遠く宿縁を慶べ
先日、法徳寺先々代住職、故「伊東英哲」の50回忌法要を行いました。親戚一同はもちろん、ひ孫に当たる私の子供たちも参列し、約25人が本堂にて読
経しました。そして私の父、前住職の発案により実の子供達4人に思い出を語ってもらうということになりました。若くして亡くなった経緯やその時の状況など
を聞き、そして住職でありながら教員もしていて、温和で人あたりの良い優しい方だったと、皆さんが言っていたのが印象的でした。
私は叔父叔母の話を聞いて、改めて私の生まれる前に亡くなり会うこともできなかった、祖父を想像し、会いたかった思慕の思いと共に「祖父がいなかっ
たら今の私も存在せず、うちの子たちも生まれてないのだなあ」と不思議な気持ちになりました。
私は今でも何故寺の子に生まれたのだろうと思う時があります。特に子供の頃はそのことで同級生に馬鹿にされたりもしたので「なぜ僕は寺のなんだ」と
思ったものです。もちろん今では寺に生まれて良かったと思っています。写真が残っている先祖は祖父祖母までですが、曽祖父曾祖母、その先もずっと
先祖がいて、皆この寺を継承し発展させてくれと願い往生して行かれたのだろうと思いました。
親鸞聖人は教行信証総序において
「大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけず真実の信を得たなら、
遠く過去からの因縁を慶べ」(教行信証現代語版)
とおっしゃいました。私は浄土真宗の寺の次男に生まれ、工学部を卒業したにも関わらず僧侶となり、この真実の教えに出会うことができました。これは
僧侶資格を取ったからなどという短絡的な言葉では到底言えない、今日に至る深く長い因縁があったからこそでしょう。また更なる因縁により、結婚をし
て二人の子供に恵まれました。きっと子供たちも「なぜうちはお寺なのだろう」と思っているはずです。今の信心ある生活ができるという喜びは、先祖が残
してくれた命と願いによって成り立っているのだと、祖父50回忌法要にて改めて思い知らされました。
伊東 知幸