昨日は、ご法事の後、梅干しの最終段階である、炎天下に三日三晩、梅を干す作業の準備をしておりまして、また茗荷畑に茗荷を取りに行って、さすがに疲れてしまいました。その後夜にドラマを見てたら、すっかりブログの更新を忘れてしまい寝てしまいました。先週も今週も平日でも連日法事のご予約がいただいてまして、体調を崩さぬよう勤めたいと思っております。昨日は、お墓の前での読経が多く、この時期、納骨される方は、大変だと思いますので、少し短めの読経にしております。法徳寺では、ご法事でも初盆でも、礼服でなく喪服でなく、なるべく涼しい格好でお参りしてください。本堂には、エアコンに椅子式でありますから、熱中症にはなりませんけれども、それでもどうぞ、無理のない服装でお参りいただきたいと思います。亡き方も、ご法事を勤めてあげるだけで喜んでくれていると思います。
今日も暑かったので、夕方から境内のお掃除を始めましたが、今年初めてファンベスト着ました。
さて、皆さんは、今日から心を入れかえて、良い人間になろうと思う事は無いでしょうか?逆によく本のタイトルにあるように、「いい人を辞めたら、心が軽くなった」と言う感想を見て、私も、いい人を辞めよう決意したことはないでしょうか。私は今まで何度もありますが、何度も失敗しております。私たちは、簡単に変わることなどできないのであります。良い人間になろうとしても、悪いことをしてしまい、またその逆もあります。良い人間になろうと思っても、結局は苦しみ、もう良い人間はやめたと思っても、結局は苦しむのであります。生き方は、自分の思い通りにならないのであります。時々、あの人は、自分の思い通りに、自分の思ったことを言い、思った通りに行動し、きっと悩みもないんだなぁ、うらやましい人だと思うのでありますが、案外、その人も思い通りに生きていないのかもしれません。思い通りに生きられないのは、私たちの前世の行いが、今の自分を作っているからであります。決して運命ではなく、私の行いが、今の私を作っているからであります。ですから、思い通り生きられないのは当たり前であり、受け入れていくしかないのであります。生き方に対する本は、たくさん出ています。それだけ、みんなどう生きればいいか悩んでいるからであります。しかし、次から次と出版されるには、理由があります。本を読んでも、読んだ時はなるほどと思うけれども、結局その通り生きられず、また、別な本に手を出すのであります。なぜそんなことを言えるかと言うと、私がそうだからであります。生き方に対する本は、持っておくと役には立ちます。何度か読み返すと良いこともたくさんあります。でも、浄土真宗では、生き方を説かないのであります。みんな、お互い前世の行いが違いますから、現世での生き方も違うのであります、そして、生き方に正解などないのであります。何より如来の救いに条件はございません。良い人間にならなければ救われないと、条件を出されたら、私は救いから外されます。
今年の梅雨も明け、いよいよ夏本番がやってまいります。今日も暑い1日でした。私は暑いとついイライラしてしまいます、イライラしたら涼しくなるわけでもなく、逆にさらに暑くなるのに止められないのであります。私たちにそなわる煩悩を仏教では、火に例えています。その火は、この世の命終わるまで、消える事は無いのであります。お年寄りになったからと言って、穏やかになるとは限りません。ますます、イライラして過ごす方もいらっしゃいます。逆に、晩年になって穏やかな人柄に変わる人もいらっしゃいます。どちらがいいかは分かりませんが、人生終わりよければ全てよし、葬儀の時に、家族が晩年はニコニコと穏やかな、おじいちゃんだったね、おばあちゃんだったねと言われた方が幸せな気はいたします。しかし、人生は予定通りに行かぬものであります。
火の車作る大工はなけれども、己が作りて己が乗りゆく
ここで申します、火の車とは、家計が苦しいという意味ではありません。地獄に向かう車のことであります。神様、仏様が悪事を犯したものを、その報いとして地獄に堕とすのではありません。自業自得、因果応報というお言葉があります通り、自分の行いがその結果となるのであります。火の車は、自分が作って、自分が乗っていることにも、気づかずに人生をおくっているのです。まさか、自分が地獄行きだとは、誰も思わないのであります。それよりもあいつが悪い。こいつが悪いと周りを悪者にして、自分は正しい、自分は良い人間だと思っているのが、私の姿であります。阿弥陀如来は、火の車に乗っている私を、そのままのあなたを救うと願われているのです。その願いは、南無阿弥陀仏となって、今、私に届いています、今という事は条件がない。そのまま救うという意味であります。もし、今、臨終を迎えても、そのままでありますから、大丈夫なのであります。火の車に乗っていた、私が、いつの間にやら、阿弥陀如来の大きな船に乗せていただいていたのであります。火の車のままですが、阿弥陀の船は、火が燃え移り沈没することなど絶対にないのであります。
迷いの世界である人間界は、お互いがそれぞれに、正しいと思う世界を持っているので、わかり合えると言う事は、無いのであります。どちらも正しいのです。しかし、相手は間違っているとなるから、喧嘩になるのであります。お互い住んでる世界が違うのですから価値観も考えもみんな違います。それをわかってないと人生、間違うのであります。会社と言う組織の中で、上司と部下などの関係であれば、まだ良いのでありますが、友人同士は特にその関係をわかってないと、喧嘩になるのは当たり前であります。そして喧嘩になると、お互い急に自分の仲間を増やそうと必死になり、相手に抵抗しようとするのであります。親子であっても夫婦であっても兄弟であって、みんな違う世界に住んでいます。それが仏教の基本的な考え方です。みんな前世の行いが違うのですから、現世の住んでる世界が違うのは、当たり前であります。みんな見えている世界が違うのです。それがわかれば、人間関係は悩む事は少なくなるのではないかと思います。どうにも意見が合わない方とはお互い距離を置くのが、1番であります。無理に相手を自分に従わせようと思うと、お互い傷つけ合って全くお互いのためになりません。逆にみんなの顔色を伺って、八方美人になると心を病むのはあきらかです。人間は1人で生まれて、最後も1人で死んでいくのです。1人を楽しめるようになったら、何も怖くはないのであります。自分らしく生きたいなら、お互いそれぞれに住んでる世界が違うということをわかっていないと、自分らしくなど生きられないのであります。どんなに自分で良いことをしたと思っても、褒めてくれる人もいれば、批判する人もいるのであります。一喜一憂は馬鹿らしいです。