 それについで死罪に処せられた従臣28人、
同じく水戸藩士2人、
宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、
この難に死んだものは都合43人に及んだという。

宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。


 賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、
それを聞いた時であったとも言わるる。
「所詮、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、
潔く首途(かどで)に上ったという彼ら水戸浪士は、
もはや幕府に用のない人たちだった。
前進あるのみだった。


 半蔵に言わせると、
この水戸浪士がいたるところで、
人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。

高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩に恐れられ、
戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩や飯田藩に恐れられるだろう。


 実にそれは命がけだからで。
二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武の気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、
万一の節はひとかどの御奉公に立てと
日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、
一方に討死を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。 


 それにしても、
江戸両国の橋の上から丑寅(うしとら)の方角に遠く望んだ人たちの動きが、
わずか1月近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。

 水戸の学問と言えば、
少年時代からの彼が心をひかれたものであり、
あの藤田東湖の『正気(せいき)の歌』なぞを好んで諳誦したころの心は今だに忘れられずにある。

 この東湖先生の子息さんにあたる人を近くこの峠の上に、
しかも彼の自宅に迎え入れようとは、
思いがけないことであった。

 平田門人としての彼が、
水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、
なおなお思いがけないことであった。  


 別に、
半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、
心にかかる1人の旧友もあった。

 平田同門の亀山嘉治が8月14日那珂港で小荷駄掛りとなって以来、
11月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、
つい最近のことである。

 いよいよ浪士らの行路が変更され、
参州街道から東海道に向かうと見せて、
その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、
26日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然した。


 それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、
その軍に身を投じたのであるが、
寸功なくして今日にいたったとあり、
いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認(したた)めてある。

 今回下伊那の飯島というところまで来て、
はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。
 馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧(むかし)を語りたいともある。 


 「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」と言って、
隣宿妻籠本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。 


 その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、
木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。

 東は贄川(にえがわ)の桜沢口へ。
西は妻籠の大平口へ。
もっとも、
妻籠の方へは福島の砲術指南役植松菖助(うえまつしょうすけ)が大将で5、60人の一隊を引き連れながら、
伊那の通路を堅めるために出張して来た。
 夜は往還へ綱を張り、
その端に鈴をつけ、
番士を伏せて、
鳴りを沈めながら周囲を警戒している。

 寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠の様子をも探りに来た。

 「寿平次さん、君の方へは福島から何か沙汰(さた)がありましたか。」 
 「浪士のことについてですか。本陣問屋へはなんとも言って来ません。」 

 「何か考えがあると見えて、わたしの方へもなんとも言って来ない。
   これが普通の場合なら、浪士なぞは泊めちゃならないなんて、
   沙汰のあるところですがね。」
 

 「そりゃ、半蔵さん、
  福島の旦那様だってなるべく浪士には避(よ)けて通ってもらいたい腹でいますさ。」 


 「いずれ浪士は清内路(せいないじ)から蘭(あららぎ)へかかって、
  橋場へ出て来ましょう。
  あれからわたしの家をめがけてやって来るだろうと思うんです。
  もし来たら、わたしは旅人として迎えるつもりです。」 


 「それを聞いてわたしも安心しました。
  馬籠から中津川の方へ無事に浪士を落としてやることですね、
  福島の旦那様も内々はそれを望んでいるんですよ。」 


 「妻籠の方は心配なしですね。
  そんなら、寿平次さん、お願いがあります。
  あすはかなりごたごたするだろうと思うんです。
  もし妻籠の方の都合がついたら来てくれませんか。
  なにしろ、君、急な話で、したくのしようもない。
  けさは会所で寄り合いをしましてね、
  村じゅう総がかりでやることにしました。
  みんな手分けをして、出かけています。
  わたしも今、一息入れているところなんです。」 

 
 「そう言えば、今度は飯田でもよっぽど平田の御門人にお礼を言っていい。
  君たちのお仲間もなかなかやる。」 

 「平田門人もいくらか寿平次さんに認められたわけですかね。」 

 その時、宿泊人数の割り当てに村方へ出歩いていた宿役人仲間も帰って来て、
そこへ顔を見せる。
年寄役の伊之助は荒町から。
問屋九郎兵衛は峠から。

 馬籠ではたいがいの家が浪士の宿をすることになって、
万福寺あたりでも引き受けられるだけ引き受ける。

 本陣としての半蔵の家はもとより、
隣家の伊之助方でも向こう側の隠宅まで御用宿ということになり同勢21人の宿泊の用意を引き受けた。 


 「半蔵さん、それじゃわたしは失礼します。
  都合さえついたら、あす出直して来ます。」 

  寿平次はこっそりやって来て、またこっそり妻籠の方へ帰って行った。 

 にわかに宿内の光景も変わりつつあった。

 千余人からの浪士の同勢が梨子野峠(なしのとうげ)を登って来ることが知れると、
在方(ざいかた)へ逃げ去るものがある。
諸道具を土蔵に入れるものがある。
大切な帳面や腰の物を長持に入れ、
青野という方まで運ぶものがある。


 旧暦11月の末だ。
26日には冬らしい雨が朝から降り出した。
その日の午後になると、馬籠宿内の女子供で家にとどまるものは少なかった。
いずれも握飯(むすび)、鰹節なぞを持って、山へ林へと逃げ惑うた。
半蔵の家でもお民は子供や下女を連れて裏の隠居所まで立ち退(の)いた。
本陣の囲炉裏ばたには、栄吉、清助をはじめ、
出入りの百姓や下男の佐吉を相手に立ち働くおまんだけが残った。 


 「姉さま。」 
 台所の入り口から、声をかけながら土間のところに来て立つ近所の婆さんもあった。
 婆さんはあたりを見回しながら言った。


 「お前さまはお一人かなし。
  そんならお前さまはここに残らっせるつもりか。
  おれも心細いで、お前さまが行くなら一緒に本陣林へでも逃げずかと思って、
  ちょっくら様子を見に来た。
  今夜はみんな山で夜明かしだげな。
  おまけに、この意地の悪い雨はどうだなし。」 


 独り者の婆さんまでが逃げじたくだ。 
 半蔵は家の外にも内にもいそがしい時を送った。

 水戸浪士をこの峠の上の宿場に迎えるばかりにしたくのできたころ、
彼は広い囲炉裏ばたへ通って、
そこへ裏2階から母屋の様子を見に来る父吉左衛門とも一緒になった。 


 「何しろ、これはえらい騒ぎになった。」と吉左衛門は案じ顔に言った。

 「文久元年10月の和宮さまがお通り以来だぞ。
  千何百人からの同勢をこんな宿場で引き受けようもあるまい。」 

 「お父さん、そのことなら、落合の宿でも分けて引き受けると言っています。」と半蔵が言う。 
 「今夜のお客さまの中には、御老人もあるそうだね。」 

 「その話ですが、山国兵部という人はもう70以上だそうです。
  武田耕雲斎、田丸稲右衛門、この2人も60を越してると言いますよ。」 


 「おれも聞いた。
  人が6、70にもなって、全く後方(うしろ)を振り返ることもできないと考えてごらんな。
  生命がけとは言いながら――えらい話だぞ。」 

 「今度は東湖先生の御子息さんも御一緒です。
  この藤田小四郎という人はまだ若い。
  23、4で一方の大将だというから驚くじゃありませんか。」 

  おそろしく早熟なかただと見えるな。」 

 「まあ、お父さん。わたしに言わせると、
  浪士も若いものばかりでしたら、
  京都まで行こうとしますまい。
  水戸の城下の方で討死の覚悟をするだろうと思いますね。」 


 「そりゃ、半蔵。老人ばかりなら、最初から筑波山には立てこもるまいよ。」 
  父と子は互いに顔を見合わせた。 

  幕府への遠慮から、
駅長としての半蔵は家の門前に「武田伊賀守様御宿」の札も公然とは掲げさせなかったが、
それでも玄関のところには本陣らしい幕を張り回させた。

 表向きの出迎えも遠慮して、
年寄役伊之助と組頭庄助の2人と共に宿はずれまで水戸の人たちを迎えようとした。 


 「お母さん、お願いしますよ。」と彼が声をかけて行こうとすると、
おまんはあたりに気を配って、
堅く帯を締め直したり、短刀をその帯の間にはさんだりしていた。


 もはや、太鼓の音だ。
おのおの抜き身の鎗(やり)を手にした6人の騎馬武者と20人ばかりの歩行(かち)武者とを先頭にして、
各部隊が東の方角から順に街道を踏んで来た。 


 この一行の中には、
浪士らのために人質に取られて、
腰繩で連れられて来た1人の飯田の商人もあった。

 浪士らは、
椀屋文七と聞こえたこの飯田の商人が横浜貿易で一万両からの金をもうけたことを聞き出し、
すくなくも2、3百両の利得を吐き出させるために、
2人の番士付きで伊那から護送して来た。

きびしく軍の掠奪を戒め、
それを犯すものは味方でも許すまいとしている浪士らにも一方にはこのお灸の術があった。 


 ヨーロッパに向かって、
この国を開くか開かないかはまだ解決のつかない多年の懸案であって、
幕府に許されても朝廷から許されない貿易は売国であるとさえ考えるものは、
排外熱の高い水戸浪士中に少なくなかったのである。 


【続く】
島崎藤村の「夜明け前」に描かれた水戸天狗党 (5)




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