檜枝岐から奥只見湖へ入る途中で県境を越えたため、新潟に来ています。
旅の時はいつもそうなんですが、朝食がビッグなので、なかなか腹が減りません。
関越道や国道17号線を横切り小出の街に入ります。
特に下調べもしておらず、2時過ぎになんとなく飛び込んだのが此処
その時間でも駐車場がいっぱいだったのが決め手、ラーメンの土佐屋。
背脂ラーメンが有名なお店らしいのですが、私には毒。
ただの塩ラーメン600円です。
醤油、味噌、塩がそろっていて、背脂は+80円。
それでも結構こってり系。
次回、いつになるかわかりませんが、腹をすかせた状態で、背脂系をいって見たいものです。
その後、あの場所へ向かいました。
旧山古志村です。
入って見るとわかるのですが、それほど急峻な山谷があるわけでも無くごく普通の山村、2004年の10月、そこをまず台風が襲い、三日後のあの中越地震、村内は135ヶ所で土砂崩れが発生し全てのインフラが失われたのです。
村の中心の谷が周辺から崩れ落ちた土砂で埋まり、あの震災ダムに家々が沈んでいったのでした。
今でも土砂に埋まった家々が当時のまま残されています。
完全復旧は恐らく困難、ダムも残しそれなりに安定する地形を保持し、その上に新しい道路と橋を造ったようでした。
悲しい風景です。
被災した皆さんのものと思われる新しい住宅が下の写真の奥のほうに並んでいます。
災害と正面から向かい合って、頑張っているようでした。
この後旧守門村へ。すもんむら。
守門村は今では魚沼市、山古志村は長岡市の一部になっています。
新潟の地方を車で走られた方は気づかれると思うのですが、とにかく家が大きいですよね。
関東や東北地方とはスケールが違います。
この古民家も、民家と呼んで良いのでしょうか、庄屋かな。豪農の家ですね、目黒邸。
寛政9年、1797年に建てられたそうです。
まさに豪壮、越後ではかなり周辺部かと思われる地域ですが、豊かな場所だったのですね。
こんな豪邸がいくつか残されているようでした。
そして宿へ。(これだけ写真を宿のHPからいただき)
温泉ではありませんが、家族で切り盛りするお宿。
スキー場まで歩いていける事もあり、合宿や、リピーターも多いそうでした。
無線LANもありました。
夕飯、豪華です。
一皿不思議なおかず。
野菜の千切りみたいなんですが、聞いてみると、なますうり。食感が良い感じ。
帰宅して調べてみると、千切りではなく、自然にほぐれてこの形になるのだとか、不思議な植物があるものです。
果実というのは動物に持ち運ばれてなんぼ。食べやすいように進化したということなのでしょうか。
民宿だし、これでも十分、地酒をいただいて、後はコシヒカリを食べるだけと思っていたら、
グラタンは出るは、
蟹団子のあんかけは来るは、
米櫃までたどり着けませんでした。とほほ。
子供連れが多い宿で、しばらく賑やかでしたが、それも静まりこの夜は熟睡。
朝飯です。
やっとコシヒカリにありつけました。
出発。
早速近所にある酒蔵へ。
玉川酒造、越後ゆきくら館、夏でも雪をキープ、その下でお酒を熟成させているのでした。
この日は試飲も出来ないので、酒蔵も見学しませんでしたが、宿から歩いて来れるので、早めに到着して宿から歩いて酒蔵見学と試飲、ほろ酔いで宿へ、というのがベストスケジュールであります。
仕込み水はいつでも飲み放題。
前の晩にもいただいた美酒の名前は、玉風味。
越の玉梅を買ってきました。ネーミングは今一です。
国道252号線を東進、入広瀬でJAの売店に寄ってみましたが、まだ新米は置いてありませんでした。無念。
JR只見線と共に山へ上がっていくと県境。
六十里越です。
此処を過ぎると、田子倉湖が見えてきます。
前の日に行った奥只見湖の下流になりますね。
田子倉ダム
252号線が289号線と交わる只見の街周辺からは、会津のマッターホルンといわれているらしい、蒲生岳が見えます。
そしてこの街には越後長岡とは切っても切れない人の記念館があるのでした。
河井継之助、奥羽越列藩同盟の一翼を担った長岡藩家老は、山縣有朋軍と一進一退の攻防を繰り返し、敗れて会津に逃れる際、八十里越えを果たした後、此処で没したのでした。
当時日本に3台しかなかったガトリング砲のうち、2台は長岡藩が所有し、長岡城の攻防では継之助が自ら、薩摩軍に発砲したそうです。
旅はまだまだ続きます。
旅の時はいつもそうなんですが、朝食がビッグなので、なかなか腹が減りません。
関越道や国道17号線を横切り小出の街に入ります。
特に下調べもしておらず、2時過ぎになんとなく飛び込んだのが此処
その時間でも駐車場がいっぱいだったのが決め手、ラーメンの土佐屋。
背脂ラーメンが有名なお店らしいのですが、私には毒。
ただの塩ラーメン600円です。
醤油、味噌、塩がそろっていて、背脂は+80円。
それでも結構こってり系。
次回、いつになるかわかりませんが、腹をすかせた状態で、背脂系をいって見たいものです。
その後、あの場所へ向かいました。
旧山古志村です。
入って見るとわかるのですが、それほど急峻な山谷があるわけでも無くごく普通の山村、2004年の10月、そこをまず台風が襲い、三日後のあの中越地震、村内は135ヶ所で土砂崩れが発生し全てのインフラが失われたのです。
村の中心の谷が周辺から崩れ落ちた土砂で埋まり、あの震災ダムに家々が沈んでいったのでした。
今でも土砂に埋まった家々が当時のまま残されています。
完全復旧は恐らく困難、ダムも残しそれなりに安定する地形を保持し、その上に新しい道路と橋を造ったようでした。
悲しい風景です。
被災した皆さんのものと思われる新しい住宅が下の写真の奥のほうに並んでいます。
災害と正面から向かい合って、頑張っているようでした。
この後旧守門村へ。すもんむら。
守門村は今では魚沼市、山古志村は長岡市の一部になっています。
新潟の地方を車で走られた方は気づかれると思うのですが、とにかく家が大きいですよね。
関東や東北地方とはスケールが違います。
この古民家も、民家と呼んで良いのでしょうか、庄屋かな。豪農の家ですね、目黒邸。
寛政9年、1797年に建てられたそうです。
まさに豪壮、越後ではかなり周辺部かと思われる地域ですが、豊かな場所だったのですね。
こんな豪邸がいくつか残されているようでした。
そして宿へ。(これだけ写真を宿のHPからいただき)
温泉ではありませんが、家族で切り盛りするお宿。
スキー場まで歩いていける事もあり、合宿や、リピーターも多いそうでした。
無線LANもありました。
夕飯、豪華です。
一皿不思議なおかず。
野菜の千切りみたいなんですが、聞いてみると、なますうり。食感が良い感じ。
帰宅して調べてみると、千切りではなく、自然にほぐれてこの形になるのだとか、不思議な植物があるものです。
果実というのは動物に持ち運ばれてなんぼ。食べやすいように進化したということなのでしょうか。
民宿だし、これでも十分、地酒をいただいて、後はコシヒカリを食べるだけと思っていたら、
グラタンは出るは、
蟹団子のあんかけは来るは、
米櫃までたどり着けませんでした。とほほ。
子供連れが多い宿で、しばらく賑やかでしたが、それも静まりこの夜は熟睡。
朝飯です。
やっとコシヒカリにありつけました。
出発。
早速近所にある酒蔵へ。
玉川酒造、越後ゆきくら館、夏でも雪をキープ、その下でお酒を熟成させているのでした。
この日は試飲も出来ないので、酒蔵も見学しませんでしたが、宿から歩いて来れるので、早めに到着して宿から歩いて酒蔵見学と試飲、ほろ酔いで宿へ、というのがベストスケジュールであります。
仕込み水はいつでも飲み放題。
前の晩にもいただいた美酒の名前は、玉風味。
越の玉梅を買ってきました。ネーミングは今一です。
国道252号線を東進、入広瀬でJAの売店に寄ってみましたが、まだ新米は置いてありませんでした。無念。
JR只見線と共に山へ上がっていくと県境。
六十里越です。
此処を過ぎると、田子倉湖が見えてきます。
前の日に行った奥只見湖の下流になりますね。
田子倉ダム
252号線が289号線と交わる只見の街周辺からは、会津のマッターホルンといわれているらしい、蒲生岳が見えます。
そしてこの街には越後長岡とは切っても切れない人の記念館があるのでした。
河井継之助、奥羽越列藩同盟の一翼を担った長岡藩家老は、山縣有朋軍と一進一退の攻防を繰り返し、敗れて会津に逃れる際、八十里越えを果たした後、此処で没したのでした。
当時日本に3台しかなかったガトリング砲のうち、2台は長岡藩が所有し、長岡城の攻防では継之助が自ら、薩摩軍に発砲したそうです。
旅はまだまだ続きます。