「ちゃわんや15世 豊斎のblog」
茶陶、朝日焼の十五世、松林豊斎。
陶芸、お茶、日本の伝統的な美意識のほか、趣味のPCや携帯、そして祇園の遊び方。
 



今年も桜が散っている。
僕はずいぶん前から、
「あと何回桜の開花を見ることができるんだろう」
桜が咲くたびに思っている。



つまり桜とは、春を感ずる大きな要素であり、
季節感や時のうつろいの重要な節目である。
でもこのことは、世界的なものではなく、
多分に日本人の共通な感性なのだろう。

先日もテレビで、ある川沿いの桜並木が満開になって、
その桜を楽しむご夫婦が、
「この時期この桜のトンネルを歩くのが楽しみです。
やっぱり自然っていいですね」
というようなシーンがあった。

私はちょっとと言うか、かなりかもしれないが、
天邪鬼なところがあり、その「自然」という発想に抵抗を感じる。
川の堤防の桜並木は、人手で植えられたもので、
人工物そのものである。先人の思いと労力の結晶であろう。

そういえば、京都のお寺の庭を拝観して、「自然感ずる」人たちがいる。
あの美しい庭園は、木々の剪定もさることながら、
毎朝毎朝の半端ではない掃除によって保たれている。
その証拠に、木に枯葉の一枚、枯れ松葉の一葉でも載っていることはない。
普通の家庭の庭掃除とはレベルの違う掃除の仕方である。
一日も欠かさぬ労働の成果の「美しさ」で、
それこそ一と月でもサボってしまえば、無残な姿になってしまうであろう。

話が脱線したので桜に戻すと、
さらにいえば、日本中の桜の大部分はソメイヨシノであるらしい。
このソメイヨシノは江戸末期に、
江戸の染井村で交配の末、生み出された品種で、
接ぎ木によってのみ繁殖するという。
結実はするが発芽はしないそうである。
つまりソメイヨシノという桜の品種もまた「人工物」ともいえる。

ということは日本にあまたあるソメイヨシノは、
同じ遺伝子のクローンで親子とはいえないものだ。
また、桜の木も当然寿命があるわけで、もし人類が滅亡すれば、
接ぎ木されることがなくなったソメイヨシノも絶える運命だ。

ソメイヨシノは、別の種の桜と交配すれば、発芽するらしいが、
それはソメイヨシノとは別種の桜となるということである。
本来生物とは、
「違う二種の遺伝子が交配して新たな遺伝子を生み出し、進化してゆく」
ものであろう。

同じ遺伝子同士だから、結実しても発芽しないのだろうか。
もしそうだとすれば、生物の生殖や交配のメカニズムは、
本当によくできている。
自然の摂理とは、そういう安全装置が組み込まれているのだろうか。

もう少し私の勝手な推論を進めれば、
子孫を残せないがゆえに、人間に自己の種を残させようと、
精一杯人間を楽しませるように美しく咲いているのだろうか。

牡丹のように人に愛された花や、
稲のような農産物は古来より人の手で交配が繰り返されたものである。
ソメイヨシノもそのような人間の営みの結果うみだされたものである。

しかし本来「花」とは、虫を寄せる美しく咲いているもので、
それは遠くに花粉を運び実を結ぶためだ。
その証拠に風で花粉をはこぶ植物は美しくない。

だとすれば、実を結ぶためでなく美しい花は、何のためだろう?
私はその辺が、すこし引っかかるとともに、
人の身勝手さとなんか物悲しさを感じるのである。

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