本日は、お寺で6件のご法事があります。また、永代供養墓への納骨も2件あり、寺で食事もあり、通夜もあります。誠に有り難い事です。
今日は、何も予定が入っていなかったので、久しぶりに山に行ってきたわけですが、雨が降ったり止んだりで、距離も長く、結構、疲れました。そもそも、予定していたバスに乗り遅れ、次は一時間後、仕方がないので、登山口まで歩くことになり、登り始める時間が遅くなってしまい。しかも、その時点で本降りの雨だったので、今日は、止めて、帰ろうと何度も、自分に言い聞かせたのですが、私の足は、勝手に前に進んでいきました。私は、いつも、一人なので、止めるのも自由、登るのも自由なのですが、いつも、結局、雨が降っていようが、止めることはないのです、でも、不思議なのは、結局、やっぱり、前に進んでよかったと思うのです。でも、ペースを早くしないといけないし、気持ちは焦るし、転んだりケガをしたり、道に迷うリスクも高まるので、焦っている時ほど、気を付けるようにしています。でも、一番、転ぶのは、気を抜いて油断したときなのです。
浄土真宗の救いは、阿弥陀如来の願いを聞き、浄土に生まれ仏と成ることです。その願いは、南無阿弥陀仏の呼び声となって、私に届いています。私が救われる証拠は、私の口に、南無阿弥陀仏が出て下さっているからです。私、先日、始めてお会いした方が、長年お付き合いのあるお寺のご門徒さんに、声がそっくりなのです。よく、声が似ていると、お顔も似ていると言われますが、お顔は、まったく似ていないのです。私、その方とはじめてお会いしたのですが、あれ?なんか、〇〇さんに声が似ているとすぐに気づきました。声というのは、不思議なもので、頭のどこかで記憶しているのでしょう。ですから、長年のお付き合いの方であれば、お寺に、電話がかかってきて、相手が名のる前に、相手の名前が分かります。阿弥陀如来は、声の仏様です。本堂に鎮座されているお木造が本尊ではなく、南無阿弥陀仏の声となって、私に至り届いている仏様が、浄土真宗の本尊なのです。だから、私が居るところが、阿弥陀如来のいらっしゃるところです。私は、何度か、臨終になっても、認知症になっても、南無阿弥陀仏だけは称えているんです、不思議なんですよねぇとご家族からお聞きすることがあります、それは、その方が称えているのには違いないですが、阿弥陀如来が今至り届いている証拠なのです。
私はその方とはじめてお会いしたのに、何か、はじめて会った気がしませんでした。ずいぶん、昔からのお知り合いのように感じました。声には、そんなはたらきがあるんですねぇ。皆さんも、今でも、大切な方の声を忘れられないと思います。街で、ふと、似ている声の方と出会ったら、つい、その方を見てしまうのではないでしょうか。もしかしたら、生まれ変わりかしらとおもったりして。それではまた。