一反百姓「じねん道」【百姓の100章】『農的ワークライフバランス』実践と研究日記@斎藤博嗣&裕子*4人家族(夫婦子供2)

2005年、東京から茨城の農村へ夫婦で移住し新規就農。
こども百姓「じねん童」2人と共に、家庭自給生活を自学自習中

自然農法家 福岡正信さんが死去

2008年08月17日 | 【グリーンピック・緑の道】地球を『緑の生命連鎖』でつなごう!!

■2008年08月17日(日)付 朝日新聞



自然農法を提唱
福岡正信氏死去

 自然農法を提唱し、世界各国で砂漠緑化などに取り組んだ福岡正信(ふくおか・まさのぶ)さんが16日、老衰で死去した。95歳だった。「アジアのノーベル賞」と言われるフィリピンのマグサイサイ賞やインド最高栄誉賞を受賞した。通夜は17日午後6時30分、葬儀は18日午後1時30分から愛媛県伊予市市場127のルミエール伊予で営まれる。喪主は長男雅人さん。  
 伊予市生まれ。岐阜高等農林学校卒業。横浜税関植物検査課と高知県農業試験場に勤務した後、20代で伊予市に帰郷した。 米や野菜作りにおいていかに人の手を省き、自然の力にゆだねるかを追究。土を耕さず無肥料・無農薬・無除草で作物を育てることを特徴とする自然農法を確立した。  とりわけ、田植えをせず、種籾(たねもみ)をじかに地面にまいて米を作り、刈り取る前に麦の種をまくという「不耕起直播(ちょくはん)」の米麦連続栽培は晩年まで改良を重ねた。
 樹木や果樹などの約100種の種を粘土に混ぜてつくる特製の「粘土団子」を活用して、アジアやアフリカ諸国の砂漠緑化にもかかわった。海外では宗教哲学者としての評価も高い。
著書「わら一本の革命」は世界各国の言語に翻訳された。

□asahi.com 同様記事
http://arch.asahi.com/obituaries/update/0816/OSK200808160100.html




■2008年08月17日(日)付 愛媛新聞



「自然農法」「粘土団子」考案
福岡正信さん死去 95歳

 農薬や肥料を使わず、除草もせず、耕しもしないという「自然農法」を提唱した福岡正信(ふくおか・まさのぶ)氏が十六日午前十時十五分、老衰のため伊予市大平甲二〇一ノ二の自宅で死去した。九十五歳。伊予市出身。葬儀・告別式は十八日午後一時半から、伊予市市場一二七、ルミエール伊予で。喪主は長男雅人(まさと)氏。
 岐阜高等農林学校(現岐阜大学農学部)卒業後、横浜税関植物検査課などに勤務。一九三八年帰郷し、伊予市大平に「福岡自然農園」を設立、自然農法を実践し、普及に努めた。
 農場を営む一方、砂漠の緑化に早くから取り組んだ。樹木や果樹、穀物などの種を混ぜた「粘土団子」を考案し、七九年には米カリフォルニア州で緑化に成功。アフリカやアジア各国で地球緑化を推進した。
 八八年、インドの最高栄誉賞「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞。九七年、世界の持続可能な開発に貢献した人に贈るアース・カウンシル賞の初の受賞者にも選ばれた。

独自哲学 世界で実践
人柄慕い「信者」集う

 福岡正信さんが、逝った。現実のことと思えない。存在自体が時空を超え、「仙人然」とした精神的な実在だったため、肉体の不在という現実が直接、響いてこないのだ。福岡さんが残した科学的・精神的遺産は、それほど魂の奥深くにある。
 「自然農法」は県内より全国、さらには海外で理解され、そして評価された。「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」。それは二十歳代のおり、福岡さんが悟った「自然の摂理」の実践。技と技のはざまには、あまたの哲学が練り込まれている。故に、氏の農法から技術だけを抽出しての実践は、時に困難を伴った。
 福岡さんの実践は農法にとどまらない。その延長上に完成した「粘土団子」を携えて飛んだ国は中国・シルクロードなどアジアやアフリカ、アメリカとほぼ全世界に及ぶ。この砂漠緑化の切り札が評価され、一九八八年にはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞した。
 福岡ドクトリンは、氏の自然観に技法を織り込んだ実践哲学でもあった。あえて解釈すれば「自然科学と社会科学の融合」という、人類最大の課題でもあった。この融合理論を理解できる人が数えるほどしかいない現実を考えると、氏の存在は少し時代を先取りしすぎたのかもしれない。
 だから自然農法や粘土団子が、自然科学・社会科学両分野を含めて真に、正当に評価されるのは、少し後世のことになろう。「わら一本」が、農薬と機械を使った製造工場ともいえる姿になった日本の農業を「革命」するには、ついに至らなかったゆえんだ。
 氏を慕い、取り囲んだのはだから、氏に無限の可能性を「感覚的に」かぎつけた人だった。
 福岡さんの農園には全国、各国からあまたの「信者」が集い、その理論に共感・感動し、人柄にひかれた。その風ぼうととっつきにくさから、出会いには信念が必要だった。しかし懐に一度飛び込むと、深淵(しんえん)さに吸引される。農と自然、人間の高慢さから未来への食料戦略まで、氏の話題の水平線は、凡人にはかなたにあった。
 福岡さんの世界はむろん、氏を中心とした秩序体ではあったが、ピラミッド型ではなかった。むしろ、氏を緩やかな核として、あらゆる多様性を秘めた集団としてあった。だから、氏の残した遺産は、時代によって形を変えつつ、未来に受け継がれる。その意味で環境時代の自然科学者、思想家、哲学者として希少な存在だった。

(地方部・西原博之)


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