社長、理事長、校長、住職、会長、世の中には、長のつく肩書がたくさんございます。いつかは、その代替わりがありますが、後継者に「あとは、任せたよ」と言っても、任せられないのが人間です。社長が、「任せたよ」と言っても、毎日、会社に様子を見に来られたら、新社長はやりにくいはずです。それは、お寺でも同じです。「任せたよ」と言ったら、口出ししてはいけません。任せるとは、受け持ちが変わることです、最高責任者が変わることです。任せるというのを、浄土真宗では信心をいただくと言われます。
弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり、南無阿弥陀仏の主に成るといふは信心をうることなり、また、当流の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ、一念の信心なり。蓮如上人御一代記聞書より
最初の弥陀をたのめばというのは、助けてくださいとお願いする意味ではありません。浄土真宗では、いつでも、阿弥陀如来の救いが、先にはたらいて下さっているのですから、たのむとはお任せするという意味です。南無阿弥陀仏の主に成るとは、人生の主が阿弥陀如来に変わることです。人生の最高責任者が阿弥陀如来になることです。私の自力のはからいでは救われません。信心をうるとは、まさに、受け持ちが変わる。自力心に用事がなくなる、念仏称えたら、信じたら、善い人間になったら、浄土真宗にたらはいりません。第一志望の大学の合格通知をもらっても、さらに、受験勉強する人はいません。お浄土参りの合格通知は、南無阿弥陀仏と届いています。ところが、親鸞聖人は、教行信証の行巻の終わりの正信偈に、凄いことを書かれています「信楽(信心)を受持することははなはだもって難し、難のなかの難これに過ぎたるはなし」とお示し下さっています。世の中で、信心をいただくこと以上に難しいことはないと言われます。この言葉は、私を長年悩ませるお言葉です。念仏称えて救われようとするのも自力、称えないのも自力。私も長年、どうしたら、信心いただけるんだろうかと悩んでます。今も不安になるときがあります。蓮如上人のお示しの通り、浄土真宗の真実の宝は南無阿弥陀仏しかありません。これこそが、信心ですとお示し下さっています。南無阿弥陀仏は、称えるのではなく、弥陀の呼び声と聞かせて頂くものです。その南無阿弥陀仏が、「我に任せよ必ず救う」と聞こえていることが、既に、阿弥陀如来のはたらきの中です。それは、今の話です。今、臨終でも助かる話です。そうしたら、私のはからい自力心には用事はいりません。それが、信心をいただいたということです。